わるい こんさるが あらわれた
ハウスの第5章~第6章は、第2次大戦中に各国が変化させた戦術や編成を扱っており、国別というより技術的なトピックス別の構成になります。
最初のトピックスは、事実上、マクネアです。アメリカ地上軍総司令官であり、マーシャル陸軍参謀総長が絞りに絞った3人の下僚のひとりです。高度に発達した軍制改革は「わるいこんさる」のやりがちなことと変わらず、理屈倒れを起こすという話です。
「わるいこんさる」は無駄が飯の種で効率が殺し文句です。マクネアは専門部隊を師団に常時張り付けず、もっと上位の軍組織に独立大隊の束を管理させ、必要な時だけ適切に配属させる方向で、多くの(独立)戦車大隊と(独立)戦車駆逐大隊、その他多くの軍直轄支援部隊を作りました。頭のいい人は、それでうまくいくはずだと(善意で)思うのですが、人や組織の意思決定には情報分析のマンアワーが要るので、「合理的な昼飯を迷っていたら昼休みが終わった」みたいなことになりがちなのです。
ハウスも書いているように実際には、マクネアほど頭の良くない将軍たちは、独立戦車大隊を同じ歩兵師団に配属しっ放しにして互いに慣れさせる……という選択をしました。ただちょっと困ったのは、独立戦車大隊には偵察隊がないことと、アメリカ歩兵と戦車部隊は無線機と使用周波数が違うことです。戦車駆逐大隊には偵察中隊があったので、チュニジアまで砲兵系の無線機だった戦車駆逐大隊は戦車部隊系の無線機を使うことになり、戦車駆逐大隊偵察中隊は多くの場面で、戦車大隊のお使いも頼まれて忙しくなりました。
おそらく、多くの独立大隊と固定的な関係を結んで、完成車メーカーと協力会のようになった大戦後半のアメリカ歩兵師団は、歩兵の対戦車能力が段違いに発達したこの時期には、適切な単位兵団でした。まさにドイツが何度も何度も繰り返して終戦までクールラントで粘り抜いたように、多様な攻撃で機械化師団の構成要素をばらしてしまえば、劣勢な防御側にも戦車を食えるチャンスはあるのです。
ハウスはさらっと書いていますが、アメリカ軍歩兵連隊は当初、歩兵砲に当たるものを欠いていました。1943年以降は新開発の軽量・短射程のM3・105mm軽榴弾砲が連隊当たり6門配置され、主に間接砲撃を担いました。当初は37mm砲であった歩兵連隊対戦車砲中隊も57mm砲(6ポンド砲のライセンス版)に格上げされて、直接射撃を担当しました。ハウスも書くように、3つの歩兵連隊本部は師団から多様な支援部隊を分属させられ、事実上、連隊戦闘団(RCT)を率いることになりました。
ハウスが編成図を描いていない1940年型のアメリカ機甲師団は、まだチャーフィーが生きていたころの構想で、1個中戦車連隊が主な脅威にぶつかり、2個軽戦車連隊が両翼包囲を目指すとするカンブレー型突破師団でした。ですから戦闘群への分割は用意されていないわけです。ハウスが書くように、おそらくドイツの戦いかたに影響されて、いわゆる1942年型機甲師団ではA戦闘団(CCA)本部・B戦闘団(CCB)本部が建制として措置されましたが、戦車2個連隊(6個大隊)+自動車化歩兵1個連隊を戦わせるには2個では足らず、チュニジアの第1機甲師団はCCCとCCDを設定して4つに分かれて戦いました。
カンブレー的ながっぷり四つの陣地戦からの一大攻勢発起はやはり起きそうにないので、より戦車の少ない1943年型機甲師団にほとんどの機甲師団が改変され、第2機甲師団と第3機甲師団だけが2個戦車連隊を維持しました。1943年型機甲師団には師団予備を管理するCCR本部が追加され、第3の戦闘団として使うこともできました。
マクネアがやったもうひとつの大事業は、独立した戦車駆逐部隊の創設でしたが、これもカンブレーの強迫観念の裏返しとしての「決戦場に集結できる軍直轄対戦車部隊」であり、ここの読みを外したために色々なデメリットだけが目立ってしまいました。ハウスの次のトピックスは対戦車戦闘技術ですので、その話も次回に。




