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すいませんね同じ話を何度も

 ソヴィエトの「作戦術」が長い前史を持つことについては、むかし書いた文章があります。今回はちょっとその蒸し返しになってしまいます。


ディープ・バトルを巡って(ただし第二次大戦まで)

https://seesaawiki.jp/maisov/d/ossrev8


 ロシアの国土は圧倒的に広く、森と湿地・沼と川が移動を困難にします。ここで戦う陸軍は、とびとびに存在する都市や要地を海軍のように計画的に移動しなければなりません。適切な移動計画の上に立って、初めて会敵と戦闘ができるのであり、敵の退路を断つことは中でも困難です。だから戦場に歩兵と騎兵と砲兵しかいない時代でも、戦術とは異なった広域的な作戦術を考える人々がいたのです。1915年にマッケンゼンのドイツ第11軍がワルシャワのはるか南でゴルリッツ攻勢を成功させたとき、無傷のロシア軍部隊も孤立と包囲を避けるためにワルシャワ付近から撤退し、つながった戦線を回復しなければなりませんでした。マッケンゼンは主に砲と歩兵でこれを成したのであり、戦車はいませんでしたが、それでもワルシャワの側面や背後ががら空きになれば、ロシア軍のニコライ大公は軍を下がらせるしかなかったのです。


 1920年のソヴィエト=ポーランド戦争も戦場が大きく移り変わった戦争で、キエフを失うほど押し込まれたソヴィエト軍がワルシャワ前面まで肉薄し、また数百キロを敗走しました。必ずしも勝敗に直結する場所にいたわけではありませんが、このときブジョンヌイやヴォロシロフの率いた騎兵部隊は後のスターリンとともに戦い、政治的に重用されるきっかけとなりました。


 ハウスはソヴィエト=ポーランド戦争でソヴィエト軍の深入りが「労働者たちは革命に共鳴する」との期待によるものだったと書いていますが、「各国の労働者たちが革命に合流するので、我が労農赤軍の武器の質はともかく、数は多数である」という認識は独ソ戦が始まるまで(政治的に)正しいとされ、「そう教えられていたのに、全然そうではなかった」というソヴィエト士官の戦後の苦々しいコメントも読んだことがあります。この「数的優位」が「敵戦線を突破する数的優勢」の暗黙の基礎にあるようです。まあつまり、戦間期ソヴィエトのドクトリン(戦い方の原則)は、戦車とは関係ないところで基礎ががっちりできてしまっているのです。


 ドイツからいろいろ学び、クリスティー戦車やヴィッカース戦車を買ってさらに色々学んだソヴィエトでしたが、I-16戦闘機がさんざんドイツ機を苦しめたのに比べると、T-26戦車を中心とするソヴィエト戦車隊のスペイン内乱での成績は芳しくありませんでした。まあハウスも触れているように、現地の歩兵との連絡が悪く、ソヴィエト戦車同士の通信も機器などのせいで不自由であったろうなと想像はつきます。そして、コロミーエツ&マカーロフ『バルバロッサのプレリュード: ドイツ軍奇襲成功の裏面・もうひとつの史実』(大日本絵画)がかつて赤裸々に描き出したように、当時のソヴィエト車両の信頼性はカタログスペックとは裏腹に、低いものでした。もちろんスペインでも、本国並みの故障は出したでしょう。ハウスがその現地報告者として名を挙げている、戦車旅団長のドミトリー・パヴロフは、独ソ戦序盤の西部軍管区(ベラルーシ軍管区を改称)司令官としてミンスク失陥などの責任を問われ、幕僚たちとともに銃殺され、家族の多くも強制収容所から生還できずに終わりました。


 ソヴィエト戦車部隊の不首尾の流れを変えたのは、ノモンハン事件でジューコフが指揮した諸兵科連合部隊+航空部隊の成果でした。ベラルーシ軍管区司令官代理(騎兵担当)であったジューコフはヴォロシロフ国防人民委員の特命で第57特別軍団(のち第1ソヴィエト・モンゴル集団)の指揮を執り、ソヴィエトはすでに日本軍と衝突して戦力を晒していたところ、大規模な増援を送って日本軍を出し抜きました。もちろん例によって、関東軍と参謀本部は拡大・不拡大をめぐって化かし合いをやっており、急な増派はできませんでした。ですからこの戦い、戦術や兵器でソヴィエトが勝ったかというと、げふんげふんではあります。ソヴィエトの人的物的被害が日本軍を上回っていたことが前世紀末に明らかにされたのも、ご存じの方が多いでしょう。


 歩兵は歩くか戦車に乗るしかない状況が終戦まで続きましたが、ノモンハン後には曲がりなりにも諸兵科連合の機械化軍団(2個機械化師団+1個機械化ライフル師団基幹)が編成され(ようとし)ました。そのほとんどは編成未完のまま独ソ戦で損耗し解体されましたが。


 とはいえ1941年のドゥブノの戦いの推移などを見ていると、「戦車には戦車」といった大雑把な用兵で、片端から投入される反撃戦力に混ぜ込まれていて、「戦車を軸とする新たなドクトリン」は持っていないか、持っていても1941年には忘れていたような印象を受けます。1941年のことは、また語る機会があるでしょう。



※ハウスの124頁の編成図の下の方、「機械化軍団」は表のタイトル通り「機械化師団」の誤りで、機械化ライフル連隊2個・戦車連隊1個と図示されていますが、たぶん機械化ライフル連隊1個・戦車連隊2個の誤りです。この師団が2個と、戦車1個連隊+機械化ライフル2個連隊基幹の機械化ライフル師団1個で独ソ戦開始時の(新)機械化軍団が編成されていました。

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