幕間 後悔先に立たず(前編)
※シークヴァルド視点
――ずっと後悔していることがある。
アルフェンルートがまだ幼い頃、一度だけ私に手を伸ばしてきたことがあった。
あれは私も成人前で、年に一度、式典の前に陛下と妃殿下に挨拶をするために謁見の間の前で待機していた時だ。
その前の年までは乳母に付き添われていたアルフェが、そのときは一人でいた。傍に護衛はいたものの、不安そうな顔で所在なさげに佇んでいた姿が妙に記憶に残っている。
それまでも何度かアルフェを図書室で見かけていた私は、見かねてその隣に並んだ。
しかし図書室で見たことはあると言っても、私が勝手に見て知っていただけである。アルフェから見れば私との関わりは一切ない。私に並ばれたことで余計に委縮させてしまうかとも思ったが、意外なことにやけに視線を感じた。
視界の端でアルフェがチラリとこちらを窺い、視線を床に落とし、また気になってこちらを見上げる。それを何度も繰り返していた。
実のところ、人に視線を向けられることは日常茶飯事だ。
皇子だからというだけでなく、絶世の美貌を誇っていたという母親譲りの顔はどうにも人目を引くものらしい。
アルフェとはこれまでにも顔を合わせていたが、ちゃんと見ていなかったのだろう。陛下も生まれつき視力がいい方ではないから、アルフェも目が悪いのかもしれない。
それにいつもその視線は母親にばかり向けられていたから、私のことは眼中になかったとも考えられる。間近で私を見るのは、よく考えれば初めてだった。
(これは私から声を掛けるべきか?)
少し悩んだ。
陛下からは、アルフェに関わるなと釘を刺されていた。
図書室で眠りこけているアルフェを見つけたときは、起きそうになるまで傍についていたが、それはあくまで人目がないからだ。成人前の年始の挨拶は非公式で家族間だけのものとはいえ、周りを護衛に囲まれている。
躊躇って、結局私は動かなかった。素知らぬ顔をして、ただ隣にいた。
アルフェは私がまったく関心を示さない態度だったことに、逆に安心したのだろう。何をしても気づかないと思ったのか、そうっと躊躇いがちに小さな手を伸ばしてきた。
どうやら私の髪が気になったようだった。
クライブやデリックのようにまめに切るのが面倒で伸ばしていたから、アルフェの手が届く位置にあった。この国ではあまりない白銀の髪が珍しかったのだと思う。剣の刃にも似た色のせいか、感触が気になったのかもしれない。
だがさすがに手が伸びてくるとは思わなくて、驚いて思わずアルフェに視線を向けてしまった。
目が合って、アルフェは見るからにビクリッと肩を跳ねさせた。慌てて伸ばしかけていた手を自分の背中へと隠すように引っ込めると、叱られることに怯えるように顔を俯かせた。
それから頑なに顔を上げず、固くなってしまった。とても声を掛けられる雰囲気ではなくなった。
――もしも、あのとき。
気づかないフリをしたまま、触らせてやっていたら。それから視線を向けていれば。
せめて、優しく声を掛けていたら。
そうしていれば、そこから関係を変えられたかもしれない。もっとはやくに、気づいてやれたかもしれない。ここまで追い詰める前に、助けてやれたというのに。
アルフェから手を伸ばしてきたあの時だけが、たぶん距離を縮める唯一の機会だった。
みすみすその機会を逃した自分を、今でも後悔している。
そしてたとえあの後で図書室で声を掛けたとしても、逃げ回られるだけだっただろう。そんな言い訳をして、その後も手を差し伸べなかった自分を後悔している。
(罵られるべきは、私の方だ)
アルフェは自分を卑怯者だと言っていた。
自分が生まれたことで、私の身に危険が及んでしまったのだと。それをわかっていながら自分が女であることを隠し続けて、自分だけのうのうと生きていたのだと。
でも実際のところ、それは少し違う。
小国の王女を母に持つ私は、この国において後ろ盾は王の一存のみ。今でこそ味方も増えたが、血を貴ぶこの国では私が時期王となることを快く思わない連中は多かった。
だからアルフェが生まれなくとも、私の命は狙われていた。母が私を生んですぐに亡くなっていたこともあり、私を弑せば新たに正当な血を持つ妃を迎えて子どもを産ませられるからだ。
王がエインズワース公爵家から第二王妃を迎えたのも、一時的でも私を守るためであった。
諸侯は第二王妃が皇子を産めば、血筋から考えて王位継承権が覆る可能性は高いと考えていた。だからこそ第二王妃が嫁ぐことが決まり、アルフェが生まれてしばらくは暗殺は落ち着いていたという。
正当な血を繋ぐ子どもが生まれたことで、私が退けられると思われていたからだ。いちいち私を殺さずとも、王がアルフェを次期王にと支持すればいいだけだったからだ。
しかし王はそれまでと変わらず私を支持し、アルフェをないがしろにした。
