ノルウェーとフランス
ヒトラーにとってすら、ポーランド侵攻が英仏の対独宣戦につながったことは予期せぬことであり、あえて言えば、しくじりでした。それを受けて、ノルウェー侵攻が必要だと主張したのは、海軍でした。それが議論にのぼり、ならばデンマーク侵攻も必要だと言ったのは、空軍でした。
海軍の言い分は、スウェーデンの良質な鉄鉱石をバルト海が氷結する冬季に手に入れるには、いまはもうない鉄道路線を使ってノルウェー北部のナルヴィク港に運び、そこから沿岸を輸送船で南下するしかなく、このルートが止まれば海軍の艦艇生産は止まるのだということでした。空軍は南部であってもノルウェーを攻めるのであれば、どうしてもデンマークの飛行場を給油地として確保しなければならないと指摘しました。
その結果、ドイツにとっても史上初の陸海空共同作戦を組み上げねばなりませんでした。この三軍統帥のグダグダについては、これも昔の書き物があります。
OKWとOKH~指揮統一問題をめぐって 「ノルウェーと西部戦線」
https://seesaawiki.jp/maisov/d/OKW%5fOKH#content_1_3
この話のうちフランス戦関係の事柄は、同人本MB-04『大戦前半の英仏~フランス戦と大戦前半の英空軍~』、さらに『士官稼業~Offizier von Beruf~』第22話~第23話が最新版ですが、そのあたりはこの記事の後段で。
ハウスはノルウェー作戦を成功例のように書いていますが、ドイツの内実もとてもソリューションとは呼べない代物でした。それを想定した長距離戦闘機もないので、ちょっと微妙な胴体直付けの増槽をつけたBf110D-0とD-1が用意されました。D-1/R1やD-1/R2のRは改修キットによる現地改修を示すので、Bf110Cが増槽や増槽ラックを外付けされた機体も相当数あったのでしょう。
イギリス軍はこれに呼応して部隊上陸に踏み切りましたが、ドイツ空軍は上陸作戦をBf110Dでしのぐとシュツーカなども海を渡り、イギリス空軍もグラディエーター複葉戦闘機をいくらか送ったもののドイツの航空優勢は一方的で、早々にトロンヘイムなど南部からは撤退を余儀なくされました。ナルヴィクに上陸したドイツ軍はイギリス軍に攻められて危機に陥りましたが、フランス軍の5月10日以降の崩壊的敗北に助けられて、イギリス軍撤退まで耐え抜くことができました。
※ナルヴィク周辺で戦っていたハリケーンとグラディエーターは空母グローリアスに着艦フックなしで収容してもらう離れ業で脱出しましたが、その空母グローリアスの撃沈に巻き込まれ、多数のパイロットが戦死しました。
ノルウェー軍の抵抗がついえ、ノルウェー国王の司令部が北極圏のトロムセーに移った5月初旬、イギリス庶民院のノルウェー情勢集中審議はついにチェンバレン首相の辞職をもたらしました。
さて、同人本のネタのコアなのであまり書きたくないのですが、1939年10月に書かれたマンシュタインの作戦提案書は侵攻ルートが第1次大戦通りで、戦車部隊についてもほとんど言及がありません。どうも何か思うところがあって、グデーリアンと11月に会った後マンシュタインが出した、見違えるような(我々が知る)マンシュタイン計画について、グデーリアンは自分の貢献を語らずに口を拭ったようなのです。現場でそれが実施されるにあたって、グデーリアンが演じた数々の命令違反に注目が集まるのを嫌ったのでありましょうか。
とはいえ計画は計画に過ぎず、成功はドイツにとって未知である「フランス軍予備の配置」にかかっていました。第18部分「勝利は癖になるのです、モナミ」で触れたように、ベルギーを防衛し、先に降伏などさせない配慮から、有力な予備であるフランス第7軍は1939年晩秋に海岸べりにこっそり再配置され、アルデンヌやスダンに急行できない場所に行きました。ドイツ軍も色々な断片的情報で「そうではないか」と思っていたのですが、確信はありませんでした。
※この再配置で、イギリス大陸派遣軍は「海岸沿い」から玉突き的に「フランス第7軍の東隣」に再配置され、陣地類を掘り直す羽目になりました。それを視察に来たホー=ベリシャ陸軍大臣は「陸軍は大陸派遣以来、まだ陣地もできていないのか」と批判し、大政治問題となって自分の軍事音痴をさらし、辞職を余儀なくされました。そのへんの話は、こちらにあります。
『あたらしいチャーチル戦時内閣のはなし』「 5.戦前期の終わり」「6.チェンバレン 最後の3日間(接触編)」https://book1.adouzi.eu.org/n0378gi/5 https://book1.adouzi.eu.org/n0378gi/6
