二式複戦『屠龍』、古龍ヲ撃滅セリ ~帝都防空戦隊、異界の空で「龍殺し」の本懐を遂ぐ~
撃滅シリーズ五作目
視界が、赤から青へと裏返った。
それは瞬きの間の出来事であり、あるいは永遠に続く悪夢の切れ目だったのかもしれない。
昭和二十年五月二十五日、深夜。
高度八千メートルの帝都・東京上空は、物理法則を超えた熱量に支配されていた。
下界を見下ろせば、そこにあるのは都市ではなかった。流れる溶岩の海だ。山の手から下町にかけて、B-29の編隊がばら撒いたM69焼夷弾は、木と紙でできた日本の家屋を瞬く間に紅蓮の薪へと変えていた。
上昇気流に乗って、肉の焼ける匂いと煤が、成層圏近くまで昇ってくる。
「畜生……畜生ッ!」
陸軍飛行第五三戦隊、樫島大尉は、酸素マスクの中で獣のように吠えた。
彼が操る愛機――川崎航空機製、キ45改・二式複座戦闘機「屠龍」は、悲鳴を上げていた。
右のハ-102発動機からは過熱を示す油煙が漏れ出し、風防には敵機銃弾による亀裂が走っている。
対する敵は、銀色のジュラルミンに覆われた空の怪物。
探照灯の光芒の中、悠々と列を成すB-29の群れは、こちらの攻撃など意に介さぬように爆弾倉を開き続けている。
「弾切れだ! 機首の37ミリ、残弾ゼロ!」
樫島が叫ぶ。
機首から突き出した丙型特有のホ203・37mm機関砲。一発で戦闘機を粉砕する破壊力を持つその巨砲も、当たらなければただの鉄パイプだ。乱気流と敵の弾幕の中では、必殺の一撃を叩き込むことすら困難だった。
「後席、斜銃も撃ち尽くしました! もはや撃つものがありません!」
機上電話から、列機を務める宇井曹長の悲鳴が響く。
戦う術は失われた。だが、帰る場所もまた、眼下の炎に包まれている。
「なら、この身を使うまでだ!」
樫島は血走った目で操縦桿を押し込んだ。
それは体当たりをも辞さぬ空の特攻防空隊。
狙うは先頭の一番機。
絞り弁全開。過給圧計の針が危険域へ飛び込む。瀕死の発動機が断末魔のような金属音を奏でる。
風防いっぱいに、B-29の巨大な主翼と四発の発動機が迫る。
敵の後部銃座が火を噴く。曳光弾が屠龍の翼をむしり取るように貫通していく。構うものか。
「宇井! 歯ァ食いしばれッ! 靖国で会おう!」
「お供します、隊長ッ!」
距離、五百。三百。百。
敵機の搭乗員の驚愕した顔が見えるほどの至近距離。
衝突までコンマ数秒。
視界が白熱し、樫島は自らの死を受け入れ――。
――衝撃は、訪れなかった。
唐突に、音が消えた。
爆音も、風切り音も、無線機のノイズも。
そして、眼球を灼くような紅蓮の赤が、冷たく澄んだ「青」へと塗り替えられた。
「……え?」
樫島は目を見開いた。
眼下には、燃える東京がない。
探照灯の光芒もない。
そこにあったのは、月光に青白く照らされた、見渡す限りの大草原だった。
地平線の彼方まで、人工の灯りは一つもない。ただ風が草を揺らし、波のようにうねっている。
夜空を見上げれば、そこには見たこともない星座の配置が、宝石を散りばめたように瞬いていた。
「隊長……? これは、死後の世界ですか?」
宇井の震える声が、静寂を破る。
「いや、死んじゃいない。痛みがある」
樫島は自身の頬をつねった。そして、計器盤へ視線を走らせる。
現実は残酷な数字としてそこにあった。
高度計、二千メートル。急速に低下中。
油温、限界突破。
そして何より――燃料計の針が、赤いラインの底、ゼロの目盛りに張り付いていた。
「ガス欠だ」
状況を飲み込むより先に、搭乗員としての本能が警鐘を鳴らす。
プスン、プスン……。
右発動機が不整脈を打ち、プロペラが惰性で数回回った後、完全に停止した。続いて左発動機も沈黙する。
二式複戦という重量級の機体が、ただの鉄の棺桶へと変わる瞬間だ。
「不時着するぞ! 宇井、風防開放! ベルトを締め直せ!」
「滑走路はどうします!?」
「そんなものあるか! 草原へ降りる!」
高度が落ちる。風の音だけがヒュウヒュウと耳を打つ。
暗闇の草原。何があるかわからない。岩か、沼か、あるいは隠れた溝か。
本来なら胴体着陸を選ぶ場面だ。だが、樫島の脳裏に一つの計算が走った。
機体は無事だ。燃料さえあれば飛べる。
ここでプロペラを曲げ、機体を歪ませてしまえば、二度と空へは戻れない。
一か八か。
「脚を出す! 機体は絶対に守り抜くぞ!」
「了解ッ!」
油圧ポンプが唸り、主脚が固定される音が響く。
樫島は汗で滑る手で操縦桿を握りしめ、フラップを全開にする。失速ギリギリまで速度を落とす。
草の穂先が見えた。地面は平坦に見える。だが、泥濘ならば前のめりに転覆する。
地面が迫る。速い。
「接地ッ!」
ドガンッ!
