77 無駄なことなど何もない
※残酷描写注意
吸い込んだ息が喉を乾燥させる。開いた口からは、思った以上に擦れた声しか出せなかった。
「兄様。私は……」
本当は──。
けれど言葉の続きが出てくる前に、唐突にクライブが腰に穿いた剣に手を掛けた。
「!」
その動作に反射的に体を強張らせて目を瞠る私の前で、目にも止まらぬ速さで剣を抜き様にテラスに続く扉に向かって体を捻っていた。それと同時に、湖に面しているテラスの窓が勢いよく開いて黒い影が飛び込んでくる。
「シーク!」
「来たか。捕えろ!」
急に慌ただしさを帯びた部屋の中、緊迫感に満ちたクライブの鋭い声が耳に届いた。チッと行儀悪く舌打ちしながら、その時にはもう兄も剣を手に立ち上がっている。直後に、黒装束に身を包んだ影と、ギン――ッ!と刃が打ち合う高い金属音が響いた。
それは城の訓練場から聞こえてくるのより、重い音。
(なんで……っ)
混乱してその場から動けなかった私の腕を兄がすかさず掴み、強引に立たされた。
兄がチラリと部屋の扉に視線をやったが、それまで静かだったはずの扉の向こうからも乱れたいくつもの足音と金属音が聞こえてくる。部屋から出る方が危険だと判断したのか、私の腕を掴んだまま邪魔にならない位置まで引いた。
先程までとは違う緊張感と緊迫感で、心臓が激しく脈を打ち鳴らす。
「なぜ罠とわかっていて飛び込んでくるのか……それだけ余裕がないと言うことだろうが、なぜよりによってアルフェがいる時に来るのか。侍女と閨を共にしているとでも思ったか?」
壁際に押しやられ、忌々しげに呟く兄の背に庇われてようやく襲われているのだと理解できた。
だって前にも、こんなことがあった。
鳥肌が立つほど緊迫した場の空気。耳障りな甲高い金属音。荒い足音と時折乱れる息遣い。そして、鼻に突く鉄錆に似た匂い。
ドッドッと心音が全身を駆け巡る。怖い。でも私はこんなところで呑気に庇わている場合じゃなかった。
本能的な恐怖で震えが走る体を叱咤して、前に出ようと足を踏み出す。
「に、兄様……っわたし、私が盾に」
「おまえが盾になっても3秒も保たない。前に出られても邪魔なだけだ」
慌てて兄の前に出ようとしたものの、兄の硬い体と壁に挟まれて動けない。これでは何の為にいるのかわからない!
(ただの足手纏いじゃない!)
ぎゅっと痛いほどに唇を噛み締める。
馬鹿だ。本当に馬鹿だ。自分のことでいっぱいいっぱいで、周りを見る余裕が全然なかった。
思い返せば、廊下にいる護衛は少なすぎた。ニコラスのあの態度は、計画が狂わされかねないと憂慮したからだろう。兄が私を連れてきたクライブに鋭い目を向けた理由も、きっとそれだ。
しかし、私達の部屋を護衛していたクライブが知らされていなかったとは到底思えない。こういう事態を想定して、クライブがいたとも言える。
それならなぜ止めてくれなかったの。今夜刺客が来るとは限らないと判断したの?
でも部屋に押し込められていたら、また私は起こる事態を知ることなく過ごしていたわけで……クライブは、私に現実を見せるために連れてきたということなの?
「捕えました!」
見せないようにという配慮もあるのか、兄の背で視界が遮られていて何が起こっているのかわからない。それでも耳はくぐもった悲鳴と、人が床に捻じ伏せられる音を拾う。
しかし、終わったのかと安堵する間もなかった。
今度は扉の向こうからも重たいものがいくつも崩れ落ちる振動が伝わってきた。間を置かず、廊下から窓を開く音やガラスがいくつも割られるけたたましい音が響き渡る。
「!?」
体を竦ませながら音の方を振り向けば、急に扉が開かれた。そこから放り込まれた何かから、白い煙が勢いよく立ち上る。
(煙幕!?)
