撃って勝ったポーランド
ポーランド戦については、面白い史料が残っています。もともとは東方軍(ポーランド戦の戦後処理期に短期間置かれた司令部で、のちのルントシュテットの西方軍のようなもの)から上がった報告書の付録を、OKH一般陸軍局(AHA、Allgemeines Heeresamt)が広く回覧したもののようです。アメリカ国立公文書館のマイクロフィルムにあるので、知ってる人は知っています。こちらのページの一番下の表です。
https://panzerworld.com/poland-1939
ポーランド戦の砲銃弾別消費量と、1939年9月の生産量を比べると、この通りです。
消費量 9月生産量
小銃・機関銃弾 3億9800万発 1億6700万発
8cm迫撃砲弾 48万発 2万9千発
10.5cm榴弾砲弾 140万発 23万8千発
下2つは極めてヤバい印象を受けますよね。これを知っていると、「ドイツの弾薬は初っ端から足りなかった」とつい理解してしまいます。史料も本物ですしね。
しかし9月ってまだ半分平時なんですよ。大戦末期にOKH補給総監部に勤めた士官が、そこにあった資料や先輩からの聞き書きで戦後に書いた本があって、一部は「1939年10~12月平均月間生産量」がわかります。
消費量 10~12月平均生産量
8cm迫撃砲弾 48万発 33万発
10.5cm榴弾砲弾 140万発 62万5千発
2~3ヶ月で取り戻せる量になっています。大戦初期の小銃弾生産量は資料がありませんが、1940年には1年で29億5千万発つくられていますから、ずっと続くのでなければ補充できる量です。もちろん開戦時には相当量、AHA史料にもあるように61億7千万発の備蓄があるのです。
だからポーランド戦に限ってみれば、弾薬消費量は陸軍首脳にとって「何とかなる範囲内」といっていいでしょう。
ところが別の資料から、ポーランド戦とフランス戦の消費量を比べてみると、別の印象もあります。
ポーランド戦消費量 フランス戦(1940年5~6月)消費量
小銃・機関銃弾 3億9800万発 1億8000万発
8cm迫撃砲弾 48万発 46万4千発
10.5cm榴弾砲弾 140万発 148万発
フランスに対するのと同じくらい、小銃弾に限れば2倍撃っているのです。ポーランド軍の規模はフランス軍よりだいぶ小さいことを考えれば、「撃ちまくって勝った」わけですね。とくに歩兵が。
しかしドイツ装甲部隊は交通の要地に先着し、国境に近いところに布陣していたポーランド軍の移動を阻み、追いついてきた歩兵師団の歩兵や砲兵が囲んで撃つ条件づくりをしました。撃つ役を装甲部隊があまりやっていないのは、独ソ戦の展開との大きな差です。集中使用はされなくとも、ワルシャワ外郭陣地でいつものシュナイダー75mm野砲から抵抗を受けるところまでは達したので、集中して戦車で押したらI号戦車やII号戦車の残骸集積地ができただけでしょう。
フランス戦まで、Sd.Kfz.251/1装甲兵員輸送車を持っていたのは第1装甲師団だけでした。ずいぶん前に読んだ本で記憶が定かでないのですが、7個中隊だか9個中隊だかに配備したところで、各師団にとても回らないので1個大隊4個中隊だけにしようということになり、余分は返納したそうです。だから敵弾が飛んでくる地域で戦車に随伴する役目は、しばしばサイドカー部隊のものになりました。ヒャッハァ。先遣隊が要地の橋に着いたらグデーリアンが待っていたという話があるので、たぶんSd.Kfz.251/3装甲通信車はすでに一部の装甲部隊指揮官が使っていたのでしょう。
このころの装甲師団には15cm重榴弾砲がなく、軍直轄部隊を臨時に配属されていました。大戦を通して、軽榴弾砲1個大隊が歩兵1個連隊を支援し、重榴弾砲は重点戦域とカウンターバッテリーを担当するのがドイツ砲兵の基本です。すでに触れたように、開戦を待たず軽機械化師団の装甲師団改編は予定されていましたが、装甲師団にも歩兵と砲兵を増やしてバランスを変える改編が行われました。
ハウスが書いているように、ドイツ空軍は航空優勢獲得に忙しく、陸軍の希望を聞いた陣地攻撃はあまり見られませんでした。
「遠すぎた橋」でポーランド空挺旅団を率いたソサボフスキはこのころ歩兵連隊長でしたが、電話も電信も使えなくなり、自転車伝令も目的地に行きつかない焦燥を回想に書いています。おそらく周到に計画された戦争のため、ブランデンブルク部隊などの様々な妨害工作があったのでしょう。そしてポーランド軍は電信・電話の普及が精一杯で、敵のそうした工作に対する備えがなかったのでしょう。