強烈な突き上げが背骨を叩く。
機体がバウンドし、再び接地。草と土を噛みながら、六トンの鉄塊が草原を疾走する。
車輪が草に足を取られ、機体が右へ左へと暴れる。地上回転を起こせばおしまいだ。
樫島はラダーを必死に蹴り込み、制動機を断続的に踏んだ。
「止まれ、止まれ、止まれぇッ!」
機体が悲鳴を上げ、尾輪が接地する。
永遠にも思える滑走の末、ガクンという衝撃と共に、鋼鉄の龍はようやくその動きを止めた。
静寂。
チン、チン……と、熱を持った発動機が冷えていく金属音だけが響く。
「……宇井。生きてるか」
「……はい。なんとか、五体満足です」
二人は風防を跳ね上げ、翼の上へと這い出した。
むせ返るような草の匂い。
硝煙と腐臭に満ちた帝都の空気とは違う、野性的で濃厚な大地の匂いだった。
樫島は懐中電灯を取り出し、機体を照らした。
脚は泥にめり込んでいるが、折れてはいない。プロペラも無傷だ。機体のフレームに致命的な歪みはない。
機首のホ203・37mm砲と背中のホ5・20mm斜銃は弾切れ。
「ここは、どこなんでしょう」
宇井が懐中電灯で足元の草むらを照らしながら、震える声で言った。
「計器が狂ったにしても、おかしい。山が見えません。関東にこんな場所はありませんよ」
「落ち着け。風に流されたのかもしれん」
樫島は荒い呼吸を整えようと努めた。
だが、冷や汗が止まらない。
燃料切れまでの飛行時間を考えれば、千葉か、せいぜい茨城の海岸線だ。だが、潮の匂いがしない。民家の灯りひとつない。
「方位磁石はどうだ」
「ダメです。さっきから針がグルグル回って……使い物になりません」
「クソッ、衝撃でイカれたか」
樫島は舌打ちをし、夜空を見上げた。
搭乗員の習性だ。計器がダメなら、星で現在地を知る。北極星を見つければ、北がわかる。
彼は視線を北の空へと向け――そして、凍りついた。
「……ない」
「え?」
「北極星が、ない。カシオペアも、北斗七星も」
あるはずのものが、ない。
代わりに、毒々しいほどに輝く、名前の知らない星団が、見たこともない配列で瞬いていた。
背筋に冷たいものが走った。
「馬鹿な……。俺たちは、どこまで飛んだんだ? 地球の裏側まで来たって言うのか?」
「そんな……燃料が保つわけないでしょう! 隊長、俺たち、やっぱり死んだんじゃ……」
宇井が半狂乱になって叫ぶ。
「黙れッ!」
樫島は宇井の胸ぐらを掴み、怒鳴りつけた。
「痛みがあるだろうが! 心臓が動いてるだろうが! ここは地獄でも天国でもない、現実だ!」
宇井を突き飛ばし、樫島は肩で息をした。
自分に言い聞かせるための怒鳴り声だった。
わからない。何もわからない。
だが、わからないからこそ、軍人としての規律にしがみつくしかなかった。
「……隠すぞ」
絞り出すように、樫島は言った。
「え?」
「現在地不明。友軍との連絡不能。ということは、ここは『敵地』と見なすしかない」
樫島の目は、闇の奥を睨みつけていた。
「米軍か、ソ連の勢力圏か、あるいはもっと訳のわからん場所か……とにかく、機体を見つかるわけにはいかん」
「そ、そんな……救助を待つんじゃ……」
「敵に捕まるかもしれんだろうが! 動け、宇井! 命令だ!」
それは、パニックを起こしそうな心を「任務」という枠に押し込めるための行為だった。
二人は恐怖を振り払うように、無心で森から枝を切り出した。
巨大な双発戦闘機を隠す作業は、骨が折れた。手は泥だらけになり、軍服は破れた。
機体を森の縁まで押し込み、枝葉で覆い、土をかける。
作業が終わる頃には、東の空が白み始めていた。
鋼鉄の龍は、ただの土山へと姿を変えた。
「行くぞ、宇井」
樫島は腰の拳銃(南部十四年式)の安全装置を外し、軍刀の柄を握りしめた。
「水と食い物を確保する。……誰かに会ったら、まずは警戒しろ。」
宇井は青ざめた顔で頷き、震える手で工具袋を握りしめた。
朝霧の向こう。
ぼんやりと浮かび上がる巨大な城壁のシルエットは、彼らの知るいかなる近代国家の建築とも違っていた。
