またも負けたか大ドイツ
ハウスはドイツの大戦中期以降の兵員不足、そして補充を急ぐ余りの練度不足について論じます。残念ながら、多くの皆様がご存じのように、この時期以降のドイツ軍は部隊の名称と実員規模が一致しないことも多くなり、ひとつひとつが事情を抱えて標準的な編成が意味をなさなくなっていきます。
グデーリアンは装甲兵総監となり、次いで参謀総長事務取扱(ツァイツラーは終戦まで休職中)を兼任しました。「装甲兵」は「快速兵」に次ぐ概念拡張で、とうとう歩兵科は装甲擲弾兵という名前で自動車化歩兵を取られてしまいました。砲兵科から突撃砲をたくさん分捕って装甲連隊の再建や対戦車能力向上に役立てたことも知られています。しかしこれらはグデーリアンの政争番長としての一面であって、敵に対して何かを突きつけるものではありませんでしたから、ドイツ軍全体としての画期的な戦力向上はもたらしませんでした。グデーリアンが『電撃戦』で書き残したように、任命時のヒトラーのすがるような態度と、参謀総長事務取扱を1944年7月に命じるときのどこか冷淡な態度は、好対照です。
それでもドイツ軍の戦車を中心とする戦闘群は、諸兵科連合のメリットを生かす強力な兵団でした。トラック歩兵は降車しないと戦車に近づいて的になるのは危険でしたし、第26部分「対戦車道」で触れたように、タンクデサントは敵弾が飛んでこないと思われる状況でだけ利用されました(悲惨な見込み違いも起きました)。装甲兵員輸送車があるときは、戦車部隊のすぐ後ろを歩兵ごと随伴し、教則通りに周囲に気を配って対戦車砲などをつぶすことができました。当時の教則には「降りてもよいが、優れた指揮官は降りずに戦い続ける方法を見つける」と書いてあるようです。
装甲兵員輸送車がもらえない装甲擲弾兵師団などでは、オートバイ大隊が装甲偵察大隊の主力でしたが、次第にキューベルワーゲン、ケッテンクラートに置き換わりました。理由は不明ですが、サイドカーは負傷兵を運びながら撃ち合いを続けることが困難だったという回想を読んだことがあります。もちろんケッテンクラートがあれば不整地性能はサイドカーを上回ったでしょうし、LAH師団の装甲偵察大隊は4輪駆動のシュビムワーゲンをもらっていたようです。
突撃砲も砲ですから、歩兵よりも前に出るのは原則から外れます。特にクールラントのように極端な戦力差がある戦域では、ヘッツァーであれ突撃砲であれ牽引対戦車砲であれ、貴重な砲は後置されて、歩兵たちが命懸けで孤立状態にしたソヴィエト戦車を狙いました。防御戦では迫撃砲などの間接砲撃兵器は後方から、あらかじめ距離などを標定した陣地前、交差点などを狙えます。だからそうしたとき、どの部隊の持ち物であっても、無線が前線のどれかの陣地とつながって「来た」と第一報をくれることは重要でした。ドイツ軍は有線電話を多用しましたが、ソヴィエト砲兵が優勢な戦場では、断線しない幸運なケースでのみ電話は有効でした。
砲は後置されるものとはいえ、支援先が変わるときなどは数両の自走砲だけで走って移動する必要があり、遭遇戦はよく起きました。3~4両の1個小隊で行動することが多かったようです。乗員保護が不十分な自走砲は、その報いを受けることもありました。逆に十分な距離を置いて遭遇したときは、3両の突撃砲がソヴィエト歩兵1個大隊を全滅させることもありました。




