94.幻牛肉
3人掛かりで新しい超強力魔法陣をセットしてもらい、後ろ髪を引かれまくっているアルグレックと、そんな男を引き摺っているセルシオに手を振ってわかれた。
明日の昼過ぎにはまた会うのだけれど。
遠征は午後からなので、午前中はたっぷり寝られる。だから今日の夜は長いわよ! と張り切るミオーナにフィリアは苦笑しつつ、慣れた手付きで彼女のお気に入りのワインとナッツを取り出した。
ケチケチしていた時が嘘のように、嗜好品をいくつか家に買い置くようになった。木の器を揃えて大喜びしてもらえたことを思い出して、また喜んでくれたらいいなと思うと、つい財布の紐が緩んでしまうのだ。
いつの間にかパジャマに着替え終えているミオーナは、今回も大袈裟なくらいに歓喜した。その笑顔で心が満たされていく。
「アルグレック、悔しそうだったわ」
「何に?」
「私だけがここに泊まること」
「そうか? まだ飲みたかったんじゃないの」
「今回はちょっと強引に私が泊まることにしたけど、もし、フィリアがあいつと先のことを考えてるなら、あいつが泊まってもいいと思ってるのよ」
「先?」
「結婚とか」
「……はああ?」
突拍子もない話題に、フィリアは危うくグラスを落とすところだった。ミオーナの表情はいたって真面目で、余計に困惑する。
「全然考えてない顔ね」
「あるわけないだろ」
「ま、この手の話は早いだろうなとは思ってたけど。でも私たちも二十歳をとっくに過ぎてるでしょう? 実際に私は、家から催促の手紙がしょっちゅう届くわ」
「へえ……ミオーナはしたいの」
「今は仕事が楽しいし相手もいないしで今まで全然興味なかったけど、最近はちょっと憧れるわ。家族を持つのもいいなあって」
「ふうん」
家族か。
その単語に少しだけ感傷的な気持ちになる。元兄には会えてよかったと思うが、元両親があんなだなんて、やっぱり知りたくなかった。
その表情に気付いたミオーナは、慌てて話題を変えた。
翌昼からの遠征では、フィリアは最初から荷台に乗せてもらった。こうして最初からお荷物になってしまった方がスムーズらしいと、前回で学習した。
今回の遠征の目的は、フィリアもなんとなく予想していたが、魔幻黒蝶がいる森の討伐だった。森に入るや否や隊長が横に立ち、魔獣のいる位置を伝える。
何度見ても彼らの攻撃は正確で力強くて見入ってしまう。
「すんごい間抜け面」
「放っといて」
すぐに茶々を入れてくるベニートンを適当にあしらう。彼は想像以上に構われたがりらしい。やたらフィリアに話し掛けてはアルグレックに威嚇され、他の隊員たちに笑われるを繰り返している。
何が目的なのか知らないが、あからさまに適当な返事をしてもめげない。変な奴だ。
そんなことよりも、重要なのは今日の夕食。今、それ以上に重要なことなどない。
「フィリア初めてよね? 絶対に唸るほど美味しいから楽しみにしてて」
「うん。めちゃくちゃ楽しみにしてる」
つい鼻息荒く返事をする。抑えるつもりはあまりない。
なぜなら、今夜の野営飯は幻牛なのだ。あの『魔物肉ランキング』1位の!