二人は泥まみれのブーツで、未知の大地へと足を踏み出した。
歩く。ただひたすらに歩く。
膝まで伸びた草を掻き分け、重い飛行ブーツで土を踏みしめる。
太陽が高く昇るにつれ、気温は上昇していた。分厚い電熱飛行服の中は蒸し風呂のような熱気に包まれ、首筋を汗が伝う。
喉が焼けるように渇いていた。
不時着のショックと徹夜の隠蔽作業で、二人の体力は限界に近づいていた。
「隊長……あの城、近づいてるんでしょうか」
背後で宇井が荒い息を吐きながら言った。
視界の先にある巨大な石造りの城壁。朝霧の中では幻影のように見えたそれは、近づくにつれて圧倒的な質量を持って彼らを威圧していた。
高さは十メートルを下らないだろう。灰色の切石が隙間なく積まれ、等間隔に監視塔が聳え立っている。
「隊長……隠れましょう。この格好じゃ目立ちすぎます」
宇井が自身の飛行服を摘んで不安げに言う。油と泥にまみれているとはいえ、機能美を追求した軍服は、この牧歌的な風景の中で明らかに異質だった。
「コソコソすれば、即座に撃たれるぞ」
樫島は短く、しかし強く否定した。
「背筋を伸ばせ、宇井。貴様は帝国陸軍の軍人だぞ」
「は、はい……」
「ここが敵地であろうと、未開の地であろうと関係ない。コソ泥のように振る舞うな。堂々としていろ。我々に敵意がないことは、態度で示すんだ」
それは計算ではなく、矜持だった。
もし捕虜になり、あるいは殺されるとしても、卑屈に背を丸めて死ぬことだけは許されない。
樫島は革製の飛行帽の顎紐を外し、顔を晒すと、襟元を正して顎を引いた。
「行くぞ」
城壁に近づくと、巨大な木製の門が開かれているのが見えた。
門の前には、槍を持った二人の衛兵が立っている。
距離、五十メートル。
樫島は歩調を緩めず、真っ直ぐに門を目指す。
だが、近づくにつれ、違和感が膨れ上がった。
衛兵たちの体格が良い。良すぎる。身長は二メートル近いだろうか。分厚い胸板を覆うのは、粗雑な鉄の鎧。
そして何より――彼らの「顔」だ。
「……隊長」
宇井の声が震えた。
「あいつら、何か……被っていませんか?マスクのような」
「……いや」
樫島は目を凝らし、そして足が止まった。
違う。マスクではない。
兜の下から覗いているのは、長い鼻面と、尖った耳。
全身を覆う灰色の体毛。
そこに立っていたのは、人間ではなかった。
二足で立ち、槍を握る、巨大な「狼」だった。
「な……」
樫島の喉から、掠れた音が漏れた。
常識が、理性が、音を立てて崩れ落ちていく。
敵地?外国?そんな次元の話ではない。
生物学的にありえない。犬が服を着て槍を持つか?そんな馬鹿なことがあってたまるか。
だが、狼の衛兵はこちらに気づくと、器用に耳を動かし、鼻を鳴らした。その瞳には、知性が宿っていた。
「グルルゥ……グラー・ナ・フォーン?」
右側の狼男が、喉の奥から絞り出すような声で何かを言った。
言葉だ。獣が、言葉を喋った。
樫島は金縛りにあったように動けなかった。腰の拳銃に手を伸ばすことさえ忘れていた。
撃っていいのか?いや、これは「敵」なのか?それとも幻覚か?
狼男が近づいてくる。
巨大な槍の穂先が、樫島の喉元に向けられた。
殺される。
宇井が悲鳴を上げそうになった、その時だった。
狼男の黄色い瞳が、ある一点に釘付けになった。
樫島の左腕だ。
飛行服の袖に縫い付けられた、白地に赤の円を描いたワッペン――日の丸(日章旗)。
「グルア……??」
狼男は槍を引き、まじまじと日の丸を見つめた後、隣の虎の顔をした衛兵と顔を見合わせた。
虎男が短く頷く。
すると狼男は、先程までの警戒心を解き、居住まいを正すと、樫島に向かって胸に拳を当てる奇妙な敬礼をした。
そして、顎で「通れ」と門の奥を指し示したのだ。
「……通って、いいのか?」
樫島が呆然と問うと、狼男は何も言わず、ただ日の丸を指差してから道を空けた。
「行くぞ、宇井」
「は、はい……今、あいつら、日の丸を見て……」
二人は狐につままれたような顔で、門をくぐった。
なぜ、獣人間が日の丸を知っている?なぜ、それを見て道を開けた?
