表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

二式複戦『屠龍』、古龍ヲ撃滅セリ ~帝都防空戦隊、異界の空で「龍殺し」の本懐を遂ぐ~

撃滅シリーズ五作目


 視界が、赤から青へと裏返った。

 それは瞬きの間の出来事であり、あるいは永遠に続く悪夢の切れ目だったのかもしれない。


 昭和二十年五月二十五日、深夜。

 高度八千メートルの帝都・東京上空は、物理法則を超えた熱量に支配されていた。


 下界を見下ろせば、そこにあるのは都市ではなかった。流れる溶岩の海だ。山の手から下町にかけて、B-29の編隊がばら撒いたM69焼夷弾は、木と紙でできた日本の家屋を瞬く間に紅蓮の薪へと変えていた。


 上昇気流に乗って、肉の焼ける匂いとすすが、成層圏近くまで昇ってくる。


「畜生……畜生ッ!」

 陸軍飛行第五三戦隊、樫島かしま大尉は、酸素マスクの中で獣のように吠えた。


 彼が操る愛機――川崎航空機製、キ45改・二式複座戦闘機「屠龍とりゅう」は、悲鳴を上げていた。


 右のハ-102発動機からは過熱を示す油煙が漏れ出し、風防には敵機銃弾による亀裂が走っている。

 対する敵は、銀色のジュラルミンに覆われた空の怪物。


 探照灯たんしょうとうの光芒の中、悠々と列を成すB-29の群れは、こちらの攻撃など意に介さぬように爆弾倉を開き続けている。


「弾切れだ! 機首の37ミリ、残弾ゼロ!」

 樫島が叫ぶ。


 機首から突き出した丙型特有のホ203・37mm機関砲。一発で戦闘機を粉砕する破壊力を持つその巨砲も、当たらなければただの鉄パイプだ。乱気流と敵の弾幕の中では、必殺の一撃を叩き込むことすら困難だった。


「後席、斜銃ウワムキも撃ち尽くしました! もはや撃つものがありません!」

 機上電話から、列機を務める宇井うい曹長の悲鳴が響く。


 戦う術は失われた。だが、帰る場所もまた、眼下の炎に包まれている。


「なら、この身を使うまでだ!」

 樫島は血走った目で操縦桿を押し込んだ。

 それは体当たりをも辞さぬ空の特攻防空隊。


 狙うは先頭の一番機。

 絞り弁全開。過給圧計の針が危険域へ飛び込む。瀕死の発動機が断末魔のような金属音を奏でる。

 風防いっぱいに、B-29の巨大な主翼と四発の発動機が迫る。


 敵の後部銃座が火を噴く。曳光弾が屠龍の翼をむしり取るように貫通していく。構うものか。


「宇井! 歯ァ食いしばれッ! 靖国で会おう!」


「お供します、隊長ッ!」


 距離、五百。三百。百。

 敵機の搭乗員の驚愕した顔が見えるほどの至近距離。


 衝突までコンマ数秒。

 視界が白熱し、樫島は自らの死を受け入れ――。

 ――衝撃は、訪れなかった。


 唐突に、音が消えた。

 爆音も、風切り音も、無線機のノイズも。

 そして、眼球を灼くような紅蓮の赤が、冷たく澄んだ「青」へと塗り替えられた。


「……え?」

 樫島は目を見開いた。


 眼下には、燃える東京がない。

 探照灯の光芒もない。

 そこにあったのは、月光に青白く照らされた、見渡す限りの大草原だった。


 地平線の彼方まで、人工の灯りは一つもない。ただ風が草を揺らし、波のようにうねっている。

 夜空を見上げれば、そこには見たこともない星座の配置が、宝石を散りばめたように瞬いていた。


「隊長……? これは、死後の世界ですか?」

 宇井の震える声が、静寂を破る。


「いや、死んじゃいない。痛みがある」

 樫島は自身の頬をつねった。そして、計器盤へ視線を走らせる。


 現実は残酷な数字としてそこにあった。

 高度計、二千メートル。急速に低下中。

 油温、限界突破。


 そして何より――燃料計の針が、赤いラインの底、ゼロの目盛りに張り付いていた。


「ガス欠だ」

 状況を飲み込むより先に、搭乗員としての本能が警鐘を鳴らす。


 プスン、プスン……。

 右発動機が不整脈を打ち、プロペラが惰性で数回回った後、完全に停止した。続いて左発動機も沈黙する。


 二式複戦という重量級の機体が、ただの鉄の棺桶へと変わる瞬間だ。


「不時着するぞ! 宇井、風防開放! ベルトを締め直せ!」


「滑走路はどうします!?」


「そんなものあるか! 草原へ降りる!」

 高度が落ちる。風の音だけがヒュウヒュウと耳を打つ。

 暗闇の草原。何があるかわからない。岩か、沼か、あるいは隠れた溝か。

 本来なら胴体着陸を選ぶ場面だ。だが、樫島の脳裏に一つの計算が走った。


 機体は無事だ。燃料さえあれば飛べる。

 ここでプロペラを曲げ、機体を歪ませてしまえば、二度と空へは戻れない。

 一か八か。


あしを出す! 機体は絶対に守り抜くぞ!」


「了解ッ!」

 油圧ポンプが唸り、主脚が固定される音が響く。


 樫島は汗で滑る手で操縦桿を握りしめ、フラップを全開にする。失速ギリギリまで速度を落とす。

 草の穂先が見えた。地面は平坦に見える。だが、泥濘ぬかるみならば前のめりに転覆する。


 地面が迫る。速い。

接地タッチッ!」

 ドガンッ!


