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78 Bad Apple


 人が集まってくる前に兄が私の肩を抱いたまま立ち上がった。さすがにだるいのか、動作は緩慢ではある。それでも兄の腕は呆然としている私を子供みたく抱き上げた。周りの目から私の体を隠し、駆け寄ってきた衛兵が手を差し伸べてきても、首を横に振って私を抱えたまま離さない。


(どうして)


 女だと気づいていたのに、それでも尚知らないフリをしていてくれた。守ってやるとまで言ってくれた。

 実際、守ってもらっていたのだ。


(私にはそんな資格なんて、ないのに)


 私は、腐った林檎のようなものだった。

 林檎箱の中に一つ放り込んでおくだけで、ただそこにあるだけで周りに腐敗を伝染させていく元凶。そうとわかっていながら、居座り続けた卑怯者だったというのに。

 濡れた服越しに伝わってくる人肌の熱に、じわりと目頭が熱くなってくる。ぐっと奥歯を噛み締めれば、背に回された掌であやすかのごとく背を軽く叩かれた。


「シークヴァルド様」


 不意に兄を呼ぶ声が響き、私達を守る衛兵が割れた。

 まだ喧騒の残る屋敷から、血相を変えてランス伯爵夫人が出てきたのだ。寝間着姿ではなく、騎士然とした動きやすい服装をしている彼女の手にはタオルだけでなく、剣まで携えられている。その姿を見ても兄は驚くことなく、「セリーナ」と彼女を呼んだ。


「お守りしきれず、このような事態を招くこととなり誠に申し訳ありません」

「多少想定外だったが、これに関しては私の不手際だ。メリッサ嬢は無事か?」

「ニコラス様が保護されておいでです。落ち着いてからお連れしましょう。お二人はこのまま安全な場所までご案内しますので、どうぞこちらへ。クライブ、あなたもです」


 頭から大判タオルを掛けられて反射的に体を強張らせれば、「大丈夫だ」と兄が大きな手で私の背を撫でた。


「セリーナとランス伯にだけは、最初からおまえのことは伝えてある」


 私にだけ聞える小声でそう告げられて目を瞠った。兄だけでなく、ランス伯爵夫妻も知っていたのだと聞いて動揺のあまり息を呑む。


(でも、私はあの人達に傷つけられてない)


 兄にとって邪魔な私を排除する機会はいくらでもあったはず。謀っていた私の存在など到底許せるものではなかったと思う。それなのに、夫人は優しい手で髪を結ってくれた。

 ランス伯爵も、私が女だと知っていながら……否、女だとわかったからこそ、謝られたのだと今更ながらに気づく。

 彼が私の特異性に気づいた時点で王に告げていたら、これまでのように放置とはいかなかっただろう。私の周りに人は増えただろうし、性別を隠し通すことは不可能だった。そうなっていれば、ここまで事態が捩れることにはなっていなかった。だからこそ、彼の後悔はあそこまで深かったのかもしれない。

 それでも動揺は治まらなくて、なんて言えばいいのかわからなくて口籠る。

 それに兄はランス伯爵と夫人に「だけ」は伝えてあると言った。ならばやはり、クライブは知らなかったということになる。

 今どんな顔で、どんな目で私を見ているのか。怖くてとても見られない。

 ちゃんと向き合わなければならないとわかっている。でも今は混乱しすぎて、頭から掛かっているタオルをぎゅっと引き寄せて視界を半分にしてしまう。カタカタと小さく体が震えてしまうのは、水に濡れた寒さのせいだけではきっとなかった。


「アルフェ」


 夫人が先導する形で敷地内に建つ小さな別宅の部屋へと向かう途中、私にしか聞こえないぐらい小さな声で兄が囁いた。


「私のこともまだ信じられないか?」

「!」


 弾かれたように顔を上げれば、すぐ間近から真っ直ぐ私を見つめる淡い灰青色の瞳と目が合った。責めているみたいに聞こえる言葉に反して、その眼差しは驚くほど静かだった。ただ純粋に疑問を尋ねているように見える。

 数秒見つめ合って、どう答えようかと迷って唇が戦慄く。何度か躊躇っていると、兄がちょっとだけ淋しげに目を細めた。罪悪感で心臓が引き絞られたみたく竦み上がる。


「にいさま、私は……」


 そこで案内された部屋に辿り着いてしまった。

 部屋に入り、兄の手がゆっくりと私を床に下ろす。そのまま崩れ落ちそうになる足に力を入れて、咄嗟に引き留めるために手を掴んだ。

 お互いに濡れそぼった姿だから、滴る水で絨毯が湿っていく。一緒に部屋に入ってきた夫人が私達の姿を気遣って、「お話なら後から改めてでも……」と声を掛けてくる。

 それに対して首を横に振った。体は芯から冷え切っていて、全身に冷たい血が巡っているかのごとき錯覚があった。それに加えて疲労と極度のストレスに晒されているせいか、頭は熱を持っている。