動揺した隙に黒装束の刺客に液体を撒かれ、独特の匂いが部屋に広がる。入り口間際の部屋のランプを叩き落とされた次の瞬間には、床に赤色が一気に広がった。一瞬で炎が油を吸った絨毯を飲み込み、熱と焦げ臭い匂いを周りに巻き散らす。
直後に、部屋に火をつけた黒装束が前のめりに崩れ落ちていく。
その倒れた刺客の向こう、赤く染まった剣を手に顔を顰め、片手で口を覆って苦しげに息をしているランス伯爵の姿があった。
「煙を吸うな!」
ランス伯爵の警告を聞いた瞬間、兄が再び私の腕を掴んで扉ではなくテラス側へと身を翻した。
白い煙は煙幕だけでなく毒でもあったのか、ガラス窓が割られた理由を知る。
テラスから新たに現れた黒装束に逸早く気づいたクライブが切り結び、薙ぎ払う。その脇を兄が剣を片手に擦り抜け、テラスへ出る前に鋭い視線を周囲に這わせて状況を確認した。もう刺客はいないと判断してから、テラスへと踏み出す。
夏も終わりがけの夜、思った以上に冷たい空気が体を包んだ。嫌な汗の滲んでいた体を冷やしていく。
(どうしようっ)
出入り口は一つで、扉付近は炎に呑まれていて通れない。炎はおそろしいほど勢いがあり、すぐに沈下する保証もない。白煙がどれほどの毒かわからない今、火が静まるまで部屋の中に長居するのも危険だった。
振り返れば、クライブは刺客と対峙して足止めしているのが見えた。
不安と恐怖、それと自分の不甲斐なさに心臓がぎゅっと縮こまる。歯を食いしばっていても震えが噛み殺せない。
「飛び降りるしかないな」
不意に、隣から低く独りごちる声が聞こえた。
この客間は本来、テラスから侵入されにくい造りになっている。刺客はどうやら上から垂らしたロープを伝い、ほんの僅かな縁を辿って壁伝いに侵入したようだ。私は勿論、いくら鍛えていても兄がそれをするのは無理がある。
しかしこの部屋は湖に面した2階にあるけど、天井が高いから実質3階に近い。10mあるかないかだろうけど、覗き込むと暗い水面に吸い込まれそう。かなり高く感じられてしまう。
下が水とはいえ、15m以上の高さから飛び降りれば水面はコンクリートと同じだったはず。
(これぐらいの高さならなんとかいけないことはない、けど)
満月に近い月明かりがあるとはいえ、夜空を映した湖面は暗い。夏とはいえ、夜の温度はぐっと低くなる。湖の温度は相応の冷たさになっているはず。
でも助かる可能性は、飛び降りる一択しかない。せめてロープを作るためにカーテンを使おうにも、白煙がどこまで作用しているかわからないから下手に触れない。そして躊躇えば躊躇うほど、私達を守るためにクライブは踏ん張ることになる。
動揺していると兄が上着を脱ぎ捨てた。首根っこを掴まれ、兄の手が有無を言わさず私の体からも厚地のガウンを引き剥がす。
いきなりのことに抵抗する間もなく、あっという間に兄の腕に抱え上げられた。
「何をなさるのですっ」
「いいか、アルフェ。人間は水の中で浮く。泳げないからって、暴れるな。仰向けになっていれば勝手に浮く」
「それは知ってます」
反射的に言えば、兄は私を見て微かに笑った。というか、私は泳げる。前の私は50mなら余裕で泳げた。
(もしかして、このまま湖に放り投げられるの!?)
反射的に体に力が入る。
しかし、予想は外れた。兄は両腕と自分の体で私の体を守るように抱きかかえると、テラスの柵に足を掛けて乗り上げた。
「大きく息を吸い込んで、止めろ。飛び降りる!」
「!」
待って、と言う間もなかった。
飛び降りるなら一人で飛び降りるつもりだった。こんな風に守られるなんて、あってはならない。
生きなければならないのは、兄の方だというのに。
(なんで……!)