 強烈な突き上げが背骨を叩く。

 機体がバウンドし、再び接地。草と土を噛みながら、六トンの鉄塊が草原を疾走する。


 車輪が草に足を取られ、機体が右へ左へと暴れる。地上回転グランドループを起こせばおしまいだ。

 樫島はラダーを必死に蹴り込み、制動機ブレーキを断続的に踏んだ。


「止まれ、止まれ、止まれぇッ!」

 機体が悲鳴を上げ、尾輪が接地する。


 永遠にも思える滑走の末、ガクンという衝撃と共に、鋼鉄の龍はようやくその動きを止めた。


 静寂。

 チン、チン……と、熱を持った発動機が冷えていく金属音だけが響く。


「……宇井。生きてるか」


「……はい。なんとか、五体満足です」

 二人は風防を跳ね上げ、翼の上へと這い出した。 


 むせ返るような草の匂い。

 硝煙と腐臭に満ちた帝都の空気とは違う、野性的で濃厚な大地の匂いだった。


 樫島は懐中電灯を取り出し、機体を照らした。

 脚は泥にめり込んでいるが、折れてはいない。プロペラも無傷だ。機体のフレームに致命的な歪みはない。


 機首のホ203・37mm砲と背中のホ5・20mm斜銃は弾切れ。


「ここは、どこなんでしょう」

 宇井が懐中電灯で足元の草むらを照らしながら、震える声で言った。


「計器が狂ったにしても、おかしい。山が見えません。関東にこんな場所はありませんよ」


「落ち着け。風に流されたのかもしれん」

 樫島は荒い呼吸を整えようと努めた。


 だが、冷や汗が止まらない。

 燃料切れまでの飛行時間を考えれば、千葉か、せいぜい茨城の海岸線だ。だが、潮の匂いがしない。民家の灯りひとつない。


「方位磁石はどうだ」 


「ダメです。さっきから針がグルグル回って……使い物になりません」


「クソッ、衝撃でイカれたか」

 樫島は舌打ちをし、夜空を見上げた。


 搭乗員の習性だ。計器がダメなら、星で現在地を知る。北極星を見つければ、北がわかる。

 彼は視線を北の空へと向け――そして、凍りついた。


「……ない」


「え?」


「北極星が、ない。カシオペアも、北斗七星も」

 あるはずのものが、ない。


 代わりに、毒々しいほどに輝く、名前の知らない星団が、見たこともない配列で瞬いていた。

 背筋に冷たいものが走った。


「馬鹿な……。俺たちは、どこまで飛んだんだ? 地球の裏側まで来たって言うのか?」


「そんな……燃料が保つわけないでしょう! 隊長、俺たち、やっぱり死んだんじゃ……」

 宇井が半狂乱になって叫ぶ。


「黙れッ!」

 樫島は宇井の胸ぐらを掴み、怒鳴りつけた。


「痛みがあるだろうが! 心臓が動いてるだろうが! ここは地獄でも天国でもない、現実だ!」

 宇井を突き飛ばし、樫島は肩で息をした。


 自分に言い聞かせるための怒鳴り声だった。

 わからない。何もわからない。

 だが、わからないからこそ、軍人としての規律にしがみつくしかなかった。


「……隠すぞ」

 絞り出すように、樫島は言った。


「え?」


「現在地不明。友軍との連絡不能。ということは、ここは『敵地』と見なすしかない」

 樫島の目は、闇の奥を睨みつけていた。


「米軍か、ソ連の勢力圏か、あるいはもっと訳のわからん場所か……とにかく、機体を見つかるわけにはいかん」


「そ、そんな……救助を待つんじゃ……」


「敵に捕まるかもしれんだろうが! 動け、宇井! 命令だ!」

 それは、パニックを起こしそうな心を「任務」という枠に押し込めるための行為だった。


 二人は恐怖を振り払うように、無心で森から枝を切り出した。

 巨大な双発戦闘機を隠す作業は、骨が折れた。手は泥だらけになり、軍服は破れた。


 機体を森のへりまで押し込み、枝葉で覆い、土をかける。

 作業が終わる頃には、東の空が白み始めていた。

 鋼鉄の龍は、ただの土山へと姿を変えた。


「行くぞ、宇井」

 樫島は腰の拳銃(南部十四年式)の安全装置を外し、軍刀の柄を握りしめた。


「水と食い物を確保する。……誰かに会ったら、まずは警戒しろ。」

 宇井は青ざめた顔で頷き、震える手で工具袋を握りしめた。


 朝霧の向こう。

 ぼんやりと浮かび上がる巨大な城壁のシルエットは、彼らの知るいかなる近代国家の建築とも違っていた。