謎は深まるばかりだったが、今は考える余裕がなかった。
城壁の中は、悪夢の続きだった。
石畳を行き交うのは、人間だけではなかった。
緑色の肌をした小男。耳の長い華奢な女。そして荷車を引くのは馬ではなく、巨大なトカゲ。
ファンタジーという概念を持たない昭和の軍人にとって、それは「百鬼夜行」にしか見えなかった。
「ここは……地獄の類でしょうか」
「かもしれんな」
樫島は乾いた唇を舐めた。
だが、地獄にしては、生活の臭いが強烈すぎた。肉の焼ける匂い、香辛料の香り、家畜の糞の臭い。
圧倒的な「生」のエネルギーが渦巻いている。
あてどなく彷徨うこと数時間。
緊張の糸が切れかけ、路地裏に迷い込んだ時、宇井がついに限界を迎えた。
「……もう、ダメです」
宇井が壁に手をつき、ズルズルと座り込む。
極度の緊張と脱水症状。
「おい、しっかりしろ! ここで倒れたら食われるぞ!」
樫島が肩を揺するが、反応が鈍い。
その時、一陣の風が吹いた。
腐臭の中に混じって、ふわりと、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
穀物が焼ける匂い。
化け物だらけの世界でも、麦は焼くのか。
その事実は、なぜか樫島をひどく安心させた。
樫島は宇井を引きずり、匂いの元へ向かった。
広場の片隅にある一軒の古びた石造りの家。
店の軒先には、黒くて丸い塊が積まれていた。パンだ。見た目は岩のように無骨だが、確かにパンだ。
店の奥から、粉まみれのエプロンをつけた少女が出てきた。
彼女は――人間だった。
栗色の髪、丸い耳、普通の肌。
樫島は心の底から安堵した。化け物ではない、同じ人間だ。
少女は、店の前に現れた泥だらけの男たちを見て、ビクリと身を引いた。
樫島は宇井を座らせると、なりふり構わず両手を合わせた。
帝国軍人の誇り? そんなものは、部下を生かしてからだ。
「水を……頼む。連れが死にそうだ」
日本語で言った。通じるわけがない。
だが、樫島は手で口元を覆い、飲む仕草をした。
少女は樫島の腰の軍刀に一瞬視線を走らせたが、その必死な形相を見て取ると、すぐに店の中へ引っ込んだ。
戻ってきた彼女の手には、並々と水の入った木製の柄杓があった。
「……!」
樫島は柄杓を奪い取るように受け取ると、まず宇井の口元へ運んだ。
「飲め、宇井! 水だ!」
宇井が咳き込みながらも、貪るように水を喉に流し込む。
半分ほど飲ませてから、樫島は残りを一気に煽った。
冷たい。井戸から汲み上げたばかりの、鉄分の味がする水。
それが、乾いた内臓に染み渡っていく。
少女は空になった柄杓を受け取ると、今度は棚からパンを一つ掴み、放り投げてよこした。
樫島はそれを両手で受け止めた。
ずしりと重く、温かい。
硬いパンを力任せに割り、半分を宇井に渡して齧り付く。
ガリッ。
強烈な塩気と、穀物の甘み。
美味い。
涙が出そうになるのをこらえ、樫島は咀嚼し、飲み込んだ。
食べ終えると、樫島は深く頭を下げた。
「ありがとう。……恩に着る」
少女が店の奥に声をかけると、頑固そうな初老の男が出てきた。父親だろう。
主人は二人を値踏みするように見た後、店の裏にある薪の山を指差し、自分の腕を叩いて力こぶを作って見せた。
『飯を食いたきゃ、働け』
言葉はいらなかった。
樫島は主人に向き直り、背筋を伸ばして一礼した。
「やらせてください。力仕事なら、自信があります」
こうして、常識の崩壊した異世界で、二人の搭乗員はパン屋の下働きとしての生を得た。
空を飛ぶことしか知らなかった彼らが、泥と小麦粉にまみれ、生きるための戦いを始めた瞬間だった。
異世界での朝は早い。
まだ薄暗い午前四時。石造りの家々の煙突から煙が上り始める頃、樫島は既に起きていた。
「よし、やるか」
アルメリアの街外れ、「石窯亭」の裏庭。
樫島は上半身裸になり、井戸水で絞った手ぬぐいで体を拭くと、白い粉の舞う作業場へと足を踏み入れた。
そこには、山盛りの小麦粉と水が入った巨大な木桶が待っていた。パン生地の捏ね作業だ。
この店のパンは岩のように硬く、そして重い。それを作るには、並大抵ではない腕力が必要だった。
「ふんッ! せいッ!」
樫島の太い腕が唸りを上げる。
全身のバネを使い、腰を入れて生地を叩きつける。それはパン作りというより、格闘技の打ち込み稽古に近い光景だった。
汗が飛び散り、背中の筋肉が鬼の形相のように盛り上がる。
店の主、ベルンが腕組みをしてその様子を眺めていた。頑固一徹を絵に描いたようなこの初老の男は、滅多に人を褒めない。だが、その口元はわずかに緩んでいた。
