83 小休止に黒歴史の授業
昼休憩のために止まった馬車の中、一人きりなのをいいことに力を抜いた体はシートに沈んでいた。カーテンは閉めてあるので布越しとはいえ、差し込む日が少し眩しい。
(……詰め込み過ぎて頭痛い)
よほど私の顔色が悪く見えたのか、馬車が止まってすぐに兄は「少し休むといい」と言って降りていった。ニコラスを呼んで護衛を頼むと、「クライブ、ちょっと顔を貸せ」とクライブを連れ立って離れる気配がした。
御者台にまで話していた内容がはっきり聞えたとは思えないけど、さすがに声を荒げたのは聞こえてしまっただろう。顔を合わせづらいので、それは助かった。
メリッサにも少し外の空気を吸ってくるといいと言って送り出した。躊躇われたけど、メリッサがいたら私の気が抜けないと思ったのか「飲物をいただいてまいります」と告げて降りていった。取りに行くだけにしては時間が掛かっているので、気を遣って一人にしてくれているのだと思う。
馬車の周りは比較的静かだけど、外からは昼食や休憩を取っている者の声で賑わっているのが聞こえてくる。
私の心境がどうであろうと、世界は変わらず回っていく。
置き去りにされたようで心細いかと思いきや、案外周囲の空気が普通であることに安堵の方が勝った。ここで周りまで通夜のような状態になられる方が気が滅入る。
(私が顔を出せばぎくしゃくしそうな気もするけど)
ここにいる人達で私が女だと知っているのは、まだ兄とクライブ、ニコラスとオスカーだけ。でも私がアルフェンルートだということはバレていると思うので、同行している衛兵は私にどう接したらいいかわからないだろう。
そんなことをぼんやりと考えていたところで、不意にノックされる音が響いた。メリッサが戻ってきたのかとゆっくりと体を起こす。しかし聞き慣れた声は届かない。
「はい?」
「アルフェ様、お腹空いてません?」
怪訝に思って声を投げかければ、思ってもみなかった人から呑気な声が返ってきた。思わず数秒固まって扉を凝視する。この声は護衛をしてくれているニコラスだ。
私が何者か知ったこの人が、そんな風に声を掛けてくるとは思わなかった。馬車の窓は嵌め込み式の為、恐る恐る僅かに扉を開けて外を窺う。
するとここ数日ですっかり見慣れた笑顔に見える顔が肩越しに私を振り返り、ポケットから取り出した卵を掲げた。たぶんそれは、私が伝授した塩味付きのゆで卵。
「食べます?」
「……いえ、結構です」
「アルフェ様が食べないなら、俺が食べちゃいますよ?」
「どうぞ……?」
オスカーは今朝方、私を見て少しぎくしゃくしていた。けれどニコラスは以前と変わった様子がない。態度と呼び方すら、私が侍女もどきをしていた時と同じ。
私を「殿下」呼びすると兄と被って紛らわしいから避けたいというのもあるだろうけど、兄に対しても結構気安い感じを受けるので、これがニコラスの通常運転なのだと思われる。でも。
「……ニコラスは、責めないのですか」
声が届く範囲には他に誰もいなかったので、躊躇ったけど聞いてみた。私を糾弾するなら絶好の機会だと思う。
すると元々笑って見える糸目を更に細め、面白そうに笑まれた。
「責めてほしいんです?」
ぐっと喉が詰まった。責められたいのかと言えば、責められたくはない。そう思う反面、責められた方が楽だと思う気持ちもある。
「ごめんなさい……。私には、助けてもらう資格なんてありませんでした」
兄と話をした限りでは希望を持ってもいいような気もするけど、それとこれとは別。
城で襲われた時点では、私に助けを乞う資格はなかった。謝って済む問題でもないけど、謝らずにいるのも違う気がして謝罪を口にする。
目を逸らしたい衝動を堪えて見つめたまま告げれば、ニコラスは肩を竦めた。
「あのときはアルフェ様に恩を売っておくのもいいかと思って手を貸しただけなので、気にしなくていいですよ。おかげでこうして美味しい対価をもらったわけですから、俺としてはこれでチャラってことになってます」
ニコラスはゆで卵を指で示し、飄々とした態度を崩すことなく言った。
そのあけすけなセリフに思わず絶句する。恩を売っておくといいって……しかし対価がゆで卵で満足するのはどうなの。半分ぐらいは本音なのだろうけど、残りの半分は茶化して気にしないようにしてくれてるのだろうか。
全身を緊張させている私とは反対に、ニコラスは呑気にゆで卵の殻を剥き出した。
「それに俺は気づいてましたから」
「!」
呑気な態度とは裏腹に聞き捨てならない台詞を投げかけられ、ギクリと心臓が大きく跳ねた。ただでさえ血の気のない顔から血が下がっていくのがわかる。
嘘。待ってほしい。兄だけでなく、ニコラスまでわかってたというの!?
