72 嵐の前の静けさ
兄に頼まれたおつかいは、これで無事完了。
普段は見られない本が見られて楽しかったけど責任も感じていたようだ。満足のいく本が手に取れたことで肩の荷が下りた気分。
足取りも軽く会計を済ませた本を両手に抱えて店を出れば、すぐにクライブが手を差し出してきた。
「お持ちしましょう」
「結構です。これは私が任された事です。クライブに手伝わせるわけにはいきません」
図書室の本と比べれば装丁は簡素で薄い本が多いので1冊1冊は軽い。結局6冊ほど買ってしまったからそれなりに重くはあるけど、屋敷まで持ち帰るぐらいは自分で出来る。
それに両手が塞がっていれば、クライブに手を繋がれることもない。
しかと抱えてクライブを見上げれば、なぜかちょっと笑われた。私を見る眼差しがやけに優しく見えて居心地が悪い。
だからそういう目を向けてくれるなと思ってしまう。変に誤解しそうになるから。
「そういうところはアルト様らしいですが、今のお姿を考えてください。女性に荷物を持たせて町を歩くのは憚られます」
「侍女だと思えばいいでしょう。よく考えたらクライブはここの若様なのだから、私が仕えているように見えるのではないですか?」
ホワイトブリムとエプロンは外してきてしまったけど、ランス伯爵家の侍女も紺色のエプロンドレスだった。着丈とデザインは違うけど似たようなものだと思う。
小首を傾げれば、眉尻を下げていたクライブが頬を引き攣らせた。
「恐れ多いことを仰らないでください。それに僕は年に2度程しかこちらに帰ってきませんからあまり顔は知られていません。傍から見たら、僕は令嬢に重い荷物を持たせて平然としてる屑です」
「誰も屑とまでは思いません。自意識過剰です」
取り上げられそうになった本を渡すまいと抱え込み、呆れた眼差しを向ける。
(でも確かに視線は感じる)
テレビやネットどころか写真もないこの世界では、領主の息子とはいえそこまで顔は知られていないのだろう。
しかしクライブはランス伯爵夫人に面差しが似ている。箝口令を強いているわけじゃないから、屋敷で働く人達の口から子息が一時帰省していることは漏れているだろう。小さな町のようだし、目聡い人は「もしかして」と思っている可能性はある。
そうでなくても、身長が高いから目を引きやすい。更に、この顔。傍から見たクライブは女性受けしそうな見た目だ。乙女ゲームの攻略対象になるぐらいだから当然ではある。
優しげな目元と、通った鼻梁。口元は穏やかな微笑を絶やさず、でも常に背筋は凛と伸ばされているからか決してなよやかには見えない。焦げ茶色の髪は貴族にしては珍しく襟足が見えるほどに短めに整えられていて爽やかさがある。尚且つ高身長で縦に長いせいか着痩せしているように見えるけど、いつも片腕で私をあっさり捕まえるのでかなり鍛えているのだと思う。近衛の制服を着ていなくても、立ち居振る舞いから騎士然とした所作が滲む。
私に対しては、弟と接するような乱暴さもたまに出るけど。
こうして見ると時々暴走する中身さえ知らなければ、ただの好青年である。
実際、道行く女性から時折チラリと向けられる視線を感じないわけではない。それを特に気にしていなさそうなところが日常茶飯事なのだと思わせる。
これはいっそ屑だと思われているぐらいでちょうどいいのでは? 女性の視線が半減できそう。
「とにかく、これは私の仕事です。取らないでください」