『……フン。東の国の男ってのは、生地と喧嘩でもするのか』
まだ全て理解できるわけではないが、ニュアンスは伝わる。
「美味くするには、気合が必要なんであります」
樫島は日本語で答え、ニヤリと笑った。
焼き上がったパンは、香ばしい湯気を立てて店先に並べられた。
開店と同時に、街の人々がやってくる。
人間だけでなく、緑色の肌をした小男や、獣の耳を持つ亜人たち。最初は彼らの姿に腰を抜かしていたが、半年も経てば慣れたものだ。
『おい、カシマ!いつもの!』
「はいよ」
樫島は焼きたてのパンを紙に包んで渡す。客が投げてよこす銅貨を受け取る手つきも、すっかり板についていた。
かつて操縦桿を握り、何トンもの鉄塊を空に浮かべていた手が、今はたった数百グラムのパンを売っている。
不思議と、悪い気はしなかった。
「カシマ、お店番ありがとう!」
看板娘のエリスが、籠いっぱいの果物を持って日本語で話しかけてきた。
彼女の笑顔は、空襲警報に怯える帝都の女学生たちのそれとは違う。太陽のように屈託がなく、眩しかった。
一方、宇井はこの街の「発明家」として名を馳せていた。
街の広場にある古びた井戸。その汲み上げポンプが壊れて久しかったが、宇井は廃材と革ベルトを使って、あっという間に修理してしまったのだ。
それだけではない。
「ウイ! 荷車の車輪が外れたんだ!」
「ウイ! 家の扉の蝶番が!」
近所の住人たちが、壊れた道具を次々と持ち込んでくる。
宇井は苦笑しながらも、ポケットからスパナを取り出す。
「まったく……航空兵を何だと思ってるんですか。こんなの、目をつぶってても直せますよ」
文句を言いながらも、宇井の目は生き生きとしていた。
戦場では「敵」を倒すするだけだった航空兵が、ここでは「生活」を支える魔導師のように尊敬されているのだ。
夕暮れ時。
仕事が終わると、四人で食卓を囲むのが日課だった。
メニューは堅焼きパンと、羊肉と豆のシチュー。味付けは塩とハーブだけの質素なものだが、労働の後の空腹には何よりのご馳走だった。
暖炉の火が爆ぜる音。スプーンが皿に当たる音。
「ねえ、カシマたちの国は、どんなところ?」
エリスが片言の言葉とジェスチャーで尋ねてくる。
樫島はスプーンを止め、遠い目をした。
桜並木。神社の祭り。そして――燃え盛る東京。
「……綺麗なところだ。春には、ピンク色の雪が降る」
「へえ! 見てみたいなあ」
エリスが無邪気に笑う。
樫島は曖昧に微笑み、シチューを口に運んだ。
帰りたいか?と問われれば、即答できない自分がいた。
日本には義務がある。家族がいる。だが、ここには平和がある。
このまま、この温かい食卓の一員として生きていくのも、悪くないのではないか。そんな甘い誘惑が、日に日に強くなっていた。
だが、夜が来ると、彼らは「兵士」に戻った。
深夜一時。
二人はこっそりと寝床を抜け出し、街外れの森へ向かう。手には、報酬としてもらった強い火酒の瓶を抱えて。
月明かりの下、偽装網をめくると、冷たい金属の塊が眠っていた。
川崎 キ45改・二式複座戦闘機「屠龍」。
ここだけが、彼らが日本人であることを確認できる場所だった。
「……ダメですね」
宇井が酒瓶を地面に叩きつけた。
手製の蒸留器で作った高濃度アルコール。それを布に染み込ませて火をつけたが、燃え方は頼りなく、煤ばかりが出る。
「こんな純度じゃ、ハ-102発動機は回りません。異常燃焼でシリンダーが吹き飛ぶのがオチです」
「そうか……」
樫島は機体の翼を撫でた。
冷たい。まるで死体のようだ。
燃料がない。弾薬もない。
この半年間、維持整備だけは続けてきたが、それも限界だった。
「隊長、もう潮時かもしれません」
宇井が焚き火を見つめながら呟いた。
「俺たちはここで生きるしかないんです。エリスさんも、ベルンさんも、俺たちを家族だと思ってくれています。……この機体を捨てて、本当の家族になりませんか」
樫島は答えられなかった。
宇井の言う通りだ。星の配置すら違うこの世界から、日本へ帰る航路などあるはずがない。これ以上、未練がましく鉄屑を磨いて何になる。
樫島は、左腕の日の丸のワッペンに手を触れた。
これを剥ぎ取る時が、来たのか。
その時だった。
ガサリ、と茂みが揺れた。
樫島は反射的に腰の拳銃に手をやったが、現れた姿を見て力を抜いた。
あの狼男だった。
不時着したあの日、城門を通してくれた衛兵だ。彼は非番なのか、鎧を脱ぎ、粗末な革の服を着ていた。
狼男は、悲痛な顔をする二人の男と、動かない巨大な鉄の鳥を交互に見た。
彼は何かを察したように鼻を鳴らすと、樫島の左腕――日の丸を指差し、森の奥深くを手招きした。
