勝利は癖になるのです、モナミ
戦間期フランス軍が抱えていた問題については、第11部分「戦争が終わって軍縮は生まれた」ですでにふたつとりあげました。
1.旧式装備の山
2.職業軍人や長期間の兵役への国民の不支持 ※これは師団数削減などももたらしました
3番目のお話として、「前大戦の勝ちパターンへの過度のこだわり」を挙げておきましょう。フランス軍ドクトリンの有名な研究者がbataille conduitというキーワードを使っているのですが、検索にほとんど引っかからないので、フランス軍内部で広く使われていたかどうかはわかりません。「統制戦」とでも訳しますか、計画と通信で諸兵科諸部隊がタイミングを合わせ、物量の優勢と砲兵の傘のもとで他兵科がそろそろと進み、勝つべくして勝つ戦い方です。ハウスの本では「方法主義的会戦」となっていますが、bataille conduitの英訳としてmethodical battleという、受験に絶対出ない英熟語が当てられますので、たぶんこの言葉でしょう。
ただし開戦直後は軍歴の浅い国民しかいないのですから、何年か兵士を鍛え、物量の裏付けも与えて動き出す戦い方が想定されます。フランス側から見れば、まさにいわゆるフォニー・ウォーはその準備段階であったわけです。
4番目の問題はこの3番目の問題から派生してくるわけですが、どうも後から考えると、戦間期に大兵団単位での諸兵科連合戦闘演習が少なすぎたのではないかと思えます。兵・下士官が慣れていないというより、士官が短い時間で状況を読み、計画し、命令を出す練習をしていないということです。これはイギリス陸軍にもほぼ同じことが言えて、1940年5月のテンポの早い戦闘についてゆけないというのは、そういうテンポで動く(ときに上との通信が途絶する中で、部下を動かす)経験が少なすぎたのではないかと思えるのです。
そしてハウスはマジノ線の功罪について触れるのですが、マジノ線はちょっと〇次郎構文的に言えば「要塞があれば効果的な場所を選び、要塞を置いたもの」です。西端のごく一部だけがドイツ軍との戦闘に入り、最後には空調システムを破壊されて窒息者を出すなど、防衛成功とはいいがたい結果に終わりました。しかし独仏国境部分での戦闘は最後まで不活発でしたから、コンクリートをもって人の不足を補う役目は一定程度果たしたように思えます。
むしろ問題は、ドイツ軍が実際に突破した部分がなぜ要塞化できなかったか……という点にあります。これは実は、1940年5月にドイツ軍が動き出したのと競争するように、戦線西端のフランス第7軍がオランダ領に入る勢いで突っ込んでいき、イギリス大陸派遣軍がその東隣をついて行った事情と表裏一体の関係にあります。
要するに、ベルギーとルクセンブルクの国境南側にフランスが固くカギをかけたら、それはフランスが両国を(もちろんオランダも)見捨てるように見えるわけです。かといって、両国を守るためにフランス軍の領内通過を公に両国が認めると、それはドイツをあからさまに仮想敵と宣言することになって、ヒトラーが何か仕掛ける口実になるかもしれないのです。
加えてベルギーは、ウィーン会議でできたネーデルランド連合王国から分離したのですが、ひとつの理由はカトリック教徒が多く、プロテスタントのオランダ王を戴きたくないということでした。ところが言語では東半分に多いフラマン人はオランダに近く、フランス語を話すワロン人より人口は多めで、ワロン人がフランスを後ろ盾にすること、下手をすればベルギー西部がいくらかフランス領になってしまうことを警戒しています。実際の第2次大戦で英仏軍が採った作戦は、第1次大戦でドイツが落とした首都ブリュッセル周辺を今回は守り切るという作戦でしたが、それはフラマン人とベルギー東部を見捨てるということですから、ベルギー政府は国内事情を考えるとそれをあらかじめ公表もできないし、協議すら難しいわけです。
※世界で一番有名なワロン人は、もちろんエルキュール・ポアロですよ、モナミ。
そういうわけで閉じられなかった場所を、グデーリアンは逆にたどったわけです。もちろんアルデンヌを抜けて自動車が走れるのは周知のことでしたし、フランスで国会質問されたことすらありました。ただ、通過に時間がかかるのでフランス軍が対応できると思われていたようです。自動車の性能が上がって、走破にかかる時間はだんだん短くなっていましたが、一部のフランス軍人がそれに気づいて問題提起したところ、「人心を惑わす」と軍上層部が抑え込んでしまったという話があります。
戦間期に、2個騎兵師団は自動車化歩兵、オートバイ歩兵、偵察軽戦車AMR33/35などから成る軽機械化師団(division légère mécanique、DLM)に改編されました。大戦中に1個DLMが新編され、さらにイギリス軍が去った1940年6月、次に説明するDLCのうちふたつがDLMに改編されました。装備する戦車は47mm砲のソミュアS35と37mm砲のオチキスH35または最新のH39(古き良きピュトー砲、H39は順次長砲身37mm砲へ)が半々で、計画通りなら8個中隊、174両(指揮戦車含む)が揃うはずでした。
大戦が始まったころフランスにはまだ装甲車隊を加えた3個騎兵師団がありましたが、これらは自動車化歩兵、オートバイ歩兵などを加えて(騎兵旅団も残して)5個軽騎兵師団(Division légère de cavalerie、DLC)へと改編され、アルジェリアの現地部隊を集成して第6軽騎兵師団もつくられました。まさに「車両に適さない」アルデンヌの森で防御に(といっても騎兵ですから、後列からの遊撃・追撃、あるいは偵察を想定していたのでしょうが)ついていた軽騎兵師団が多かったのですが、大戦に勝った側の宿命というか、対戦車戦闘で頼りになる戦力が少なすぎるように思います。
1940年になって、待望のB1重戦車とオチキスH39戦車を主力装備とする機甲師団(Division Cuirassée、DCR)が編成され、4個師団が編成未完のまま戦いました。
このほか、歩兵支援の戦車大隊として、FT17の正統後継者たるルノーR35戦車が多数配備されましたが、ふたり乗りのところまで正統後継してしまい、個車の戦闘力でも連携能力でも限界がありました。
ヒトラー政権成立以降にバタバタと戦車部隊が拡充されたのはイギリスも同様なのですが、先に敗北して後がなかったせいで、イギリスが後から修正して知らぬ顔をしていた軽戦車偏重の傾向など、「初期不良」そのままの編成と戦績が記憶されてしまったのは気の毒なところです。しかし騎兵を戦場に残そうと英独よりも頑張ってしまったのは確かです。
付記 conduitをググると「導管」といった訳語が出てきますね。conduct、conductorと同根の言葉です。「指揮者の指示通り」協調して戦うという感じでしょうか。「線でつながっている戦士たち」と考えれば「ばんぺいくん」ですね。英語の語感では気体を運ぶのがductで液体を運ぶのはpipeのようです。英語でconduitをそのまま使うのは日本でもコンジットと呼ばれる部材で、ケーブルなどの外側を管で保護するものです。