いつまでも本屋の軒先で押し問答するようなことでもない。渋い顔をしているクライブにはかまわず、本を抱えたまま歩き出す。
クライブは溜息を吐いたものの「疲れたらすぐに言ってください」と念を押すことで妥協したらしい。時折気遣うような視線が向けられるものの、大人しく隣を歩く。
行きと違い、両手が塞がっているせいで歩く速度は遅くなる。建物の影を選んで歩いてはいるけれど、夏の気温が体力を奪っていく。湿度のない風が時折頬を撫でていくものの、先程より人も増えたせいか熱気を払うほどではない。肌が汗ばむのを感じる。
ちょっと町を往復するだけのつもりが、小さな本屋だと侮っていたけれど随分と時間を食ってしまっていたみたい。出てくるときは真上にあったはずの太陽が少し傾いていた。
どうりで喉が渇くはず。
「休憩していかれますか?」
こくり、と乾いた喉を嚥下したところで隣から尋ねられた。
なんでわかるんだろう。そんなに物欲しげに道沿いのカフェを見ていたのかと思うと恥ずかしい。羞恥を堪えたせいで口がへの字に曲がる。
「結構です」
「ですが、そろそろ喉が渇きませんか? どこかに入りましょう」
「……生憎と私は自分の自由になるお金を持っていません」
しかし、例によって例の如く私はお小遣いを持っていなかった。
こんなことならランス領に来る前に換金して持ってくればよかったけど、金目のものは城の自室に置きっぱなし。ここに来る前に世話になっていたメル爺に小遣いを強請るわけにもいかず、無一文で来てしまった。城から出ない生活しかしていなかったから、現金を持つという概念がなかったせいもある。
「兄君から渡されているではありませんか」
するとクライブは不思議そうに目を瞬かせた。
「これは本を買うために預かったものです」
ただでさえ、貸してもらえることを期待して我慢できずに1冊だけ趣味に走った本を買ってしまった。あれは本という名目があるからまだ許されるかもしれないけど、これ以上の使い込みはさすがに憚られる。
折角寄せられている信用を損ねたくない。そうでなくとも、本来私は信頼に足る人間ではないのだから。
顔を顰めて言えば、クライブが呆れを滲ませた。
「兄君はおつかいの駄賃も含んでお渡ししていますよ。というより、それはあなたへの小遣いのつもりでいるのだと思います」
そんな馬鹿な。さすがに絶句した。
たかが本屋に行かせるだけで、弟に日本円にして10万円も小遣いとして渡すとかありえないでしょう。滅多にない機会だということを差し引いても考えにくい。
「兄様に直接そう伺ったわけではありません。憶測で判断するわけにはいきません」
「本当にアルト様は真面目というか、揺るがないですね」
仏頂面で言ったらクライブに苦笑いされてしまった。しかしこんなことを言っておきながら、既に使い込みをした身としては真面目扱いされると居た堪れない。
やっぱり悪いことはするものじゃない。欲望に任せて行動すると、後から襲ってくる罪悪感がすごい。
無言を貫けば、クライブは諦めたのか「わかりました」と口にした。
「でしたら、僕の喉が渇いているので付き合ってください」
「ぅわ!?」
私が断りにくいような言い回しをしながら、私の両手が塞がっているせいか肩を抱かれた。すぐそばにあるカフェに向かって方向転換をさせられたせいで変な声が出る。
だからっ、こういうところが気安過ぎると言っているの!
