余談―3 美福門院の妄執
どうにも上手く描けなかったので、これで投稿しますが。
私としては、鳥羽上皇がこれまでの皇室の荘園の殆どを美福門院に譲渡し、更に美福門院の後継者と言える八条院からその後継者がその荘園を保有する、という事態が無ければ、と考えてしまいます。
鳥羽上皇が、皇室の荘園の殆どは今上陛下のモノとし続けていれば、日本史は大きく変わっていた気が。
ここまで私なりに平治の乱について考察してきて、改めて考えるのですが。
もし、美福門院が近衛天皇陛下を産まなければ、仮に産んでも近衛天皇陛下の系譜が続いていれば、日本史は大きく変わっていたのではないでしょうか。
美福門院の実父の藤原顕輔は、藤原北家の出身とはいえ魚名流の末裔になります。
又、白河上皇や鳥羽上皇の近臣として精励し、最終的には権中納言にまで出世していますが、同時代の中御門宗忠や藤原伊通からその才能を酷評されている人物で、更に美福門院が鳥羽上皇の寵愛を受ける直前には亡くなられているようです。
そうした背景から、美福門院は鳥羽上皇の寵愛を懸命に求め、自らが産んだ皇子である近衛天皇の系譜を自らの保身もあって、懸命に伝えようとすることになります。
しかし、運命は極めて皮肉なことに、近衛天皇陛下に子孫が恵まれないまま、近衛天皇陛下は崩御して美福門院の願いは叶わないという事態が起きたのです。
そして、この段階で美福門院が大人しくなっていれば、順当に崇徳上皇の第一皇子である重仁親王が即位し、この後の皇位継承の紛議も無く、保元の乱や平治の乱は無かったでしょう。
でも、史実では美福門院と藤原忠通が動いたことから、後白河天皇が即位することになり、保元・平治の乱が起きることになったのです。
更に美福門院は鳥羽上皇から、当時のほとんどの皇室の荘園を譲られていたと伝わります。
そして、美福門院の死後、この荘園群は美福門院の皇女である八条院が相続することになり、八条院領と呼ばれるようになります。
この八条院領ですが、私がざっと調べる限り、日本史上で幾つかの戦乱を引き起こす一因に結果的になります。
まず源平合戦の起こりと言える以仁王の挙兵ですが、以仁王は八条院の猶子になっており、以仁王が挙兵を決断した背景には、八条院領を事実上は預かっている武士が自分に味方してくれる、と考えたことが大きいようです。
実際には、以仁王の挙兵計画は速やかに平氏政権に露見することになり、平氏から追討されて以仁王自身は討ち死にしますが、このことが結果的には各地で反平氏の挙兵を相次いで引き起こして、源平合戦が始まることになり、最終的には平氏の滅亡、源頼朝率いる鎌倉幕府の成立にまでつながっていくことになります。
そして、鎌倉幕府が成立した後になる1211年に八条院は薨去します。
問題の八条院領は、八条院の養女にして後鳥羽上皇の皇女になる春華門院昇子内親王が相続しますが、1年も経たない内に春華門院も薨去したことから、春華門院の兄弟になる順徳天皇が八条院領を相続することになります。
そして、承久の乱が勃発するのですが、この際に朝廷方が頼みの一つにしたのが八条院領の存在で、源平合戦の時と同様に八条院領を媒体として、全国の武士が朝廷に馳せ参じるという期待が承久の乱の勃発前にはあったとか。
もっとも実際には、そんなことはなく承久の乱は朝廷方の一方的な敗北で終わります。
承久の乱の後、八条院領は一時は幕府が管理しますが、結局は後高倉院の荘園となり、後高倉院の皇女の安嘉門院を経て、その猶子になる亀山上皇が八条院領を受け継ぎます。
そして、八条院領は大覚寺統の財政基盤となり、それに対抗するかのように、長講堂領を持明院統が獲得して財政基盤としたことは両統迭立を引き起こし、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動から南北朝時代を引き起こす原因にまでなっていきます。
こうしてみると、美福門院の妄執の末に、結果的に八条院領が成立したことが幾つもの日本史の戦乱の一因になったことはどうにも否定できない事実です。
本当に美福門院の存在は日本史を大きく動かしたと考えます。
これで、完結します。
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