「……ついて来いと言っているのか?」
樫島と宇井は顔を見合わせた。
狼男の瞳には、哀れみではなく、奇妙な敬意が宿っていた。
案内されたのは、森のさらに奥、崖下にある鍾乳洞だった。
入り口には、古びた注連縄のようなものが飾られている。
狼男は松明を掲げ、湿った洞窟の奥へと進んでいく。
地下深くへ降りていくにつれ、空気は冷たく、乾燥していった。天然の冷蔵庫だ。
やがて、開けた空間に出た。
「おい、嘘だろ……?」
宇井の声が震えた。松明の光が照らし出したもの。
それは、埃と苔に覆われているが、紛れもなく「それ」だった。
優美な曲線を描く緑色の翼。長い発動機カウル。
尾翼に描かれた識別番号。
三菱・零式艦上戦闘機五二型。
帝国海軍の戦闘機だ。
「まさか、先客がいたとはな……」
樫島は帽子を取り、深く頭を垂れた。
機体に外傷は少ない。だが、操縦席の中には、白い骨と化した搭乗員が眠っていた。
数十年、あるいはもっと前か。彼もまたこの世界に迷い込み、帰る術を探しながら、ここで果てたのだ。
狼男が静かに頭を下げる。
彼ら狼人族にとって、ここは「空から落ちてきた異邦人の墓所」であり、守るべき聖域だったのだ。あの日の丸への敬礼は、この先人への敬意だったのか。
「隊長……タンクです!燃料の匂いがします!」
機体によじ登った宇井が叫んだ。
地下の冷気が燃料の揮発を防いでいたのだ。
「量は?」
「タンクはほぼ満タンです。ただ、おそらく劣化はしてます。一度、空へ上がって周囲を偵察するくらいなら十分です!」
海軍のガソリン。
本土にいれば陸海軍の反目から眉をひそめるところだが、今はその「油」が希望そのものだった。
「先輩。あなたの翼、少しお借りします」
樫島は遺骨に向かって敬礼した。
希望が見えると、宇井の顔つきが変わった。
「隊長、弾薬はどうします?燃料があっても、丸腰じゃ不安です」
樫島は自身の愛機『屠龍』へと戻り、背中の斜銃の点検ハッチを開けた。
あの夜、B-29に向けて撃ち尽くしたはずの銃だ。
だが、内部を照らした樫島は、目を疑った。
ハッチの中、ボルトが半端な位置で止まり、変形した薬莢が噛み込んでいた。
「……弾切れじゃなかった。排莢不良してやがったんだ」
あの激戦の最中、給弾ベルトが絡まり、発射不能になっていただけだった。
噛み込んだ薬莢をこじ開けると、ガチャンという音と共にボルトが前進した。
弾倉には、まだ金色の20mm弾がずらりと並んでいた。
「残弾、各砲四十発……計八十発」
なんという皮肉か。
あの夜、故障しなければ撃ち尽くしていただろう。
故障したからこそ、弾が残り、海軍の燃料と共に、この異世界で復活を遂げたのだ。
「隊長、これで……」
宇井が期待を込めた目で見てくる。
帰れる、とは言えなかった。星も地形も違うこの場所から、日本への帰還ルートなどあるはずがない。
だが、空へ上がれば。
あの雲の上へ行けば、何かがわかるかもしれない。
「穴」が開いているのかもしれないし、あるいはただの絶望が待っているだけかもしれない。
それでも。
「……もう一度、空へ上がるぞ」
樫島は静かに言った。
「理屈じゃない。このまま地面を這って生きるのは、死んでいるのと同じだ。俺たちは搭乗員だ。空でしか見つけられない答えがあるはずだ」
それは、縋るような思いだった。
もう一度飛べば、何かが変わる気がする。
エリスたちのいる日常を愛しながらも、空への渇望を捨てきれない男の、最後の悪あがきだった。
「テスト飛行は、一週間後の夜だ」
樫島は自分に言い聞かせるように言った。
まずは飛ぶ。運命はそれからだ。
しかし、運命は彼らに選択の猶予を与えなかった。
一週間後。
森の鳥たちが一斉に飛び立ち、獣たちが怯えたように鳴き始めた。
北の空が、不気味に赤く染まっている。
遠雷のような、重く湿った羽音。
樫島は空を見上げ、肌が粟立つのを感じた。
この感覚は知っている。
空襲警報のサイレンよりも確かな、死の予感。
平穏な日常を終わらせに来た、圧倒的な捕食者の気配だった。
その音は、雷鳴ではなかった。
もっと重く、湿った、有機的な音だ。
バサァッ……バサァッ……。
大気を叩く巨大な皮膜の音が、腹の底に響く低周波となって森を震わせていた。
「隊長……あれは」
宇井が空を見上げ、呆然と立ち尽くす。
北の夜空を、巨大な影が覆い尽くしていた。
月が隠れる。星が消える。
その影はアルメリアの街の上空で旋回を止めると、鎌首をもたげ、大きく息を吸い込んだ。胸部がマグマのように赤熱し、夜闇に骨格が透けて見える。
次の瞬間、天から朱い滝が落ちた。
ゴォォォォォォォォッ!!