しかしもし本当の女性相手なら、クライブだってここまで強引な真似はしないだろう。どう考えてもやっぱり弟扱いされている。睨みあげても堪えた様子もなく、飄々としているのが悔しい。
「お茶ぐらい御馳走してあげます」
「結構です。借りを作りたくありません」
「アルト様は僕をなんだと思っているのですか。これぐらいで貸しを作ったとは思いません。以前も言いましたが、子どもらしく礼を言っておけばいいのです」
嘆息を吐いたクライブが私の背を手で押しながら店の中へと足を踏み入れようとする。それに抗って必死に足に力を入れて踏み止まる。
「そう言って、前も御馳走してもらったではありませんか。そう何度も世話になるわけにはいきません」
「気になさるようでしたら、先日失礼を働いたお詫びということにしておきましょう」
そこまで言われてしまっては、返す言葉が思いつかなかった。下手に突いて蒸し返したい話でもない。
「それならとびっきり高いものを頼みますけど」
「お好きにどうぞ」
悔しまぎれに憎まれ口を叩いたけれど、クライブは肩を竦めて笑っただけだった。まぁ、平民向けのカフェで一番高いものを頼んだところで高が知れている。
諦めて店の中に入ると、店内は賑わっていた。テラス席なら空いているということで、クライブが頷く。
冷房があるわけではないので、庇と植物で影が作ってある外の席の方が涼しい。しかし凝った内装の店内の方が人気なのかテラス席に客はいなかった。すぐに席に案内されて、クライブに椅子を引かれて腰を下ろす。
エスコートされていることがもぞ痒い。
(なんだかデートみたいな……)
脳裏を過った不穏な単語に眉尻が下がる。急に心臓がぎゅっと引き絞られたように痛んで、湧いてきた感情を持て余してしまう。
「お気に召しませんでしたか?」
「いえ。問題ありません」
向かいに座ったクライブが申し訳なさそうな顔をしたけど、いちいちこちらの顔色を気にしないでほしい。
一つ咳払いをして気を取り直すと、買った本をテーブルの端に寄せてメニューを覗き込んだ。
お茶だけのつもりだったけど、メニューを見ているとスウィーツ系の説明文がどれも美味しそうで困る。折角なら食べてみたいと思ってしまう。
(頼んでいいのかな)
建前はお詫びと言われたわけだから、遠慮しなくてもいい……はず。
私が決まったのを見計らって店員が呼ばれ、迷ったけれど誘惑に負けて紅茶とシフォンケーキも頼む。クライブは紅茶しか頼まなかったけど。空気を読んでほしい。おかげで一人だけ食いしん坊みたいで気まずい。
「……お言葉に甘えてケーキも頼ませていただきましたけど」
念の為に確認を取ればクライブがきょとんとした後、喉を震わせて笑う。
「お気になさらず。ニコラスとオスカーがあなたは小食だと心配していたので、食べられる時に食べていただいた方が安心できます」
「私の胃腸は弱いのです」
ニコラス達にもした言い訳を口にして平然を装った。私の食事状況が伝わっていることに内心では苦い気持ちが込み上げてくる。
一緒に過ごす時間が長くなるほど情も湧いてくるし、油断も生まれる。他人と行動していると、こういう些細なところからボロが出そうになるのかとヒヤリとさせられる。
(どう足掻いたって限界はある)
嘘を吐いて。誤魔化して。私が彼らに見せている姿は、いつ剥がれてもおかしくない張りぼてになってきている。年齢を重ねるほどに、男女差は大きくなるばかり。
焦りばかりが膨らんで、時々どうしたらいいのかわからなくなってくる。
「甘い物、お好きですよね」
苦い気持ちを噛み締めていたところで、クライブが話しかけてきた。
甘い物が好きっていうところも、女みたいに思えてくる。実際のところ味覚なんて男女差でそうあるとも思えないけど、「しょっぱいものも好きですよ」と言ってしまう。
「そういえば頂いたゆで卵、全体的に塩が染み込んでいて美味しかったです」
「お気に召していただけたなら良かったです。あれは茹で立て卵を飽和食塩水の中に半日漬け込んで冷所に置いておくだけなので、簡単に作れます」
しょっぱい、という話からクライブは今日の朝食に出てきた殻付き塩味ゆで卵のことを思い出したらしい。
