手に入るはずのない夢だったのだから
「きゃあ!!」
セシリアは小さな悲鳴を上げていた。
それは自分がリカエルとしてしまった行為に恥じ入ったからではなく、背中を反り返したリカエルが、貨物室の天井に頭をぶつけてしまったからである。
天井にしたたかに打ち付けた頭に右手を当てながら、リカエルはセシリアには聞き取れない罵詈雑言を小さく上げる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫だ。くそ、ベッドのある場所に連れて行けば良かった」
「そこは違うわ。普通の天井の高さがある所でしょう?」
「だな。明日、いや、もう今日か?君達はもう一日ここで我慢して貰っていいか?君達が落ち着ける部屋を準備する」
今日になったというリカエルの台詞に、セシリアはリカエルがドラゴネシアに帰らねばならない人だと思い出した。
ついでに自分こそ住み込み部屋を失った宿無し状態であることも。
リカエルがまだまだセシリアと過ごしたいと望んでいることは彼女には嬉しいばかりだが、セシリアはリカエルが消えた後も王都で生きていくための住処を急いで探さねばならないのだ。
「い、いいえ。部屋は自分で探すから良いわ」
「女じゃ部屋を借りられないだろ。部屋ぐらい俺が見つける」
リカエルこそセシリアの身の上を考え、彼女とイーナの為に自分が動こうとしてくれていたのだとは!!
ただし、なぜか虚しさばかりを感じていた。
どうしてだろうと彼女は考える。
一夜だけのはけ口に思われていないことを喜ぶべきなのに、リカエルに囲われる事に私が悲しさを感じるのはなぜかしら。
「広さや地区など、希望はあるか?女二人なら、ハルピアス地区でいいか?治安は良いしマーケットも良い品が並ぶ」
「高級住宅街だわ」
「普通だろ?ハルピアスには上級貴族はいないぞ。あと、相続から外れた貴族の三男や四男みたいな薄っぺらい奴もいない。引退した女中頭や執事なんかばかりのジジババの町だ。安全だろ?」
「安全だけど、そんな場所の家賃は高くてきっと払えないわ」
そうよ、自分でも家賃を払える場所に住めるようにするべきよ。
それでリカエルが私に会いたいなら私に会いに来ればいいのよ。
「家賃?買っちゃうから気にするな。そうだよな。買っちゃうんだよな。やっぱ君達も一緒に物件を見よう。住む人の意見が一番だ。それから、君に店を持たせるなら空き店舗を探すか建てるか、君はどうしたい?って、どうして俺の額を叩くの」
「あなたは何を言っているの?」
それは完全に私を囲うってことでしょう?
セシリアはリカエルを叩いてしまった事で気が付いたのだ。
自分が愛人になりたくない理由について。
それは、リカエルとの関係に金銭を生じさせたくない、それだった。
売春婦のような行為をして来た彼女にとって、愛人と言う関係はそれと同じにしか見えず、リカエルへの思いを汚してしまうと悲しいのだ。
「何って、俺が責任も取らない男だと思うか?俺はドラゴネシアの王の側近だ。ドラゴネシア領に君が住んでくれるのが一番だが、君は王都で旗を上げたいんだろ?だったら、王都で君が住む家と君が開く店を決めないとだろ?」
「何を言っているの?責任?そんなの取らなくていいわよ。私達は大人でしょう?大人で割り切っての関係でしょう?」
「大人だから責任は必ず取るべきだ。ああ。もしかして、俺に出費させすぎているとか遠慮してる?俺はこのくらい自由にできる金はあるし、爵位もある」
「爵位なんかあったの?」
リカエルの告白にセシリアの声は裏返る。
しかしセシリアの恐慌など気が付く様子もなく、明日は雨だという風にリカエルは自分の爵位について語る。
「うん。男爵。個人的に子爵より男爵の方が恰好良く聞こえて好きなんだけどどうかな?そうそう。ドラゴネシアも誰もが子爵はやだつってさ、今んとこドラゴネシア子爵名乗る奴いないの。くっだらないだろ?」
セシリアはリカエルの冗談に笑うどころか、どんどんと気分が悪くなるばかりである。そして彼女の姿に、リカエルは別のことを考えたようである。
「爵位持ちに君は酷い目に遭ったんだもんな」
違うわよ!!このお馬鹿!!
