104.歴史
アルグレックに抱きかかえられて部屋に戻ってからも、フィリアは涙を止められなかった。
「ごめん、止め方、分からなくて」
「無理に止めなくていいよ」
「……なんで、あんたまでまだ涙声なの」
「俺も止まらなくて」
「なんか止まりそう」
「裏切り者!」
ふふ、と笑みを溢して鼻を啜る。
そのまましばらく抱き合っていたが、フィリアはゆっくりと身体を離した。顔を上げられないまま。
「もう大丈夫。ごめん、ありがと」
「フィー、顔上げて」
「無理。イヤ。多分めちゃくちゃ酷い顔してるから」
「絶対してない。フィーはいつでも可愛いから」
「やっぱりあんたは目も頭もおかしい」
「超正常」
両手で包まれた頬がゆっくり上げられる。抵抗しようと思えばできたのに、フィリアは視線を彷徨わせながらもそれに従った。
「うん。目も鼻も赤くなって可愛い」
「どこが超正常だ」
つい憎まれ口を叩いてしまうのにアルグレックは嬉しそうで。同じように目も鼻も赤いのに、相変わらず美しい顔なのが悔しい。
「フィー、本当にありがとう」
「……さっきも聞いた」
「何回言っても足りないよ。初めて会った時から、フィーはずっと俺に幸せをくれてるんだから。本当に、俺にとってフィーは、祝福そのもので、最愛で、誇りなんだ」
「……」
「生まれてきてくれてありがとう、フィー」
そんなの。友達ができる喜びも、誰かと一緒に過ごす楽しさも、信頼できるありがたさも、好きな気持ちも。全部全部、アルグレックに出会えて知った。
感謝するのはこっちなのに。
魔消しで良かったと、生まれたことを後悔しないのだって全部。
「馬鹿、せっかく止まったのに……っ」
一度壊れた堤防はすぐに直らないらしい。胸の奥から込み上がってくる熱は、唇を噛んでも消えてはくれなくて。
アルグレックは目を細めてフィリアの目尻を優しく拭った。
「フィーの泣いてる顔も好き」
「悪趣味」
「ふふ、何とでも」
睨んだところで意味はなさそうだと分かっていても、それ以外浮ばない。
アルグレックは今までで一番優しい顔をしていた。
「フィー、愛してる」
涙はぴたりと止まった。言葉も、呼吸さえも。
熱だけが、全身へと溢れ出た。
「顔まで真っ赤で可愛い」
「……っ、やっぱり悪趣味だ! 頭おかしい!」
「語彙力のなさも可愛い」
「〜〜〜っ」
うるさい、と言いそうになってかろうじて飲み込んだ。
悔しい。悔しいけれど、もう反論できそうな言葉が浮ばない。
きっとこの男は魅力が封印できた喜びでハイになっているだけだ。フィリアは強引にそう結論付けて、降り注ぐ口付けを受け入れた。
2日後、魔力検査を受けたベルナルディーノ王子は、すぐに祝福が封印――祝福の保護と言うよう訂正された――されることになった。
予想通り祝福は石化で、とても強力なものだった。国王と、ベルナルディーノ王子の父である王太子にも見守られ、アルグレックよりも長い時間をかけて祝福の保護の術が行われた。
「魔消しが祝福、か」
ベルナルディーノ王子がベールも帽子も投げ捨てて、泣いている乳母と抱き合っている様子を見ながら、国王が呟いた。
何代も前に起きたクーデターは、結果として革命軍が負けた。革命軍のリーダーだった魔消しが『悪』となったのはそれがきっかけだ。
「歴史を正す時なのかもしれませんね」
国王の呟きを拾ったのは彼の息子の王太子だ。彼は歴史学者の第一人者でもある。
クーデターを受けた当時の王は、少し調べれば暴君だったことは明白だった。贅の限りを尽くし、気に入らないものはすぐに処刑しとやりたい放題。そのなかで最も目立ったのがこの『祝福の封印』の濫用だった。
