ソヴィエト虹の橋を渡る
1996年から配備が始まった、ジャベリンというアメリカ軍の対戦車ミサイルがあります。これについて、2012年にアメリカ陸軍公式サイトに掲載された記事を見つけました。ハワイでアメリカ第25歩兵師団の兵員が訓練コースを受けている様子の取材です。
Javelin training provides skills, sustainability for 'Warrior' brigade
By Sgt. Robert M England, 2nd BCT, 25th IDFebruary 22, 2012
ttps://www.army.mil/article/72878/javelin_training_provides_skills_sustainability_for_warrior_brigade
記事によると、取材された訓練コースはジャベリンの取り扱いに関する80時間コースで、受講者が戦友に隊内講座を開くことを前提とした、指導者講習が含まれています。それによると再利用可能な照準器は12万5千ドル、撃つとなくなるミサイル本体は7万ドルです。輸出向けだともっと高いようですね。
1972年から配備が始まったフランスのミラン対戦車ミサイルは、当たるまで発射機を目標に向けていなければならない、初期の誘導ミサイルです。イギリスの防衛関係の出版社がやっているサイトによると、いつの話だかはっきりしませんが、イギリス軍はミサイル一式(ミサイルと発射機)を1万2千ユーロくらいで買っているとのことです。1万3千ドルくらいですね。
ttp://www.armedforces.co.uk/army/listings/l0040.html
カンボジアでRPG対戦車ロケット弾(成形炸薬弾で誘導システムなし、RPG-7は1961年ソヴィエト軍が配備開始)を2020年に撃った人の体験談がアームズマガジンのサイトに載っていますが、1発(不発はノーカンで)300ドルであったようです。海外の旅行記にも「カンボジアで300ドル」の体験記が見つかります。まあ信頼性の高い弾薬はもっと高いのでしょうが。至近距離で撃ったRPGが不発ではたまりませんね。
誘導装置が加わった近代的な対戦車兵器は、「撃つだけ」の兵器に比べて高価になります。それも最新式ほど高く、悲しいマラソンの一種です。
「collapse soviet defense burden」で検索すると、ソヴィエト崩壊前の文章も含め、多くの記述が見つかります。それが主なソヴィエト崩壊の原因だという人はあまりいないとしても、数ある要因のひとつだと考える人は多いのです。
とくにICやLSI、コンピュータ、ネットワークといった分野で、西側世界は1970年代以降に爆発的な発展を経験しました。東側が性能的に同等な兵器を用意し続けようとしたら、不可能なものもあり、劣った代替品で無理をすることがあり、ゴルバチョフが行き詰まりを自認したとしても不思議ではありません。
いっぽうアメリカは、欧州や中東に有力部隊を張り付けつつ、様々な地域に派兵できる部隊を必要としていました。カーター政権は「緊急展開部隊(RDF)」を創設しましたが、これは実際には中東を主眼とした兵団であったので、中東と中央アジアを担当する司令部であるアメリカ中央軍(USCENTCOM)に改組され、ただし張り付けられた実戦部隊はほとんどないものになりました。様々な所属の様々な特殊部隊が増設され、次々に緊急派遣されました。
※2025年6月追記 イラン時間で6月23日、イラン核開発施設などへのイスラエル・アメリカからの攻撃への報復として、イランはカタールのアル・ウデイド米軍基地を攻撃しました。このときUS Central Commandはフロリダ州タンパに司令部があり、ここに前進司令部を置いていました。
予算と輸送能力の制約で色々あり、いつもいつも特殊部隊というわけにいかず、火力の低い軽歩兵師団(LID)が構想されました。ソマリア内戦の国連部隊で活動した第10山岳師団(軽歩兵)、ニカラグア内戦とコントラ支援でホンジュラスに2個連隊を出した第7歩兵師団(軽)などがあります。有力な戦車部隊や航空勢力と戦わずに済む限り、この編成は任務に十分なものでした。
グレナダやフォークランドを陸戦中心に見ると、ハウスの描くように、(事前を含む)連係ミスや突発事態による部隊の孤立・支援欠如が起き、参加部隊が試されました。
専門部隊を旅団以下から師団・軍団直轄部隊に移しつつ、イギリスも西ドイツもますます高価になる精鋭部隊を整備しました。西ドイツは英仏が練習機として開発したアルファジェットを軽攻撃機として採用し、A-10の代わりをさせました。英仏は同様の軽攻撃機としてジャギュアを使いました。「大戦略」シリーズの主に緑陣営でおなじみの機体ですね。
エアランドバトルは、ソヴィエト軍・ワルシャワ条約機構軍にとって重すぎる課題でした。伝統的な突破用第2波、第3波を先制してツブすぞと言われても、量的質的優勢でそれを跳ね返せないのであれば、どうしようもありません。ですから密集した精鋭部隊が戦果拡大を図るという類の構想は捨てねばならず、均質的な部隊群が戦線に向かって全速力で走り、たまたま近くにいた友軍と戦闘群を組んでNATO部隊と航空支援の難しい近接戦闘に入る……という虫の良いシナリオを追求するほかなくなりました。もちろんその虫の良さを試されないうちに、幸か不幸かソヴィエト連邦は「加盟国がなくなってしまった」のです。
ここでハウスは時計の針を戻し、イラン・イラク戦争について語ります。イラクは色々な点で優勢なはずでしたが、勝ちきれませんでした。ハウスはその原因を、イギリス連邦軍以来の悪しき伝統に求めます。柔軟性とスピードを欠いていたというのです。パーレビ国王が買い集めていた最新兵器、とくに航空機はまだ動くものも多く、イラクの物資と生産拠点、そしてもちろん航空部隊そのものに大きな損害を与え、イランの動員を間に合わせてしまいました。そして様々な思惑から、アメリカ製品を含む各国の武器がこの地域に集まりました。ですからこの戦いのカギとなったのは、諸兵科連合の優劣などではないというのが実態でしょう。
ハウスはこの後、第9章で1990年代の出来事を短く語って締めくくります。次回でこの長い物語も終わりです。