 でもこれ以上、先延ばしにするべきじゃなかった。今を逃したら、もう何も言えなくなるかもしれない。そんな恐怖に押されて口を開く。


「……本当は、これまでにも何度か告げようとは、思っていたのです」


 ぐっと息を呑んだ後、なんとか絞り出して告げた言葉は言い訳にしか聞こえない。

 実際、言い訳でしかない。

 結局、私は自分の口から真実を告げることが出来なかった。必死に言い訳をして先延ばしにして、兄を騙し続けていた。兄が本当は私が女だと知っていた、というのは別問題だ。私が兄を騙していたという事実は覆らない。


「ああ、知っている。アルフェの立場では安易に口に出来ないだろうともわかっていた」


 唇を噛み締めて目を逸らした私をフォローするつもりなのか、兄がそう口にする。

 何もかもわかっている、と慰めてくれるつもりだったのかもしれない。心を砕いてきた妹にこんな仕打ちをされたというのに、まだこの兄は私に甘い。尚も理解を示し、包み込んで守ろうとしてくれる。

 だからこそ余計に居た堪れない。胸が軋む。

 その優しさに甘える権利なんて、私にはないのに。


「私は、ただの卑怯者です……っ」


 言えるのは、それだけ。


「私は自分の身が可愛かった。私の周りの人を失いたくなかった。そんな理由で、ずっと兄様を犠牲にし続けた卑怯者です」


 いくつもいくつも言い訳をして、自分を正当化して、そうやって兄を犠牲にして歩いてきた。これまで、ずっと。


「…………、それでも私だって、これでもどうにかしようとしてきたのです」


 それなのにこの期に及んで、悪足掻きで震える唇から言い訳が零れ落ちた。

 兄は何も言わない。クライブも、夫人も、呆れて何も言えなかっただけかもしれない。だけど勝手なことを言うな、と怒ることもしなかった。

 恐る恐る顔を上げて窺えば、静かな眼差しで私を見つめ続ける兄と目が合った。先を促す眼差しに背を押され、言い訳することが許されたことに視界が潤んで歪みそうになった。


「私が女であるということが、どういうことなのか。それを隠しているのが、どういう意味なのか。……それが理解できる頃には、これが誰かに知られたら私も、私の周りもただでは済まないということも同時にわかるようになっていました」


 目に力を入れて込み上げてくるものを堪え、小さな声で、半ば独り言のように言葉を紡いでいく。

 本当はずっと誰かに、聞いてほしかった。

 私がこれまでやってきた、精一杯の悪足掻きを。


 ――昔から、乳母もメル爺も私に対して何かを秘密にしている素振りがあった。

 子供というのは案外敏感だ。そこには触れてはいけないのだと感じ取って、あえて自分もその秘密から距離を取った。幼い頃は、ただ言われるままに誰とも関わらずにきた。大人が言うのだから、それが正しいことなのだと信じた。

 けれど成長すれば、少しずつ違和感を覚える。違和感から目を逸らすことが出来なくなっていく。そうして何かがおかしいことを誤魔化しきれなくなった頃に、乳母から自分のことを知らされた。


 自分が本当は、皇子ではなく皇女なのだと。


 ……本当のところ、薄々気づいてはいた。

 私は弱いからと言って、外に出してもらえない。他の貴族の子供たちは外で遊んでいると聞くのに、自分は許されない。同じ年頃の子供なんて、メリッサ以外に会ったことがなかった。

 立場を考えれば仕方ないと思う反面、自室で暑いからと上着を脱ぐことは勿論、僅かに襟元を緩めることすら「はしたない」と血相を変えて叱られる。さすがに異常を感じた。

 過剰な程にドレスを纏うことを拒否されたこと。自分一人で着替えが出来るようにと躾けられたこと。メリッサにすら、一切肌を見せるような真似をさせなかったこと。思い当たる節はいくらでもあった。

