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68 思い出は今は遠く


「アルフェ。町までお使いに行ってきてほしい」


 兄がそう言い出したのは、3日目の昼を過ぎてからのことだった。


「お使いですか? 私でお役に立てるでしょうか」


 ご丁寧にショルダー型になっている財布まで差し出されて、反射的に受け取った。

 しかし、お使い? 私が? 町まで?

 ランス伯爵邸から町までは歩いて行けそうな距離だから、行くのは構わない。むしろ町は覗いてみたいので嬉しい申し出ではある。

 けれど折角の休みなのだから、兄が自分で行った方が息抜きになるのではないだろうか。


「アルフェが適任だ。本屋で流行っていそうな本を適当に選んできてくれ」

「本屋!」


 しかし本屋、と聞いて即座に食いついてしまった。声も躍ってしまう。

 そんな私を見て兄が目を細めたので、慌てて居住まいを正す。ちょっと目を輝かせてしまったのは見なかったことにしてほしい。

 でも町の本屋ということは平民向けの本の取り扱いが主だろうし、兄が読む本などあるのだろうか。それこそ兄が直接見て選んだ方がいい気がする。

 そう思うものの、これはたぶん適当な口実で私を送り出そうとしてくれているだけなことはわかっていた。

 ならばここはお言葉に甘えて、余計なことは言わないでおく。


「流行っている本なら何でも良いのですか?」

「ああ。あれは市井を知るのに都合がいい」


 言われた言葉で得心がいった。

 流行っている本ならある程度は世情も反映しているだろう。それが夢物語的な話だったとしても、それが平民の望んでいる世界なのだと読み取ることもできる。

 城の中にいてはそんな本はなかなか手に取れないし、読む暇もないだろうけど、こういう時なら目を通す時間もある。


「わかりました。行ってまいります」


 頷けば、兄がチラリと脇に控えていたクライブに目をやった。


「クライブ。案内してやれ」

「承りました」


 しかしその一言で、弾んでいた心が一気に気が重くなる。

 ……でも、わかってた。そうなるだろうなって、思ってた!


(クライブと仲直りしてこいってことなんだろうな)


 実はまだ、クライブとぎくしゃくしていたりする。

 昨日も一日、兄と湖畔を散策したり、昼食は外でピクニックをしたりと遊ばせてもらったけれど、その間もクライブとは必要最低限しか話していない。

 というより、視界の端ではクライブは何か言いたげな顔をしているのは見えていたけれど、私があえてクライブと目を合わせないようにしていた。

 それでもさりげなく避けていたつもりだったのに、これだけ近くにいれば兄にも微妙な空気感が伝わってしまったのだろう。メリッサにもとうとう昨夜、「何かあったのですか?」と心配そうに言われてしまった。

 メリッサには、「クライブの寝起きが悪くて、ちょっと怖かった」と微妙に本音を混ぜて誤魔化したけど、それで納得してくれたかどうかはわからない。

 身近な人間がギスギスしているのって当人より周りが気を遣うものだから、兄の判断は正しい。本屋という飴をやるから、クライブと話し合いをして来いと言うことなのだと思う。

 嬉々として請け負ってしまった手前、やっぱり荷が重いですとは言えない。飴につられて簡単に踊らされる自分の単純馬鹿さにげんなりする。


(町に行くならメリッサも一緒に行きたかったけど)


 なまじ空気が読めてしまうだけに、「メリッサも一緒でいいですか?」とは言えない。

 気づかれないように小さく嘆息を吐いてから、覚悟を決めてクライブに向き直った。


(どちらにしても、いつまでも無視しているわけにもいかないわけだから)


 いい機会なんだと思う。さくっと謝ってもらって、この件は終わりにすればいい。


「では、お願いします」


 強張ってしまいそうな顔を必死に取り繕ってクライブを見上げれば、「はい」と頷かれる。

 その顔は、私とは反対にどこかほっとしたように見えた。




   *


 しかし屋敷の玄関扉を目前にして、いざ出掛けようとなったところで、「でかけるのですか?」と背中に女性の声が掛けられた。


「!」

「母上」


 驚いて振り返れば、私が口を開くより早くクライブがその人を呼んだ。

 鮮やかなエメラルドグリーンの瞳が印象的な、クライブとよく似た涼やかでありながら優しげな目元。

 いや、違う。クライブが、この人に似ているのだ。


(この人が、兄様の乳母……!)


 栗色の髪は綺麗にまとめて結われており、草色の落ち着いた色合いのドレスがよく似合う。背が高く、凛と背は伸びているけれど威圧感はない。仄かに微笑んでみえる口元のせいか、穏やかで落ち着いた雰囲気を纏っている。

 年齢は、私の母よりは上のように見える。私の乳母と同じぐらいかもしれない。

 反射的に緊張でこくりと喉を嚥下させた。指先まで神経を張り巡らせていないと、無意識に掌を硬く握り込んでしまいそうだった。


(挨拶、しないと)


 頭ではそう思うのに、咄嗟に体が動かない。淑女の礼をすべきかどうか迷った、というのもある。

 けれどそれ以前に、私はこの年齢の女性と接することがあまりなかったせいもあった。

 メリッサが休みの時には第二王妃のところから侍女が来るけれど、彼女達は私の部屋の中までは入ってこない。扉前で全部セインが対応してくれるので、大人の女性に会うことはほぼなかった。

