76 マリオネットは笑えない
窓から差し込む月明かりが薄暗い廊下に差し込んでいて、先を歩くクライブの背を照らす。満月に近いせいか、仄かに輝く蓄光石よりも月明かりの方が明るい。
お互い言葉もなく、夜の静けさに包まれた廊下を普段より足音を抑えて進んでいく。護衛の姿がなさすぎる気がしたけれど、下手に守りを固める方がここにいると知らせてしまうことにもなる。逆手に取っているのだろうか。
おかげで静かすぎて、体の中を駆け足で鳴り響いている心音が外にも響いて聞こえそう。緊張と焦燥で、うまく呼吸を出来ているのかすらわからなくなってくる。
処刑台に登る受刑者になった気分。
足裏に感じる硬いはず床が、妙に安定感のないもののように感じてしまう。自分がちゃんと歩けているのか、不安になるぐらい。だけどちゃんと前に進んでいて、兄に与えられた客室までの道のりは長いようで短く、逃げることを考える間もなく到達してしまう。
扉の前に護衛として立っていたニコラスが、私の姿を見ると驚いて糸目を見開いた。
私を見て、クライブを見て、呆れた表情を垣間見せる。私には聞こえない小声でクライブとやり取りする時は、さすがにいつも笑って見える顔も真剣だった。しかし肩を竦めてから扉から離れた時にはもう、いつもの顔だ。
「夜はちゃんと寝ないと大きくなれないですよ」
しかし私に小言を告げる声は凄むように低くて、ちょっと怖かった。
思わず頷けば、軽く一礼してから私たちがやってきた方へと入れ違いに歩き出す。クライブの代わりに、私が使っていた客室前に立つのだろうと想像できた。でも今は護衛の為というより、逃がさないためのように見えてくる。
それとも私に知らされていないだけで、既に何かが起こっているの?
(私も当事者なはずなのに、いつだって置いてきぼり)
ぎゅっと握り締めた掌に己の爪が食い込む。しかしギリギリと痛むのは掌なんかじゃなくて、胸の方。
いつもよくわからない内に舞台は整えられていて、勝手に出演者として登録されている。台本もない状態で引きずり出された舞台の上、誰かの意図に操られて踊らされる滑稽なマリオネットみたい。
それでもマリオネットにだって、なけなしの意地がある。
クライブが部屋の扉をノックする音と名乗る低い声が鼓膜を震わせる。すぐに中から返事がして、静かに扉は開かれた。一度だけ強く奥歯を噛み締めてから、ゆっくりと顔を上げた。
まだ兄は起きていたのか、部屋の中にはまだランプの火がいくつも灯されていた。昼間のような明るさは当然ないとはいえ、互いの表情は問題なく伺える程度。長ソファに座っていた兄が私の姿を認め、目を瞠った。すぐにクライブに鋭い視線を向ける。
「なぜアルフェがいる?」
「あなたの元に連れてきてほしいと言われましたので」
「そこは明日にしろと言うところだろう。子供は寝る時間だ」
「言いたい気持ちは山々ですが、言える雰囲気ではありませんでしたから」
兄が端正な顔を僅かに顰め、嘆息しながら読んでいた本をテーブルの上に置く。
「どうした。眠れないか?」
誰もが眠るような時間に来訪したというのに、私に投げかけられる声はいつも通りだった。優しくすらある。
それにしても兄の服装は昼間のままで、まるで何かが来ることを予想していたかのように感じてしまう。一瞬、自分が来ることを想定されていたのかと考えたけど、兄の口ぶりからそれはなさげだ。テーブルには私が買ってきた本が積み上がっていたから、単に読むのに夢中になっていただけかもしれない。
クライブに手で示され、躊躇しそうになる足に力を入れて部屋へと踏み入った。私が入った後でクライブも入ってくる気配がして、背後で扉が閉められる音が響く。
(出来れば兄様と二人で話したかったのだけど、さすがにそんなわけにはいかないか)
クライブには聞かれたくなかったと思うのは、ただの我儘。遅かれ早かれ、クライブの耳にも入ることだ。
私がどれほど卑怯で、傲慢で、醜いのかを。
「夜分遅くに申し訳ありません」
「明日じゃいけなかったのか」
「はい」
誰にも邪魔されず、話を聞いてもらうには今しかないと思った。部屋には兄と私、兄側のソファ脇に佇んだクライブしかいない。
頷けば、仕方ないと言いたげな態度を隠しもしなかったがソファーを勧められた。促されるままに浅く腰掛ける。薄い胸の下、速く強く鳴り響いている心臓が不安を煽る。
(もう逃げられない)
