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色々あった70年代(詰めすぎ)

 例えばロンドン軍縮条約では主砲15.5cmを越える甲巡の総トン数が厳しく制限されていて、20.3cm砲の甲巡はそれに満たない乙巡や駆逐艦に砲戦で必ず勝てるとしたら、乙巡枠でいったん建造された最上型に20.3cm砲を積み直すのは(甲巡を増やすには時間がかかるので)大きな戦力アップになったはずでした。同様に28cm砲を積んだドイッチュラント型装甲艦の登場や、日本が似たような艦を建造するという誤情報は、アメリカに30.5cm砲のアラスカ級巡洋艦(巡洋戦艦)を作らせました。ケモノはエサであり、ケモノが増えるとそれを食うケモノが増えるのです。


 1967年の軍事パレードで姿を見せたソヴィエトのBMP-1は、歩兵支援用の73mm砲と対戦車ミサイルを備えた歩兵戦闘車で、核兵器やBC兵器から歩兵を守れる密閉車体とエアフィルターを持っていました。第4次中東戦争やアフガン侵攻では様々な問題点が噴出したのですが、パレードしている姿はりりしく、開発中であった西ドイツのマルダーIをはじめ、アメリカのブラッドレーなど同種の車両が登場することになりました。


 備砲を巡るああでもないこうでもないという海軍の模索と同様に、この種の車両は戦闘力を高めると歩兵の居心地が悪くなって軽戦車になってしまい、予算を削ると脆弱な装甲兵員輸送車に戻って、誰もが満足するバランスが見つからない宿命があります。加えて、対戦車ミサイルを持ったことで開けた地形の戦車戦では「真っ先につぶすべき敵」にもなり、第3次中東戦争ではBMP-1が多数撃破される一因にもなりました。一方で、攻撃力・防御力共にどんどん膨れ上がって大型化するMBTは幅や重量で通れないところが増えてきましたから、限られた戦闘力と限られた重量の装甲車両は、どんな名称であれ、一定の価値と必要性があるのです。例えば第26部分「対戦車道」で触れたBMPTは、接近する歩兵の駆逐に特化する並行進化を遂げましたが、歩兵を車内から追い出して一種の軽戦車になってしまいました。


 そんな話を前置きにして、第4次中東戦争の話を始めましょう。


 北のシリア軍、南のエジプト軍は、イスラエル目掛けて同時に攻めかかりました。アラブ側には準備があり、イスラエル側には油断があって、対応が遅れる間にイスラエル軍は大きな損害を出しました。アラブ側のMig-21はこの当時それほど旧式とも言えないのですが1956年導入のMig-17もまだ飛んでいて、空中戦ではイスラエル空軍が大きく有利な損害比を記録しました。反撃に出たイスラエル軍は、スエズ運河付近で待ち伏せていた対戦車ミサイルと対空ミサイルのせいで大きな損害を被ることもありましたが、南北それぞれで失地を回復しました。最終的には米ソそれぞれが部隊出動準備をする中で、ソヴィエト参戦の可能性を見たイスラエルは停戦を受け入れるしかなくなりました。


 ハウスはこの戦争の記述を、イスラエル軍の戦車と戦闘機への過剰な期待、他の兵種・兵器の軽視から書き起こしています。あとから考えると、「戦車を倒せるのは戦車」という当時のイスラエル軍人の通念は、「自分たちがかき集め懸命に改修した戦車群はアラブの戦車を打ち破ってきた」ことから来ていて、相手がこれからそうするとは限らないのでした。第1次大戦の勝ちパターンにこだわったフランス軍が1940年に不愉快な答え合わせを強いられたこととを想起させます。


 そして、1956年のスエズ動乱でエジプトが英仏と袂を分かって以来、エジプトを始めとするアラブ諸国はソヴィエト製兵器を受け取って来たものの、エジプトを指導するサダトは「イスラエルを打ち破れるほどの我が戦力ではない」と見切り、「敵に回すと損だとわからせ、戦後交渉でシナイ半島を奪還する」という限定的な戦争目標をひそかに立てていました。