 二人は泥まみれのブーツで、未知の大地へと足を踏み出した。


 歩く。ただひたすらに歩く。

 膝まで伸びた草を掻き分け、重い飛行ブーツで土を踏みしめる。


 太陽が高く昇るにつれ、気温は上昇していた。分厚い電熱飛行服の中は蒸し風呂のような熱気に包まれ、首筋を汗が伝う。


 喉が焼けるように渇いていた。

 不時着のショックと徹夜の隠蔽作業で、二人の体力は限界に近づいていた。


「隊長……あの城、近づいてるんでしょうか」

 背後で宇井が荒い息を吐きながら言った。


 視界の先にある巨大な石造りの城壁。朝霧の中では幻影のように見えたそれは、近づくにつれて圧倒的な質量を持って彼らを威圧していた。


 高さは十メートルを下らないだろう。灰色の切石が隙間なく積まれ、等間隔に監視塔がそびえ立っている。


「隊長……隠れましょう。この格好じゃ目立ちすぎます」

 宇井が自身の飛行服を摘んで不安げに言う。油と泥にまみれているとはいえ、機能美を追求した軍服は、この牧歌的な風景の中で明らかに異質だった。


「コソコソすれば、即座に撃たれるぞ」

 樫島は短く、しかし強く否定した。


「背筋を伸ばせ、宇井。貴様は帝国陸軍の軍人だぞ」


「は、はい……」


「ここが敵地であろうと、未開の地であろうと関係ない。コソ泥のように振る舞うな。堂々としていろ。我々に敵意がないことは、態度で示すんだ」

 それは計算ではなく、矜持だった。


 もし捕虜になり、あるいは殺されるとしても、卑屈に背を丸めて死ぬことだけは許されない。

 樫島は革製の飛行帽の顎紐を外し、顔を晒すと、襟元を正して顎を引いた。


「行くぞ」

 城壁に近づくと、巨大な木製の門が開かれているのが見えた。


 門の前には、槍を持った二人の衛兵が立っている。

 距離、五十メートル。

 樫島は歩調を緩めず、真っ直ぐに門を目指す。


 だが、近づくにつれ、違和感が膨れ上がった。

 衛兵たちの体格が良い。良すぎる。身長は二メートル近いだろうか。分厚い胸板を覆うのは、粗雑な鉄の鎧。


 そして何より――彼らの「顔」だ。


「……隊長」

 宇井の声が震えた。


「あいつら、何か……被っていませんか?マスクのような」


「……いや」

 樫島は目を凝らし、そして足が止まった。


 違う。マスクではない。

 兜の下から覗いているのは、長い鼻面と、尖った耳。

 全身を覆う灰色の体毛。


 そこに立っていたのは、人間ではなかった。

 二足で立ち、槍を握る、巨大な「狼」だった。


「な……」

 樫島の喉から、掠れた音が漏れた。


 常識が、理性が、音を立てて崩れ落ちていく。

 敵地?外国?そんな次元の話ではない。


 生物学的にありえない。犬が服を着て槍を持つか?そんな馬鹿なことがあってたまるか。

 だが、狼の衛兵はこちらに気づくと、器用に耳を動かし、鼻を鳴らした。その瞳には、知性が宿っていた。


「グルルゥ……グラー・ナ・フォーン?」

 右側の狼男が、喉の奥から絞り出すような声で何かを言った。


 言葉だ。獣が、言葉を喋った。

 樫島は金縛りにあったように動けなかった。腰の拳銃に手を伸ばすことさえ忘れていた。


 撃っていいのか?いや、これは「敵」なのか?それとも幻覚か?

 狼男が近づいてくる。


 巨大な槍の穂先が、樫島の喉元に向けられた。

 殺される。

 宇井が悲鳴を上げそうになった、その時だった。


 狼男の黄色い瞳が、ある一点に釘付けになった。

 樫島の左腕だ。

 飛行服の袖に縫い付けられた、白地に赤の円を描いたワッペン――日の丸(日章旗)。


「グルア……??」

 狼男は槍を引き、まじまじと日の丸を見つめた後、隣の虎の顔をした衛兵と顔を見合わせた。

 虎男が短く頷く。


 すると狼男は、先程までの警戒心を解き、居住まいを正すと、樫島に向かって胸に拳を当てる奇妙な敬礼をした。

 そして、顎で「通れ」と門の奥を指し示したのだ。 


「……通って、いいのか?」

 樫島が呆然と問うと、狼男は何も言わず、ただ日の丸を指差してから道を空けた。


「行くぞ、宇井」


「は、はい……今、あいつら、日の丸を見て……」

 二人は狐につままれたような顔で、門をくぐった。


 なぜ、獣人間が日の丸を知っている?なぜ、それを見て道を開けた?

