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98 初恋だった彼女との最後のキスを。

「……セイヤ、最後に口付けをさせていただいてもよろしくて?」


 うっとりとした目で、ほんの少しだけ頬を赤らめながらダニエラが言う。

 俺は息を呑み、固まってしまった。


 だって彼女はルイス王子という婚約者がいる身なのだ。そして俺も、もう。


「ダニエラ、何言って――」


「はしたないお願いごとであることはもちろん承知いたしておりますわ。けれど、今こうしていなければきっと、後悔すると思って」


 目の前にはダニエラの、初恋の美少女の顔があった。そのあまりの美しさに目が離せなくなる。

 彼女の艶やかな声にゾクゾクした。


 これ以上はダメだ。そう思って慌てて身を離そうとした俺だったが、それを止めたのは意外な人物だった。


「まったくもう、誠哉もダニエラさんも浮気性なんだから。

 仕方ないなぁ。一回だけなら、許してあげる」


「……明希」


「精一杯の全力で送り出すって言ってたでしょ。それなら後悔はしないようにしないと」


 普通、自分の彼氏が他の女にキスをせがまれているなんてことになったら嫉妬して当然だろうし、愛が重い(ヤンデレ)なら滅多刺しにされ殺されてもおかしくないレベルである。

 それなのに見逃してくれるどころか堂々と許してくれる明希は、あまりに優し過ぎる。彼女の優しさに甘えるしかできない自分が恥ずかしかった。


「そういうことなら、遠慮はいりませんわね」


 そう言うやいなや、ダニエラは自ら桜色の唇を突き出し、俺のそれへ静かに触れ合わせる。

 明希の時も思ったが、唇というのはなんて柔らかく、温かいのだろう。その温かさに、心が震える。


 しかも初恋の相手とのキスなのだ。興奮してしまわないわけがなかった。


 しかしそんな触れ合いはほんの束の間の出来事。

 舌を絡め合うようなキスに移行することなく、お互いの顔が離れて行ってしまう。名残惜しくなって俺が彼女を見つめると、ダニエラは優美に微笑み、囁くように言った。


「ふふっ。実はこれがワタクシにとって初めての口付けですのよ」


「え……」


 てっきりルイス王子とたくさんこういうことをしていると思い込んでいたので驚いた。

 そうか、彼女はまだ、俺を完全に諦めてはいなかったのだ。さすがダニエラだと思った。


「セイヤ、心からお慕いしておりましたわ。メロンディック王国でルイス殿下の妃となっても、あなたへの想い、そしてあなたと過ごした時間は一生大切に何度も何度も思い返すことでしょう。

 アキ様と、どうぞお幸せに」


 ああ、これでとうとうお別れなのだ。

 そう思うと先程までの興奮が嘘のように心が痛くなった。

 そんなのはわかっていることのはずだった。でも、触れ合ってしまったからこそ、さらに手放したくなくなってしまったのだ。


 だが俺はそんなウジウジした感情を今だけは見せたくなかった。

 だからこちらも笑顔で手を振る。


「君が俺の初恋だったよ、ダニエラ。さよなら。元気で」


 背後から、「お熱いことだね、お二人さん。私のこと忘れてるでしょ」と拗ねたような明希の声がしたが、俺もダニエラも返事をしなかった。


 転移の魔道具である宝石を手に取ったダニエラは、俺たちに背を向け、膝を抱え込んでうずくまった。かと思えば次の瞬間、彼女の姿が急速に薄れ始める。

 そして瞬きの後にはまるで最初からそこに誰もいなかったかのように、無人になっていた。


 静けさが落ちる。


「行っちゃったね」


「……ああ」


 つい数分前まで、彼女の吐息を浴びていたのに。

 腕に抱いて、キスまでしたのに。


 もう彼女はこの世界のどこを探しても存在しない。

 追放された悪役令嬢ダニエラ・セデカンテは異世界へ帰って行った。これからはルイス王子の妻となり、生きていくのだろう。




 わかっていたことのはずなのに無性にやるせない気持ちになってしまって、俺は地面に座り込んだ。

 無力感が俺を襲い、喪失感で胸が満たされる。大切なものがすっぽり抜け落ちてしまった、そんな感覚だった。


 そして今更ながら思う。俺は今でもダニエラが好きなままだったのだと。


「誠哉、大丈夫だよ。みんながいなくなっても私はいる。そうでしょ?」


 そんな風に言いながら、明希は慈愛に満ちた笑みで俺をぎゅっと抱きしめる。

 そしてダニエラのそれを上塗りするかのように、俺の唇へ、キスを落とすのだった。

 次回、最終話。夜八時に更新します。

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