どうにかして助かる方法を見つけ出したかった。出来るだけ夢の時間を引き延ばしたかった。でも罪の意識は心の片隅にこびりついていて、ふとした拍子に心はバランスを崩して悲鳴を上げていた。
潮時なのだ。
(むしろ、遅すぎたぐらい)
背筋を伸ばし、すっと、一度軽く息を吸い込んだ。ランプの灯りを受けて彫りの深さを浮かび上がらせる兄の怖いほど整った顔を見据える。
「――取引を、していただきたいのです」
告げた私を見返して、兄は暫し無言で私を見つめた。驚いて目を瞠り、息を呑んだクライブとは裏腹に、兄の瞳には呆れが滲む。
「また随分と似合わないことを言い出したな。そういうのは苦手だろう」
「……ええ。苦手です。だから正確には、これはただのお願いになります」
あっさりといなされて、自分でも呆れ混じりの息が零れた。
あまりにも自分が浅はかすぎて、口元には苦い自嘲の笑みすら浮かぶ。落とした視線の先、膝の上にある手は白くなるほど強く握り締めているのに、震えを殺しきることが出来ない。
実のところ、兄から見れば私と取引しなくても遠くない未来に結果は同じことになる。ただ今の時点で私が動けば、事態を大きく広げることなく収束できるだろうというだけ。
私が切れるカードは決して多くない。
私の特異性? そんなもの、これまでの私を見ていれば大したことないのは見てわかるはず。ずっと兄を騙していた私が許される程の力はない。
それを差し引いた状態での今の私が差し出せるもので、相手が欲しいもの。
兄が望んでいたのは、命を脅かされることのない平穏な生活。
本来なら当たり前にあるはずだったそれ。私の手で差し出せるのは、それだけ。
覚悟を決めてもう一度顔を上げれば、兄は薄い青灰色の瞳で静かに私を見つめていた。心の底を覗き込むかのような瞳を真っ向から見返して、唇を開く。
「私が、兄様にとって邪魔な者を排除します」
「!」
私の言葉はさすがに兄も予想外だったのか、目を瞠って息を詰まらせた。その隙に、自分の願いを捻じ込む。
「その対価に、メリッサ・マッカローとセイン・エインズワースを助けていただきたいのです」
説明もなくいきなりこんなことを言われても困惑するだけだろうけど、後からでは聞いてもらえないかもしれない。そんな焦燥感から、先に願いが口を突いた。
なんとか助けられるのは、自分の意志を通す力もなく、巻き込まれる形で従うしかなかった子供だけだ。あの二人には情状酌量の余地がある。
(メアリーとメル爺までは、助けられない。ラッセルはまだ私の元に来て日が浅いから、しらを切りとおせと命じるしかない)
兄もクライブも絶句したまま切り返す言葉を思いつかないのか、沈黙が横たわる。愕然と信じられないものを見るような瞳に居た堪れなくなってきて、視線を拳になっている自分の手に落とした。
私だって、こんなことを言い出したくはなかった。
大切な人の命惜しさに、誰かの命を差し出すような真似をしたくはなかった。
死の恐怖を誰よりも知りながら、誰かの死を願う自分の醜さを認めたくはなかった。
この人たちにそんな自分を、曝け出したくはなかったのに。
(それでも私には、もうこれぐらいしか出来ない……っ)
私に出来ること。私にしか出来ないこと。本当なら、もっと早く決断すべきだった選択。
――ずっと心の片隅では、祖父であるエインズワース公爵に死んでほしいと望んでいた。
この人さえいなければ、何百回そう考えたかわからない。この人がいなくなれば、私は助かるかもしれない。きっと逃げられる。だからはやく死んで、私を解放して。
そんなことを、望んでいた。
でもさすがに自分の手で殺すことまでは、考えられなかった。あの人を自分の手でどうにかできるなんて、考えることすら出来なかった。いつか誰かが助けてくれるのだと期待してばかりで、自分に出来ることから目を逸らした。
本当に周りを助けたいと願うのならば、この手を汚すことを厭っている場合ではなかったのに。
「私なら、あの人を呼び出せます。私の私室に招待してもおかしくはありませんし、私の手ずから振る舞ったお茶ならば、あの人は飲まないわけにはいきません」
そこに何が混入されていようとも。毒入りだとわかっていても、だ。
ラッセルに仕掛けた時とは話が違う。覚悟をする時間もある。今度はきっと、躊躇わない。
そしてあの人が私の前で息絶える分には、何の問題にもならない。世間的に見れば老人だから、急な心臓発作と言っても通用する。私が呼び出す医師はメル爺しかいない。エインズワース公爵とは友だったとはいえ、今のメル爺ならば息絶えた老人より、私を選んでくれるだろう。