 自分の体に何かがあるのだろうと、それぐらいは理解していた。

 それでも必死に目を逸らし続けてきた。私の周りの人たちが私を騙すような真似をするわけがないのだと、そう信じたかった。

 ……それが裏切られていたのだとわかっても、それでも自分は女なのだと他の誰かに訴えることは出来なかった。

 だって私を愛してくれるのは、あの人たちしかいなかった。

 私の本当の家族は、誰も私を見てくれない。縋りつけるのは、目の前にいる人たちしかいなかった。失いたくなかった。


「最初は、いつか誰かがどうにかしてくれると思っていたのです。きっと誰かが助けてくれるって」


 こんな馬鹿げたことが押し通るわけがない。きっと大人はちゃんと考えがあるのだ。いつか悪い夢は覚めるのだと、そう信じていた。信じようとした。


「だけど誰の助けもありませんでした」


 どれだけ経っても、どれだけ待っても、自分の置かれた状況は変わらない。言われるままに誰とも関わらないでいたのに、擦り寄る甘い言葉を重ねた手紙と貢物ばかりが増えていく。私が何もしていなくても、周りは勝手に過度な期待を押し付けてくる。

 その内、乳母と入れ替わる形で私とよく似た顔の男の子がやってきた。信頼できる大人が減り、守らなければならない対象が増えたことに途方に暮れた。


「私の意志を無視して、どんどん事態は悪化していくばかりで……メル爺と乳母の言いつけを破って、図書室で人に話しかけるようになったのはその頃です」


 そこまで言って、自分を落ち着かせるために一つ呼吸をした。その間も、誰も何も言わない。息を潜め、私が語る言葉に耳を傾けているのがわかる。それに勇気づけられて、躊躇いつつも話を続けた。


「誰か私の味方になってくれる人がいるかもしれないって、期待しました。私が声を掛ければ、大抵の人は喜んでくれます。……最初は、それが嬉しかった」


 城の中にいるのは恐ろしい人ばかりだから、誰にも近寄ってはいけないと言われていた。けれど、ちゃんとこっちを向いてくれる。話を聞いてくれる。

 声を掛け始めた頃は、そう思った。


「けれど好意的な人に限って、私の話を聞いてくれないのです。何度も王位なんて私には荷が重い、出来るわけがないと訴えても、誰も真剣に取り合ってくれない。むしろ、何も出来なくていいと言われました」


 みんな仮面みたいな作り笑いを私に向ける。だけど綺麗に取り繕われた表情とは裏腹に、私を見る目には隠しきれない欲を滲ませていた。

 それはエインズワース公爵が私を見る目と、同じだった。それに気づいて、全身の血が凍りつきそうなほどの恐怖を覚えた。


「『貴方は特別なのだから』、『貴方は選ばれた人間なのだから』、『貴方はただそこにいるだけでいい』」


 まるで、呪いのように。


「……みんな、口を揃えて同じことを言いました」


 頭の中に反響する、あの当時に言われ続けた、まるで決まり文句のごとき言葉。


「必要なことは自分達がするから私は何もしなくていいのだと、それしか言わない。私の話を聞いてくれる人なんて、誰もいなかった……っ」


 繰り返し繰り返し、物わかりの悪い子供を諭すように。洗脳でもせんばかりに、会う度に何度も言い聞かされた。同じ言語で話しているはずなのに、会話が通じない。異星人と話しているみたいだった。


「…………気が狂いそうでした」


 思い出すだけで顔が歪み、呻きにも似た声が喉から漏れた。無意識に何かに縋りたくて、兄の手を掴んでいた指に力が入る。


「彼らにとっては、無能な方が都合が良かったのです。メル爺と乳母が言った言葉が、その時にやっと理解できました。もしその内の誰かに私が女だと告げたところで、むしろ弱みを握られて利用されるだけだと思いました」


 誰も信じられなかった。誰にも助けなんて求められなかった。


「彼らと距離を置くようになりました。そうなると今度は、手懐けたはずの私に噛みつかれたような気持ちになったのでしょうね……一部の者は、私が思う通りにならないと知るや、掌を返して私を追い詰めた」


 ――母のことを聞かされたのは、そのときだ。


「関わる人は選ばなければならないのだと、そこでやっと学びました」


 思わず自嘲の笑みで唇が歪んだ。だけどそれすらすぐに顔から抜け落ちていく。

 心に壁を打ち立てて、気にしていないフリをした。

 本当はもう誰にも近づきたくなかった。あれ以上、傷つけられたくなかった。もう何も知りたくなかった。しかし時間が経つにつれて、このままでは結局どうにもならないのだと思い知らされる。

