35
目を覚ますと見覚えのないベッドの上にいた。
小さいベッドではあるが、シーツは洗いたての石鹸の香りがする清潔なものだ。
それにしてもここは何処なのだろう。
辺りを見渡すと、どうやら小さな家のようだ。
部屋の中には小さなベッド一つと壁際にキッチン、テーブルに椅子が二脚。
耳をすましても周囲からは何も音がしない。
魔石のライトで家の中は明るいが、ベッド脇のカーテンの隙間からは太陽の光は入らない。
教会には朝から出かけていたはず。どれぐらい時間が過ぎたのかと不審に思い、少しカーテンを捲る。すると私の視界の先には暗闇が広がっていた。
周りには家があるようには見えず、暗くて判断はつきにくいが木で囲まれているように見える。
それにしても、最後の記憶は⋯⋯確か神官様と話をしていた所で終わっている。
何か甘い香りがしたはず。だがそこから急に身体が思うように動かなくなって⋯⋯。
あの時のことを思い出すと、急に身体が震えてきて思わず両手で腕をさする。
今部屋の中にいるのは私だけ。この部屋の様子をざっと見ても他に部屋があるとは考えにくい。つまり、今ここに神官様はいない。
とにかく探らなければ。
ここがどこでどうすれば逃げられるか。
ベッドからそろりと足を下ろす。そしてこの部屋に一つしかないドアの元へと足を進める。
不安で胸が潰れそうになる気持ちを叱咤するように拳を握る。
よし。
ドアノブに手を掛けた、その時。
ギィ
開けようと手を掛けたドアノブを私は回してはいない。恐る恐る視線を上げると。
そこにはドアを開けた先に私がいた為、驚いたかのように目を見開く神官様が立っていた。
「キャア!」
急に現れた神官様につい口から叫び声が飛び出す。すぐに身体を翻して部屋の隅まで移動し、神官様との距離を取った。
だが神官様は「大分怖がられちゃいましたね」と困った顔をしながら、気にした素振りもなく部屋の中へと入ってくる。
「大丈夫ですよ。私はあなたに危害を加えたりはしません。約束します」
「信じられません。ここに無理やり連れてきたではないですか」
「あー⋯⋯そうでしたね。でも、大丈夫ですよ。
私はあなたをどうこうしようとは思っていませんから」
神官様はいつもと同じく穏やかに笑みを浮かべると、部屋に備え付けられている小さなキッチンへと向かう。
そして、手慣れた様子でお茶を入れるとカップを二つ、テーブルの上へと置いた。
「お茶でも飲みませんか?」
「結構です」
「うーん⋯⋯何も入っていないですよ?」
神官様は小さなティテーブルに座るとお茶を一口飲む。そして、未だ部屋の隅から動こうとしない私をチラッと一瞥し首を傾げた。
首を傾げたいのは私の方なんですが⋯⋯。
「⋯⋯ここはどこですか」
「ここですか?教会の近くの森の奥⋯⋯ですかね。一年前まではよく教会に来ていた老婦人が暮らしていたのですが、娘さんのとこに行くとかで譲り受けたのです」
「何故⋯⋯私をここに」
「言ったじゃないですか。あなたと過ごす未来が欲しいと」
「未来?」
「えぇ、ここであれば誰にも邪魔されることなく二人で暮らすことが出来ますよ。
少し小さいですがね。住みにくいようであればもっと大きな所に越しましょうか」
ニコニコと「庭に花壇は欲しいですよね」なんて更に具体的に語る神官様を私は信じられない思いで見た。
本当だろうか。
神官様は教会で会う時と全く態度も表情も変わらない。だからこそ、違和感がある。
この状況で、こんな態度でいられるものだろうか。
「嘘、ですか?」
「何故?」
「あなたはあの教会を訪れる人を、子供たちを大切にしていたように思います。
その人たちを裏切ってまで、私といる必要はないはずです」
「確かにあの場所は私にとって初めて居心地の良さを感じた場所です。ただそもそも私にはあのような暮らしは難しかったのかもしれませんね」
「何故です」
「勘違いしてしまいますからね」
勘違い⋯⋯何を。
神官様は顔は笑っているが瞳の中は全く笑っていない。それどころか何処か嫌悪感を滲ませている。
何を考えているのか全くわからない。
教会が居心地が良いといいながら、自分にはその暮らしが難しいと言う。
難しくさせる要因が彼にある、ということなのか。
それが彼自身⋯⋯というよりも自分の意思とは反する所でやらなければいけない何かが存在するような口ぶりだ。
「そうそう先程の質問ですが、あなたといる必要がなぜあるか、でしたか。そうですね、では愛に目覚めたから⋯⋯では駄目ですか?」
「そのように責任感のないことを言う人だとは思えませんでしたが。⋯⋯何かもっと違う目的があるのではないですか」
神官様を真っ直ぐに見据える私に、神官様は紫の瞳を細めクツクツと可笑しそうに肩を揺らす。
「本当にあなたは凄いですね。その真っ直ぐな瞳に、人柄に惹かれていることは嘘ではありません。本当にあなたとこのまま暮らしたいとさえ思っていますよ」
「では、目的はやはり私と駆け落ち⋯⋯ではありませんよね」
私が神官様の瞳から視線を逸らさずに言うと、神官様は「ほう」と小さく呟く。
そして椅子から立ち上がるとゆっくりと私の元へと歩み寄る。
徐々に近づく神官様から逃げようと、壁をつたってジリジリと移動する。
その時ふと何かに気付くように、神官様の視線が僅かに窓の外へ向けられた。
今だ!
