そこに戦術核があるじゃろ?
アイゼンハワーは1952年の大統領選挙に勝ち、1953年1月から1961年1月まで大統領でした。ですから任期中にベトナム戦争の拡大を経験したことになります。
世界各地の西欧植民地独立は、一度に起きたわけではありません。「アフリカの年」と呼ばれる1960年に独立したアフリカ旧植民地の過半はフランス領でしたが、それを認めたドゴール大統領は、アルジェリア独立をめぐる軍や現地フランス人の独立反対を抑えきれず、政変が起きて就任した大統領でした。アルジェリア自体はフランス国内に手放したがらない勢力がいて、1962年に独立が(従って武装闘争が)ずれ込みました。逆に、インドとパキスタンの独立は1947年に断行されましたが、イギリスのアフリカ植民地は南アフリカ、ナイジェリア、ソマリランドを除いて、1961年以降の独立です。
※ドゴールは首相に担ぎ出された後、憲法改正を国民投票で認められ、国民議会選挙で多数を取った後の1958年大統領(間接)選挙により大統領になりました。そのあと再び憲法改正があって、この選出方法はこのとき限りになりました。一部の勢力が期待したほど独立運動に強硬ではなかったので暗殺未遂事件が起きたことは、1973年の映画「ジャッカルの日」の主題になっています。
1954年に北ベトナム(ベトナム民主共和国)とフランスがジュネーブ協定を結ぶころには、中国とアメリカが関心と関与を強め、前部分「戦争がまた終わって冷戦が生まれた」と同様に、ここでも小型核爆弾でディエン・ビエン・フーを攻撃するなど、核戦争につながる提案がアメリカ軍で上がりました。それは見送られたものの、南ベトナム(ベトナム共和国)は反共産主義政権として成立し、アメリカがバックアップしていくことになりました。
ある意味で朝鮮戦争に懲りたというべきでしょうが、アイゼンハワーは武器弾薬などの援助と軍事顧問団の派遣にとどめ、ベトナムへの正規軍の派遣や空爆は避けました。ですから前後の大統領と比べて核使用イケイケだったわけではないのですが、とくに政権初期には東ヨーロッパの解放を目指す「巻き返し(ロールバック)」を口にするなど、戦略核を重視する姿勢を見せました。フルシチョフは平和共存の姿勢を取り、マクロ的な緊張はむしろ弛緩したのですが、アメリカ陸軍は「核戦争時代にふさわしい師団編成」を示す必要が出てきました。すでに1954年からMGR-1オネストジョン・戦術核ミサイルが実戦配備されていました。これは5トントラックの上にミサイル1発と発射台が収まるもので、実際にいくつかの歩兵師団に配備させることになりました。
こうして検討され、1957年から順次改編が行われたのがベントミック師団で、その眼目は敵の戦術核に備え、分散して移動・戦闘できることでした。そのため歩兵大隊と連隊が廃止され、5つの戦闘群本部が措置されました。5つに分かれることがベントミックの名の由来です。
これはカッコいいのですが、5つの戦闘群が戦闘報告を上げてくるのを読みこなし、師団リソースを合理的に配分するための負担は師団司令部にズシッと来ます。しかし有力な敵が現れたら、「師団直轄砲兵旅団に、オネストジョン大隊があるじゃろ?」というのがベントミック師団なのです。陸上部隊が主役になることを前提としない編成なのです。
もうひとつベントミック師団には特徴があります。APCが輸送大隊(ハウスの269頁図17、車輪のようなマークと大隊を示す2本の短い縦棒)に集中配備されているのです。1個戦闘群をM59などのAPCで運べるだけの数がありましたが、一体となって戦闘するのにAPCがその場限りのチームメイトというのは連携に不安があります。しかし「密閉された車両」は核の撃たれた戦場では生存に関わるのですから、「戦闘の都合よりも高度な判断」でそのつど配分されるのは仕方ないでしょう。
ですからケネディ時代、ジョンソン時代に入り、核兵器がおいそれと使えないことが共通認識になると、このやり方は捨てなければなりませんでした。ケネディ政権下で改編が始まったROAD師団は、3個旅団司令部をより充実した戦闘群司令部として持ち、師団編成そのものを任務に合わせて変えることを含め、自由な兵力増減に堪えられる組織とされました。もちろんそれを実際にすり合わせる困難は、現場が汗と冷や汗を払い、しくじれば血を支払うことになったのですが。そしてこの編成は、いよいよ正規軍が投入されたベトナムで、試されることになりました。