そして世間から見れば私がエインズワース公爵を殺害する利点など何もないのだから、暗殺を疑われることもない。疑われても、別に構わない。
伯父は私を擁立するような真似はしないし、なにより彼自身も内密に処分されるだろう。エインズワース公爵の影に隠れている彼自身にはさほど力はないから、諸侯がそれほど騒ぐとも思えない。
後ろ盾がなくなった私が王宮を去ったところで、誰も気にしない。実際にはその裏では私が罪を贖って死罪を賜っていたとしても、だ。
世間にはほとぼとり冷めた頃に病死したとでも言ってくれればいい。病弱だと思われている私が死んでも、不審には思われない。
「たとえあの人が飲まなかったとしても、私が飲んで息絶えれば、私を殺害した容疑を掛けて排除できるでしょう。私の部屋にある毒入りの茶葉は、すべてエインズワース公爵家から贈られたものです。本来はもしもの為に用意されたものですが、傍から見れば私を殺すために贈ったとも取れます」
王家に贈られる物は当然ながら検閲される。履歴が残っているから言い逃れは出来ない。
私の為にとしたはずのことが、祖父の首を絞めるわけだ。そう思うと滑稽で、私の溜飲も下がる。
「私を殺した理由など、思う通りにならない私に業を煮やして殺したのだとでも言えばいいことです。エインズワース公爵家の毒で私が死んだという事実がある限り、無理があっても通るでしょう」
そして掲げる旗がいなくなった状態で、エインズワース公爵に付く者などいないだろう。
「これであの人も……私も。兄様にとって、邪魔な人はいなくなる」
自分でも恐ろしい程に、淡々と言葉が口から零れていく。何度も何度も頭の中で繰り返し練習したそれは、台本に書かれた台詞を暗唱しているようなもの。
本当はまだ、死にたくなんてない。
こう口にしている今だって、なぜ私だけが、と叫びたい気持ちはある。だけどそれを言って、どうなるの。この世界に縋りついて、何が得られるというの。
死にたくない。消えたくない。恐怖は胸の中で渦巻いている。だけど真実を告げれば、私に向けられるのは侮蔑と、騙していたのかという憎悪。一度は掴んだと思った感情は砕け散り、この手に残る物は何もない。
(こんなことなら、近づかなければよかった)
どうせ結果が同じなら、無駄に足掻かなければよかった。
最初から手に入らないものなら、失くす苦しみを知らずに済んだのに。
家族から向けられる、心地よい愛情も。
叶わないと知りながらも生まれてしまった、恋心も。
「あなたは必要な人だと、そう言ったではありませんか!」
不意にクライブの荒げた声が耳に届いた。
本来クライブの立場では、私と兄の会話に口を挟むことなど許されない。それは重々理解しているはずだ。それを破ってでも訴えられた言葉が、嬉しくないわけじゃない。
「……っ」
だけど今は歓喜よりも、罪悪感の方が凌駕した。奥歯を強く締めて、胸が引き絞られたように痛むのを耐える。
クライブの顔は見られない。どんな顔をすればいいのかわからない。
「……おまえは、全然人の話を聞いていないな。守ってやると言っただろう」
突拍子もない私の言葉に絶句して沈黙したままだった兄が、ここでやっと苦いものを吐くように言葉を吐き出した。呆れを通り越して、怒っているようにも聞こえる声。
しかし声音とは裏腹の優しい言葉に胸が大きく軋む。ギシギシと嫌な音を立てて、罪悪感の塊に潰されていくのを感じる。
でも守りたいと思ってくれるのは、私がちょっと特別で、いつか自分の役に立つかもしれない弟だからでしょう?
いままでずっと騙して、結果として危険な目に遭わせ続けていたのに、知らんふりをしてきた卑怯者の妹じゃないでしょう?
「私は、そんな風を言ってもらえる人間ではありません」
泣き喚きたい衝動を喉の奥に押し込んで、顔を上げた。なんとか口元を吊り上げようと頬に力を入れる。
だけど兄の顔を見たら、それは失敗した。
心配そうに私を見る兄の目と目が合って、抱え込んできた罪悪感が限界を超える。大きく膨れ上がったそれは、ぐしゃりと音を立てて容赦なく私の心を潰した。
一度潰れてしまえば、取り繕おうとした虚勢すらもう湧かない。
(……疲れちゃった)
クライブに弱音を吐いた時点で、既にもう糸は切れていたのだろう。一度足を止めてしまえば、もう走る力が湧いていこない。
欺き続ける自分に、疲れてしまった。
細く息を吸い込んで、戦慄く唇を微かに開く。
「兄様。私は……」
本当は――。