 かつてソヴィエト軍はドイツ軍を真似た両翼包囲、あるいはしばしば片翼包囲を企て、突破失敗を繰り返してきました。空の優位や、部隊間の信頼関係が欠けていると、似たような編制の部隊だけ持っていても、真似はできないのです。しかし今回の限定された戦争目的に照らして、突破は不可欠ではない……とエジプト軍は気づきました。人口の少ない、補充の難しいイスラエル軍に、大きな人的損害を与えれば、土地については交渉できるのです。それが、ミサイルの網による罠だったのです。キャンプデービッド合意、反対者によるサダト暗殺と、このエジプトの思惑は発展し、脱線していきますが、ここではここまでといたします。


 1973年10月に始まり、月をまたがずに終わった戦争の教訓を受け止めるアメリカ軍の責任者は、訓練教義コマンド(TRADOC)司令官のデピュイ大将でした。アメリカ軍は1973年1月のパリ和平協定でアメリカに取ってのベトナム戦争を終わらせ、3月に軍事顧問団を残して部隊を引き上げたばかりでした。


※デピュイはTRADOC発足と同日の1973年7月1日付で大将になっています。ジョージ・ワシントンが陸軍大将就任を固辞して中将にとどまったため、アメリカ陸軍は大将や元帥への昇進に比較的慎重でした。アメリカ軍はその後ついに抜本的解決に踏み切り、1976年になってジョージ・ワシントンを陸軍大将に死後昇進させました。


 Active Defenseというキーワードでくくられるデピュイ流のドクトリンは、「戦車も有効だが対戦車ミサイルも有効で、最初に互いに大きな損害を出す」という第4次中東戦争の現実から始まり、西ドイツを見捨てて逃げるわけにもいかない在欧アメリカ軍に戦力比の悪い戦争への覚悟を求めるものでした。しかしエジプト軍の経験から、備えて迎える側には通説通り1:3くらいの利があり……という、まあアメリカ軍に一番自信がなかったころのドクトリンで、何よりも「勝利への道程」が示されていません。アクティブディフェンスと言っても「頑張れ。君も守れる」程度の聞こえ方をしたかもしれません。


 1970年代はアメリカ軍にとって最悪の年月であったかもしれません。1974年にはエチオピアで皇帝が廃位され、親ソ的なメンギスツ少佐が実権を握りました。1979年にはイランのパーレビ国王が亡命し親米政権が倒れ、その年末には親ソ政権を支えるためソヴィエト軍がアフガニスタンに侵攻しました。ドミノが倒れるように、親ソ的な国と地域が増えているように見えたでしょう。


 1980年選挙でロナルド・レーガンが当選すると、8年の任期内に国防予算は3割以上増えました。少なくともアメリカ軍にとって潮目が変わったのはこのころでしょう。


 低空飛行の得意なF-111爆撃機(空戦性能はダメ)は1964年の初飛行から実用性向上まで長い時間がかかりましたが、ベトナム戦争末期には高い信頼性を得ていました。高速になりすぎた戦闘機は戦場での滞空期間が短く、そこを補う地上攻撃専用機をついにアメリカ空軍も配備することとし、1973年にA-10が制式化されました。さらに1980年、巡航ミサイル・トマホークの発射が成功しました。巡航ミサイルというカテゴリで初というわけではないのですが、1972年の第1次戦略兵器制限条約(SALT I)で制限されない(最初だけ加速する弾道ミサイルではない)無人有翼ジェット機があらためて注目され、水上艦や潜水艦から、必要なら陸上からも撃てるトマホークが開発されました。核弾頭もそれ以外も積めます。


 そして満を持して登場したのが、1982年のエアランドバトルというドクトリンです。しかしハウスはここで1970年代のソヴィエトの動きを挟み込んでくるので、この順に従いましょう。


