3−24
「あの……テオドール様、手に何か。……えっ?」
その時、ずっと腰元に手を当てていたテオドール様の手が、赤く染まっていることに気づく。
魔術師の黒いローブで気が付かなかったが、もしかしたらかなりの深傷を負っているではないだろうか。
「テ、テオドール様……。傷を……傷を見せていただけませんか」
震える声でそう告げた私に、テオドール様は何の反応も示さなかった。あまりに不自然な程。
「あの、傷を……。テオドール様?」
テオドール様が私の言葉を何度も無視したのは、おそらく心配を掛けたくないからとか、傷を知られたくないからとかではない。
だって、そうであればテオドール様であれば、聞き返すことや冗談で返してくるはずだから。
サーッと背筋が凍え、ガツンと鈍器で殴られたような衝撃に、私は思わず立ち竦む。
――いつから? もしかして、テオドール様は今、私の声が聞こえていない?
「あいつが諦めるとでも?」
なぜ気がつかなかったのだろう。
何度も呼びかけても、テオドール様は微笑みながら、私を安心させるように落ち着いた声で私に語りかけ続ける。
「テオドール様、テオドール様! 私の声が聞こえますか? 今、私が見えますか?」
テオドール様の真正面に座り、必死に声を掛ける。
だが、テオドール様の視線の先は、語り掛けている場所は先程まで私がいた場所。
そこには私はいない。
「大丈夫、始祖龍の生まれ変わりだか運命だか何だか分からないが、あいつの執着の方が遥かに重いよ」
時折苦しそうに眉を顰める以外は、いつものテオドール様と同じ。少しからかい半分に軽口を言いながら口角を上げる表情。それだけを見れば、いつもと同じなのに。
私は叫ぶように呼び掛け続けた声が枯れ、口に手を当てて、呆然と声を失った。
なんで、なんでこの状況でこんなにも優しく微笑むことが出来るの。なんで、テオドール様……。
「君には指一本も触れさせない」
「お願い。テオドール様、もう喋らないで……」
溢れてくる涙を止める術もなく、私は顔を覆った。
これが本当に現実に起きていることだなんて信じられなかった。
目の前にテオドール様はいるのに、何も出来ない自分の不甲斐なさに苛立ちを覚える。
だが、テオドール様の声が止まり、急に沈黙になったことで、私は嫌な予感にハッと顔を上げる。
テオドール様は、苦痛に顔を歪めることもなく、ぼんやりとどこか遠くを見つめていた。
「あぁ、でも流石に少し眠いかもな」
「テオドール様、どこにいるのですか! すぐ、すぐそちらに……」
慌てて立ち上がり扉へと向かう。ガチャガチャとドアノブを回すも、やはりドアは開いてはくれない。
――なんで、なんで開いてくれないの!
今すぐここから出て、テオドール様の元へと駆け付けたいのに。それさえ出来ないなんて。
自分の無力さに苛立ち、頑丈なドアをガンッと力一杯に叩きつける。拳を握った手はジンジンと痺れるが、痛みは感じない。
ポロポロと涙が溢れ流のを、腕で拭う。
――泣いている場合じゃない。……今は一刻も早く、ここから出なくては。
何度も何度も扉を叩き、開けてくれと叫ぶ。
だが、扉の外からは何の音もせず、私の叫び声だけが響き渡った。
その場に崩れ落ちるように膝を折った私の背後から、「大丈夫」と静かな声が語りかけた。その声に振り返ると、目を瞑ったテオドール様は、フッと優しい笑みを浮かべた。
「俺は死なない。ただ……ちょっと眠るだけだ」
「……テオドール様?」
私の消え入るような小さな呟きに、さっきまで固く閉じていたテオドール様の瞼は、ピクッと動く。
僅かに開いた瞼は今私がいる場所を見つめているようで、私は歓喜の声を上げる。
「テオドール様! 分かりますか、ラシェルです! ここです!」
テオドール様がこちらを見ている。あぁ、きっと大丈夫だ。
慌ててテオドール様の元へと駆けつけると、今度は安堵から涙が止まらなくなる。
涙を拭うことなく、テオドール様の名を呼ぶ私に答えるように、テオドール様はギュッと眉を寄せた。
「あぁ、どうした?」
「どうしたって、だって……テオドール様が……」
「……あぁ。後でまた遊ぼうな、ラシェル」
まるで幼子に語りかける兄のように、薄目を開けながら優しく微笑むテオドール様は、こちらに手を伸ばした。
だが、その手は私に届くことなく、ゆっくりと淡い光の粒となり消えていった。
「テオドール様? ……テオドール様!」
消えていかないで。
だって、このまま消えてしまったら、テオドール様が無事かどうかさえ分からない。
私は消えていった光の粒の最後のひとつに手を伸ばす。
けれど、無情にもその最後のひとつもキラリと光った後、跡形もなく消えてしまった。
頭の中で、テオドール様が消える前に見せた優しい微笑みと、私を《ラシェル》と親しみを込めて呼ぶ声が何度も何度も繰り返される。
あの表情も、あの声も。私の中の、遠い記憶の中にある。
――あぁ……そうか。なんで忘れていたんだろう。
そうだ、テオドール様は……あの人によく似ている。
幼い頃、おばあ様と一緒に遊びに行ったお屋敷で、よく遊んでくれた優しいお兄さん。
いつも私の我儘を仕方ないというように笑って付き合ってくれて、おばあ様が亡くなった時にはずっと寄り添ってくれていた温かい人。
一度思い出して見ると、次々とぼんやりとした記憶が溢れ、鮮明に色付き始める。記憶の中にある、誰よりも優しいお兄さんとの思い出を。
記憶を辿っていくと、まるで絵本のように、頭の中に色んな場面が浮かび上がってきた。
その人が、本を顔に被せて眠っている姿や、屋敷の噴水の水で沢山の動物たちを作り出す魔術を見せた姿。
陽に反射して影を作るその人をしっかりと思い出そうと目をギュッと瞑ると、脳裏に浮かび上がるその人の姿が徐々に変化していく。
頭の中でその後ろ姿が、誰かに呼ばれたように、ゆっくりと振り返った。
陽に浴びた銀色の髪をキラキラと反射させながら振り返ったその人は、誰かに答えるように手を上げると、赤い目を優しく細めた。
――その姿は、今よりもずっと幼いテオドール様その人だった。
愕然としながら目を開ける。
けれど、そこには先程まで幻としてでも存在していたテオドール様の姿は、もうそこになかった。まるで初めから存在していなかったように。
なんで、気づかなかったんだろう。
ルイ様の婚約者として紹介された時、テオドール様は初対面とは思えない程に親しみを込めた笑みを浮かべていた。
ネル様が見せてくれた私の死後、真っ先に森に駆けつけたテオドール様は、私の遺体に優しく自分のローブをかけてくれた。
魔力を失った後も、領地に行く時も、闇の精霊の謎に迫る時も、いつだって側で優しく見守っていてくれていた。
何故、初対面からこんなにも親しく接してくれるのだろう。
何故、あまり関わりのなかった前の生で、死に際に駆けつけてくれたのだろう。
何故、いつだって側で見守り助言をくれたのか。
思い出すチャンスはいつだってあるのに。私はテオドール様の優しさに甘えて、それをしてこなかった。
いつも私の前に現れる大きな背中は、あまりにも偉大で、優しさに溢れているというのに。
――テオドール様、もしかしたら……あの時から、ずっと見守ってくれていたのですか?
そう聞きたいのに、私の声から漏れるのは、嗚咽と共に繰り返し漏れる、懺悔の言葉だった。