ところが1940年1月10日、メヘレン事件が起きました。ドイツの連絡機が濃霧で航法を誤り、攻撃計画を持った士官は懸命に計画書を焼きましたが、焼け残った2頁がベルギー軍の手に渡り、英仏にも示されました。この断片は現存しているようで、戦後のドイツで内容が公刊されています。ヒトラーが攻撃を急き立てるので「やる気はないがそれらしく作っていた」計画で、降下作戦の計画があったベルギー領ナミュールの地勢情報などが入っていました。
ヒトラーは激怒し狼狽しましたが、もともとやる気のない計画ですから陸軍は冷静でした。この時点でマンシュタイン計画は提出を受けたハルダーの側近と当の提出者たち、つまりルントシュテットのA軍集団参謀長であるマンシュタインの同僚たちだけが知っています。
ところがこの時期から1月下旬にかけて、ドイツ陸軍情報部がまとめる連合軍部隊の位置情報が急に正確になりました。つまり「ドイツの攻撃近し」とあわてた英仏が現況報告などを送り合った結果、各部隊の位置がバレてしまったようなのです。
これで俄然、アルデンヌの森を抜けスダンでマース川を渡河するマンシュタイン計画は成功の見込みを高めました。1月下旬のハルダーの戦時日記は人事案でいっぱいです。マンシュタイン参謀長は軍団長にご栄転となり、ハルダーの言うことを聞きそうな参謀長が送り込まれました。2月17日、新軍団長の恒例としてマンシュタインはヒトラーを表敬し、その計画案を披露して激賞されましたが、2月7日にA軍集団はハルダー臨席のもと、すでにマンシュタイン計画に基づく攻撃計画の図上演習をやっていました。グデーリアンもそこにいました。
おそらくそこでグデーリアンは、ハルダーがマンシュタイン計画を「そのまま実行する気がない」ことに気付きました。スピードが足りないのです。例えば砲兵がアルデンヌを抜けて勢ぞろいするまで渡河を待つとか。それはハルダーのセンスでは、より確実な作戦進行なのですが、グデーリアンに言わせると、それではフランスの備えが間に合ってしまうのです。
前年から軍団長をしている第19(XIX)軍団を率いて、グデーリアンはスダンへ向かいました。最も手近な渡河地点を大急ぎで確保し、渡ってしまおうというのです。装甲集団司令官としてグデーリアンの上で2個装甲軍団を束ねるクライストはこれに反対でしたが、グデーリアンは無視しました。
ルントシュテットのA軍集団には、シュペールの第3航空艦隊が協力することになっていて、地上攻撃に適した部隊はレルツァーの第2航空軍団が持っていました。砲兵がついてくるのが間に合わないグデーリアンはレルツァーに、スダンを断続的に爆撃し続け、フランス砲兵の活動を阻み、士気をくじくよう依頼しました。クライストはこれを1回限りの一斉爆撃に変えるようこっそり依頼したのですが、レルツァーは無視して、グデーリアンの望み通りにしました。ハウスは人名を出さず、「グデーリアンの直属の上司」が出した要請を空軍が無視した話として書いています(156頁)。
汲めども尽きぬルール違反の海です。レルツァーはゲーリングと同じ歩兵連隊で少尉に任官しており、そのころからの付き合いでした。上司がレルツァーを処罰しようとすればゲーリングの怒りが向くわけです。他の先進国空軍であれば、こういう属人的な独断専行はできないでしょう。
5月13日夕方から日没までの爆撃に続き、3個装甲師団の先鋒は、ゴムボートを頼りにスダンへ渡って戦闘し、工兵は届いていた資材全部を使って舟橋を1本かけました。14日はイギリス空軍の爆撃機も加わって、この橋で戦車をどれだけ渡せるかという戦いになりました。グデーリアンがやり遂げたと知ると、空軍はますます出撃を増やしてくれましたが、グデーリアンはさらに大西洋へのダッシュを始めました。すべてをベルギーに突っ込んでしまった英仏軍の後方はがら空きで、それを止められる部隊がない……とドイツ軍もフランス軍も理解したのは、5月15日のことでした。クライスト装甲集団の残り半分は、クライストが推した西の方の渡河地点を押し渡りましたが、すでにフランス軍の関心は薄く、結局グデーリアン軍団の北隣を並走するしかありませんでした。
ロンメルの第7装甲師団は、A軍集団戦区の北端近くにいて、クライスト装甲集団ではなくホトの第15軍団に属し、クライスト集団の右側面を守って進む役回りでしたが、もちろんロンメルは同じ軍団の第5装甲師団をぶっちぎって、自分自身が超特急で進み、ベルギーから大急ぎで引き返してくるイギリス戦車部隊とアラスで激突しました。空軍の8.8cm対空砲部隊に協力させて、反撃部隊が集まってくるまでしのいだ話は有名です。
5月19日、ドイツ軍は大西洋に達しました。もちろんその後も色々あったのですが、この連載は諸兵科連合がテーマですから、それに沿った話題をピックアップしていきましょう。