「私はそんなにわかりやすかった、ですか」
やっぱり女装が駄目だった? それとも男の格好をしているときでも不自然さが滲みだしていた? もしかしてみんな本当は私が何なのかわかっていて、疑惑の目を向けていたの!?
既に兄達には知られているのだから今更とはいえ、全身に冷たい汗が滲む。心臓がバクバクとうるさくて、無意識に握りしめた拳が震える。
「さすがに城にいた時は考えもしなかったですよ。皇子っていうフィルターが掛かってるから、普通は疑いません。そんな風に見るなんて、失礼極まりないことですしね」
それもそうか。皇子に対して女みたいだ、などと考えるのは不敬だ。考えかけてもすぐに頭から追いやるはず。
それでも私が女だと気づいたのは、物理的に距離が近すぎたから?
「アルフェ様にも隙はありましたけど、どちらかと言えばその周りの態度が悪かったってとこです。どう見ても扱い方が男に対するそれじゃないですから。二人とも」
卵を口に放り込みながら、ニコラスが視線を人気の少ない木陰で話し込んでいる兄とクライブに向ける。仕方ないな、と言いたげな瞳は主人と同僚に向けるには随分と優しげに見えた。
しかし、その言葉はちょっと引っかかった。
「兄様はともかく、クライブは気づいていなかったはずです」
「さすがにそんなわけが、」
「気づいていたら、とっくに私は殺されていたと思います」
卵をうっかりゴクリと飲み込んだらしいニコラスが、大きく目を瞠った。何かを言おうと唇を開きかけたものの、それは声になることなく口元を歪めた。声には出されなかったけど、うわぁ……と言いたいのが伝わってくる。
その反応に眉を顰めた私を見て、ニコラスは慌てて片手で口元を覆い隠した。目を逸らして咳払いしてから、再び私に向き直る。
「ええと、ですね。少なくとも今のクライブがアルフェ様を傷つけることはないので、そこは安心していいです」
「……」
その言葉にどんな顔をしていいのかわからない。
確かに私を排除したいのなら寝込んでいる間にいくらでも出来たわけだから、今更クライブに殺されることはない、とは思う。たぶんだけど。
(それに、あれが夢じゃなかったのなら)
期待してさざ波を立てた胸を咎めるように、ちくり、と鋭い痛みが走った。自分でも手に負えない感情を押し殺したくて、咄嗟に唇を引き結ぶ。
「気休めで言ってるわけじゃないですよ? あの二人が成人する前からの付き合いですから、考えそうなことはわかります」
そんな私の態度を見て、ニコラスは私が信じていないと勘違いしたのかフォローを入れてきた。
その内容に思わず首を傾げる。
ニコラスの年齢はラッセルと同じぐらいで、まだ二十代半ば程に見える。でもラッセルは24歳でようやく近衛になった。普通は最低3年は下積みして経験と信用を得て、はやくても18歳ぐらいからしか近衛になれないはず。
クライブは兄の乳兄弟ということで、事前の経験値も考慮されて16歳という異例の早さで近衛になったはずだけど、あれは例外。
