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アメリカについても簡単に


 アメリカの戦車部隊については、そのものずばり、これもやはり以前に書いてしまいました。


『士官稼業~Offizier von Beruf~ 外伝と解説 』「外伝01 ルイジアナ大演習」

https://book1.adouzi.eu.org/n4288gu/3


 アメリカには軽騎兵の伝統「しか」ありません。軍馬を民間市場から調達することが長く続き、軍馬専用種を仔馬から育てて、銃剣の林に突っ込ませる重騎兵がいなかったわけです。プロイセン風のサーベルは(多くの騎兵連隊が)持っていましたが、建国から100年もたたないうちに連発拳銃や後装式カービン銃が登場してしまいました。


 ところが(フランス陸軍を師匠と仰ぎ、ルノーFT17を国産化していた経緯も影響したか)第1次大戦後に戦車は歩兵科の持ち物とされてしまい、軍内政治で色々あって、1940年に歩兵科にも気を遣いながら、しかし騎兵主導の戦車部隊が誕生します。フラー風の後方一突き論も、騎兵が昔からやっている後方挺進のことだなと消化してしまったかもしれません。


 そうすると、決戦に集中使用された敵戦車と戦うのは、戦車部隊でなくてもよいわけです。砲兵科のマクネアはマーシャル参謀総長に重用されましたが、彼の主導でアメリカ軍の「戦車駆逐部隊」は決戦場に急行し、戦車とガチンコ勝負をする特別な砲兵として発展しました。対戦車砲が発達し数を増せば戦車は封じ込められるのではないか……という意見はドイツ士官の中にもあり、アメリカ固有というわけではありません。「戦車部隊」と「戦車駆逐部隊」を同格に扱うほど、本当にやってしまったのがアメリカだけだったというだけです。アメリカ陸軍が欧州に着いたころにはドイツ装甲部隊はそのピークを過ぎており、対戦車用部隊を大規模に持つことのデメリットばかり目立って、やがてひっそりと解体されることになりました。


 諸兵科連合作戦を指揮する(いわゆる1942年型)機甲師団司令部がチュニジアで欠点を露呈して、1943年型機甲師団でそれがどう改善されたかという話は、後で取り上げるところがあるでしょう。


 ハウスは大戦直前のアメリカ歩兵部隊が対戦車能力や対空能力を欠いていたことを批判します(128頁)。しかしドイツ歩兵向けの大戦初期の教則でも、歩兵は戦車にあったら塹壕などでやり過ごし、そのあとに続く歩兵をしっかり阻止して敵戦車を孤立させ、後方の対戦車兵器に処理を任せるよう指導されていました。歩兵中隊や大隊では、対空機関銃の装備など論外です。ベルト給弾式で連射能力の高いMG34/42を持つドイツが特異点なだけで、アメリカ歩兵はやや旧式ではあっても、当時の先進国歩兵の典型例から、やや弾数が少ないほうへ寄った編成であった程度でしょう。


 ハウスによれば、アメリカは友軍の砲どうしの相対位置を処理する計算尺や数表を用意して、ひとつの観測班を使って多くの中隊が協力できるシステムを組み上げ、無線機利用もあって柔軟で集中的な砲兵利用を実現しました。ドイツ軍は砲兵中隊(典型的には4門)ごとに中隊長や放列長以外に観測士官を配する贅沢な編成で、中隊が独自に射撃するシステムとしては優れていましたが、有線電話に多くを頼っていて、広域的な協力や観測班のデータ共有は不得意でした。たしかスコードリーダー(AH)のルールにもそれが反映されていましたね。


 ようやく戦間期が終わり、ハウスは第2次大戦へと話を勧めます。


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