魔幻黒蝶のいる森で偶然見つけた瞬間、隊員全員の目の色が変わった。幻牛が数歩後ずさりするほどに。舌なめずりでもするかのようなギラギラとした目で、フィリアは一瞬だけ幻牛に同情した。本当に一瞬だけ。
前回同様、フィリアも配膳係を買って出た。さっと焙られた肉をフィリアは指名された隊員に持っていく。以前と違って一言二言話しかけられてもきちんと返事ができた。
ベニートンさえ変に絡まなければ、アルグレックは普段の仕事の時と同じように接してくれる。熱っぽい視線も甘い言葉もなくて、とても気が楽だ。
……ほんの少しだけ寂しい、なんて気持ちは認めない。認めたくない。
全員に行き渡ってからフィリアたちも隅に腰を下ろした。3人は食べたことがあるらしく、フィリアとベニートンが口に運ぶのをじっと待っていた。全員が。
その視線に食べ辛くなって、フィリアはベニートンが食べてからにしようと彼を盗み見た。
「うわ! 何ですかコレ! めちゃくちゃ美味い!!」
「だろ~!? お前入って半年足らずで幻牛を食べれるなんてツイてんなぁ!」
なぜが得意げなコルデーロがバシバシとベニートンの背中を叩く。他の隊員も楽しそうに肉に齧りつきだしたのを見て、フィリアもこっそり食べることにした。
「……!」
口に入れた瞬間、目を見開いた。じゅわっと流れ込んできた肉汁はとてもふくよかで、さっぱりしているのに甘い。肉自体も驚くほどに柔らかくて――
「あれ、もうない……」
あっという間に溶けて消えてしまった。しょんぼりと眉を落としたフィリアに、こっそりと反応を覗っていた隊員たちは大笑いした。
姿だけでなく、まるでその肉まで幻のようだ。口溶けが良すぎる。
周りの視線など気にせず、豪快に齧り付き口の中いっぱいにしてみたけれど、やっぱりすぐに消えてしまった。
ああ、それならゆっくり食べればよかった。
アルグレックは嬉しそうに笑い、フィリアに優しく声を掛けた。
「気に入った? お代わりいる?」
「いる」
「ふふ、じゃあ俺のと一緒に取ってくるよ」
「ありがと。よろしく」
「あ、先輩、僕のも」
「お前は自分で取りに行け!」
「えー、ケチ」
お代わりがもらえるならちまちま食べるのはやめよう。ベニートンの視線を感じて、フィリアはついお皿を隠した。
「あっ、バレた? フィリアと僕って結構以心伝心?」
「……」
「表情だけでそんなに否定しなくてもいいじゃん。傷付くなぁ」
微塵も傷付いた様子のない男に胡乱な目を向ける。拗ねた顔はやっぱり可愛くない。
じりじりと距離を詰めるベニートンに大きな影が落ちる。2人の間に身体を滑り込ませ、思いっ切り作った笑顔のアルグレックは、その全く笑っていない瞳を新入りに向けた。綺麗な笑顔なのに、怒っているオーラが凄い。
「ベニートン、喧嘩なら買うけど……?」
「イイエ、もうアレは懲り懲りです。スミマセンデシタ」
何を思い出したのか。ベニートンの背筋がピンと伸び、引き攣った表情に変わった。
アレ? と呟けば、「騎士らしく正々堂々と戦ったことだよ」と良い笑顔で言い切られた。詳細は聞かなくても何となく分かった気がする。
幻牛のお代わりを受け取り齧り付くと、ベニートンが逃げるようにお代わりに立ち上がった。
「……あんたって、そんな腹黒い笑顔もできるんだな」
「腹黒ってひどっ!」
「フィリアちゃんのことになったら、こいつは副隊長もびっくりなくらいの腹黒になれるからな」
「なんだそれ」
「ほう? それはどういう意味ですか? セルシオ君」
「あ、いや、これは、その……!」
みるみる顔色の悪くなったセルシオを見て、フィリアたちは顔を見合わせて笑った。
声を出して笑うフィリアの姿を初めて目の当たりにした隊員たちは大いに驚き、多くの者は嬉しそうに顔を緩めた。その瞳は、まるで子や兄弟を見守るような優しいもので。
そして極一部の者は、固まったまま頬を染めた。ベニートンもそのひとりだ。それに目敏く気付いたアルグレックにさり気なく隠されても、ベニートンの視線は一点に固定されたままだった。




