第147話
寒い。
それが今現在彼女の心を占める、最も大きな感情だった。身体は小刻みに震え、常時吐き気を覚えていた。
「44時間が経過……薬を打たないと……」
個人用脱出ポッドの狭い船内。人ひとりがようやく身動き出来るだけのそこでマールは身をよじると、もう何度目になるかわからないミスを犯した。左手で医療バッグを取ろうとしたのだ。そしてそれは、不可能な事だった。
「……嫌になるわ」
マールは強い倦怠感の襲う身体をどうにか動かすと、右手でバッグを手繰り寄せた。肘から先の無くなった左腕は彼女に不便を強いたが、幸いにも痛みは無かった。強力な局部麻酔が効いているおかげだ。
(まさかこんな項目を使う日が来るなんてね)
マールは医療バッグのパネルにある"四肢切断"の箇所を選ぶと、続いて経過時間や現在のバイタルを入力していく。しばらくするとバッグから医療シールが吐き出され、彼女はそれを首筋に貼り付けた。シートに染み込んだ薬品が皮膚から吸収され、少し動悸が激しくなるのを感じた。
「寒いわ……」
マールは医療バッグを無造作に押しのけると、寒さから身を守るように丸くなり、ポッドの窓から宇宙を眺めた。別にそうしたかったからでは無く、他にやれる事が何も無かったからだ。
彼女の船は、44時間前に撃沈された。
ワインドの足止めをすべく前線に向かったマールは、それこそ獅子奮迅の戦いを見せた。懸命に指揮を取り、砲を放ち、数え切れない程のワインドを駆逐した。防衛艦隊は少ないながらも十二分に力を発揮し、良く持ちこたえた。
彼女がついていなかったのは、彼女の乗る船がプラムで無かった事だった。
敵の放った大口径砲を避わす際、彼女は反射的にプラムで培った経験を元に操船動作を行ってしまった。しかしプラムの異常なまでに強化されたBISHOP機構と違い、その船は通常通りの速度でしか反応をしてくれなかったのだ。
そしてもうひとつの不運は、脱出ポッドにどこかからの流れ弾かデブリが衝突した事だった。マールはそれがいったいどれだけ低い確率の上で起きたのかを計算しようとしたが、それは麻酔の効いた頭で導き出せるような事では無かった。ポッドに使われる超軟鉄は外壁に穴が開く事を防いだが、変形した外壁が彼女の左手を押し潰す形となった。
「あれはワイオミングベータかしら……向こうは確かW34273……わからないわね」
衝突した何かはポッドの重要機構が詰まった箇所を破壊し、密閉されている点を除けば棺おけとさして変わらない鉄くずへとそれを変貌させていた。今現在彼女が生きていられるのは、破壊された生命維持装置をなんとか修理する事が出来たからだった。機械工学のギフトが彼女の命を救ったが、別の問題も生まれた。生命維持装置を修理するのに、通信機の部品を使わざるを得なかったのだ。
「星屑に……還える……あの人は……」
小さい頃に聞いた歌。育ての親は実の両親が好んで歌っていたものだと言っていたが、本当の所がどうなのかはわからなかった。いつかエンサイクロペディアギャラクティカで調べた事があったが、該当する歌詞は無数に存在した。音程までは覚えていなかったので、それが何という曲なのかは知らなかった。
「ここで……煌めく……続きはなんだったかしら」
マールは目に溜まる涙を鬱陶しげに払うと、空調に吸い込まれていく水滴を無感動に見送った。無重力下に漂う水は放って置くと危険な為、船内にはいつも風が吹いているような状態だった。浮かんだ水は人を窒息させる事がある。
「早く来なさいよ……馬鹿……」
生命維持装置の稼動限界は、残り14時間と54分だった。
「おい……大丈夫なんだろうな、これ」
アライアンストップであるライジングサンの社員の誘導に従い、避難民の群れと共に桟橋へ辿り着いた男。彼は乗れと促された物を前に、戸惑っていた。
「ライスコロニーじゃねぇかよ……こんなもんに乗れってか?」
男と共に行動していた仲間が、彼の気持ちを代弁する。そこにあったのは食糧生産用の小型ステーションで、普段は米作りに使用されているものだった。本来は大きく開いているはずの窓はどこも銀色のシートで覆われており、恐らく各種放射線を防ぐための応急処置だろうと思われた。
「お、俺は止めとくぞ。あんなもんに乗ってどうしろってんだ」
「いや、待て。コメは人類の標準環境と同じ状態で育つって話だぞ? いけるんじゃねぇか?」
「そりゃそうかもだけどよ。でも、あの外壁はビームをはじくようには作られてねぇだろ?」
「そらまぁな……でもあれに乗れって事は、少なくともここにいるよりはマシだって事だろ?」