爆撃ではない。火炎放射だ。
古龍の顎から吐き出されたブレスは、城壁を一撃で溶解させ、石造りの見張り塔を飴細工のように捻じ曲げた。
着弾地点から爆発的な炎が広がり、同心円状に街を呑み込んでいく。
「街が……」
宇井の声が震えている。
逃げ惑う人々の悲鳴が、風に乗って聞こえてくる。
樫島はギリと奥歯を噛んだ。
帝都は守れなかった。同胞が焼かれるのを、ただ見ていることしかできなかった。
そして今、この異世界で、恩義ある人々が同じ目に遭おうとしている。
このままここに隠れていれば、自分たちは助かるかもしれない。機体には帰るための燃料が入っている。夜明けと共に逆方向へ飛び去ればいい。
だが。
「行くぞ、宇井」
樫島はホルスターの拳銃帯を締め直し、愛機『屠龍』を見上げた。
海軍の燃料を満たし、整備された機関砲を積んだ、万全の状態の重戦闘機。
運命としか思えなかった。
神様とやらが、海軍機と共に俺たちをここへ寄越した理由がわかった気がした。
帰るためじゃない。
あのトカゲを、地獄へ叩き落とすためだ。
「ペラ回せ!緊急発進だ!」
その一喝で、宇井の迷いが吹き飛んだ。
軍人の脊髄反射だ。命令されれば、身体が動く。
宇井は脱兎のごとく右発動機へ走り、始動クランクを回す。
キィン……キィン……結合ッ!
ドロロロロロ……!
ハ-102発動機が覚醒する。海軍のハイオクタン・ガソリンだ。
発動機の吹け上がりが違う。野太く、力強い咆哮が、機体を激しく震わせる。
二人は操縦席へ滑り込む。
「機首の37ミリは空だ! 斜銃だけでやるぞ!」
「了解! 安全装置解除!」
樫島はブレーキを踏み込んだまま、スロットルを押し込んだ。
バリバリバリッ!
機体が前に進もうと軋みを上げる。
「行くぞ、宇井。……パン代を払う時間だ」
ブレーキ解除。
『屠龍』という名の猛獣が、鎖から解き放たれた。
滑走路はない。木の根や岩が転がる獣道を強引に突破し、梢を掠めて夜空へ舞い上がる。
脚収納。
時速三百、四百キロ。
眼下には地獄と化した街。そして前方には、悠然と旋回する古龍の背中があった。
「捉えた! 攻撃に移る!」
樫島は絞り弁を全開にし、古龍の死角である真下へと滑り込む。
距離、二百。百。
白く柔らかな腹部が視界いっぱいに広がる。
ここなら通るはずだ。
「てぇっ!!」
樫島と宇井、二人の魂が引き金を引いた。
背中の二門のホ5・20ミリ機関砲が、真上に向けて火線を吐き出す。
ダダダダダッ!
乾いた発射音が機内を満たし、八十発の徹甲榴弾が吸い込まれていく。
勝利を確信した、その瞬間だった。
キィィィィン!
不快な高周波音と共に、古龍の腹部に幾何学模様の光が走った。
魔法障壁。
着弾した20ミリ弾は、その光の膜に阻まれ、虚しく空中で炸裂した。
「なッ……!?」
宇井が絶叫する。
「弾かれます! ダメだ、通りません!」
古龍は嘲笑うように眼球だけを動かし、腹の下の羽虫を見た。
魔力を持たぬ物理攻撃など、最強種である古龍には通用しないのだ。
古龍が身をよじり、裏拳のように翼を叩きつけてきた。
ドガァッ!