咄嗟に息を吸い込んだせいで、批難する声は出せなかった。
全身が浮遊感に襲われたのは一瞬で、すぐに重力に引きずられて体が落下する。ほんの数秒も数えない内に、覚悟する間もなく全身が水面に打ち付けられる衝撃に襲われた。
だけど私は、私を守る兄の体と腕に守られていたから、多分受けた衝撃はそれほどじゃない。
「──ッ!」
それでも足先から頭の天辺まで全身を包んだ水の冷たさは想像以上で、全身が一気に総毛立った。寒い。痛いほど冷たい。咄嗟に開いた目に映る視界は白い気泡に包まれていて、暗い中でも水の泡が勢いよく登っていくのが見えた。
そこでそれまで私を抱えていた兄の腕が離れて、全身が水に沈む恐怖に襲われる。人間に浮力があることは知っているし、体験したこともある。けれどこの体で水に入るのは初めだ。足がつかないことにも恐怖を煽られ、勝手がわからず反射的にもがきそうになる。
幸いにも寝間着の薄いシャツ1枚だったから比較的動けた。平泳ぎの要領で足で水を蹴り、必死に腕で水を掻く。浮力と月明かりを頼りに水面に顔を突き出すことに成功すると、勢いよく息を吸い込んだ。
何度も吸って、吐いて、周りを見渡す。
「……にい、さま?」
水面には、私以外に浮いてくる人が、いない。
(うそ)
着水安全限界はなんとかクリアしていたはず。だけど兄は、私を庇う形で飛び込んだ。万が一が脳裏に過って、顔から血の気が引いていく。
当然だけど私と兄では重量が違う。重い程、受ける衝撃は大きい。よくマンションの上階から親子が転落して、子供は助かったけど助けようとした親は助からなかった、というニュースを見た。それぐらい、差があるのだ。
打ち所が悪くて意識を失っていた場合、そのまま……
(冗談じゃない!)
息を大きく吸い込むと、迷うことなく再び水面に潜った。
必死に目を凝らしても、視界は歪んでいて暗い。月明かりだけなんて無茶がある。それでも諦めるわけにはいかなかった。あれだけそばにいたのだから、そんなに離れているわけがない。
(兄様──!)
途中、水が大きく揺れるのが全身に伝わってきた。白い泡の塊が水の中で膨れ上がり、それが月明かりを取り込んで暗い水中を僅かに照らしてくれる。
そのとき、ゆらゆらと揺れる銀色を見た気がした。月明かりを拾っているのか、仄かに反射するそれに向かって必死に指を伸ばす。
伸ばした手で水を掻き、それを掴んだ。白銀の長い髪。それを辿って、本体を腕に抱え込む。だけど引き上げるだけの力がない。焦るな、と思うのにうまくいかない。溺れて縋られないだけ共倒れにはならないとはいえ、冷たい水が体力を奪っていく。息が苦しい。
必死に水を蹴っているつもりだけど、これはちゃんと水面に上がっているの?
(たすけて……っ)
助けて。
助けて。
嫌だ。失いたくない。大事な人なの。この人も、大事な人なの。絶対に失くせない。第一皇子だからとか、それだけが理由じゃない。
誰より私を憎んでもいいはずなのに、そんな私に手を差し伸べてくれた人。一時だけでも、優しい夢を見せてくれた。愛情を向けてくれた。
(大事な兄様なの……!)
不意に、必死に掴んでいた兄の体が強く引き上げられるのを感じた。
「大丈夫ですかッ」
引き上げられる力のままに顔を上げれば、水面に顔が出た。水中独特の浮遊感から解放され、出た顔の部分だけ重力を感じる。
声の方を向けば、兄を引き上げている見慣れた顔が視界に入った。刺客を片付け、同じように飛び込んだのだろう。途中で揺れた水はきっとクライブが飛び込んだ反動だった。
「クライブ……っはやく、兄さまを岸へ!」
勢いよく酸素を取り込んだせいか、咳き込みそうになりながらも声を絞り出す。頷いて、だけど私は大丈夫なのかと言いたげなクライブに「私は泳げます!」と叫んだ。
今は私なんかを構っている場合じゃない。
「兄様が最優先です!」
私は以前、クライブに誓わせた。いついかなる場合だろうと、兄を最優先にしろと。
剣に懸けて誓ったことを、忘れてもらっては困る。
それが伝わったのか、クライブは一瞬躊躇いを見せたものの、すぐに兄を抱えて泳ぎだした。ランス領には毎年避暑に来ていたということだから、泳ぎは得意らしい。それを追いかけてランス伯爵邸の壁沿いに泳げば、岸までは案外すぐだった。
なんとか岸に上がると、全身の体力が持っていかれたかのような脱力感に襲われた。一気に体が重さを訴えてくる。足がガクガクと震え、歩くことすら億劫に感じた。いつの間にか部屋履きは脱げていて、素足になっていた足裏が砂利を踏む度に痛む。
だけどこれで終わりじゃない。
「兄様は!?」
「……息、してない」
先に上がっていたクライブが意識のない兄を仰向けに寝かせて見下ろし、脈を測って顔を蒼褪めさせていた。
月明かりに照らされた兄の白い顔は眠っているかのよう。そんな言葉、信じられるわけがなかった。
体を襲う脱力感も忘れ、兄に飛びついて頸動脈に指先を当てた。荒れ狂う私の心音とは正反対に、そこにあるべき脈は、どれだけ探っても感じない。
(脈、ない。息も、してない)
「っ蘇生処置をします!」
叫ぶように言ったのは半ば無意識だった。
だけどこの世界には、AEDなんて便利なものはない。アナウンスが流れるままに従って、あとは機械にお任せ、なんて都合のいい文明の利器なんてない。かわりに頭の中に過ったのは、よく漫画でこういう時に見たシーン。
そして私は昔、「できたらかっこいい」という厨二病的な思考から、一度だけとはいえかなり真面目に心肺蘇生法を教わった。
自動車教習所の応急救護講習で。
かつての私は人生でたった一度のファーストキスを、一体何人とキスしてきたのかわからない年季の入った人体蘇生人形に捧げたでしょう!?