「俺は17歳で近衛に上がってすぐ、シークヴァルド殿下付きになったんですよ」
「近衛に昇格されたの、はやいのですね」
よほど才能があったのかと目を瞬かせれば、「コネです」と堂々と言われた。
「正式に名乗ってませんでしたけど、俺、公爵家の人間なんですよ」
公爵家ということは、王家の親戚筋。つまり私の親戚でもある。
「コーンウェル公爵が第四子、末の三男坊です。俺はシークヴァルド殿下に公爵家の後ろ盾を付ける目的で抜擢されたわけです」
あっけらかんと言われて、何と言ったものかと言葉を詰まらせた。
しかし公爵家とはいえ、本当に力の無い者が近衛になれるとは思わない。茶化して言ってはいるけど、先日刺客にあった夜に最初はニコラスが兄の護衛に当たっていたことから考えても、その実力は確かなのだと思う。今こうして私を任せていることから考えても、兄が彼に寄せる信用は絶大と言える。
「コーンウェル公爵家というと……」
「アルフェ様から見て、ひいひいお爺様の弟が、俺のひいひい爺様です」
……思った以上に遠かった。
言われるままに頭の中で家系図を遡ってみたけれど、ここ数代は公爵が出ていない。
現王である私の父は一人っ子。先王である祖父には、妹が一人いただけ。ちなみにその妹がエインズワース公爵の妻で、私が生まれる前に亡くなっている祖母でもある。
さらにその前の王が、ひいお爺様に当たる。この人も姉妹はいたが兄弟はいない。その更に上の代の王の兄弟が、初代コーンウェル公爵ということになるはず。
ちなみにこの時にエインズワース公爵家も出来た。力がある割に、エインズワース公爵家はそれほど歴史が古い一族ではないのだと改めて気づく。
「ついでに言えば、俺のひいひい爺様がアルフェ様と同じです」
私と同じ、と言われて首を傾げた。ということは、その人も男と謀っている皇女だった!?
「図書室に保存されていた動物図鑑。あれを作ったのが俺のひいひい爺様です。って言えば、わかります?」
一瞬悩んで、すぐに思い至った。
(転生者ってこと!?)
よくよく思い返せば、あれにはいろんな動物が描かれていた。
牛・馬・豚・山羊・羊と鶏だけでなく、キリン、ゾウ、パンダにペンギンなども描かれていた。私の中では一般的な動物だったけど、よく考えると知っている方がおかしい。テレビもネットもないこの時代、移動手段も限られるのにあれだけ多種多様な動物を知っていたということは、転生者以外考えられない。
となると、初代コーンウェル公爵は最低でも私の知る時代と同水準以上を生きていたはず。
前世では動物関連の絵描きか、動物園の飼育員でもしていたの……?
(というか、本当にそういう人が生まれてたんだ)
ここまで考えて、更に首を捻った。
あれだけの証拠を残していたのなら、私以上に奇異な存在に映ったはず。となれば、王に祭り上げられていてもおかしくないのでは? なぜ公爵?