男達はそう言い合うと、再びライスコロニーと呼ばれる船へと目を向けた。それは控えめに言っても頼りなく、馬鹿馬鹿しい自殺行為なのではと想像させた。
「皆様、ご安心下さい。この小型ステーションはRSアライアンスの護衛艦隊が周囲を固め、最寄のスターゲイトまでお送りします」
ライジングサンの社員が拡声器を通し、周囲へ説得を試みている。しかし人々は不安に駆られているようで、乗り込んでいくのはわずかな人数だけだった。
「艦隊があるならそれに乗せてくれりゃいいじゃねぇか。うだうだやってる暇があるならさっさと往復したらどうなんだ」
群集の中のひとりがそう叫ぶと、そうだそうだと次々に同意の声が上がる。男は罵声を浴びせられる拡声器を持った社員――彼には何の罪も無いだろう――に哀れみを持った視線を送ったが、社員は一向に気にした様子を見せていなかった。
「我が社は、ワインドがこのステーションを攻撃するまでに、残りおよそ8時間と推測しています。これは避難民全員を運ぶ為に必要な数の艦隊を往復させるには、いくらか足りません」
群集の叫びが止み、不気味な静寂が訪れる。
「既にライスコロニーを用いて隣の星系への脱出に成功した船が4つ程あります。ファーストクラスの旅とはいきませんが、ご利用してみはいかがでしょうか」
男はその小さなライスコロニーへ向け、走り出した。見ると周りの群集も同様で、もう誰も文句を言う者はいなかった。男にはもはや、それが神の箱舟のように見えていた。
ソフィアは自身とその家族の為に手に入れた技術を、今は知らない誰かの為に使用していた。今までそんな事になるなどと想像した事は無かったし、それを喜んで良い物かもわからなかった。
「固定しました。引き揚げて下さい」
いつもと同じように対象をワイヤーで固定し、それを船へと伝える。ただしいつもと違うのは、対象が人の乗る脱出ポッドであり、船にいるのが親方では無い点だろうか。普段使用している薄汚い宇宙服では無く、最新式のそれである事もそうかもしれない。
「"了解。中の人の識別は?"」
既に何度も繰り返したやりとり。ソフィアは脱出ポッドの裏側へ回り込むと、露出した端末から個人データを受け取った。
「マーク・テンプス、28歳。警備部所属だそうです……良かった。生きてますよ。怪我は無いようですが、精神レベルが落ち込んでいるとなってます」
「"そっか…………わかった。すぐに巻き取る"」
ソフィアは太朗の乗るプラムに乗船し、帰還の難しい脱出ポッドのサルベージングを行っていた。決して生存率が高いとは言えないそれは、時として既に息絶えた人が乗っている事もあったが、ソフィアは懸命に作業を行った。
「テイローさん……」
通信機から聞こえる気落ちした声に、ソフィアは残念そうに顔を俯かせた。生存者がいた事は非常に喜ばしいはずなのだが、太朗は常にどこか暗い表情をしていた。作業開始当初はその理由に気付かなかったが、今はなんとなく察していた。彼はソフィアと合流して以来、一度もマールの名を口にしていない。
「次、頑張りましょう。まだまだ生きている人達がいるはずです」
ソフィアは顔を上げると、はっきりとした口調でそう言った。通信機はその後しばらくの間何の音も発しなかったが、やがて「"ん、そうだな"」と少し元気付いた様子の声を運んできた。
その後太朗とソフィアは不眠不休で救助作業を行い、合計で390名の生存者と、122名の遺体を収容した。救助した者達は誰もが感謝の言葉を述べ、やがて病院へ、あるいは再び戦場へと戻っていった。
ライジングサンの艦隊による遅延戦術は功を奏し、避難民が脱出するまでの貴重な時間を稼ぐ事に成功した。いくつかのライスコロニーは破壊され、ワイオミングのステーションは全て破棄する事になってしまったが、それでも莫大な量の人間を助ける事が出来た。
客観的に見れば救助作戦はこれ以上無い程の大成功であり、それ以上を望むのは贅沢というものだった。各企業はこれを賞賛し、多額の義援金をライジングサンへと振り込んだ。マスコミは新たな盟主の活躍を大々的に取り上げ、その発想の柔軟さとライスコロニーの新たな利用価値についてを書きたてた。義援金は新たなステーションを建造するのに十分な額が集まり、太朗は全アライアンスへ向けた放送の壇上で新ステーションの発表を行った。万来の拍手が彼を包み、太朗は満足気な笑みをもってそれに応えた。
しかしソフィアには、その笑顔が全くの作り物にしか見えなかった。
マールの乗る船が轟沈してから、既に110時間が経過していた。
それは脱出ポッドに搭載された生命維持装置の稼動時間を、はるかに超えていた。