 謎は深まるばかりだったが、今は考える余裕がなかった。


 城壁の中は、悪夢の続きだった。

 石畳を行き交うのは、人間だけではなかった。


 緑色の肌をした小男。耳の長い華奢な女。そして荷車を引くのは馬ではなく、巨大なトカゲ。


 ファンタジーという概念を持たない昭和の軍人にとって、それは「百鬼夜行」にしか見えなかった。


「ここは……地獄の類でしょうか」


「かもしれんな」

 樫島は乾いた唇を舐めた。


 だが、地獄にしては、生活の臭いが強烈すぎた。肉の焼ける匂い、香辛料の香り、家畜の糞の臭い。

 圧倒的な「生」のエネルギーが渦巻いている。


 あてどなく彷徨うこと数時間。

 緊張の糸が切れかけ、路地裏に迷い込んだ時、宇井がついに限界を迎えた。


「……もう、ダメです」

 宇井が壁に手をつき、ズルズルと座り込む。


 極度の緊張と脱水症状。


「おい、しっかりしろ! ここで倒れたら食われるぞ!」

 樫島が肩を揺するが、反応が鈍い。


 その時、一陣の風が吹いた。

 腐臭の中に混じって、ふわりと、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

 穀物が焼ける匂い。


 化け物だらけの世界でも、麦は焼くのか。

 その事実は、なぜか樫島をひどく安心させた。

 樫島は宇井を引きずり、匂いの元へ向かった。


 広場の片隅にある一軒の古びた石造りの家。

 店の軒先には、黒くて丸い塊が積まれていた。パンだ。見た目は岩のように無骨だが、確かにパンだ。


 店の奥から、粉まみれのエプロンをつけた少女が出てきた。

 彼女は――人間だった。

 栗色の髪、丸い耳、普通の肌。


 樫島は心の底から安堵した。化け物ではない、同じ人間だ。

 少女は、店の前に現れた泥だらけの男たちを見て、ビクリと身を引いた。


 樫島は宇井を座らせると、なりふり構わず両手を合わせた。

 帝国軍人の誇り? そんなものは、部下を生かしてからだ。


「水を……頼む。連れが死にそうだ」

 日本語で言った。通じるわけがない。


 だが、樫島は手で口元を覆い、飲む仕草をした。

 少女は樫島の腰の軍刀に一瞬視線を走らせたが、その必死な形相を見て取ると、すぐに店の中へ引っ込んだ。


 戻ってきた彼女の手には、並々と水の入った木製の柄杓があった。


「……!」

 樫島は柄杓を奪い取るように受け取ると、まず宇井の口元へ運んだ。


「飲め、宇井! 水だ!」

 宇井が咳き込みながらも、貪るように水を喉に流し込む。


 半分ほど飲ませてから、樫島は残りを一気に煽った。

 冷たい。井戸から汲み上げたばかりの、鉄分の味がする水。

 それが、乾いた内臓に染み渡っていく。


 少女は空になった柄杓を受け取ると、今度は棚からパンを一つ掴み、放り投げてよこした。

 樫島はそれを両手で受け止めた。


 ずしりと重く、温かい。

 硬いパンを力任せに割り、半分を宇井に渡して齧り付く。


 ガリッ。

 強烈な塩気と、穀物の甘み。


 美味い。


 涙が出そうになるのをこらえ、樫島は咀嚼し、飲み込んだ。

 食べ終えると、樫島は深く頭を下げた。


「ありがとう。……恩に着る」

 少女が店の奥に声をかけると、頑固そうな初老の男が出てきた。父親だろう。


 主人は二人を値踏みするように見た後、店の裏にある薪の山を指差し、自分の腕を叩いて力こぶを作って見せた。


『飯を食いたきゃ、働け』

 言葉はいらなかった。


 樫島は主人に向き直り、背筋を伸ばして一礼した。


「やらせてください。力仕事なら、自信があります」

 こうして、常識の崩壊した異世界で、二人の搭乗員はパン屋の下働きとしての生を得た。


 空を飛ぶことしか知らなかった彼らが、泥と小麦粉にまみれ、生きるための戦いを始めた瞬間だった。


 異世界での朝は早い。

 まだ薄暗い午前四時。石造りの家々の煙突から煙が上り始める頃、樫島は既に起きていた。


「よし、やるか」

 アルメリアの街外れ、「石窯亭」の裏庭。


 樫島は上半身裸になり、井戸水で絞った手ぬぐいで体を拭くと、白い粉の舞う作業場へと足を踏み入れた。 


 そこには、山盛りの小麦粉と水が入った巨大な木桶が待っていた。パン生地のね作業だ。

 この店のパンは岩のように硬く、そして重い。それを作るには、並大抵ではない腕力が必要だった。


「ふんッ! せいッ!」

 樫島の太い腕が唸りを上げる。


 全身のバネを使い、腰を入れて生地を叩きつける。それはパン作りというより、格闘技の打ち込み稽古に近い光景だった。

 汗が飛び散り、背中の筋肉が鬼の形相のように盛り上がる。


 店の主、ベルンが腕組みをしてその様子を眺めていた。頑固一徹を絵に描いたようなこの初老の男は、滅多に人を褒めない。だが、その口元はわずかに緩んでいた。


『……フン。東の国の男ってのは、生地と喧嘩でもするのか』

 まだ全て理解できるわけではないが、ニュアンスは伝わる。


「美味くするには、気合が必要なんであります」

 樫島は日本語で答え、ニヤリと笑った。


 焼き上がったパンは、香ばしい湯気を立てて店先に並べられた。

 開店と同時に、街の人々がやってくる。


 人間だけでなく、緑色の肌をした小男や、獣の耳を持つ亜人たち。最初は彼らの姿に腰を抜かしていたが、半年も経てば慣れたものだ。


『おい、カシマ!いつもの!』


「はいよ」

 樫島は焼きたてのパンを紙に包んで渡す。客が投げてよこす銅貨を受け取る手つきも、すっかり板についていた。


 かつて操縦桿を握り、何トンもの鉄塊を空に浮かべていた手が、今はたった数百グラムのパンを売っている。

 不思議と、悪い気はしなかった。


「カシマ、お店番ありがとう!」

 看板娘のエリスが、籠いっぱいの果物を持って日本語で話しかけてきた。

 

