空地連携の前売券と当日券
大戦が始まったころ、ドイツ歩兵大隊の通信班は各中隊本部まで、無線や野戦電話をつなぐことができました。大戦中期ごろから、アメリカの同種装備よりも重くてかさばるものでしたが、中隊本部通信班ができて各小隊本部まで無線がつながるようになりました。つまり大戦中期までは、オートバイ中隊が何かに気付いても、中隊本部まで伝令を走らせないと報告できなかったのです。
偵察隊がこの調子では不便ですから、第14部分「さらば戦車兵総監部」で触れたように、イギリス軍は歩兵師団の偵察隊に固定武装のない、あるいはあっても機関銃どまりの偵察車を配置しました。武装はしょぼくても、無線機は積んでいて、偵察車まで歩兵が走れば上への報告はできたのです。アメリカ軍のジープに乗った偵察隊も、次第にスカウトカーやハーフトラックに置き換わったとはいえ、同様に車載無線機で(全部についていたわけではないでしょうが)戦車部隊や戦車駆逐部隊と交信できました。ドイツの偵察装甲車も、中には交差点などを隠れて見張り、後方へ無線で定時報告をするような任務もあったのです。
ドイツ戦車部隊から見て、装甲兵員輸送車は無線機で話ができる相手でした。しかし例えば、対戦車砲部隊はそうではありません。ドイツ戦車を追ったら対戦車砲の巣に突っ込んだ……という話は北アフリカのイギリス戦車部隊に時々起きたことのようですが、これはおそらく「こちらスネーク。今どこにいる」といったリアルタイムのつながりではなくて、指揮官同士が打ち合わせをして、あるいはその上の戦闘群長が共通の命令書の中に互いの行動予定を入れて、「前日までに」伝わっていた情報によるのだと思います。
特に、互いに命令関係にない相手との協力では、こうした「前日まで(行動開始以前)の情報共有」があると円滑です。急場の要請は、予定されたリソース配分に割って入ることになり、どうしても指揮権への介入になるからです。ハウスはフィリピンで戦車長たちが砲塔を出て周囲の歩兵と話すことに踏み切り、負傷者を出しつつ円滑な協力・信頼関係を築いた例を挙げています(216~218頁)が、それは日頃の共同訓練と前日までの打ち合わせが足りないところを血で補ったようにも思えます。
まさに、北アフリカでアーサー・カニンガム空軍中将(イギリス砂漠空軍司令官)とモントゴメリーの築いた協力関係は、この「前日までの情報共有」の模範で、大戦中期の到達点でした。互いに司令部を隣接させ、翌日の協力について毎日協議するので、作戦目的や優先順位、主なリスクの所在といったものも伝わるのです。爆装して出撃したら目標が見つからなかった……では困りますから、例えば敵を現地で探す後方移動妨害には少数の機体であたり、鈍重で積載量の多い爆撃機には護衛もつけて、それに適した目標をあてがう必要がありました。ドイツ空軍も、戦術偵察では戦前の約束通り、陸軍の上級司令部に細かいオーダーを出させ、むしろ空軍士官の小さなチームをあてがって円滑に実施できる命令書作成協力までしましたが、地上攻撃や上空制空については一切陸軍に直接指示を出させませんでした。
アメリカ陸軍航空隊も、イギリス空軍も、陸軍地上部隊からやいのやいのと対地協力専門部隊の創設をせっつかれました。「航空優勢確立が優先だ」というのが航空部隊側の決まり文句でしたが、アメリカは何といっても海軍航空隊に急降下爆撃機があるので、それを陸軍で使うことがいくらか試みられました。細かいことを言えばイギリス空軍にだってヴァルティ・ヴェンジェンス(アメリカ側の呼称でA-31)があり、一定の成功を収めています。しかし第22部分「ノルウェーとフランス」で触れたように、急降下爆撃機はもう空での生残性に問題があり、その点では双発軽爆撃機も対空砲に守られた敵陣地には近づけず、爆弾やロケット弾を積んだ戦闘機がアメリカやイギリスの敵陣地航空攻撃(最も狭い意味での地上支援)を引き受けました。
世界中の多くの士官たちが、最前線から状況を伝える空軍士官チーム(無線機付き)という道具立てを思いつきました。ドイツ空軍のものは指揮官を空軍連絡士官(Fliegerverbindungsoffizier、フリフォ)、チームを空軍通信連絡隊と呼ばれるようになりました。
さてここで問題です。このフリフォはどれくらい偉いのでしょうか。偉くないんだったら観測報告、または地上部隊指揮官からのお取り次ぎしかできませんね。誰かが攻撃命令を出すか、あらかじめ委任された攻撃判断を出さねばなりません。明らかに、前日までに話がついていれば簡単になりますね。