 でも自分だけの力ではどうしようも出来ない。逃げ回っているわけにはいかない。人に近づくのは怖かったけど、どうにかしないわけにもいかなかった。

 せめてもの経験則から、私に近づいてくる人は駄目だと思った。注意深く人を見て、私に興味のなさそうな人にだけ困っていたら声をかけるようになった。助けてあげるから、私のことも助けてほしいと望みながら。

 馬鹿だから、希望を捨てきれなくて無駄に足掻いた。

 それでも近づきすぎるのは怖くて、深く踏み込むことは出来なかった。踏み入らせることも出来なかった。だけど諦めることも出来ない。

 おかげで私はとても天邪鬼な存在に見えていたと思う。


「……陛下にお会いしたのは、その頃です。多分陛下は、それまで大人しかった私が人に関わろうとしていると知って、兄様に仇なすかもしれないという危機感を抱かれたのではないでしょうか」


 それできっと、私の様子を見に来た。


「そこで陛下だとわからなかったのは、私が馬鹿なだけなのですが……」


 だけどもし陛下だとわかっていたら、私は逃げ回っていただろう。

 私と話してくれた先生は陛下だったわけだから、当然ながら私に媚びることもなければ、何も求めてくることはなかった。私はそれが楽だった。会う度に他愛もない話に付き合ってくれた。疑問に思うことに、ちゃんと答えてくれていた。

 今思えば監視目的だったとわかるけど、利用できるただの器として見るのではなく、ちゃんと私自身と接してくれていた。

 それが嬉しくて、ついそのぬるま湯に浸かってしまった。


「陛下に助けを求めようとは思わなかったのか」


 そこでようやく兄が口を挟んだ。陛下だと気づかなかったとしても、私が助けを求める相手としては先生は及第点だっただろうと言いたいのだと思う。

 それに対し、ゆっくりと首を横に振る。


「思いませんでした。また何もしなくていいのだと言われるのが怖かった。もし裏切られたらと思うと、何も言うことができなくて……結局、何も出来ないまま、ここまできてしまいました」


 躊躇して立ち竦んでいる間に、ずるずると時だけが過ぎていってしまった。

 そうしている内に、セインに身長を抜かされた。

 セインは1歳上とはいえ育った環境のせいか発育が悪く、痩せていて私より身長も低かった。並んでも大差はなかったから、初めの頃は安心していた。でも身長を覆されて、体つきも変わってくるにつれ、自分との差異が際立っていく恐怖に襲われた。どう足掻いても性別の誤魔化しはきかないのだと、嫌でも理解させられる。


 そんなときに、とうとう初潮を迎えたのだ。


 本来なら大人になったのだと喜ぶべきところだろうけれど、そんな感情は欠片もなかった。ただ絶望しか感じなかった。

 そして最後の頼みの綱であった母も、手を差し伸べてはくれなかった。

 見捨てられたのだ。

 いや、最初からあの人は私のことなどどうでもよかった。それを思い知らされて、ギリギリで保たせていた精神は崩壊寸前だった。もう終わりだと、そう思った。先が見えなくて、絶望の中、息をする意味が見いだせなかった。

 助けてくれる人もなく、逃げられる場所すらなく、かといってこのままここにいても未来を描けない。

 このときはエインズワース公爵を排除するという考えは、まだ私は持てなかった。あの人の存在は大きすぎて、自分の手でどうにかできるなど考えもしなかったのだ。

 もう、どうしたらいいのかわからなくなっていた。

 私を気分転換させるためにメリッサが連れ出してくれた中庭で、怪我した猫を見かけたのはそんなときだった。条件反射で、手当をしてあげなくてはと思って追いかけた。

 その場から逃げ出してしまいたい、という衝動に突き動かされていた、というのも少なからずあった。

 そして入ってはいけない場所にまで入ってしまい、刺客に狙われかけている兄に遭遇して――。


「私が兄様を守ったのも、兄様がいなくなったらもうどうにもできないと思ったからです。それに」


 ぎゅっと兄にしがみつく手に力が入った。口にするのは、抵抗があった。自分の弱さを、無責任さを、曝け出すのは怖かった。

 しかしあの時の私にとって、これは拭いようのない本心。


「死んでもいいと、思っていました」


 どう転んでも救いのない、このどうしようもない世界から。


「なにもかも全部投げ捨てて、逃げてしまいたかった……!」

 

 ごくり、と兄の喉が鳴るのが聞こえた。私の手を握り返す力を感じて、引き留めようとしているようだと思えて胸が詰まる。


「…………でも一度死に損なってしまったら、今度は死ぬのが怖くなりました」


 あのときに前の私の意識が現れたのは、きっと前の私のSOSでもあった。

 死んだら終わりなのだと。それまでのすべてが無に帰して、全部がなかったことになる。確かにそこにあったはずの、抱えていた大事なものが跡形もなくすべて消えてしまうのだと。

