第151話
その日の寝覚めが良いかどうかは大抵の場合、見ていた夢の良し悪しによる所が大きい。それが正しいのかどうかはわからないが、少なくとも太朗はそう思っていた。
そして先ほどまでどんな夢を見ていたのかは全く覚えていないが、悪夢を見たというわけでは無さそうだと太朗は判断した。
「テイロー? 起きたの?」
すぐ傍から聞こえる声。太朗はぼんやりとしたままそちらへ顔を向けると、心配そうな表情でこちらを見つめているマールの姿が目に入った。周囲は見覚えの無い清潔な部屋で、自分が寝ているベッドの他には簡素なテーブルと椅子だけがあった。
「…………」
霧がかかったような、はっきりとしない意識。身体の調子は良いようだが、全身を包む妙な違和感を感じる。太朗はまだ夢の中にいるのだろうかと訝しみながら、手を握ったり開いたりを繰り返した。
「――え、えぇ。そうよ。すぐに来て。ドクターをお願い。それと、出来れば小梅も呼んできて。出来るだけ急いで」
携帯端末を手に、マールが焦った様子でそうまくし立てている。太朗はそんなマールを眺めていたが、何かを忘れているような気がして首を捻った。何か、大事な事を忘れている気がすると。
「失礼するぞ。おい、大将!! 大丈夫か!!」
やがて部屋の中へ、慌ただしい様子でアランが駆け込んで来る。そのすぐ後に小梅が続いており、アランと共に太朗を覗き込むようにずいと首を突き出してきた。
「え? あぁ……まぁ……」
何の事だろうかと考えるも、冴えない頭に思い当たる事は無かった。悪戯を叱るにしては真剣な表情だし、太朗はこのふわふわとした感覚の薄い身体と何か関係があるのだろうかと考えた。
「マール、メディカルマシンの値はどうなんだ」
太朗の方を見たまま、アランが強い口調で発した。
「問題無いわ。どれも正常値。当然脳波もよ」
マールがベッド脇にある小さな装置を手に、その表示を指差し確認している。その滑らかに動く指の動きを追っていた太朗だったが――
「……マール!! そうだ、大丈夫か!! 腕、腕は!?」
太朗はベッドから飛び起きると、縋り付くようにマールの腕へと手を伸ばす。手が届く前にベッドから派手に転げ落ちたが、そんな事は取るに足らないとすぐさま立ち上がった。
「ちょ、ちょっと、テイロー。大丈夫よ、私は大丈夫だから!!」
慌てた様子のマールが、いくらか身を引きながら答える。太朗はお構いなしとばかりに彼女の手を掴むと、ぺたぺたと何度もマールの手を点検し始めた。
「テイロー…………大丈夫よ。大丈夫。ほら、本物の手よ。まだちょっと動きがぎこちないけど、しばらくすれば前と同じようになるわ。だからほら、落ち着いて」
優しく微笑み、小さな子供にでも言い聞かせるようなマール。太朗はマールの促すままに従うと、ベッドへゆっくりと腰掛けた。
「良かった……腕、見つかったんだな?」
マールと彼女の腕を交互に見やる太朗。彼女が助かった事自体は脱出カプセルを回収した際に確信していたが、失われた腕がどうなったのかはわからなかった。カプセルのレコーダーには、マールが邪魔なゴミと共に千切れた腕を射出したと記録されていた。
そんな太朗へ、きょとんとした顔を向けるマール。
「見つかった? 何の事かしら」
「何って……それ、自分の腕なんだろ? 腕は射出したんだよな?」
「前の腕の事? それはそうだけど……」
何か助けを求めるように、アランの方へと目を向けるマール。アランはそれに無言で首を振ると、「いや、単に混乱してるだけかもしれん」と神妙な様子で口にした。
「とにかく、医者が来るまでおとなしくしてるんだ、大将。身体の方は大丈夫らしいが、あた…………いや、何でもない。心配する事は何もないぞ。万事順調だ。問題無い……俺の事はわかるよな? 童貞の……あぁいや、いいんだ。忘れてくれ。とにかく、落ち着け。わかったな?」
「……いや、落ち着く必要があるのはどっちよ」
「わかる、わかる。大丈夫だ。お前はちょっと混乱してるだけさ。捨てちまった腕の事なんて忘れろ。今は休む事だけ考えてりゃいいんだ」
「忘れろ? おいおい、あんまふざけた事言うなよ。マールの腕だぞ? いくらなんでも怒るぞ」
「そりゃあ確かに嬢ちゃんの腕だったのは間違いねぇが……大将、本当に大丈夫か?」
アランと太朗の間に、方向性の差こそあれ、何やら緊迫した空気が流れる。わずかな時間ではあるが二人がそうしていると、「ひとつよろしいでしょうか」と小梅が割って入って来る。
「ときにミスター・テイロー。何故そこまでミス・マールの失われた腕に執着するのでしょうか」
「いやいや、何故って、無いと困るだろ。義手とかになったらどうすんだよ……いやまぁ、今もあるって事は無事だったって事なんだろうけど」
「義手、ですか。それとミス・マールの関係が不明なのですが」
「……え? いや、義手だよ義手。いわゆる人工の腕だぞ?」
「はい、もちろん理解しております。しかしながら、そういった義体はミス・マールには必要無い物と思われますが」