ドアの方へと逃げようと足を踏み出す。
しかし。
──ドン
私の身体を覆うかのように正面に立った神官様は、両手を私の顔のすぐ脇の壁を叩きつけるように置いた。
「なっ、何を!」
辛うじて身体に触れはされていないが、あまりに近い距離に恐怖を感じる。
足がガクガクと震えるのを感じるが、何とか踏ん張り立っている状況だ。
「流石ですね。えぇ、目的はありますよ。
ただ、残念ながらその説明をするには時間がないようです。どうやって調べたのか、思ったより大分早い到着でしたね」
神官様は体勢はそのままで、顔だけを動かすとドアへと鋭い視線を向ける。
その時。
家が僅かに軋む様な衝撃と共に、大きな音が耳をつんざく。
部屋のドアが蹴破られ、思わずその音に目を固く瞑る。
そして数人分の足音に何が起きたのかと目蓋を開け音の先を見つめる。
「ラシェル!」
「あっ⋯⋯殿下!」
あぁ、殿下だわ。考えなかった訳ではない。でも来てくれるなんて都合の良いこと起こる訳がないと何処かで諦めていた。
でも殿下は来てくれた。
「貴様! 何をしている!」
殿下は真っ直ぐに私の元へ駆け寄ると、神官様の頬を力一杯に殴る。その衝撃で神官様は近くの椅子にぶつかり床に倒れ込む。
そして殿下はすぐに私に怪我がないか顔や肩、指の先を確認するかのように触る。そして怪我がないと分かると、強く強く私を抱きしめた。
背中にまわる腕が僅かに震えているように感じる。そして私の肩に押し付けるように置かれた殿下の顔から、ふぅっと安堵のようなため息が聞こえてきた。
私も殿下の顔を一目見るだけで気を張り続けていた心が一瞬緩み、感極まったように瞳から一粒の涙として出てしまった。
暖かい。
殿下の腕の中は《大丈夫だ》と言っているような安心感をくれる。
足の震えはまだ止まらない。だが先程までの不安が一気に消えていくようだ。
そして殿下は顔を上げた後、私の顔を覗き込むように見つめる。涙に気付いたようで、はっと息を飲む様子が見て取れた。すぐに神官様へと視線を移し、かつて見たことがないほどの鬼の形相で睨みつけた。
「貴様、ラシェルに何をした!」
「見てわかりませんか? 恋人達の逢瀬を邪魔する不届き者はあなたの方ですよ」
「何を! 人の婚約者に⋯⋯」
「その婚約もいつまで続くのやら」
「くっ⋯⋯」
神官様は唇の端が僅かに血が滲むのを指先で拭い、よろけながらも立ち上がると馬鹿にするように鼻で笑う。
その様子に殿下は眉間に皺を寄せて不快感を露わにする。
二人が睨み合うなかで、この状況に合わない軽い声が部屋に響く。
「はいはい、ちょっと落ち着こうか。そこの神官もね」
テオドール様は神官様の顔を覗き込んで、ははっと笑うと「派手にやられたな」と呟いた。
テオドール様の後ろでは、ロジェが私の姿を見て安堵したかの様に眉を下げる。そして直ぐにキリッとした表情で神官様を警戒するように視線を厳しくする。
更にシリルまでもが駆けつけていたようだ。蹴破られたドアを引きつった顔で眺めると、入り口付近でそのまま立って控えた。
「落ち着いてなどいられるか! こいつがラシェルを連れ去ったのだぞ。即刻、牢屋に入れてやる」
「出来るものならどうぞ」
未だ睨み合う二人を宥めるかのように、テオドール様は二人の間へと立つと殿下の肩をポンポンと叩く。
その時。
『ニャー』
「クロ!どうしてここに」
テオドール様の足元から鳴き声がし、視線を向けるとそこにはクロの姿が。名を呼ぶと、クロは私の足元に寄ってきた。
緩まった殿下の腕から身体を離し、私はしゃがんでクロを抱き上げる。腕の中で大人しくしているクロの身体に鼻を寄せると、クロからお日様のポカポカとした暖かい香りが感じられる。
あぁ、何て落ち着かせてくれるのかしら。
変わらず愛らしい様子のクロに、先程まで強張っていた頬が緩むのを感じた。
そんな私の様子を見たテオドール様は口角を上げて優しく笑う。次いで殿下と神官様へと視線を動かすと、目つきを厳しく釣り上がらせた。
「ラシェル嬢が絡んでいるとはいえ、ルイはもう少し冷静になれ。
それとそこの神官。君も無駄に煽る真似ばかりするのは止めろ」
諌められた殿下は悔しそうに口を噤む。
逆に神官様は気にする様子もなくつまらなそうに殿下を眺めた。
「さっ、落ち着いた所で本題にいこうか。
まずは君がラシェル嬢を攫った目的でも教えてもらおうかな」
「⋯⋯簡単に話すとでも?」
「話すよ、君は。
だってここに俺たちを誘き寄せたのは君だからね」
「「は?」」
「え?」
テオドール様の言葉に殿下とシリルの声が重なり合う。
そして、ロジェもまた驚いたように目を見開いてテオドール様を見つめた。
「大体は把握しているよ。
さぁ、君の計画を話してもらおうか」
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