捧げた代償分、得たものは確かにあった。おかげで今でも何とか覚えてる。
「蘇生するとは、いったい……」
「助けたいなら黙って見てて!」
幸い、仰向けに寝かせられている。説明している時間も、躊躇っている余裕もなかった。
兄の脇に僅かに開いた両膝を付く。膝に砂利が食い込んで痛いということすら感じない。心臓の上、胸の中央付近に開いた右掌を置いた。その上に左手を重ねて開いた指の合間に指を組ませる。両肘を伸ばし、自分の体重を乗せて胸が沈み込むように押した。
「1、2、3、4……」
正確な速さはうろ覚えだけど、かなりリズミカルに押した覚えがある。早鐘を打つ自分の心音より速く、体重をかけて心臓マッサージを繰り返す。
でも、どれだけ胸が沈みこめばよかった? 外から強制的に心臓を動かすのが目的だったような気がしたから、かなりの力が必要だったはず。
(回数、20回……違う、30回!)
講習では押している内にかなり疲労してきた覚えがあるから、20回じゃない。濡れた髪とシャツが湖に飛び込んだせいだけでなく、滲んできた汗で肌に張り付く。
人体蘇生人形と違い、OKだったら青いランプが点灯して教えてくれる、なんてことはない。現実は甘くなくて、30回押しても簡単には息を吹き返してはくれない。
(私の力じゃ足りないのっ!?)
「クライブ! 私がしたのと同じことを同じ速さで、私が合図したらやってください!」
「……っ、はい!」
脆弱な私の力じゃ、たった30回しただけで息が切れる。押す力も弱くなっている。
呆然としていたクライブを怒鳴りつけ、手を解くと場所を代わった。同じ体制になったクライブを一旦手で制し、まだ息のない兄の顎を押し上げ、軌道を確保した。兄の鼻を根元から抓むと、息を吸い込む。
開かせた口に、空気を逃がさないよう自分の口で覆うようにして押し付けた。そして息を吹き込む。一秒を、続けて2回。
異母兄とキス? それがなんなの。救命行動にいちいちそんなこと気にしていられない。
(絶対に死なせない!)
なんでこんなところで死んでるの。しかもどうして私なんて庇っているの。守るべきは自分だと、嫌というほどわかっているでしょう!?
「肋骨折らない程度の強さで、連続30回!」
唇を離して指示を飛ばせば、見よう見真似でクライブが兄の胸を強く押し出した。そのときだ。
「っごほ……ッ、か、は……!」
不意に、兄の口から苦しげが息が漏れた。慌ててクライブを止めると、何度か苦しそうに咳き込む。
「兄様! 聞こえますか、兄様ッ」
「シーク、聞こえますか!?」
体をくの字に曲げ、水を吐きながら咳き込む背を擦る。何度か擦れば、ゆっくりと兄が薄目を開いた。
(目、開いた!)