当時のドイツ空軍降下猟兵部隊は、大雑把に言えば2個連隊と1個大隊が輸送機部隊と一緒に、第7航空師団にまとめられていました。航空師団は航空軍団などと同じで、航空機部隊を束ねる司令部であり、まだ降下猟兵だけの師団はなかったのです。2個連隊は、陸軍でグライダー降下部隊とされた(空軍が協力しないのであんまり練習できていない)第22(空輸)歩兵師団といっしょに、半分はデン・ハーグ、もう半分はロッテルダム近くに降りました。両方オランダですね。
オランダは有事になったら東半分から国民を逃がし、アイセル湖の南を水浸しにして国土の中央部を巨大な掘割とし、西半分を守る計画でした。これはベルギーの西半分が守られていれば堅い防御ですが、降下猟兵たちはロッテルダムの近くで、ベルギーとオランダを南北につなぐ橋を押さえに行ったのです。これは成功し、おそらくオランダの降伏を早めました。この作戦で英雄になり以後の出世につながったのが、1944年の「パリは燃えているか」で有名なコルティッツです。デン・ハーグの方は諸事情でうまくいかないことが多く、計画よりずっと少ない兵力しか下ろせなかったので、後続が来るまでじっと我慢するしかありませんでした。
最後の降下猟兵1個大隊は少数ずつ分散して作戦しましたが、有名なのがエバン・エマール要塞の攻略です。第1次大戦での侵攻ルートをふさぐベルギーの要塞ですが、国境線がグネグネした場所で、オランダへの侵攻も扼せる位置にあります。ここで前世紀から研究されてきた成形炸薬弾が、要塞の分厚い防御を抜くために使われ、高い効果を上げました。高性能な爆薬はもちろん、一瞬の爆発で何が起きているかをとらえる写真技術・計測技術がそろって、ようやく兵器としての実用化ができたわけで、この連載で触れてきたような5年、10年の政治潮流よりさらにゆったりとした流れが、たまたまこの時代に渦を作った代物です。これが歩兵の対戦車能力を劇的に変化させて、諸兵科連合の在り方を大きく変えることになりました。ドイツで中心となったのは空軍系の研究所で、陸軍が開発した技術ですらないのです。
ハウスは、グデーリアンの急伸を受けた英仏軍が、相互連絡の悪さと通信手段の劣位、均等に分散し(すぎ)た配置などを背景に、防御側が「迅速に再展開する要領を身につけていなかった」(154頁)ことを指摘します。「方法主義的な周到に計画された会戦を想定していた」(154頁)ところ、読みを外されて、まったく用意のない種類の戦争をさせられ敗北したのです。
※「方法主義的会戦」という言葉については第18部分「 勝利は癖になるのです、モナミ」で解説しました。
フランス兵は、そしてある程度はイギリス兵も、まだこの時期には新兵や予備役応召兵が職業軍人的な練度に達していませんでした。
ハウスが指摘する、英仏戦車師団内の中間的な司令部の欠如は、まさにこの連載の中心に関係するものです(155~156頁)。例えば翌年のことになりますが、「街道上の怪物」KV-II重戦車との有名な戦闘をした第6装甲師団は、独ソ戦初期をふたつの戦闘群に分かれて戦いました。ひとつは第6自動車化歩兵旅団長ラウス大佐が率いるもので、旅団の半分である第4自動車化歩兵連隊を含みました。もうひとつは第114自動車化歩兵連隊長フォン・ゼッケンドルフ男爵中佐が率いる戦闘群でした。戦車連隊や各種支援部隊は任務や道路状態によってふたつの戦闘群に振り分けられ、ラングラフ師団長の裁量で増えたり減ったりしました。
これがうまくいくのは、ラウスには旅団司令部の人員と機材があり、ゼッケンドルフには連隊本部の幕僚士官や伝令や書記たちがいるからですが、普段から所属外の部隊と共同作戦し、ときには指揮する経験を積んでおく必要がありました。これらを欠いた英仏師団は、師団長に広範な指揮権限だけがあって、全ての問題で師団長にお伺いが立ってしまったのです。いくら優秀な戦車があっても、命令が出るのが遅すぎては機動性は失われてしまうのです。
北アフリカの航空機損失記録によると、現場で獲物を探す後方移動妨害に出たBf110双発戦闘機の損害はほとんど敵戦闘機によるのに、イギリス軍陣地攻撃任務の多かったJu87急降下爆撃機は対空砲による喪失が目立ちます。低速なうえ急降下からの引き起こし時に止まったように速度を失うシュツーカは、本来は対空砲のいい的なのです。しかしハウスによると、この独特の運動に英仏対空砲手たちは不慣れで、戦果が少なかったようです。第77急降下爆撃戦闘団司令のシュヴァルツコフ大佐は5月14日、ストンヌ村に近いベルヴィル=エ=シャティオン=シュル=バール[Googleママ]でハリケーン戦闘機に撃墜されました。マース川あたりで見つかってここまで逃げたのかもしれませんが。敵機を見つけて戦闘機に迎撃させるシステムは、まだまだ発展途上でした。




