時利あらずヘリ逝かず ヘリ逝かざるを如何すべき
輸送用ヘリコプターが武装ヘリとなり、やがて専業の攻撃ヘリが登場する道筋は、軍用航空機そのものの発展した道筋に重なります。そしてアメリカ陸軍がこうしたヘリ部隊を持つためには、戦後ついに独立を果たしたアメリカ空軍の抵抗をはねのけなければなりませんでした。陸軍所属のOV-1偵察機は非武装にとどまり、OV-10多用途機は陸軍での採用を見送ったのは、陸軍ヘリ部隊の充実と裏表になっていました。
(陸上部隊に比べて)悪天候の影響を受けやすいことを除いても、やはり武装ヘリ・攻撃ヘリはぜい弱であったようで、砲兵や固定翼機がまず目標地点に一定の制圧攻撃を行って、煙幕攻撃まで行ってから、武装ヘリが最後の一撃を加えるのが標準的な攻撃手順とされました。グライダー降下や落下傘降下と違って、ヘリコプターは偽着陸を容易に行えましたから、攻撃意図や規模を容易に隠せる利点がありました。
アメリカ第1騎兵師団(空中機動)と第101空挺師団には、空中砲兵大隊(aerial rocket artillery、ARA)が配属されました。支援先が定まっていない(軍直轄、師団直轄などの)砲兵をアメリカ軍ではgeneral support artilleryといい、ARAはその一種ですが、UH-1BやAH-1Gなどの武装ヘリに70ミリロケット弾を左右合計48発積み、3個中隊36機で1個大隊でした。これが砲兵の代わりを務めたわけです。
ベトナム戦争では、アメリカ空軍は終始航空優勢を確保したので、こうした脆弱なヘリが活動できただけでなく、空軍も地上支援に相当なリソースを回せました。アメリカ海軍もメコン川の水運を妨害し、友軍の河川交通を保護するため、"Seawolf"ヘリコプター攻撃中隊を運用しました。
1965年の改編で誕生した第1騎兵師団(空中機動)は、ヘリコプターと融合した師団でした。全ての歩兵を同時にとはいかないものの、複数の歩兵大隊を同時に運べるだけのヘリコプターが配備されました。同時期に編成された第1航空旅団(1st Aviation Brigade)は最大で16個大隊、4000機以上の航空機を運用しましたが、航空機に慣れていない部隊を臨時に運ぶ任務には、戦車と歩兵の協力で生じてきたような摩擦や困難がありました。
第1騎兵師団(空中機動)をはじめとするヘリボーン部隊は大きな成果を挙げ、あちこちを転戦しましたが、大きな犠牲も出しました。ハウスはふたつの課題を指摘します(279~280頁)。ベトナム軍のAK47自動小銃に弾数で撃ち負ける傾向も手伝って、陸上部隊が潤沢な航空支援を求めることが習慣化したことと、所在のはっきりしない「敵らしきもの」への無駄な射撃が増え、それが民間人被害の元にもなったことです。
1957年から部隊配備が始まったM60軽機関銃は、ようやくBARを置き換える分隊火器でした。7.62mm弾の高威力・長射程、容易な銃身交換とベルト給弾可能で得られる長時間戦闘能力など満を持して数十年の遅れを取り戻す兵器でしたが、古き古き良きBARと比べてはいけないにせよ、BARと比べると複雑で故障しやすいと言われました。
ベトナム派兵が始まったころ、陸軍の小銃は20連発、7.62mmのM14自動小銃でした。ジャングルでは銃身の長さが仇となる反面、それがもたらす長射程は利点になりませんでした。20連発にしたものの、反動の強さから連射は困難でした。5.56mm弾を使うM16自動小銃は1962年にまず空軍が採用し、1964年から陸軍が配備を始めました。これはこれで色々問題があったのですが、ようやくアメリカ軍はAK47に弾数で撃ち負ける感覚は持たずに済むようになりました。
ハウスは、ベトナム共和国軍(南ベトナム軍、ARVN)が北ベトナム軍の補給路「ホーチミンルート」を攻撃するためラオスに侵攻した1970年の「ラム・ソン719」作戦について詳述しています。アメリカ議会がラオス・カンボジア攻撃へのアメリカ軍参加を禁じた一方、アメリカ政府はアメリカ軍と軍事顧問抜きで、ARVNにそれをやらせようとしていました。1970年12月29日までにアメリカ両院は少しこの規制を緩め、空爆はその限りではないものとしましたが、陸上では兵質劣悪なARVNが戦うしかありませんでした。しかし北ベトナム軍は「ラム・ソン719」の目標地域に対空火器をみっしりと配置したうえ、戦車もいて、当時の武装ヘリコプターは対戦車能力は高くありませんでした。ARVNは航空支援不足で、反撃でも撤退中の追い撃ち・待ち伏せでも大きな被害を出したうえ、ARVNとアメリカ合わせて107機のヘリコプターを失いました。政治面や、長期的な影響を脇に置いて戦術的に見れば、ヘリコプター作戦の脆弱さを強く印象付ける戦例になりました。
ハウスがなぜ第7章の範囲を1972年までにしているかというと、1973年には(第1次オイルショックを引き起こした)第4次中東戦争があり、そこでいろいろ変わったからです。第7章の残りは、ベトナムでの戦例を横目に欧州などで進んでいた各国の模索を扱います。ですからアメリカはこのまま、ナレ死するようにベトナム戦争から手を引き、ベトナム共和国は滅亡してしまうのです。




