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反省するイギリス、そして北アフリカ戦線


 ハウスはフランスの敗北を描いた後、イギリスの反省を記します。まず反省したのは、諸兵科協同で行う、大規模な訓練です。予算がないから、召集期間が短いからと言って大隊や連隊を超えた規模の訓練をしなければ、諸兵科でともに戦う感覚を自分のものにできないのは当たり前なのです。ようやく戦時になってこれができるようになったのであり、その演習番長ともいうべき地域司令官のひとりがモントゴメリーでした。マーテルも機械化総監部指揮官となって、機械化旅団や戦車連隊が他兵科と共同で戦う意識を強調しました。


 フランス戦でのイギリス第1機甲師団は、2個旅団に戦車大隊ばかりが配置され、現地で歩兵1個大隊が戦術的指揮下に置かれた以外に歩兵と工兵と砲兵はいませんでした(砲兵はずっと前に、他はフランス派遣直前に他に転用)。


※アラスの戦いには、マーテル師団長の第50自動車化[歩兵]師団、第4戦車連隊、第7戦車連隊が参加しました。第1機甲師団主力は5月15日になって急送され、なすすべなく撤退を強いられました。他の機甲師団はフランス戦には参加していません。


「支援部隊」中に、あるいは師団直轄で(自動車化)歩兵1個大隊がいたものが、1941年初めにリビアにいた第7機甲師団では2個大隊に増えています。それが1941年11月のクルセイダー作戦当時では3個戦車旅団に対して、師団全体で4個歩兵大隊、3個砲兵連隊となり、歩兵・砲兵の比率が増大しています。1942年11月には自動車化歩兵1個旅団(3個大隊)がこれに加わりました。


 イギリス機甲師団は母数が小さいので標準編制とか言いづらいのですが、2個機械化旅団を持っていたものもハウスが書くように1942年ごろに1個機械化旅団・1個自動車化歩兵旅団に整理され、戦車と歩兵のバランスを直されると同時に、ドイツ風に旅団司令部の下に柔軟に部隊をつけられるようになりました。


 ハウスは、イギリスが1942年にいくつかのmixed divisionを試したことに触れています。例えば第3歩兵師団は3個歩兵旅団のうち第7歩兵旅団を手放して、チャーチル歩兵戦車を装備する第33戦車連隊を迎えました。しかしmixed divisionの構想は放棄され、第3歩兵師団は第185歩兵旅団を受け取りました。沿岸防備旅団から第79機甲師団に配属され、第79機甲師団が皆様ご存じのアレになるために手放された旅団です。アレといっても優勝するわけではないんですが。


 イギリス歩兵師団は3個歩兵旅団を36門の25ポンド砲で支援するのが普通ですが、mixed divisionは2個歩兵旅団しかないせいか、24門に値切られています。これは大戦初期の歩兵と砲兵が少ないドイツ装甲師団と同じで、火力が足りないとみて放棄されたのかもしれません。


 イギリスは歩兵師団の砲兵と歩兵を減らさず、かといって組む相手を固定することもせずに、歩兵戦車かシャーマン戦車を持つ機械化旅団をいくつかつくることにしました。第33戦車連隊(のち第33機械化旅団)もシャーマン戦車を受け取ってゴールドビーチに行き、いろいろな歩兵師団と組んで戦うことになりました。


 このあとイタリア参戦からエル=アラメインまで、北アフリカ戦線の大半をハウスは6ページ半で片づけてしまいます。まあ諸兵科連合に関係するところだけ拾えばそうなるのでしょう。


 イタリアの参戦は、このままフランスが降伏しイギリスも和平に応じるとするとイタリアの分け前はない……という焦りからのもので、すでにエチオピア侵略とスペイン介入で国力をすり減らしたイタリアには追加の補充はできず、ほとんどの国境で守勢を取りました。しかしイギリスに対してはいいところを見せねばならず、グラツィアーニには戦力を超える勝利が期待されました。しかし補給手段もないので、エジプト国境を越えたところで部隊をとどめるしかありませんでした。そこを、装備劣悪ながら練度の高いイギリス連邦軍が反撃し、大勝を得ました。