次の王がまともで、これを国王のみ知れる禁術扱いにしたからよかったものの、当時は少しでも王に歯向かうと祝福持ちはすぐに封印されてしまった。
王命だからと渋々従っていた魔術師と魔消師だったが、ある時とうとう反旗を翻した。それが革命軍となり、戦いに破れ、歴史上の『悪』になった。
国王は特にその魔消師を恐れた。魔法陣を描くのも魔力を流すのも代わりにできる者は多いが、魔消しだけはその能力プラス魔力の強さが必要で、当時は彼しか該当しなかった。彼を消さなければ、安心できる日は来ない、と。
だから国王は魔消しを徹底的に『悪』にし、処刑後も新たな強い魔消師が現れないようにした。
そして魔消しを悪とすることは、教会の思惑にも一致した。当時の教会は布教活動に息詰まっており、信仰者を増やすために分かりやすい『悪』を作った話に乗っかった。
クーデターで国が揺らぎ、その後の悪政を強いられ不安になっていた人々にも合致した。自分たちよりも『下』の存在があることで安心したのだ。しかもそれが『悪』なら、罪悪感を抱かなくて済む。
こうして暴君によって作られた『悪』の存在は、時を経て、この国を担っていくであろう王子を助けた。ただのひとつの恨み言も零さず。
国王と王太子は何度も話し合った。王妃や先代の王、宰相などとも協議を重ね、ある程度を公表する方針で話が進んでいる。
ベルナルディーノ王子は今まで確定していなかっただけで厄介な祝福持ちだと一部に知られていたし、また市民に対しては今の王政は「間違いを正せる」というクリーンなイメージを与えることができる。
タルヴェール教のトップである総大司教も反対しなかった。親にも捨てられた魔消しを神父が保護していたというのは、「教会だけは誰も見捨てない」とイメージアップに繋がる。
こうして、長い間魔消しを迫害してきた歴史に終止符が打たれることになった。
そんなことになるとはもちろんまだ知らないフィリアは、目的を達成したのに帰してもらえず、部屋でぼんやりとしていた。
昨日のベルナルディーノ王子の魔消しは結構疲れた。それもそのはず。国王に王太子に王子にと恐ろしい面々に囲まれての作業だったのだ。思い出しただけでも疲れる。
そのため昨日は夕食もそこそこにさっさと寝てしまい、朝早くに目が覚めてから今までずっと呆けていた。
今日は昼すぎにルオンサが城下町を案内してくれるらしい。刺繍したハンカチを渡すことを思い出して少し緊張した。
さて今日は何をしよう。ドアをノックする音が聞こえて、フィリアは無意識に髪を整えた。
「フィリア、俺だけど。起きてる?」
「うん。どうぞ」
いつもと同じ姿のアルグレックに、フィリアはとうとう疑問に思っていたことを口にした。
「……あんた、なんでまだ眼鏡してんの」
「つい癖で」
そう言いながら眼鏡を外す男はとても上機嫌だ。その姿になぜか胸が騒めく。
並んで食堂に向かうと、アルグレックはやっぱり眼鏡をかけた。まだ落ち着かないらしい。
ルオンサに借りた魔法庁のローブを着ているため、特に不審がられることもない。噂通りここの職員は他人に興味がないらしい。
「フィリアは街で欲しいもの何かある?」
「うーん。ミオーナたちへのお土産くらいかな」
「ああ、それもあったな。あいつらのことは放っておいて、それ以外は? フィリア自身の欲しいもの」
「別にない」
「じゃあ食べたいものは?」
うーん、と腕を組んで考える。朝食を取りながら次の食事を考えるのは難しい。
「久しぶりに羊串が食べたいけど、貴族には言いにくいし」
「じゃあ許可出たら、2人ででも街に出ない?」
「それなら、うん」
了承すると、アルグレックは久しぶりのデートだと顔を輝かせた。
それにしてもいつ帰してもらえるのだろう。フィリアはマフィンに齧りついた。