 彼女の笑顔は、空襲警報に怯える帝都の女学生たちのそれとは違う。太陽のように屈託がなく、眩しかった。


 一方、宇井はこの街の「発明家」として名を馳せていた。


 街の広場にある古びた井戸。その汲み上げポンプが壊れて久しかったが、宇井は廃材と革ベルトを使って、あっという間に修理してしまったのだ。

 それだけではない。


「ウイ! 荷車の車輪が外れたんだ!」


「ウイ! 家の扉の蝶番ちょうつがいが!」

 近所の住人たちが、壊れた道具を次々と持ち込んでくる。


 宇井は苦笑しながらも、ポケットからスパナを取り出す。


「まったく……航空兵を何だと思ってるんですか。こんなの、目をつぶってても直せますよ」

 文句を言いながらも、宇井の目は生き生きとしていた。


 戦場では「敵」を倒すするだけだった航空兵が、ここでは「生活」を支える魔導師のように尊敬されているのだ。


 夕暮れ時。

 仕事が終わると、四人で食卓を囲むのが日課だった。


 メニューは堅焼きパンと、羊肉と豆のシチュー。味付けは塩とハーブだけの質素なものだが、労働の後の空腹には何よりのご馳走だった。


 暖炉の火が爆ぜる音。スプーンが皿に当たる音。


「ねえ、カシマたちの国は、どんなところ?」

 エリスが片言の言葉とジェスチャーで尋ねてくる。


 樫島はスプーンを止め、遠い目をした。

 桜並木。神社の祭り。そして――燃え盛る東京。


「……綺麗なところだ。春には、ピンク色の雪が降る」


「へえ! 見てみたいなあ」

 エリスが無邪気に笑う。


 樫島は曖昧に微笑み、シチューを口に運んだ。

 帰りたいか?と問われれば、即答できない自分がいた。

 日本には義務がある。家族がいる。だが、ここには平和がある。


 このまま、この温かい食卓の一員として生きていくのも、悪くないのではないか。そんな甘い誘惑が、日に日に強くなっていた。


 だが、夜が来ると、彼らは「兵士」に戻った。


 深夜一時。

 二人はこっそりと寝床を抜け出し、街外れの森へ向かう。手には、報酬としてもらった強い火酒の瓶を抱えて。


 月明かりの下、偽装網をめくると、冷たい金属の塊が眠っていた。

 川崎 キ45改・二式複座戦闘機「屠龍」。

 ここだけが、彼らが日本人であることを確認できる場所だった。


「……ダメですね」

 宇井が酒瓶を地面に叩きつけた。


 手製の蒸留器で作った高濃度アルコール。それを布に染み込ませて火をつけたが、燃え方は頼りなく、すすばかりが出る。


「こんな純度じゃ、ハ-102発動機は回りません。異常燃焼でシリンダーが吹き飛ぶのがオチです」


「そうか……」

 樫島は機体の翼を撫でた。


 冷たい。まるで死体のようだ。

 燃料がない。弾薬もない。

 この半年間、維持整備だけは続けてきたが、それも限界だった。


「隊長、もう潮時かもしれません」

 宇井が焚き火を見つめながら呟いた。


「俺たちはここで生きるしかないんです。エリスさんも、ベルンさんも、俺たちを家族だと思ってくれています。……この機体を捨てて、本当の家族になりませんか」

 樫島は答えられなかった。


 宇井の言う通りだ。星の配置すら違うこの世界から、日本へ帰る航路などあるはずがない。これ以上、未練がましく鉄屑を磨いて何になる。


 樫島は、左腕の日の丸のワッペンに手を触れた。

 これを剥ぎ取る時が、来たのか。


 その時だった。

 ガサリ、と茂みが揺れた。


 樫島は反射的に腰の拳銃に手をやったが、現れた姿を見て力を抜いた。


 あの狼男だった。


 不時着したあの日、城門を通してくれた衛兵だ。彼は非番なのか、鎧を脱ぎ、粗末な革の服を着ていた。


 狼男は、悲痛な顔をする二人の男と、動かない巨大な鉄の鳥を交互に見た。

 彼は何かを察したように鼻を鳴らすと、樫島の左腕――日の丸を指差し、森の奥深くを手招きした。


「……ついて来いと言っているのか?」

 樫島と宇井は顔を見合わせた。


 狼男の瞳には、哀れみではなく、奇妙な敬意が宿っていた。

 案内されたのは、森のさらに奥、崖下にある鍾乳洞だった。


 入り口には、古びた注連縄しめなわのようなものが飾られている。

 狼男は松明を掲げ、湿った洞窟の奥へと進んでいく。


 地下深くへ降りていくにつれ、空気は冷たく、乾燥していった。天然の冷蔵庫だ。

 やがて、開けた空間に出た。