心の中でリカエルを罵倒した事で、セシリアの頭が少し動いた。
愛人としか考えない人に私が結婚を考えていると知らせたら、恐らく狼狽して否定してくるはず。そうよ、否定したら、酷い人って言って愛人話も潰すのよ。
「――本当に結婚を?」
「ああ。君が望むなら好きな日に。本当は今すぐ結婚してしまいたいけど。いや、これから一番近くの教会に行って、するか?」
リカエルが否定するどころか瞳を輝かし、彼こそ結婚を前提で話していたのだとセシリアに知らしめた。
狼狽したのはセシリアこそ、である。
「簡単に言わないで。そ、それから、私はあなたと結婚しません」
「――俺を弄んだのか?それとも、イったときに逝ってしまいそうな馬鹿したから、呆れて嫌になっちゃった?」
どうしてあなたが弄ばれた方になっているの?
リカエルは頭の痛みがあった位置を手で撫で始め、大柄な成人男性のはずの彼がセシリアには幼い男の子にしか見えなくなった。
しょんぼりしたリカエルの姿はセシリアの胸を打つどころではなく、セシリアこそ彼に酷いことをしていると罪悪感でいたたまれなくなっていく。
さわ。
セシリアはリカエルの髪の毛の中に指先を入れていた。
リカエルはうっとりしたような溜息を吐く。
「君の手が気持ちいい」
セシリアの胸に何かが刺さった。
その何かはセシリアにリカエルを抱きしめたいと煽る。
だめ、だめよ。
彼と別れなければいけないわ。
自分が彼と絶対に結婚できない理由を思い出しなさい。
さあ、絞首台で揺れる縄で作った輪っかを思い出すの。
セシリアはリカエルの頭部から指先を引いた。
しかし、彼女の指先はまだリカエルのたんこぶに触れたままだ。
リカエルがセシリアの手を逃がすはずはないのだ。
「まだ痛い」
「では冷やしましょう」
「君の指がいい」
「あなたは」
「俺にはたんこぶあるんだよ?たんこぶ破裂したら死ぬかもしれないんだよ?死ぬかもしれない人に優しくしようよ?」
「あなたは。お気持ちは嬉しいけれど、私はあなたと結婚しません。出来ないわ。私は、王宮のパーティで、売春婦同然のことをしていたのよ。男爵のあなたの妻になど絶対になってはいけないの」
「なってはいけないって、なりたくないわけじゃなら、なれよ。お前がそこ気にするなら、寝た男の名前をリストにしろ。全員大事な場所を切り取るか潰してからベルーガ河に沈めるから問題ない」
「もう!!どうしたらこの人と会話できるの!!」
「君が俺に、はい、と答えれば終いだと思うよ」
「ぜったい言いません」
セシリアは衣服へと手を伸ばしたが、リカエルはその手を掴んだ。
そして彼女を再び腕に抱く。
「リカエル」
「俺も君もひと眠りだけしよう。俺達は今のところ昨日から起きている」
「あなたは」
セシリアは抵抗しなかった。
セシリアこそ彼の温もりにまだ浸っていたいのだ。
「何もしないで寄り添って寝るだけ。いいだろ?」
「いいわ」
セシリアはリカエルの腕に再び身を委ね、彼の温かさを忘れないようにそっと両目を閉じた。
そしてセシリアを腕に抱いたリカエルは、言葉通りに何もせずに眠りについた。
静かに横たわり、規則的な吐息を吐く、滑らかな肌をした温かな体。
その体の持ち主は、幼子が母に甘えるようにしてセシリアを抱きしめている。
「あなたは私に全部与えてくれたわ。プロポーズに、結婚後はこんな感じと言う素晴らしい体験。だからいいの」
セシリアの両目から涙が零れた。
リカエルは彼女に安らぎしか与えない。
それなのに無垢な十五歳ではなくなっている自分は、彼の真心を受け取ることができないのだ。
嘘ばかりの汚れた過去しかないのだから。