先日ランス伯爵に頼んだ材料で作ってもらったものだ。ニコラスとオスカーにも喜んでもらえたので、ささやかだけどこれで一応御礼は出来たことになる。
ニコラスにレシピを訊かれたので教えたけれど、「帰ったら自慢します」と悪戯っ子のような顔をして言っていたから城で出回るかもしれない。
「アルト様は本当に思いもよらないことを知ってらっしゃいますね」
感心したように言われても嬉しさはない。ただ溜息が漏れてしまう。
生憎と料理は得意ではなかったから、私が知っているレシピはSNSで興味を持ったごく簡単な酒の肴的なものだけ。
「所詮、私が知っているのはこの程度です」
既にクライブには私がどういう存在か知られているから、痛い腹を探られる前に曝け出しておく。視線を逸らしたのでクライブがどんな表情をしているのかわからない。
どんな目を向けられているのか、確認するのが怖くもあった。
兄が私に何を期待しているのかわからない。けれど応じられる気はしない。過度な期待は重いだけ。この程度で自分の命を繋げられるほどの価値があるかというと首を捻る。
勿論、生に縋りつけるならどんなものにでもしがみ付きたい。
でももしそれで自分ひとりだけ取り残されることになったら、と考えると怖い。
(置いていかないでほしい)
クライブが何か言いたげに私に呼びかけようとした。そこに思った以上に早く、「お待たせしました」と頼んだものが運ばれてくる。
鼻先をくすぐるアールグレイの香り。目の前に置かれた、ふわふわのスポンジと添えられた白いクリームが目に優しい。
おかげで沈みかけた気持ちが爽やかな香りで少しだけ浮上する。自分でも単純だと思うけど。
「毒味は」
「必要ありません。私は並大抵の毒では死ねません」
クライブが私の紅茶に手を伸ばそうとするので、呆れてやんわりと制した。
突発的に立ち寄った店で毒を入れられるとは思えない。ティーカップに手を伸ばし、「いただきます」と告げてから躊躇いなく口を付ける。
乾いた喉が潤うと、ほっと息が零れた。ふんわりとしたスポンジを口に含めば、ほんのりとした素朴な甘さに安心する。溶けていくような柔らかさなので、食べても胃が膨れる感覚もなく入っていく。
柑橘系の紅茶の爽やかさにもよく合う。お店が賑わっていたのが理解できる美味しさ。
半分以上夢中になって食べすすめたところで、視線を向けられていることに気づいた。目線を上げれば、緑の瞳と目が合う。
(なんで見てるのっ?)
じっと見つめられていて落ち着かない。フォークを持つ手を止め、怪訝に見つめ返してしまう。
「なんでしょうか」
「美味しそうだな、と思いまして」
そう言って目を細められた。
羨むぐらいならクライブも頼めばよかったのでは? それとも、これは一口寄越せという要求? ポケットマネーで奢ってもらっているわけだから、クライブの胃に入る権利はあるといえばある。
仕方なく最後の一口にしては大きい部分をフォークに刺して、クライブに差し出した。
「どうぞ」
「えっ?」
「食べたかったのでは?」
「いえ、そんなつもりではなかったのですが……っ」
なぜかクライブが狼狽えた。折角フォークを差し出しているのに受け取られない。この期に及んで上擦った声でそんなことを言われて、ふと気づいた。
これはよく考えたら、絵面的にとても微妙では!?
他のテラス席に客はいないし目隠しの観葉植物が置いてあるとはいえ、外から見えないこともない。お皿ごと渡せばよかったと気づいたところで、今更引けない。中途半端に引く方が変に意識しているように見られてしまうかもしれない。
「はやく。クリームが落ちてしまいます」
ええいままよ、とフォークを受け取る気配がないので持ち替えた。ちょっと不機嫌そうに急かして、言われるままに開かれた口に半ば強引に押し込んだ。
一口にしては大きかったけど、柔らかいから噛めばあっという間に小さくなる。ただ無理に入れたせいか、ちょっと口の端がクリームで汚れた。咀嚼して飲み込んだクライブが気まずげに眉根を寄せながら手の甲でクリームを乱暴に拭う。