「なぜその方が王になっていないのですか?」
「ひいひい爺様が知っていたのは、動物だけだったそうですから。それにアレ、見たことのない奇妙な生き物ばかりですし、それが実在すると証明する術はありません。特別だと思われたくて架空の生き物を描いた可能性もあるわけです」
素朴な疑問を投げかければ、困ったように苦笑いをされてしまった。
異様に首の長いキリンとか、やたら鼻の長い象とか、にわかには実在するとは思い難い。架空の生き物だと思われた可能性の方が高いことは、簡単に想像できてしまった。
「それに、あの当時は『至宝』が二人生まれた時代です」
「至宝?」
「王家に生まれる特殊な子は『至宝』と呼ばれるんですよ。これ、本当はアルフェ様も知ってないとおかしい話なんですけどね……。うちは初代がそうだったから結構詳しいんです。折角ですから、ちょっと歴史の勉強をしましょうか」
そう言ってニコラスが説明してくれた内容を、必死に頭の中でまとめる。
――当時、王に三人の息子が生まれた。
正妃の息子が二人、身分の低い側妃の息子が一人。その中で第三子となる側妃の息子が『至宝』だった。
その為、まずここで王位争いが起こった。
側妃の生んだ第三子とはいえ、『至宝』が王になるべきではないか。しかしこの『至宝』が知っているのは奇天烈な動物だけ。実在すると証明する術もない。
悩んだ結果、時の王は正妃の子である第一子を皇太子に据えた。
そしてその皇太子が成人を迎える直前で、なんと彼も『至宝』であると判明した。側妃の息子とは比べ物にならないほど、皇太子は別格の『至宝』だったという。
本来は王が亡くならないと新王は立たないが、彼はとても特別だった為に成人してすぐ王となった。だが即位して2年程で、諸事情があって自ら王を降りることになる。
それが、初代エインズワース公爵だ。
しかし彼が掛け替えのない『至宝』であったことに変わりはない。前王と周りは彼に大きな権利を残した。公的な立場が王でなくなっただけで、実質彼が王のままだったと言っていい。
そして彼が王を降りた時、ここでまた王位争いが起こる。
領地を含む半分以上の王家の権利がエインズワース公爵に渡ったとはいえ、王は王で重要な地位だ。何の力もないが正妃の子である次男が王になるべきだと言う派と、側妃の息子だがもう一人の『至宝』を今度こそ王にすべきだという派に分かれた。
しかしここでも結局、正妃の次男が王を勝ち取る。側妃の息子は『至宝』である正当性が認められず、初代コーンウェル公爵になった。
これまで私は異母兄弟間のよくある王位争いだとしか認識していなかったけれど、どうやらこれがコーンウェル公爵家とエインズワース公爵家の成り立ちらしい。
ここでひとつ、疑問が湧いた。
「コーンウェル公爵家は、王家に対して悪感情を抱いていないのですか?」
当時の状況を鑑みると、コーンウェル公爵家が兄の後ろ盾となることを了承した意味がわからない。
立場的にエインズワース公爵家に良い感情を抱いていないとしても、王家のことも恨んでいたっておかしくはない。
怪訝な表情を隠せない私を見て、ニコラスは「俺らから見れば大昔の話ですしねぇ」と苦笑いをした。
「それに、ひいひい爺様はかなり穏やかな人だったそうでして。王位なんて全く興味が無くて、いろんな動物と過ごしたいって言ってたらしいです。結果として何もない田舎だけど広大な領地をもらって、そこでいろんな家畜を飼えることになったので、本人としては満足だったわけです」
コーンウェル公爵に前の記憶がどれだけあったかはわからない。動物の知識だけしか持っていなかったならその扱いに憤ったかもしれないが、以前生きた記憶も持っていたのなら、好きな動物に囲まれて日々穏やかに過ごす方を嬉々として選びそうではある。
「それにうちより、次王とエインズワース公爵家の方が確執は大きかったんです」
そこでニコラスが僅かに声を潜め、眉尻を下げた。
表面的には、王家とエインズワース公爵家は親密だ。始まりが同母兄弟ということもあり、一番王家に近い。
でも次王として立った次男の立場になって考えると、非常に面白くはない。
(棚ボタ的に王位が転がり込んできたとはいえ、王を降りても特別扱いされる実兄と、昔から特別視されていた異母弟に挟まれれば……荒むのは必然)
異母弟は田舎に追いやったものの、すぐ傍らには公爵になっても持て囃される実兄。同じ血を継いでいるはずなのに見せつけられる、その立場の差。
同じ血を継いでいるからこそ、憎悪を抱いてもおかしくはない。
ちなみに当時の王位争いに嫌気がさした彼が、一夫一婦制に法を改正した。後妻を娶る可能性はあるけど、何人も妃がいるよりはマシだと考えたのだろう。そして庶子に王位継承権は与えず、王位は上から順番に継ぐべきと定めた。
その弊害で、今度は王の許嫁に暗殺未遂が起こったこともあるというけど。陛下が物理的に強い妻を求めたのは、この辺りの理由もありそう。
そしてこの時から、王族は成人するまで一切表舞台に出さないと決められた。もしまた特殊な子どもが生まれて、それによって王位争いが起こることを憂慮したのかもしれない。
この時点で既に私の頭はパンク寸前。
休憩で片手間に学ぶこととしては、愛憎入り乱れている。歴史の勉強って、こんなに殺伐としたものだった……?