 しかしイギリスにとって、事態は我々が余計な戦後知識で漠然と想像するより悪いものでした。イタリア軍に囲まれた英領ソマリランドは降伏するしかなく、紅海の片側はヴィシー・フランスにつき中立的に振舞った仏領ジブチを除き、伊領エリトリア・エチオピアからエジプト国境までをイタリア軍に制圧されました。そのままでは、中立国アメリカの商船はレンドリース物資をスエズ運河まで安全に持ち込めないということです。エジプトに本拠を置く中東総軍のウェーヴェルは、イラクのクーデター制圧、そのドイツ側策源地として働いたフランス領トランスヨルダンの占領、そしてゲリラ戦終息が1943年までずれ込んだエチオピア解放と、限られた戦力を走り回らせることになりました。例えば1940年12月のイタリア軍包囲作戦に参加したインド第4歩兵師団は、スーダンを経てエチオピアに向かいました。


 その戦力の薄さに気づいて、無謀に仕掛けたのがロンメルです。人数から言えば1個軍団相当に過ぎませんが、当時のドイツの常識を超える自動車化をせねばならず、ドイツにとっても軽くない負担でした。


 守りに適した地形は砂漠では限られますし、そこに水が出るとは限りません。ですからいったん劣勢になった側は、大きく後退を強いられました。ロンメルはたちまちエジプト国境を超え、ハルファヤ・パスを見下ろす高地を占拠しましたが、はるか背後にあるリビアのトブルク要塞にはイギリス陸軍が陣取り、エジプトから海路の補給も受けて、どうしても落とせませんでした。


 しかしすでにイタリア参戦から半年を経てエチオピアは周囲のイギリス植民地から攻められ、1941年5月にアオスタ公爵アメデーオが降伏するところまで来ており、間もなくそこからインド第4歩兵師団が第1南アフリカ師団と第2南アフリカ師団を連れて戻ってきて、ギリシアやクレタを転戦してきた第2ニュージーランド師団も加わりました。これに地中海を突っ切って届けられた戦車などを加えて、1941年11月にロンメルのサイコロもついに普通の目を出し、ベンガジを捨てて西部リビアに逃げのびるしかありませんでした。


 ただしこのように、練度も国籍もバラバラなイギリス連邦軍や自由フランス軍の参戦と、ただでさえ中央集権的な傾向のあるイギリス軍の指揮原則は、ようやく本国で訓練の重点となった諸兵科連合には悪条件でした。劣勢に見えたドイツ戦車隊が逃げるので追ったら対戦車砲が待っていた……といったドイツ軍の連携の良さ、イギリス軍の連携のなさがあちこちで露呈しました。もっともこれはハウスに言わせると、「戦車への最大の脅威が対戦車砲なのだというイギリス側の認識が欠けていた」のがいけないのですが。たしかにドイツの5cm対戦車砲は1940年8月に交付が始まり、ソヴィエトから捕獲した7.62cm対戦車砲も若干数ですがはるばる持ち込まれており、1940年春にフランスで見かけた3.7cmPAK36ばかりイメージしていると大変なことになるのでした。


 ともあれ、1941年末近く、流れはいったんイギリスのものになりました。ここでヒトラーは太っ腹にも、厳冬期で活動が鈍っていた東部戦線の第2航空艦隊を、ごっそり地中海に派遣しました。ケッセルリング元帥は輸送船の安全を確保し、届いた戦車でロンメルはさっそく活動を再開しました。イギリスは極東の方で色々あって航空部隊をそちらに割かねばならず、空の状況はしばらく大きくドイツに傾きました。