冷たく見える淡い青灰色の瞳。しばし虚ろに揺らいで、必死な形相で覗き込む私とクライブを見て、ゆっくりと焦点が合っていく。
人の脳は酸素がなくなるとダメージを受ける。どれだけ兄の息が止まっていたかわからない。私が感じるよりも実際は短い時間だった気もするけど、たとえ息を吹き返しても、後遺症が残らないとも限らない。
息を詰める私達の前で、焦点の結ばれた瞳が私を見つめ、微かに細まった。力なく伸ばされた冷たい指先が、私の頬に触れる。
動いてる。
(ちゃんと、生きてる)
目を開けて、私を見ていて、手も動いてる。
「無事、か……? ……さすがに、死ぬかと、思ったな」
「この……っ馬鹿!」
呑気にそんなことを言うので、気づいた時には力いっぱい怒鳴りつけていた。目頭が込み上げてきた安心感と怒りで急速に熱くなってくる。
「死ぬかと思った、じゃないんですっ。死んでたんです! 今! 心臓止まって、い、息、してなくて……っ。たまたまうまくいったからいいようなものの、こんなの運が良かった、だけで」
畳みかけるように言っている内に、堪えきれずに嗚咽が込み上げてくる。
よかった。本当に、死ななくて良かった。溢れ出した涙が止められないぐらい嬉しい。だけどそれ以上に、怒りもある。
「馬鹿なのですか!? なぜ、私なんて庇っているのですか! 一番守るべきは自分でしょう!? 自分が何なのか、ちゃんと自覚してくださいッ」
涙目で睨み下ろして、次から次に叱りつける声が口から飛び出してくる。助けてもらっておきながらこの言い草は自分でもひどいとは思うけど、それでも言わせてほしい。ちゃんと理解してほしい。
兄の代わりはいない。死んだりしたら、皆が困る。私も困る。
それに、なにより。
(そんなの淋しくて、受け入れられない……!)
もしもあのまま、いなくなっていたら。考えるだけで胸が引き絞られたように痛くなって、息苦しくなってくる。
するとさすがに庇ってやったというのにここまで言われて兄も面白くなかったのか、不満を露わに眉間に皺を寄せた。
「兄が妹を守るのは、当然の行動だろう」
「妹なんて、死んだって誰もっ、」
困らない、と言いかけた唇が止まった。
涙も、止まった。
「…………いま、なんて」
妹──と、兄の口から聞こえた気がした。
驚きすぎて呆然と見開いた目で兄を見入り、聞き返しかけて今更ハッと気づいた。
(しまった! 胸!)
咄嗟に両腕で自分の胸を覆い隠した。しかし今更遅い。顔から血の気が引いていく。
今夜正直に話すつもりでいたこともあり、ガウンを羽織っているからいいかという油断もあった。しかし今は寝間着のシャツ一枚。それも水に濡れて肌に張り付いていて、ささやかとはいえ男ではありえない膨らみがあった。はずだ。
いくら真実を告げるつもりでいたといっても、こんな形で告げたかったわけじゃない。これはちゃんと、自分の口で言わなければならなかったこと。
(でも待って。兄様は、飛び込む前から私を庇って……?)
動揺のあまり動けない私を見る兄の灰青色の瞳には、私が恐れていた侮蔑も憎悪も見えない。さすがにクライブの方までは怖くて一度も見られないけれど、兄はいつも通りの瞳。強いて言えば、呆れているように見えた。
まるで、何を今更、と言わんばかりに。
「いつから……それを」
水に濡れて冷えたせいだけでなく震える声を絞り出した。兄は億劫そうに半身を起こして、凍り付いて動けない私に手を伸ばす。
「確信したのは、アルフェが私を庇って毒矢を受けたのを見舞った時だな」
兄の指先が、シャツの上からあのとき私が傷を受けた左肩にそっと触れた。ビクリと震えてしまえば、申し訳なさそうに眉間に皺を刻まれた。
今となっては痛みはないものの、シャツの下にあのときの傷痕は残っている。矢は翳めただけとはいえ、それでも毒を取り除くために少し傷周りの肉も抉った。年月が経てば痕が薄くなっていくことはあるだろうけど、けして消えることはない。
貴族の娘としてはあってはならない傷。だけどどうせ誰に肌を見せられるわけでもない私にとっては、兄を守れたという誇るべき勲章。
「……それならどうして今まで、黙っていらしたのですか」
責めるつもりで言ったわけではなかった。
ただあまりにも衝撃的過ぎて、純粋な疑問として口から出ていた。歯の根の噛み合わない口から漏れた擦れた声は、自分の声ではないかのよう。
ただでさえ追い詰められて、思いつめて、襲われて、そのうえ兄に目の前で死なれかけて、いっぱいいっぱいだったところにこれだ。もう頭はパンク状態。深く考える力なんて湧いてこない。
「私から知っていると言えば、アルフェは罪の意識から自害しかねないと思った。ただでさえ、あの時のおまえは今にも死にそうだったろう。だから信頼してもらえるまで待つつもりだったが」
そう言って、兄が深く息を吐き出した。
湖に落ちた私達に気づいた人達が近づいてくるざわめきを察して、兄の腕が私の背に回る。やんわりと、思いのほか逞しい腕が私を胸の中に引き寄せた。
集まる人の視線から、隠してくれるかのように。
「私は一度だって、おまえを弟扱いなんてしていなかっただろう?」