 ソヴィエトも多少削減したとはいえ、全歩兵にBMP-1を用意できるとは考えていませんでしたが、自動車化ライフル師団以外のライフル師団は1957年に廃止されていましたから、いまやソヴィエト軍全体がある程度機械化軍でした。そしてかつての軍団先遣隊同様、その中でも特に機動力を持つ諸兵科連合部隊として、作戦機動集団(OMG)が構想され、戦果拡張や後方侵入を期待されるようになりました。それらは当然最高の(ソヴィエトにとっても限られた)装備と練度の高い兵員を必要とします。ですからまず諸兵科連合の独立戦車連隊がつくられ、軍レベルの作戦でOMG役を期待されました。


 1961年に初飛行して成功作となったMi-8ヘリコプターは「大戦略」シリーズでもおなじみです。時流の変化で、輸送型から武装強化型が派生し、ガンシップ専業の機体も出ました。最初は兵員も積んでいた後継機のひとつMi-24は、第4次中東戦争後は攻撃ヘリとして運用されるようになりました。輸送機や大型ヘリMi-6で運べる軽量IFVのBMD-1も登場し、戦車軍や戦車師団にヘリコプター部隊が組み込まれる例も増えていました。相変わらずソヴィエト軍は、昔の構想ほど大規模な破孔を期待しないとしても、突破と侵入にこだわっていましたし、それを可能にする機材を追求していました。


 ところが1979年末からのアフガニスタンで、ソヴィエト軍はベトナムのアメリカ軍同様、ゲリラ戦への対策と訓練が欠けていたことを露呈しました。そして当然のように、ゲリラの手にはスティンガー・対空ミサイルなど、アメリカ製の武器が渡りました。


 前話の最後に触れたように、1970年代から電子機器の飛躍的発展がありましたが、1975年にはARPANETの運営がARPAによる研究段階を脱してアメリカ国防情報システム局に移り、IPネットワークがじわじわと世界に広がっていきました。その前段階として、通信回線も自分持ちで「我が社の付加価値通信網」を引くのが流行り、旅行代理店では航空各社の発券端末機を全部は並べられないというので「端末機戦争」が起きたりしました。軍事でも、画像情報を利用する誘導技術の発展にGPS利用が加わり、コンピュータとネットワークが世界を変えていきました。


 さて、エアランドバトルの考え方はこうです。「最初のぶつかり合い」が終わっても、主戦場を選んだワルシャワ条約機構軍は後続部隊を送り出してきます。西ドイツで縦深防御ができないのだとしたら、砲兵でも空軍でも、あるいは間接的な遅延手段も組み合わせて、敵の増援がまだ後方にいるうちに叩こうというのがエアランドバトルでした。中心となったのは、デピュイの後任だったスターリー大将です。


 この考え方に立てば、指揮官はそれぞれの階層に応じて、「次はどうなるか(例:後続が来る)」「次の次はどうなるか(例:次の後続が来る)」と将来のことを予測し、対策を立てる必要があります。これが、第19部分「すいませんね同じ話を何度も」で触れた帝政ロシア以来の「作戦術」の発想と重なってくるわけです。これに伴い「次に来る奴は今どこにいるのだ」と考える必要もあるので、従来より遠くまで縦深空間を意識することも求められました。


 アメリカもようやく、陸軍に建制の攻撃ヘリコプター部隊を置くことを決意しました。ブラッドレーIFV/CFVも登場し、第4次中東戦争前後に突き付けられた宿題の答えがようやく出そろいました。ところが下級指揮官にとって、これは重すぎる宿題であることが実感されてきました。自分の兵器や協力相手の兵器について、覚えることが多すぎるのです。ですから昔の歩兵中隊などとは逆コースで、中隊までの小部隊はなるべく1種類の武器と専門性を持つようにして、出世する士官に必死で勉強をさせて諸兵科連合部隊を指揮させる……という流れになったとハウスは指摘します(325頁)。縦深空間を掘り進む戦場航空阻止について陸軍と空軍は対話を進めましたが、根本的な利害不一致を解消するには至りませんでした。


 1980年代にはまだまだいろいろなことが起きましたが、長くなりすぎたので次回としたいと思います。


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