「義体…………おーけい。何か読めてきたぞ。これは、あれだな。久々のカルチャーギャップってやつだな。もしかして、腕とか足くらいなら簡単に再生できんの?」
「部分的に肯定です、ミスター・テイロー。腕や足のみならず、基本的に脳以外のあらゆる部位は複製が可能です。御様子から察するに、地球には再生医療が無かったのでしょうか?」
「そういう事か…………いや、あるにはあったけど、まだ研究が始まったばっかってトコだったな……くそっ、ひとりで慌てて馬鹿みてぇだな俺は」
太朗が苦笑いしてそう言うと、「そんな事無いわ」と声がかかる。
「心配してくれて嬉しいわ。ありがと。でもアランの言う通りよ。今は私じゃなくて、自分の事を心配しなさい」
マールはそう言って、太朗を寝かしつけようとする。しかしどこにも不調を感じていない太朗は、手を振ってそれを遮った。
「大丈夫。つか寝すぎて逆に疲れたって感じだな。ちなみに俺、どんだけ寝てたん?」
「…………約3ヵ月よ、テイロー」
「うおっ、まじか。寝過ぎだろそれ。ニートでもなかなかいねぇぞ、そんなに寝るやつ…………って、えぇえええ!!? 3ヵ月!!? まじで!!?」
叫ぶ太朗と、顔を顰めて耳を抑えるマール。
「マジだぜ、大将。嬢ちゃんの方がずっと早くに回復したんだ……というか、なんで今言っちまうかな」
「3ヵ月て……な、何か悪いトコでもあったん? 癌とかそういう系?」
「いんや、身体の方は至って健康さ。そのガンってのが何だかは知らないが、病気の類は全く無いはずだ。銀河でも指折りのメディカルマシーンを用意したから、適正筋肉量の維持から腸内環境まで全てが最適化されてるぞ。皮は残してあるけどな。むしろ前より健康体になってるんじゃないか?」
「癌も治るんか。つーか、既に病気じゃ死なねえとかそういうレベルなんかね…………って、うおっ。まじだ。何だこの細マッチョ」
太朗は自らのシャツをめくると、その下から現れた整った腹筋に驚いた。元々細身ではあるが、筋肉質というわけでも無い。割れるような腹筋を手にするのは、太朗にとって初めての経験だった。
「すげぇな。シックスパックとかちょっと感動だわ……あ、ほんとに皮は残っとる」
パンツを覗き込む太朗。「ちょ、ちょっと。しまいなさいよ」と顔を背けるマール。
「どうせならここも最適化してくれればいいのに…………あー、なるほど。そういう事か」
何故彼らがこんなにも自分を心配するのか。それに思い当たり、小さく何度か頷く太朗。
「既に最適化が必要無い程に完成されているという考えは甘いと思いますよ、ミスター・テイロー。先細りも特徴と捉える事が可能でしょうが、いささか無理を感じます。皮の有用性は免疫学的にも証明されてはおりますがね」
「それについて"なるほど"って言ったんじゃねぇよ!! 君はほんっと下ネタが好きね!!」
「下ネタだけではありませんよ、ミスター・テイロー。失礼な。猥談も大好きです」
「普段は絶対に見せないような満面の笑みをありがとうよ!!」
太朗は投げやりにそう突っ込むと、ばたんと布団へ倒れ込んだ。
「ふぃ…………なあ、みんなが心配してんのは俺の頭ん中の事だろ? だったら大丈夫だよ。自分自身が一番良くわかってる。問題ねぇよ」
太朗のひと事に、部屋の中へしんとした静けさが訪れる。
「あの時に俺が何をしたのかは、正直自分でも良く憶えてねぇ。3ヵ月も寝込んじまう位の事をしたってのは確かだけどな。でも、そんだけさ。そんだけ。頭がおかしくなったりはしてねぇよ……おっ、そろそろ先生来るっぽいぞ。女医だといいなぁ」
太朗はBISHOPからの情報で医師が到着した事を知ると、そう言って手を振る事で皆に退室を促した。ローマ中央病院の一室で一同はしばらくまごついていたが、やがて誰ともなくドアへ向けて歩き出した。
「診察が終わったらまた来るから……何か欲しい物とかある?」
アランと小梅が去った後、ひとり残ったマールがそう訪ねて来た。
「うーん、特にはねぇかなぁ。暇は端末で潰せるし、気にしないでいいよ。どうせすぐ退院だろうしな…………しいて言うなればおっぱいの大きい女医だな。あぁいや、それは贅沢って奴だな、テイロー・ザ・ジェントル。どちらか片方でも可だっふげぁっ!!」
頭を強くはたかれ、奇声を上げる太朗。そしてこいつは本当に自分の脳の事を心配してくれてるのだろうかと訝しむ彼の手を、マールがぐいと引き寄せた。
太朗の手を包み込む柔らかい感触。彼女の胸元に消えている手首から先。
「こ、これで我慢しときなさい……診察はちゃんと受けるのよ!!」
掴んでいた太朗の手を放るように離すと、マールはドア向こうへと駆け出していった。太朗は呆然としながらも彼女を見送ると、「なんでも言ってみるもんだな……」と小さく呟いた。
「さて……ほんじゃこいつをどう誤魔化すかを考えるとすっかな。リズムをとってるってのは……ちょいと無理があるか」
太朗は小さく震える右手を眺めると、陰鬱なため息を吐き出した。