「おい、嘘だろ……?」

 宇井の声が震えた。松明の光が照らし出したもの。


 それは、埃と苔に覆われているが、紛れもなく「それ」だった。


 優美な曲線を描く緑色の翼。長い発動機カウル。

 尾翼に描かれた識別番号。


 三菱・零式艦上戦闘機五二型。


 帝国海軍の戦闘機だ。


「まさか、先客がいたとはな……」

 樫島は帽子を取り、深く頭を垂れた。


 機体に外傷は少ない。だが、操縦席の中には、白い骨と化した搭乗員が眠っていた。


 数十年、あるいはもっと前か。彼もまたこの世界に迷い込み、帰る術を探しながら、ここで果てたのだ。

 狼男が静かに頭を下げる。


 彼ら狼人族にとって、ここは「空から落ちてきた異邦人の墓所」であり、守るべき聖域だったのだ。あの日の丸への敬礼は、この先人への敬意だったのか。


「隊長……タンクです!燃料の匂いがします!」

 機体によじ登った宇井が叫んだ。

 地下の冷気が燃料の揮発を防いでいたのだ。


「量は?」


「タンクはほぼ満タンです。ただ、おそらく劣化はしてます。一度、空へ上がって周囲を偵察するくらいなら十分です!」

 海軍のガソリン。


 本土にいれば陸海軍の反目から眉をひそめるところだが、今はその「油」が希望そのものだった。


「先輩。あなたの翼、少しお借りします」

 樫島は遺骨に向かって敬礼した。

 希望が見えると、宇井の顔つきが変わった。


「隊長、弾薬はどうします?燃料があっても、丸腰じゃ不安です」

 樫島は自身の愛機『屠龍』へと戻り、背中の斜銃の点検ハッチを開けた。


 あの夜、B-29に向けて撃ち尽くしたはずの銃だ。

 だが、内部を照らした樫島は、目を疑った。


 ハッチの中、ボルトが半端な位置で止まり、変形した薬莢が噛み込んでいた。


「……弾切れじゃなかった。排莢不良してやがったんだ」

 あの激戦の最中、給弾ベルトが絡まり、発射不能になっていただけだった。


 噛み込んだ薬莢をこじ開けると、ガチャンという音と共にボルトが前進した。

 弾倉には、まだ金色の20mm弾がずらりと並んでいた。


「残弾、各砲四十発……計八十発」

 なんという皮肉か。


 あの夜、故障しなければ撃ち尽くしていただろう。

 故障したからこそ、弾が残り、海軍の燃料と共に、この異世界で復活を遂げたのだ。


「隊長、これで……」

 宇井が期待を込めた目で見てくる。


 帰れる、とは言えなかった。星も地形も違うこの場所から、日本への帰還ルートなどあるはずがない。

 だが、空へ上がれば。


 あの雲の上へ行けば、何かがわかるかもしれない。

 「穴」が開いているのかもしれないし、あるいはただの絶望が待っているだけかもしれない。


 それでも。


「……もう一度、空へ上がるぞ」

 樫島は静かに言った。


「理屈じゃない。このまま地面を這って生きるのは、死んでいるのと同じだ。俺たちは搭乗員だ。空でしか見つけられない答えがあるはずだ」

 それは、縋るような思いだった。


 もう一度飛べば、何かが変わる気がする。

 エリスたちのいる日常を愛しながらも、空への渇望を捨てきれない男の、最後の悪あがきだった。


「テスト飛行は、一週間後の夜だ」

 樫島は自分に言い聞かせるように言った。


 まずは飛ぶ。運命はそれからだ。

 しかし、運命は彼らに選択の猶予を与えなかった。


一週間後。

 森の鳥たちが一斉に飛び立ち、獣たちが怯えたように鳴き始めた。

 北の空が、不気味に赤く染まっている。


 遠雷のような、重く湿った羽音。

 樫島は空を見上げ、肌が粟立つのを感じた。

 この感覚は知っている。


 空襲警報のサイレンよりも確かな、死の予感。

 平穏な日常を終わらせに来た、圧倒的な捕食者の気配だった。


 その音は、雷鳴ではなかった。

 もっと重く、湿った、有機的な音だ。


 バサァッ……バサァッ……。


 大気を叩く巨大な皮膜の音が、腹の底に響く低周波となって森を震わせていた。


「隊長……あれは」

 宇井が空を見上げ、呆然と立ち尽くす。


 北の夜空を、巨大な影が覆い尽くしていた。

 月が隠れる。星が消える。


 その影はアルメリアの街の上空で旋回を止めると、鎌首をもたげ、大きく息を吸い込んだ。胸部がマグマのように赤熱し、夜闇に骨格が透けて見える。


 次の瞬間、天からあかい滝が落ちた。


 ゴォォォォォォォォッ!!