(当時の確執が今も続いているなら、相当根深い)
初代エインズワース公爵は、若くして亡くなっている。孫である現エインズワース公爵、即ち私の祖父は初代に会ったことはないはず。
でも祖父の両親やその周りが、自分達こそが正当な王家だと祖父に言って聞かせていたとしたら。
特別なのだと、選民意識を植え付けたのだとしたら。
王家とエインズワース公爵家の子同士、孫同士、お互いが目障りな存在に思えただろう。私が知っている限りでは、王家とエインズワース公爵家は内実はお互いによく思ってはいない。
しかしそんな悪感情しかないのに、先王の妹はエインズワース公爵に嫁いだ。
これに関しては、先王が打つ手を誤ったとしか言えない。
先王とエインズワース公爵がまだ若い頃、辺境で他国と小競り合いをしていた次期があった。40年以上前の話だけど、先王はエインズワース公爵に討伐して来いと命じた。いっそそこで死んでくれればいいと思っていたのかもしれないし、戦いに乗じて消す気だったのかもしれない。
けれどエインズワース公爵は戦に勝ち、生きて帰ってきた。
その褒賞として、先王の妹を妻にと求めたのだ。そこに恋愛感情があったかどうかまでは、私も知らない。嫌がらせ兼、王家の血が欲しかっただけな気もする。
表面上は近しい親族、しかも周囲は血を貴ぶ傾向にある。名目的にも先王は断れなかった。かくして妹はエインズワース公爵に嫁ぎ、オーウェン伯父様と私の母が生まれた。
そして多分祖父のストッパーとなっていた祖母が亡くなったことで、エインズワース公爵が暴走。
その結果、母は従兄妹である陛下に嫁ぐことになり、私が生まれることになる。
(……どう考えても、女だけが貧乏くじを引かされている)
私からしてみれば、こうして纏めると祖父同士で何をしているの?って感じだ。怒りを通り越して、心が死んでいきそう。いいかげんにしてほしい。
そんな恨み言はひとまず置いておいて、もう一つ大きな疑問が残った。
「初代エインズワース公爵は、どういった人だったのですか?」
未だに場合によっては王すら凌ぐ力を持っているエインズワース公爵家。そしてそれを当然のように許容して、未だ支持し続けている一部の貴族。
そうさせる彼は、いったい何者だったのか。
ここまで事情を知っているニコラスが知らないわけがないはず。そう期待して見つめれば、ニコラスは「それは安易に俺から言えることじゃないので」と言葉を濁した。
「シークヴァルド殿下か、陛下からお聞きした方がいいです。陛下がアルフェ様の扱いを徹底していたのは、多分この辺りも関係してきますから」
スッキリしない気持ちで顔を曇らせたが、ニコラスは話は終わりとばかりに視線を兄達の方に投げかけた。どうやら向こうも話が終わったのか、こちらに歩いてくる二人の姿が見える。
咄嗟に飛び出していた顔を引っ込めれば、「アルフェ様」とニコラスに呼び止められた。
「俺からも一つ、訊いていいです?」
「どうぞ」
私の知らなかったことを色々教えてもらえたのだから、答えられる範囲で答えたい。
それに多分、ニコラスは塞ぎ込んでいる私の気を紛らわせるために話しかけてくれたのだと思う。まだ実のところまったく整理のついていない気持ちは抱えたままだけれど、別のことで頭を使ったおかげで一時とはいえ気分の切り替えが出来た。
促せば、意を決したようにニコラスは真面目な顔つきになった。思わず私も身構える。
「あの図鑑に載ってた動物って、本当にいるんです?」
しかし問われたそれは、全く想定していない問いだった。
ニコラスは唇を引き結び、嘘は一切見逃す気はないと言いたげな強い瞳を向けてくる。
