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嗚呼中間管理職

 ハウスは対戦車道の家元たちをほめたたえたのち(嘘)情報傍受や欺瞞について語ります。こうした分野で、特にマイソフは米英軍の達成についてあまり知らないので、深く突っ込みません。F.W.ウィンターボーザム『ウルトラ・シークレット―第二次大戦を変えた暗号解読』は日本語版が出たのが1976年でしたが、原著は1974年でした。エニグマ暗号が解かれていたことを暴露したこの著作以降、色々な人が口を開きました。例えばデーニッツの『10年と20日間』は1958年にドイツ語版が出ていますが、当然この著作ではエニグマは安全だったと信じていました。1980年に亡くなるまでに真相を聞いたかもしれませんが。1974年以前に出版されたいくつかの著作が、明らかにエニグマ暗号でバレた情報をもとに司令部や個人が正確に攻撃された(またはそれが計画された)ことを、様々にごまかして書いています。


 ここからハウスは第2次大戦編のまとめとして、各国が大戦中に得た戦訓で変化した部分を語り始めるのですが、枕話がSIGINTであったので、まずソヴィエトの攻勢欺瞞や戦術偵察から入ります。日本語にはなっていませんが、グランツ大佐がソヴィエト軍の欺瞞作戦で1冊丸ごと書いていますね。


 例えば前の部分で触れたクトゥーゾフ作戦は、移動した車両のエンジン音が大きすぎましたし、戦術偵察機の写真にも引っかかって、「攻勢近し」くらいの程度にはバレており、モーデルがクルスク戦に(直前になるほど)消極的であったことの一因とされています。これは比較的バレた例であり、1944年のバグラチオン作戦はバレなかっただけでなく、欺瞞作戦に引っかかって中央軍集団の予備が見当違いの方向に動きました。この件は拙作『士官稼業~Offizier von Beruf~』「第46話 結実と胎動」で扱いました。


 そういえばスターリングラードの第6軍を包囲する天王星作戦はどうだったのだ……と思い出される読者諸賢も多いかと思います。ルーマニア軍とかどう考えても弱い環だよな……という話は、総統会議の話題にすらなっていたとカイテルが戦後に書き残しています。陸軍のフレムデ・オストを率いていたゲーレンの黒星だという人もいます。あれは、危ないと思いながら今まで何とかなっていたので「一層の注意を通達」くらいで済ませていたドイツの組織的失敗であると同時に、スターリンがついにジューコフやワシレフスキーの言うことを聞くようになって無駄攻撃命令を2ヶ月ほど控え、今までにない十分な準備を経て攻めかかったことが大きかったとマイソフは考えています。わかっていれば防げたというものでもないのです。


 パンテル=ヴォータン線に落ち着いたものの、ドイツの数的・物量的劣勢はもはや覆うべくもなく、ジャブの撃ち合いをしてもソヴィエト軍のジャブがドイツ軍の急所に入ってしまうような状態になりました。ドイツ軍はソヴィエト軍ほど前線で情報を取れなくなってきたとハウスは指摘しますが、これは数的・物量的劣勢が起こすひとつの症状であって、情報戦そのものの適切・不適切で説明がつく話でもなさそうです。ああ、なにか「日本海軍が船団護衛をもっと重視していたら」という話に似たものを感じますね。


 さすがのソヴィエト軍も、1944年に入って旧国境を越えると、補充兵の不足を意識し始めたようです。もう祖国を解放して、現地のパルチザンを軍に組み込むようなことができなくなってきたわけです。それでも、大きな損害を承知でタンクデサントを戦車に乗せるのを続けるしかありませんでしたし、ドイツ軍は容赦なく戦車と歩兵を切り離して、孤立した戦車をいかなる手段によっても撃破しました。


 ソヴィエト軍は1941年にさんざん食らった両翼包囲を繰り返し仕掛けましたが、しばしばしくじって、突破に成功した先鋒がドイツ軍後方で孤立しました。攻撃命令書の中で「奪取せよ」「勝利せよ」といった表現が使われるのは全世界で普通にあることでしょうが、それがノルマのように命令違反の根拠とされうるとなると、他の兵団を助けている余裕はなくなります。皆さんの職場でも成果主義が行き過ぎて、人事評価につながらない組織の円滑化(例えば非公式な意見交換、念押しダメ押しの声かけ……)が雑用扱いされて、誰もやらなくなったり、それをやっていた誰かが退職したら「なろう小説」のように組織の危機になったりしていませんか。突っ込めと言われて突っ込むことに成功した場合でも、柔軟に協力し合うことができず、ばらばらに目標達成を目指すほかなくなります。


 1941年にごっそり失った軍直轄砲兵は、1943年半ばにはむくむくと回復していましたし、1944年には戦線のあちこちで順番に攻勢を仕掛けていく主役ともなりました。しかしそれは、各方面軍がその時限りの助力を受けて作戦し、後の予定が詰まっている軍直轄砲兵と弾薬輸送部隊は次のステージに行ってしまう……ということでもありました。ですからソヴィエトは1943年までのさんざんな失敗を踏まえて、諸兵科連合をあきらめて諸兵科分業を始めたようににマイソフは感じます。初手の圧倒的な準備砲撃のあと、方面軍に与えられた歩兵と戦車が進み、それらの師団や軍団固有の砲兵が弾薬輸送力の許す限りでそれを支援します。


 特に1944年のバグラチオン作戦では、森と湿地の多いベラルーシが主戦場となったこともあり、戦車軍の多くは南のウクライナにとどまっていました。ソヴィエト歩兵たちの一部が昼夜兼行で歩き、ジープに引かれた45mm対戦車砲など手あたり次第の戦力も加わって退却するドイツ軍と競争し、交通の要地を争奪し、スズメバチに襲い掛かるミツバチのようにドイツ軍の小集団を呑み込んでいったのです。参加した唯一の戦車軍である第5親衛戦車軍は、ミンスク解放に協力したまでは良かったのですが、リトアニアのビルニュスを中心とする市街の多い地域に突っ込んで中央軍集団・北方軍集団の戦線を断ち切るよう命じられ、大きな損害を出して司令官ロトミストロフの進退問題となったと言われます(ロトミストロフは戦車の専門家としてスターリンの信任厚く、ご栄転でうやむやにされました)。


 おそらく米英やドイツと同じような感覚で、ソヴィエト軍が諸兵科連合を語れるようになったのは、歩兵戦闘車(例えば1959年のBTR-60)が配備され、師団以下のレベルで建制の諸兵科連合集団が構成でき、共通の指揮官に命令をもらうようになってからではないかと思っています。そうしてはじめて、遊兵を作らずに諸兵科を活用することが師団長の責任となるのです。


 ある意味で逆に、ハウスは大戦の「最後の2年間」、戦車軍団・機械化軍団の先遣隊が旅団程度の規模を持つ諸兵科連合部隊で、情報を得るだけでなく積極的な先制も行い、壊滅のリスクも負ったことを指摘します(212~213頁)。こうした部隊は規模に拠らず、「軍団長が上から命じられた目標を達成するため」に組まれ、働くわけですね。


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