近接戦闘指揮官部隊(Nahkampfführer)という名称がドイツ航空部隊の編制史に見え隠れします。航空艦隊か航空軍団に属しており、中には航空師団司令部に改組されたものもあるので、個人ではなくある程度の大きさの、多分通信隊を中心とするチームであったことがわかります。航空師団になるということは、指揮官は大佐か少将であったと想像できます。
これとよく似た名前の戦闘機隊指揮官部隊(Jagdfliegerführer)はいくつも存在が知られていて、ある地域の戦闘機による防空をコーディネートするものです。初期には中尉さんに肩書をつけただけの、たぶん飛行隊の無線機を使うものもありましたが、1940年以降になると大佐や少将が任じられていますし、戦闘機師団への改組例もあります。おそらく近接戦闘指揮官部隊も、通信隊の実体があるものも航空団司令が兼任したものもあって、地域内で緊急に生じた地上支援任務を部隊に割り当て、出撃任務を出す役目だったと思われます。もちろん、この気の張る作業負担を航空軍団長や航空師団長が引き受けるというなら、それでもいいわけです。これを前提として、フリフォは支援要請の取り次ぎと現地報告を行いました。ドイツ空軍の言葉で、こうした敵前線部隊への攻撃をLuftnahunterstützung、後方妨害をAbriegelung (aus der Luft)といいました。
さて、イギリスです。フランスでの失態で、「わが軍にもシュツーカと地上支援専門部隊があれば!!」という陸軍側の報告書が上がり、放置もできなくなってきたイギリス空軍は、フランス派遣航空部隊を末期に統一指揮していたバラット中将を起用して、陸軍協同作戦司令部(RAF Army Cooperation Command)を創設しました。ハウスが書いている(220~221頁)Wann Woodall 実験は司令部創設直前に行われたのですが、それを普及する活動はバラットの司令部がやりました。これはドイツのフリフォや空軍通信連絡隊にあたるチームを、当初はテンタクル(触手)と呼ばれたのですが、前線で運用する実験でした。
ただし空軍は、この司令部が訓練と研究のためのものだと言い張り、「地上支援のための航空部隊」が戦場に出ることを頑として拒否しました。この回の前半で述べたように、北アフリカで現地のリソースとバラットらの研究報告が合わさって、戦闘機部隊(爆装組、護衛組)を中心とする地上支援のシステムが組み上がっていき、イギリス砂漠空軍は第1戦術空軍司令部となりました。いっぽうイギリス本土の陸軍協同作戦司令部は発展的解消をして第2戦術空軍司令部が生まれ、ノルマンディー上陸以降の地上支援を支えていくことになりました。なお空陸対立の渦中に巻き込まれたバラットはその後も訓練司令部を指揮し続け、終戦直後にイギリス空軍査閲総監として遇されることになりました。
ノルマンディー上陸後の大戦末期になると、アメリカもイギリスも戦車(アメリカだけ)やスカウトカー、ハーフトラックを使ったFAC(forward air control)が前線部隊に配置されるようになりました。英語版Wikipedia「Forward air control operations during World War II」を信じてよいなら、FACは各師団の戦域であらかじめ地上攻撃を予定していた航空部隊に対し、もっと切迫した目標を攻撃するよう変更を求めるものでした。
ただし米英軍ですら、ハウスが指摘するように(224頁)、「臨機目標を攻撃するための武装偵察を含む阻止活動」を地上支援より原則的に重視しました。「阻止」とは後方移動妨害のことで、「臨機目標を攻撃するための武装偵察」とはその中でも、現地で獲物を探すような襲撃任務ということです。ハウスが指摘するように、必ずしもそちらが敵陣地攻撃より安全とも言えなかったようですが、「陸軍から砲兵代わりに使われる」ことへの忌避感を記したボムフーン(爆装タイフーン)パイロットの回想は見たことがあります。
ソヴィエト軍はちょっと事情が違いました。航空部隊や海軍部隊を陸軍現地司令部の指揮下に置くこと、あるいはその逆は日常的に行われており、そうなったら陸軍司令部のノルマ(例えば「勝利せよ」という命令)を果たすために傘下航空部隊が死力を尽くすのは当然でした。ですから都市防空のためのリソースが陸軍に便宜利用されないよう、空軍とは別に「防空軍」として一部の戦闘機部隊が対空砲とともに取り分けてあるのです。クルスク戦のころには戦車の小隊長車(3両に1両)には無線機があり、残り2両には発信はできないがレシーバーはあったと言われますが、無線機事情の悪さと命令系統の特殊事情で、柔軟な空地連携は聞くだけ野暮でしょう。