 それを受け入れること嫌で。弱いくせに、馬鹿なくせに、生にしがみついて離れられない諦めの悪い私になった。今ここにいる、私になった。


「死にたく、なかった。だから兄様を利用して、なんとか自分だけ助かろうって、そんなことばかり考えていたのです……っ」


 ここにいるのは、醜くて、臆病で、生き汚い卑怯者だ。到底、許されるわけがない。


「本当に自分だけ助かりたい奴が、自分の首を懸けて侍女と侍従だけは見逃せとは言わないだろう」


 蔑まれることを覚悟していたというのに、顔を上げれば、そこには痛みを堪えた顔をしている兄がいた。


(なんで兄様が、そんな顔するの)


 不意に伸びてきたもう片方の手が、私の頬に触れた。指先が濡れた目尻に触れ、苦虫を噛み潰したみたいな顔で「馬鹿が」と低く吐き捨てられた。

 初めて聞く恫喝にビクリと全身を震わせると、私の肩を掴んで兄が目線を合わせてきた。淡い灰青色の瞳には怒りがあった。

 でもそれは、私に対してだけ、ではないと感じられる。責める感情は、兄自身にも向けられているように見えた。


「利用すればよかったのだ。アルフェが男だろうが女だろうが、そもそも生まれても生まれなくても、私が狙われる立場にあったことに変わりはない。それにこういう状態になったことに、私にも責任が全くないわけでもない。だからおまえには私を利用する権利があった」


 思ってもみなかったことを言われて目を瞠った。

 兄を犠牲にして自分だけが平穏に生きていい権利なんて、あるわけがない。そう言おうと口を開きかけたけれど、それよりはやく兄が厳しい表情で私を見据えた。


「だいたいおまえは一つ大きな勘違いをしている。これは、アルフェだけが背負わなければいけないものではない」


 ドクリ、と心臓が一際大きく跳ねた。

 零れ落ちんばかりに目を見開いて兄を見つめる。ドクンドクンと跳ね上がった心音が急に胸の下で暴れ出して、一瞬息の仕方すら忘れた。


「それは、どういう……」


 愕然として擦れた声を絞り出した私を見つめ、兄が言い聞かせるように語りだした。


「本来この件で責を負うのは、企てた妃殿下とエインズワース公、それとこの状況を見逃した陛下だ。これまで黙っていたアルフェに全く責がないわけではないが、子どもだったおまえがいいように利用されていただけなのは明白だろう。これは私を含め、本来おまえを庇護しなければならない立場にありながら顧みなかった者の咎だ」


 言い聞かせる声が紡ぐ内容は、まるで自分に都合のいい夢を見ているよう。だけど私の肩を掴む兄の手の強さが、確かにこれが現実であることを知らしめる。


「おまえの罪じゃない」


 告げられた言葉が、熱を持った頭の中に大きく反響した。


(私の、罪じゃない……? 私だけの、罪じゃない)


 ずっと、私だけが悪いのだと思っていた。こんなところに女として生まれた私が悪い。否、生まれてきてしまったことすら罪だと感じていた。

 だから私が全部背負っていかなければならないのだと、疑ってもいなかった。

 だけど今言われた言葉は、その呪縛を根底から覆した。

 もちろん私に責任がないわけじゃない。だけど私だけが背負っていかなければいけないものでも、ないのだと。

 助けてほしいと手を伸ばしてもいいのだと、許されたように感じられた。


「わたしだけの、せいじゃ、ない……?」

「ああ。アルフェだけが背負わなくてもいい」


 両の掌で頬を包まれ、覗き込まれて言われたそれに必死に堪えていたものが決壊する感覚に襲われた。

 もしかしたらこれは、本当に夢を見ているだけかもしれない。私を慰めるための、一時だけの嘘なのかもしれない。これで全部が丸く片付くなんて、そんな楽観視もしていない。

 それでも今この一時だけでも、今までずっと抱え込んでいた重石を半分だけ、持ってもらえたかに思えた。与えられた許しに、抑え込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出す。

 目頭が熱くなって、喉が震える。嗚咽が零れて、言葉にならない感情が溢れ出して、止める術を持たない。


 この日、私は我慢できずに、初めて人前で大きな声を上げて幼い子どものように泣いた。

 泣きじゃくる私の背を撫でる兄の手の温かさに、甘えながら。




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