親としての態度としてはどうかと思うが、ある意味それはアルフェを守るためでもあった。意思を徹底することで、王位争いに極力アルフェを利用させないための苦肉の策でもあった。
だが当然ながら、幼いアルフェにはその考えまではわからない。ひどく傷つけられたはずだ。
再び血筋を重んじる派は業を煮やし、沈静化していた暗殺は再開された。けれど、本気で暗殺する気があるのは半分程だったように思う。
第一王位継承者が弑された状態で、アルフェが王位に就くのは外聞が悪い。そういう事情もあり、「死にたくなければ王位継承権を放棄しろ」という警告のようなものが多かった。
だからもしアルフェが皇女として育っていたとしても、第三子以降に皇子が生まれるまで私は狙われることになっただろう。
つまりアルフェが自身を責める必要など、最初からなかったのだ。
むしろアルフェが存在することで、多少はマシになっていた部分もあるぐらいだった。
(それでもアルフェに近づかなかったのは、命じられたからだけじゃない)
父の言いつけに疑問と不満を覚えながらも、逆らえずに従っていた弱い自分は確かにいた。
初めて間近でアルフェを見た時、小さくて、弱くて、守ってやらなければならないと思った気持ちに嘘はない。
けれど血筋だけで優遇されることを妬む醜い気持ちも、僅かに胸に燻っていた。
アルフェが特別な存在であるとわかれば、自分の身が脅かされるのではないかという焦燥も感じていた。だからこそ、様子を見ると嘯いてアルフェのことを黙ったままでいた。
そんな自分の小ささと醜さが、現状を招いたとも言える。
勿論、私だけが悪いわけじゃない。私に同調した者も悪ければ、黙っていたアルフェにも問題はある。まずアルフェを皇子だと謀ろうとした者がなによりも悪いし、それを見過ごした王にも当然責任があった。
すべてが絡み合って、歪に嵌り、そうして現状を作り出してしまった。
そうなった原因の一端を自分が担っていないとは言えない。
小さな妹を虐げていた一人は、間違いなく自分なのだ。
(本当の卑怯者は私だ)
私の印象に強く残っているアルフェは、書棚に囲まれた人気のない図書室の特に薄暗い地下の隅、小さな体を丸くして眠る姿。
時折連れ込んだらしい猫が傍にいたこともあったけれど、いつも一人きりでいた。人の気配を察すれば息を潜めて姿を隠し、誰とも関わろうとしていなかった。
いつしかアルフェの居場所は中二階の窓際に移動して、眠る姿も見なくなった。故に昔のように触れることもなくなり、書棚の影から時折姿を見かけるだけになった。
時折、淋しそうな顔をしていたことを知っている。知っていたのに、ただ見ていただけだ。年始の挨拶をする際、年を重ねるごとに青い瞳が硝子玉のように無機質になっていくのにも気づいていたのに。
誰とも繋がれずに一人でいるアルフェを見て、密かに自分は安堵していた。
子どもだったことを差し引いても、ひどく身勝手で、残酷だった。
(思えば私は、アルフェが声を上げて笑うのを見たことがない)
眉尻を下げ、困ったように笑うのは何度か見た。本を読んで嬉しそうにしているのも見たことはあった。猫を撫でて、目を細めて笑む姿だけはとても穏やかだった。
けれど生きていることが楽しいと思えるような笑い声なんて、一度も聞いたことがない。
(あんな風に泣く声すら、初めて聞いた)
これまで私を見て泣きそうな顔をすることはあったけど、いつだって必死に押し留めているのがわかった。まるで泣く権利なんて自分にはないと言うように、ずっと我慢していた。
アルフェが襲われた時に、助けられた親しい人たちの姿を見ても、声を押し殺して嗚咽を漏らすだけだった。小さな子どもみたいに声を上げて泣くことはしなかった。そんな風に泣くことが身に染みついているかのように。
ずっとそうやって生きてきたのだと、思い知らされた気分だった。
真っ当に育っていれば、愛されて、守られて、何の陰りもなく微笑んでいられる存在のはずだったのに。
躊躇いがちに伸ばされた小さな手を思い出す。
(あのとき、手を取ってやっていれば)
あんな風に、自分がいらない存在なのだと思わせることも。仄暗い瞳をして、諦めたように笑うことも。ふとした瞬間に死の気配を纏わりつかせることも、なかったはずなのだ。
あれから何度もそう考えて、苦い気持ちが込み上げる。
手を伸ばせば届く距離にいた小さな妹一人、守ってやれなかった。
そんな情けない自分が次期王になるなど笑わせる。
ここで手を離したら、私は一生自分を許せないだろう。今度こそ、伸ばされた手を離すわけにはいかなかった。
以前クライブにも告げた通り、これは半分は罪滅ぼしだ。
実のところアルフェが特別だからだとか、役に立つからだとか、そんなことは後付けの理由に過ぎない。
今更虫がいい話だとはわかっている。それでもまだ間に合うならば。
残りのもう半分は、妹を今度こそちゃんと兄として、守ってやりたいと思う身勝手な気持ちでしかないのだ。