回避が間に合わない。右翼端が引きちぎられ、機体がきりもみ状態で落下する。
「くそっ、立て直せ!」
樫島は渾身の力でフットバーを蹴り、スロットルを操作して水平飛行に戻す。
だが、決定的な隙を晒してしまった。
古龍が旋回し、その巨大な顎を開く。口腔内で圧縮される、極大の炎。
ジリリリリ……。
無慈悲な燃料警告灯が、操縦席を赤く染める。
弾薬、全弾消費。
燃料、残量ゼロ。
右翼破損。
万策尽きた。
「……ここまでか」
宇井の力が抜けた声が、機上電話越しに響いた。
眼下では、アルメリアの街が再び炎に包まれようとしている。
エリスたちが、絶望の表情で空を見上げているのが脳裏に浮かんだ。
守れなかった。帝都と同じだ。俺たちは結局、何も守れず、ただ鉄屑の中で死ぬのか。
否。
樫島の瞳に、暗い炎が宿った。
一つだけ、残っている。
あの日、あの東京の空で、やり残したことが。
「宇井」
樫島は静かに呼びかけた。
「……はい」
「弾なら、あるぞ」
宇井は一瞬沈黙し、そして微かに笑った気配がした。
「そうですね。……全備重量六トンの、特大の弾丸が一発」
二人の思考は、完全に同調していた。
軍人としての本能。そして矜持。
魔力がなんだ。障壁がなんだ。
質量と速度は、嘘をつかない。
「総員、突撃号令」
樫島はスロットルをねじ切れるほど押し込み、プロペラピッチを最大角へ入れた。
発動機が悲鳴を上げ、機体が最後の加速を始める。
「目標、古龍喉元!」
もはや帰るための燃料など必要ない。
この一瞬、この一撃のために、俺たちはこの世界へ来たのだ。
パンの味も、エリスの笑顔も、全てはこの瞬間のためにあった。
「屠龍、突っ込むぞ!!」
それは、一瞬の閃光だった。
古龍は、向かってくる銀色の羽虫を見て、侮蔑の色を浮かべた。
魔力も感じられない鉄屑が、特攻などと愚かな。
古龍は眼前に、何重もの魔法障壁を展開した。城壁をも粉砕する大砲ですら防ぐ、絶対の盾。
羽虫は、その光の壁に激突して潰れる運命だ。
だが。
古龍は知らなかった。
物理法則の極致を。
時速五百四十キロ。六千キログラムの質量。
その運動エネルギーの塊が、切っ先鋭い一点に集中した時、物理は魔法の理を凌駕する。
「うおおおおおおッ!!」
樫島と宇井の絶叫。
二式複戦『屠龍』は、回避機動を一切取らず、一直線に光の壁へと突き進んだ。
プロペラが、翼が、空気を切り裂く。
激突。
キィィィィィィン!!
魔法障壁とプロペラが接触し、耳をつんざく高周波音が響く。
光の粒子が飛び散る。
障壁がたわむ。耐える。弾こうとする。
だが、止まらない。
二基のハ-102発動機が、限界を超えて回転し、鉄塊を強引にねじ込んでいく。
三枚羽のプロペラが、魔法の構成式を物理的に削り取り、粉砕していく。
パリンッ!
世界が割れる音がした。
絶対防御の障壁が、ガラス細工のように砕け散った。
古龍の瞳が驚愕に見開かれる。
その虹彩の真正面に、銀色の悪魔が迫っていた。
「靖国で会おう、宇井ッ!!」
「はいっ、隊長――!!」
ズドォォォォォォォン!!
夜空に、第二の太陽が生まれた。
衝撃の瞬間、まばゆい白光が世界を包み込んだ。
それは爆発の炎ではなかった。
もっと純粋な、空間そのものが飽和したかのような光。
光が収束する。
古龍の喉元を深々と貫通した衝撃波が、その巨体を内側から破壊した。
断末魔の叫びすら上げる暇もなく、古龍の瞳から光が消える。
だが、その喉元に突き刺さっているはずの機体は――なかった。
燃え上がる残骸も、折れた翼も、パラシュートもない。
白光が消えた空には、ただ、息絶えた古龍の巨体だけが残されていた。
『屠龍』は、その役目を終えたかのように、あるいは最初から幻であったかのように、光の粒子となって夜空へ溶けて消えたのだ。
ズゥゥゥン……!
巨大な地響きと共に、古龍の死骸が草原へと落下した。
舞い上がる土煙。
それきり、世界は静寂に包まれた。
アルメリアの街の人々は、城壁の上でその光景を見ていた。
墜ちていく龍。
そして、何もなくなった綺麗な夜空。
「……カシマ? ウイ?」
エリスは草原へと走り出した。
古龍の死骸のそばへ。
だが、そこには何もなかった。
銀色の翼も、黒い煙も、彼らがいつも着ていた油の匂いのする服も。
ただ、古龍の喉元に空いた風穴だけが、そこに強烈な「何か」が存在したことを証明していた。
「嘘……嘘よ」
エリスはその場に崩れ落ちた。
どこへ行ったの。帰ってくるって言ったじゃない。
パン代を払うって、言ったじゃない。
背後から、あの狼男の衛兵が歩み寄ってきた。
彼は何も言わず、古龍の死骸を見下ろし、そして誰もいない星空を見上げた。
彼は知っていたのかもしれない。
彼らが「ここ」に属する者ではなかったことを。
嵐と共に現れ、災厄を払い、そして嵐と共に去っていく。
それはまるで、古い伝承にある守り神のようだった。
狼男は静かに居住まいを正し、空に向かって敬礼をした。
右の拳を、左の胸に。
それに倣い、追いついてきたベルンも、街の人々も、涙を流しながら空を見上げた。
エリスは涙を拭い、夜空を探した。
星々が瞬いている。
その中に、二つの流星が、東の空へと流れて消えるのが見えた気がした。
「……ありがとう」
風が吹いた。
硝煙と、微かなパンの香りを乗せて。
昭和二十年の空は遠い。
二人の搭乗員と、一機の戦闘機。
彼らがどこへ還ったのか、それは誰にもわからない。
ただ、この異世界の片隅に、かつて龍を屠り、街を救った「鉄の翼」の伝説だけが、永遠に残ることとなった。
(完)
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