 爆撃ではない。火炎放射だ。


 古龍のあぎとから吐き出されたブレスは、城壁を一撃で溶解させ、石造りの見張り塔を飴細工のように捻じ曲げた。


 着弾地点から爆発的な炎が広がり、同心円状に街を呑み込んでいく。


「街が……」

 宇井の声が震えている。


 逃げ惑う人々の悲鳴が、風に乗って聞こえてくる。

 樫島はギリと奥歯を噛んだ。


 帝都は守れなかった。同胞はらからが焼かれるのを、ただ見ていることしかできなかった。

 そして今、この異世界で、恩義ある人々が同じ目に遭おうとしている。


 このままここに隠れていれば、自分たちは助かるかもしれない。機体には帰るための燃料が入っている。夜明けと共に逆方向へ飛び去ればいい。


 だが。


「行くぞ、宇井」

 樫島はホルスターの拳銃帯を締め直し、愛機『屠龍』を見上げた。


 海軍の燃料を満たし、整備された機関砲を積んだ、万全の状態の重戦闘機。

 運命としか思えなかった。


 神様とやらが、海軍機と共に俺たちをここへ寄越した理由がわかった気がした。

 帰るためじゃない。

 あのトカゲを、地獄へ叩き落とすためだ。


「ペラ回せ!緊急発進だ!」

 その一喝で、宇井の迷いが吹き飛んだ。


 軍人の脊髄反射だ。命令されれば、身体が動く。

 宇井は脱兎のごとく右発動機へ走り、始動クランクを回す。


 キィン……キィン……結合ッ!


 ドロロロロロ……!


 ハ-102発動機が覚醒する。海軍のハイオクタン・ガソリンだ。

 発動機の吹け上がりが違う。野太く、力強い咆哮が、機体を激しく震わせる。


 二人は操縦席へ滑り込む。

機首ハナの37ミリは空だ! 斜銃ウワムキだけでやるぞ!」


「了解! 安全装置解除!」

 樫島はブレーキを踏み込んだまま、スロットルを押し込んだ。


 バリバリバリッ!

 機体が前に進もうと軋みを上げる。


「行くぞ、宇井。……パン代を払う時間だ」

 ブレーキ解除。


 『屠龍』という名の猛獣が、鎖から解き放たれた。

 滑走路はない。木の根や岩が転がる獣道を強引に突破し、こずえを掠めて夜空へ舞い上がる。


 脚収納あしあげ

 時速三百、四百キロ。


 眼下には地獄と化した街。そして前方には、悠然と旋回する古龍の背中があった。


「捉えた! 攻撃に移る!」

 樫島は絞り弁を全開にし、古龍の死角である真下へと滑り込む。


 距離、二百。百。

 白く柔らかな腹部が視界いっぱいに広がる。

 ここなら通るはずだ。


「てぇっ!!」

 樫島と宇井、二人の魂が引き金を引いた。


 背中の二門のホ5・20ミリ機関砲が、真上に向けて火線を吐き出す。


 ダダダダダッ!


 乾いた発射音が機内を満たし、八十発の徹甲榴弾が吸い込まれていく。

 勝利を確信した、その瞬間だった。


 キィィィィン!


 不快な高周波音と共に、古龍の腹部に幾何学模様の光が走った。


 魔法障壁マジック・シールド


 着弾した20ミリ弾は、その光の膜に阻まれ、虚しく空中で炸裂した。


「なッ……!?」

 宇井が絶叫する。


「弾かれます! ダメだ、通りません!」

 古龍は嘲笑うように眼球だけを動かし、腹の下の羽虫を見た。


 魔力を持たぬ物理攻撃など、最強種である古龍には通用しないのだ。

 古龍が身をよじり、裏拳のように翼を叩きつけてきた。


 ドガァッ!