その眼差しに気圧されつつも、頷いた。
「少なくとも、私の中では実在している動物です」
あの図鑑に載っていた動物は、私の知っている動物ばかりだった。大きな動物園で見たことのある様々な動物。今生で本物を見る機会はないだろうけど、私の記憶の中には確かに存在している。
「あの首の長いやつも、耳がでかくて鼻が長いやつも?」
「キリンもゾウも、いるはずです。多分想像しているよりずっと大きい動物です」
疑い深げな眼差しを真っ向から見返して頷いてみせる。するとニコラスはいつものような糸目になって、破顔した。
「俺はそれを聞けただけで、アルフェ様を助けた意味があるってもんです」
とても嬉しそうな、屈託のない笑顔だった。
それはまるで少年のように。
(……もしかして)
ひいひいお爺様とはいえ、先祖が王位を狙う嘘つき扱いされたことは、少年時代のニコラスの胸に棘を残していたのだろうか。
17歳で近衛になれるほどの地位と才能を持った彼に対し、心無いことを言う者もいたのではないか。自分は本物だと信じていても、その気持ちを踏み躙られるのはきっとすごく悔しい。
でもこれで彼の憂いが晴れたというのなら、私の記憶も無駄ではなかったと思える。
(よかった)
……こういうときに少しだけ、今の私もここにいてもいいと言われたように思えて、泣き笑いしたくなる。
「ところで、馬に羽と角が生えたやつもいるんです?」
「それは……、いないです」
「でもアルフェ様の落書きには、馬に羽と角が」
「忘れてください。ただの妄想です!」
私の厨二病を患った落書きをなぜ二コラスまで知っているのかわからないけど、それは綺麗さっぱり忘れてほしい! お願いだから私の黒歴史まで抉らないで!
ちょっと浮上した気持ちが、こんなところで引きずり落とされるとは……っ。
「随分と仲がよさそうだな」
羞恥に駆られて勢いよく扉を締めかけたところで、戻ってきた兄が少し驚いた声を投げかけてきた。咄嗟に手を止める。その間にクライブは一言も発する間も与えられず、今度はニコラスに強引に連行されていった。
代わりにオスカーがさりげなく兄の傍に付くあたり、絶妙に連携が取れている。この3人はいつもこんな感じで兄に付いているのが見て取れた。
「顔色、多少はマシになったか?」
「ニコラスが気を紛らわせてくれましたから」
でも、また出発したら話の続きとなるのだと思うと微かに笑った顔が再び強張っていくのがわかる。
それを見た兄が馬車に乗り込みながら私の頭を撫でる。髪が乱れてアホ毛が立つのは困りものだけど、けして嫌じゃない。
「もうしばらく休んでいるといい。話の続きといきたいところだが、それはセインが戻ってきてからだ」
「……え?」
兄の掌を堪能していたところで、そんな言葉が降ってきて思わず固まった。
(今、セインの名前が出てこなかった?)
ぽかんと、馬鹿みたいに間抜け面をしていたと思う。大きく瞠った目で兄をまじまじと見れば、視線に気づいた兄が「今、セインにはエインズワース領に行ってもらっている」と言い出した。
なぜ。
というか、どうして兄がセインの行動を把握しているの。いや、行ってもらっている? 兄が行かせているの? エインズワース領に?
なぜ!?
頭の中には疑問符だけが浮かんで、何の答えも弾きだせずに消えずに残る。
「なぜ、セインが動いているのですか」
問いかける声が震えた。
頼むから、馬鹿でもわかるように! 簡潔に説明してほしい!
レビューくださった方、ありがとうございました。恐縮です。
思いのほか文字数が嵩んでしまっているのですが、ここまでお付き合いくださっている方々もありがとうございます。