 関係者の多くが鬼籍に入った後の「関係者の話」は言ったもん勝ちになりがちなのを留保するとして、南方軍総司令官を兼任してイタリアに対するドイツ軍総代表のような立場にあったケッセルリング元帥は、イギリス空軍と潜水艦隊の基地であるマルタ島をこのさい上陸と降下で落としてしまおうと主張し、ヒトラーやムッソリーニも消極的に賛成していました。ところが1942年6月、前年あれだけ落ちなかったトブルク要塞にふたたびイギリス連邦軍がこもっていたところ、あっさり事実上1日で落とされる大事件が勃発しました。このせいでロンメルは今度こそカイロめがけて突進を始め、トリポリやベンガジに先々の分まで陸揚げされていた物資は宙に浮き、マルタ島攻略に使うはずだった物資はロンメルの突進に吸われてしまうことになりました。


 急を聞いたアメリカは自国向けの戦車と砲を緊急にエジプトへ送り込み、チャーチルはエジプトに行って将軍たちから話を聞き、一連の人事異動を発令してモントゴメリーを第8軍司令官に登用しました。


 アメリカのM3中戦車、M4中戦車(将軍名を付けたのは、リー戦車も含めてイギリス軍)に積まれた75mm砲は、おそらく第一次大戦時に国産化したM1897野砲を原型とするもので、M1897と装弾筒の規格(75×350mm、リムつき)も同じでした。だからまあ、榴弾があるのは当たり前なのですね。大戦初期に主砲としてよく使われた、イギリス軍の2ポンド(40mm)砲には榴弾が配備されませんでした。そのくせ一部のイギリス戦車には3ポンド(76.2mm)榴弾砲を積んで、榴弾と煙幕弾専用としていました。特にモントゴメリーは北アフリカから本国に宛ててアメリカの75mm両用砲(戦車も非装甲目標も撃てる)を激賞する報告を送りました。


 実はドイツも、短砲身7.5cm戦車砲を持つ(つまり榴弾係の)IV号戦車初期型やIII号戦車N型を別の中隊にまとめていたのを、1942年以降は4~5両小隊の中に均等に混ぜるようになりました。とんがった対戦車能力や非装甲目標破壊能力は専門部隊や少数限定車両に求めつつ、「何にでもそこそこ対応できる中戦車」が戦車部隊の中核として求められるようになっていきます。主力戦車(main battle tank)という概念は当たり前のようで、戦車に特定の使い方を想定したり否定したりする意見もまた、それぞれもっともな点があって否定しづらいのですね。例えば戦車が榴弾を積むことで、被弾時にそれが車内で暴発するリスクをイギリス軍は重く見ていた……という断片的な証言があります。


 ハウスは、イギリス戦車兵から見て歩兵が自分たちの頼りにできない保護対象であるという意識が強く、それを歩兵側も感じ取って関係が良くなかったのだと論じます。とくに砂漠での歩兵はぜい弱であったと(166頁)。これは「戦車への最大の脅威が対戦車砲という認識欠如」と裏腹の関係で、非装甲目標である対戦車砲の制圧、あるいは駆逐戦車等歩兵が制圧できない相手でも、少なくともその発見は第1次大戦から歩兵の領分のはずで、ドイツの装甲兵員輸送車部隊はまさにそれを任務としているのはすでに触れたとおりです。


 モントゴメリーはエル=アラメインのにらみ合い期間を使って、前線でのイギリス第8軍にも訓練を課し、チームで戦う感覚を植え付けようとしました。本人の回想によると、ロンメルに度々負けて生き残ってきた兵士たちは、上からの指揮ではなく自分の才覚で生き延びたという意識が強く、上を信じず言い訳をする意識をまず直そうとしたのだとか。そしてハウスは、モントゴメリーは砲兵については中央集権を進めるなど、「とにかく分権」のドイツとはまた違ったバランスを目指したのだと指摘します。もちろんモントゴメリーの勝利は、このころから目に見えて確立した物量の優位によるところも大きく、またモントゴメリーがそういう優位の活用に秀でていたという指摘も、よく見られるところです。



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