その耳がいつもより赤い気がする。
「あまりこういうことはなさらない方がいいかと思います」
「そうですね、行儀が悪かったです。欲しがったクライブは反省してください」
フォークを置いて嗜めれば、クライブが釈然としないと言いたげな顰め面をした。
言いたいことはわかる。
表面上は平然と躱してみせたけど、実のところ心臓はバックンバックンと大きく脈打っていた。動揺で震えそうになる指を誤魔化すために、脇に置いていた本を引き寄せる。
「十分休憩できましたから、そろそろ帰りましょう。ごちそうさまでした」
とにかく今は、はやくこの気まずさから逃れたい。
両手に本を抱えるとクライブの返事も待たずに立ち上がった。
ぎゅっと両腕に本を抱えていると少しだけ気持ちが落ち着く。もはや精神安定剤みたいなものだ。クライブもさっきの恥ずかしい行動に触れられたくなかったのか、文句を言わずに立ち上がった。
会計を済ませるのを待ち、店を出たところで本を抱え直していたらクライブが手を差し出したので首を横に振る。これは私の役目だと言う代わりに、屋敷に向かって歩き出した。
町の通りを抜け、屋敷に近づくにつれて人気はなくなっていく。
木立から並ぶ道に入った辺りから、既にランス伯爵邸なのだろう。ランス伯爵邸は観光名所とはいえ、さすがに屋敷のそば近くまで無関係な人間は入って来られないようだ。屋敷の全体像を見るとしても、湖の向こう側からなのだと思われる。
途中で何度か本を抱え直していたからか、クライブが私の手の中にある本に視線を向けた。
「それにしても、思ったより本は買われなかったのですね」
「そうですか? 結構選んだつもりだったのですが」
「二人がかりで持ち帰るぐらいの量を買われるかと思っていました」
「いくら私でもそこまで買いません。兄様がこちらにいらっしゃる間に読まれる量で十分でしょう」
そこまで口にして、ふと気になっていたこと脳裏を過った。
「そういえば、いつまでこちらにいられるのですか?」
ここに来て既に3日目。移動を含めると4日目。石畳の地面には昼間より長く影が伸び、着実に時間が過ぎていっていることを知らせる。
事前に旅行は数日と言われていたし、徹夜してまで時間を作ってくれた兄の忙しさを考えると、そろそろ帰らなければならない頃合いにも思えてくる。
クライブは僅かに首を傾け、ちょっとだけ困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
「そうですね。そろそろでしょうか」
たぶん私の内心を気遣ってか、胸の内を見せない穏やかな笑みを見せる。それが何かを隠しているように見えて、余計に胸の奥にじわりと不安を広がらせる。
兄もクライブも、いや、私以外はもしかしたら起こりえる事態を正確に予想しているのだろうか。
(もし向こうで何かあるのなら、そろそろ起こっていてもおかしくはない、ってこと?)
この世界の通信手段に電話はなく、手紙だけ。
火急の用に確実性に欠ける伝書鳩を使うとは思えない。万が一何かあれば早馬が来るだろう。私達は馬車でゆっくり移動したから丸1日かかったけど、早馬を飛ばせばたぶん王都からは半日程度で到着するはず。
(呑気に遊んでる場合じゃなかった)
でも今の私に、何ができるというの。
何かに縋りたくて無意識に指に力が籠る。けれど今この手に掴めるものなんてない。
「アルト様」
顔を強張らせた私の隣を歩くクライブに呼ばれた。
無意識に俯いていた顔を持ち上げれば、真剣な顔をしたクライブと目が合った。
「エインズワース公爵長子とはあまり関わり合いになられていなかったとのことですが、本当に狙われるようなお心当たりはないのですか?」
外だからか、誰かに聞かれることを憚ってクライブが声を潜めた。しかし実際のところ、こうして外で歩きながら話している方が誰かに聞かれる可能性は低い。
人のざわめきがなくなった代わりに聞えてくるのは夏虫の声だけ。それと自分の息を呑む音。ともすれば、急激に脈打つ速度が激しくなった鼓動すら聞こえてしまいそう。
(まだエインズワース卿……オーウェン伯父様は疑われているの?)