 回避が間に合わない。右翼端が引きちぎられ、機体がきりもみ状態で落下する。


「くそっ、立て直せ!」

 樫島は渾身の力でフットバーを蹴り、スロットルを操作して水平飛行に戻す。

 だが、決定的な隙を晒してしまった。


 古龍が旋回し、その巨大な顎を開く。口腔内で圧縮される、極大の炎。


 ジリリリリ……。


 無慈悲な燃料警告灯が、操縦席を赤く染める。


 弾薬、全弾消費。

 燃料、残量ゼロ。


 右翼破損。

 万策尽きた。


「……ここまでか」

 宇井の力が抜けた声が、機上電話越しに響いた。


 眼下では、アルメリアの街が再び炎に包まれようとしている。

 エリスたちが、絶望の表情で空を見上げているのが脳裏に浮かんだ。


 守れなかった。帝都と同じだ。俺たちは結局、何も守れず、ただ鉄屑の中で死ぬのか。


 否。


 樫島の瞳に、暗い炎が宿った。

 一つだけ、残っている。

 あの日、あの東京の空で、やり残したことが。


「宇井」

 樫島は静かに呼びかけた。


「……はい」


「弾なら、あるぞ」

 宇井は一瞬沈黙し、そして微かに笑った気配がした。


「そうですね。……全備重量六トンの、特大の弾丸が一発」

 二人の思考は、完全に同調していた。


 軍人としての本能。そして矜持。

 魔力がなんだ。障壁がなんだ。

 質量と速度は、嘘をつかない。


「総員、突撃トッ号令」

 樫島はスロットルをねじ切れるほど押し込み、プロペラピッチを最大角へ入れた。

 発動機が悲鳴を上げ、機体が最後の加速を始める。


「目標、古龍喉元!」

 もはや帰るための燃料など必要ない。


 この一瞬、この一撃のために、俺たちはこの世界へ来たのだ。

 パンの味も、エリスの笑顔も、全てはこの瞬間のためにあった。


「屠龍、突っ込むぞ!!」

 それは、一瞬の閃光だった。


 古龍は、向かってくる銀色の羽虫を見て、侮蔑の色を浮かべた。

 魔力も感じられない鉄屑が、特攻などと愚かな。


 古龍は眼前に、何重もの魔法障壁を展開した。城壁をも粉砕する大砲ですら防ぐ、絶対の盾。

 羽虫は、その光の壁に激突して潰れる運命だ。


 だが。

 古龍は知らなかった。


 物理法則の極致を。

 時速五百四十キロ。六千キログラムの質量。

 その運動エネルギーの塊が、切っ先鋭い一点に集中した時、物理は魔法のことわりを凌駕する。


「うおおおおおおッ!!」

 樫島と宇井の絶叫。


 二式複戦『屠龍』は、回避機動を一切取らず、一直線に光の壁へと突き進んだ。

 プロペラが、翼が、空気を切り裂く。


 激突。


 キィィィィィィン!!

 魔法障壁とプロペラが接触し、耳をつんざく高周波音が響く。


 光の粒子が飛び散る。

 障壁がたわむ。耐える。弾こうとする。


 だが、止まらない。

 二基のハ-102発動機が、限界を超えて回転し、鉄塊を強引にねじ込んでいく。

 三枚羽のプロペラが、魔法の構成式を物理的に削り取り、粉砕していく。


 パリンッ!

 世界が割れる音がした。


 絶対防御の障壁が、ガラス細工のように砕け散った。

 古龍の瞳が驚愕に見開かれる。

 その虹彩の真正面に、銀色の悪魔が迫っていた。


「靖国で会おう、宇井ッ!!」


「はいっ、隊長――!!」

 ズドォォォォォォォン!!


 夜空に、第二の太陽が生まれた。

 衝撃の瞬間、まばゆい白光が世界を包み込んだ。


 それは爆発の炎ではなかった。

 もっと純粋な、空間そのものが飽和したかのような光。


 光が収束する。


 古龍の喉元を深々と貫通した衝撃波が、その巨体を内側から破壊した。

 断末魔の叫びすら上げる暇もなく、古龍の瞳から光が消える。


 だが、その喉元に突き刺さっているはずの機体は――なかった。

 燃え上がる残骸も、折れた翼も、パラシュートもない。


 白光が消えた空には、ただ、息絶えた古龍の巨体だけが残されていた。

 『屠龍』は、その役目を終えたかのように、あるいは最初から幻であったかのように、光の粒子となって夜空へ溶けて消えたのだ。


 ズゥゥゥン……!

 巨大な地響きと共に、古龍の死骸が草原へと落下した。


 舞い上がる土煙。

 それきり、世界は静寂に包まれた。


 アルメリアの街の人々は、城壁の上でその光景を見ていた。

 墜ちていく龍。

 そして、何もなくなった綺麗な夜空。


「……カシマ? ウイ?」

 エリスは草原へと走り出した。


 古龍の死骸のそばへ。

 だが、そこには何もなかった。


 銀色の翼も、黒い煙も、彼らがいつも着ていた油の匂いのする服も。

 ただ、古龍の喉元に空いた風穴だけが、そこに強烈な「何か」が存在したことを証明していた。


「嘘……嘘よ」

 エリスはその場に崩れ落ちた。


 どこへ行ったの。帰ってくるって言ったじゃない。

 パン代を払うって、言ったじゃない。


 背後から、あの狼男の衛兵が歩み寄ってきた。

 彼は何も言わず、古龍の死骸を見下ろし、そして誰もいない星空を見上げた。


 彼は知っていたのかもしれない。

 彼らが「ここ」に属する者ではなかったことを。

 嵐と共に現れ、災厄を払い、そして嵐と共に去っていく。


 それはまるで、古い伝承にある守り神のようだった。

 狼男は静かに居住まいを正し、空に向かって敬礼をした。


 右の拳を、左の胸に。

 それに倣い、追いついてきたベルンも、街の人々も、涙を流しながら空を見上げた。


 エリスは涙を拭い、夜空を探した。

 星々が瞬いている。

 その中に、二つの流星が、東の空へと流れて消えるのが見えた気がした。


「……ありがとう」

 風が吹いた。


 硝煙と、微かなパンの香りを乗せて。


 昭和二十年の空は遠い。

 二人の搭乗員と、一機の戦闘機。

 彼らがどこへ還ったのか、それは誰にもわからない。


 ただ、この異世界の片隅に、かつて龍を屠り、街を救った「鉄の翼」の伝説だけが、永遠に残ることとなった。

(完)



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