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燃え始める東部戦線

 1933年、ジューコフは初めて師団を任されました。第4騎兵師団(1936年から第4コサック師団)でした。当時ベラルーシ軍管区司令官だったイエロニム・ウボレヴィッチは日本語版Wiikipediaに項目が立つ程度の有名人で、トハチェフスキー門下でしたし、1928年からの13ヶ月をライヒスヴェーア留学で過ごしました。ジューコフの回想によると、ウボレヴィッチはたびたび師団に予告なしにやってきて、すぐに演習を計画し実施するよう命じました。そうやって命じた5時間の演習で80kmを馬で走り抜いたこともあったと言いますから、率先垂範の人です。最後には師団にお土産を持ってくるくらい、師団を高く評価して打ち解けてくれました。


 このウボレヴィッチを始め、ドイツ軍とかかわりを持ったソヴィエト軍人たちは、委任戦術と臨機応変な状況への対応をセンスとしてつかみ、それをソヴィエト流の無茶振りの中に植えこもうとしたのでしょう。残念ながら彼らの多くは大粛清の中に消え、ジューコフも優れた状況の読み手ではあっても、パワハラ的な指揮が目立ちました。


 ドイツの軍戦備がどこか「新兵器も参加する、前大戦の突撃隊戦術2.0」に見えるように、ソヴィエトも大粛清のせいで大戦略を練り直すこともままならず、優勢な労農赤軍が突破口を見つけた後の戦果拡大部隊として、次々に勝利するドイツを真似た機械化兵団が構想されました。


 我々は、ソヴィエトのT-26戦車がヴィッカース 6トン戦車をライセンス生産した後に換骨奪胎された子孫であること、同様にクリスティー戦車からBTシリーズの戦車が生まれたことを知っています。これら戦間期の戦車は、大戦で否応なく国を背負って戦った戦車群に比べると、「ご予算の許す限り」の存在であり、すでに触れた大戦前ソヴィエト戦車の整備状態を脇に置いても、戦闘力は限定されたものでした。むしろ、KVシリーズやT-34といった高価な戦時向け戦車がちゃんと用意されていたことに驚くべきかもしれません。


 ジューコフがノモンハンの英雄であるとすれば、ティモシェンコはフィンランド冬戦争をまとめ、どうにか国力通りのソヴィエトの勝利で終わらせた功労者でした。ティモシェンコが国防人民委員、ジューコフが参謀総長という首脳陣でソヴィエトは大戦を迎えました。


 北アフリカ戦線を6ページ半で片づけたハウスは、ほぼ2ページを使って、ドイツの整備・補給システムに機械化部隊を支える力がなかったことを力説します。ゲーリングと空軍に世界戦争をやる気がなく、準備もなかったことはすでに述べましたが、陸軍にもないので、それは仕方ないのであります。むしろフランス戦まで何とかなっていたところ、独ソ戦からどうにもならなくなっていくのは、「ロシアが広いから」でありますし、「ソヴィエトが犠牲に動じず粘るから」でもありました。


 ドイツ補給システムの基本は、鉄道駅に置かれる軍の物資交付所から始まり、そこへ取りに行く師団段列、師団物資交付所に通う連隊以下の弾薬小隊や行李、特に弾薬についてそれらを手伝う師団の軽段列といったものから構成されます。軍団長クラスのロンメルやグデーリアンが「補給なんざ上の考えることだ」という態度を取るのは、ある意味で全く正しく、もう少し上の立場に立っても、最寄りの鉄道駅かせいぜい港まで物資を持ってくるのは軍人の仕事ではないか、せいぜい輸送総監部(かつての参謀本部鉄道課)の連中の仕事なのです。もちろんそうした立場の人は1941年から、人によっては独ソ戦の前からマズいと思っていたわけですが、「すぐに独ソ戦は片付くものとせよ」という政治圧力がかかり、陸軍要人たちもそれを受け入れていたことは色々な証言があります。


 修理システムも多分に平時っぽいもので、車両を遠方まで送り返さないと大規模修理できない状況が長いこと放置されました。そういうシステム全体の最適化は、群雄割拠的なドイツの政治システムにとっては、非常に苦手な問題であったのでしょう。


 独ソ戦の序盤、ソヴィエトの76.2mm野砲が大量にドイツに捕獲されたことは、特に模型ファンの皆様はよくご存じかと思います。国境付近に集まっていたソヴィエト軍部隊の重装備が失われ、そのこともあってソヴィエト軍は多くの歩兵軍団を廃止し、師団を軍司令部に直属させました。


 もともと軍団を最初に置いたのはナポレオンのようです。日本人は古代兵制にあった軍団と言う語を当ててしまいましたが、corps d'arméeは「軍の分枝」といった意味です。ナポレオンの大陸軍を、容易に集結・分散できる(集結するにも、人馬で連絡をつけなければなりません)数個師団に分けたものが軍団であるわけです。


 容易に移動できる範囲は、軍直轄砲兵などを与えたり、取り上げたりできる距離です。街道上にKV-II戦車が現れて交通を遮断したと第6装甲師団長から報告を受けて、ラインハルト軍団長は裁量下にあった空軍の8.8cm対空砲部隊を派遣しました。こうしたリソース管理を含む指揮を軍団レベルでやり、補給、野戦病院、治安といった後方管理をその上の軍司令部が分担するのが近現代によくある司令部間の分業です。配る軍団砲兵がなくなったので、ソヴィエトは軍団司令部をなくして、その人員を部隊新編のために使ったのです。


 戦車を含む大規模兵団も、しばらく新設できなくなり、1942年以降に順次復活しました。西部戦線の同業者たちに比べると戦車軍団は戦車主体で歩兵が少ないままでした。1942年秋以降に、より装甲師団や機甲師団に近いバランスの機械化軍団が編成されるようになりました。その戦術については、また触れる機会があるでしょう。


 機械化軍団の登場は、1942年8月にアメリカ軍のPersian Gulf Command(当初はPersian Gulf Service Command)が設置されたことと関係があるかもしれません。日ソ中立条約を利用してウラジオストックへソヴィエト船籍の輸送船を送るルートでは武器が運べず、トラックも避けられたようです。1943年ごろまでのムルマンスク船団はいろいろ難しいのはご承知の通り。イギリス軍では道路や鉄道の改善に投資する余裕がなく、アメリカ軍がリソースを投入して、ペルシアルートはようやく活気づくことになりました。


 ハウスは1943年2月のポポフ機動集団の活躍を、スターリングラード包囲戦の一部であるように書いていますが、皆様ご存じのように、ドイツ第6軍の降伏は2月2日ですから、2月中旬に深入りしてきたポポフ機動集団の動きはもう関係ありません。装甲兵員輸送車を欠いたソヴィエト戦車部隊は、最後まで歩兵との協調(の欠如)に苦しみましたし、攻勢発起時を除いて、砲兵との柔軟な連携も上手くいった例があまりありません。歩兵・砲兵・戦車のバランスが取れた大兵団がドイツ軍の後ろに回ったのは、1945年のオーデル川渡河くらいしかないようにも思いますが、そのことは追い追い。



※対ソ援助とペルシアルートについては、旧作『なにわの総統一代記』の下調べ資料で1999年9月に書いた記事があります。


対ソビエト援助

https://seesaawiki.jp/maisov/d/ossrev6


※ポポフ機動集団については、『士官稼業~Offizier von Beruf~ 外伝と解説』「外伝02 第3次ハリコフ攻防戦」で扱っています。


https://book1.adouzi.eu.org/n4288gu/4

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