しかし、本当にあの人との関わりは最低限だった。正直なところ、よく知らない人と言ってもいい。
エインズワース公爵と長子の仲はあまりよくないと聞いたことがある。伯父が私の元に来るのはどうしてもエインズワース公爵が来られないときだけで、年に1、2度程度だった。セインが侍従になってからに至っては一度もない。
思い返せば、異常なほどに関わりは少ない。
こう考えると、まるであえて私に近づけないようにさせているかのよう。
セインと伯父の仲も悪い。というより、伯父はセインをよく思っていなかったようだ。それは娼婦の庶子だからだと思っていたけれど、エインズワース公爵がセインに私を任せることも気に入らなかったのもあるのだろう。
本来なら、私と密接な繋がりを持ちたいのはエインズワース公爵家を継ぐ伯父なはずだ。
(……あれ?)
そこでふと、何かが引っかかった。拭い去れない違和感に襲われる。しかしうまく掴めない。無性に喉に引っかかるような、胸の奥が落ち着きなくさざめく。
クライブは困惑している私に気づいたのか、足を止めてじっと見つめてきた。同じように足を止めて、思いつく限りのことを口に乗せる。
「そう言われても、伯父様とお会いしたのも小さな頃だけです。それに伯父様は、どちらかといえば私に同情的で……」
脳裏に過る、幼い頃に聞いた声。
『……可哀想に。こんな場所に生まれてくるなんて』
そう。あの人は、私に同情していた。いつも憐れみに満ちた目を向けられた。小さな私と目線を合わせ、苦渋に満ちた表情を見せた。
そうだ。
――あの人は私を王に据えることなど、望んではいなかった。
祖父から見れば、その思考は理解出来ないものだろう。もし彼が祖父を諫めていたとしたら、煙たがられて遠ざけられていた可能性は高い。
ならばエインズワース公爵が諦めないから、私を殺そうとした?
(でももし王位を狙うことを諦めさせたいのだったら、あの時点で私を殺していたはず)
彼にはその機会が何度もあった。絶好の機会を逃して、わざわざ今になって私を狙う理由がない。
(理由がない? 本当に?)
コクリ、と急速に緊張で乾いていく喉を嚥下させた。
クライブの問いかけから考えても、伯父の疑いは晴れていない。どころか、濃厚になっているように思える。
私はてっきり彼は誰かに陥れられたのだと思っていた。しかし考えてみれば王家とエインズワース公爵家、両方に喧嘩を売るほど愚かな家ってある?
脳内に叩き込まれている貴族の縮図を広げてみても、思いつかない。
王家とエインズワース公爵家は拮抗している。どころかエインズワース公爵家の方が派閥的な力は強い。王都へと繋がる大きな街道を保有していることから考えても、地理的にも有利。
それ以外の家は十把一絡げ。この二家を相手取って、引っ繰り返せるほど力を持つ家はない。
強いて言えばかつて戦火を凌いだ辺境伯ぐらいだけど、あの家は中枢の権力には興味を示さない。国を守るという信念だけに特化している。だいたい、同じ国とはいえ物理的に遠すぎる。得られるものが少ないのに首を突っ込でくるほど奇特ではないはず。
かといって、他国の侵攻も思いつかない。この国は大きい。こんなお家騒動に入り込めるほどの力があるとは考えにくい。
(ならば本当に、エインズワース公爵長子であるオーウェン伯父様の仕業だと?)
エインズワース公爵家の人間が私を殺すはずがないと思って、最初からその可能性は排除していた。
けれどもし本当に、彼が私を殺すつもりでいたというのなら。
しかも今になってあんな大事を起こしてまで、しかも仕掛けたのが自分だと隠すこともなく私を抹殺しようとしたのならば。
彼がそんな形で私を殺そうとするほどの理由。
否、そうしなければならなかった理由。
(……まさか)
ふと、もしかして、と脳裏を過った。
同時にその可能性を、そんな馬鹿な、と否定する自分がいる。
だって、そんな馬鹿なことがあるわけがない。嘘でしょう?
(ありえない!)
思考を掻き乱すように、全身に心音がドクドクと激しく鳴り響く。顔から血の気が引いていく。
(でも、もし、そうだとしたら)
辻褄が、あってしまうかもしれない。
「…………私は、とんでもない思い違いを、していたかもしれません」
ひどく擦れた声が自分の喉から漏れた。