 だから今まで気づかなかったけれど、苦手、かもしれない。

 ランス伯爵夫人だから緊張しているわけではない。勿論それもあるけれど、自分の母と重なる年齢の人に苦手意識があるのか、緊張で背筋に冷たい汗が滲む。


「出かけるのに、その服装で行くのですか? 目立つでしょう」


 何も言えずに固まっている私を気にした様子はなく、ランス伯爵夫人はクライブに呆れた声を投げかけた。

 けれどクライブを見る瞳は優しい。いかにも、お母さんって感じがする。

 言われたクライブは一瞬息を呑み、その通りだと思ったのかばつが悪そうに眉尻を下げた。

 クライブの格好は、いつもの近衛の黒の制服だ。言われてみれば、目立つかもしれない。

 王都ならば城の騎士が街に下りることは珍しくないし、護衛をするなら近衛の制服の方が抑止力になりえる。けれどランス領でこの服は悪目立ちする気がする。


「せめて上着だけでも着替えておいでなさい。あなたが戻るまで、私がここにいますから」


 そう言われて、クライブが躊躇いがちに私を見下ろす。

 ここで私が言えることなんて、「ちゃんと待っています」という言葉しかない。クライブは「すぐ戻ります」と言い置いて、その場から足早に立ち去った。

 そしてこの場に残されたのは、私とランス伯爵夫人の二人だけ。


(どうしよう)


 この人は、私が誰か知っている。挨拶はすべきだと思う。

 でもここはランス伯爵の時のように、人払いされた部屋ではない。現在、玄関ホールは人気がなくて静まり返っているけれど、誰が通るかわからないのに下手なことは言えない。

 ならば侍女として挨拶すべきなのだろうけど、私がアルフェンルートだとわかっているのに淑女の礼をするほど滑稽なことはないように思える。


「アルフェ様」

「はい」


 不意に呼びかけられて、小さく肩が跳ねた。緊張で大きく鳴り響く自分の心音が聞こえてしまいそう。

 ランス伯爵夫人は僅かに首を傾げると、静かに微笑んだ。


「エプロンとホワイトブリムは外されて行かれた方が良いと思われます」


 特に挨拶もなく、まるで世間話でもするかのように話しかけられて目を瞠った。

 けれどそれが無礼だとは思わなかった。むしろ気にしなくていいのだと言われたように感じられて、少しだけ肩の力が抜ける。

 クライブとデリック、そして兄を育てているだけあって、子供が考えそうことはお見通しなのかもしれない。

 言われるままに、行儀が悪いかと思ったけどその場でエプロンとホワイトブリムを外した。

 この2点を省くだけで、濃紺のスタンドカラーのロングワンピースになる。町娘というにはスカートが踝丈と長いけれど、この姿ならそこまで浮くこともなさそう。

 そこで手持無沙汰になってしまった私の前まで、ランス伯爵夫人がゆっくりと歩みを進めてきた。


「髪が乱れてしまいましたね」


 そう言われて、慌てて自分の頭に手を伸ばした。

 摩擦による静電気で跳ねたのか。それともホワイトブリムがずれないようにピンで留めていたから、そこに跡が付いてしまっているのか。


「結えばわからなくなると思いますが、結いましょうか」

「えっ?」


 意外な申し出をされて、驚きに目を瞬かせた。

 ランス伯爵夫人に髪を結ってもらうとか、予想外過ぎて一瞬頭が付いていかなかった。おかげで今、私はひどく間抜けな顔をしているように思える。


「町では若い娘達の間で編み込みが流行っているようです。編んでいかれた方が自然かもしれません」

「……そういうことでしたら、お願いします」


 木を隠すなら森の中、という言葉もある。ランス領をよく知るこの方がそう言うのだから、多分その方がいいのだろう。

 困惑しつつも、「こちらへどうぞ」と促されるまま歩いていく。心臓はさっきからドクンドクンとうるさい。おかげで頭が上手く動かない。

 ホールに設置されている待合用の椅子に座るように手で示された。持っていたエプロンとホワイトブリムをテーブルに置いてから、恐る恐る腰掛ける。

 咄嗟に頷いてしまったけれど、我ながら理解できない状況に陥っている。


(これって、大丈夫なの? いくら王族仕えの侍女とはいえ、伯爵夫人に髪を結わせるなんて何様って感じじゃない!?)


 この人も人気がないからそう申し出てくれたのだろうけど、気が気じゃなくて落ち着かない。


「この時間は屋敷の者は休憩に入っていることが多いので、人が少ないのです」

「そう、なのですか」

「ええ。ですから、どうぞ楽にされてくださいませ」


 私の焦りが伝わってしまったのか、脇に立った夫人が落ち着いた声でそう教えてくれた。

 優しく微笑まれて、ぎこちなくだけど私も笑い返す。緊張のせいで愛想笑いにしかならないのは許してほしい。

 しかしこの人から見たら私はあきらかに敵だと思うのだけど、幸いにも敵意は感じられない。

 もしかしてランス伯爵の後悔を知っていて、この人も私に同情的だったりするのだろうか。それならこの態度もわからなくはないけど。


(落ち着かない……っ)


 夫人は「失礼します」と一言断ってから、私の髪に指を滑らせた。反射的に体が強張る。


(クライブ、お願い。はやく戻ってきて!)


 さっきまではクライブと二人きりなんて、と思っていたけれど今はそれどころじゃない。

 この人といったい何を話せと言うの。頼むから早くして!

 前は会社の同僚にこれぐらいの年齢の人はいたし、普通に世間話をしていた。けれど今の私では、立場的にどう接していいのかわからない。距離感が掴めない。

 兄の乳母だから、自分の乳母との関係を思い出せばいいかもしれない。けど10歳の頃に別れたきり、今は手紙のやり取りぐらいしかしていない。たまにメリッサに会いに王都には来ているようだけど、隠居した乳母が城に出入りするのはあまりよく思われないのか、顔を合わせたことはなかった。

 実母とは、いわずもがな。

 

「シークヴァルド様の髪も、よくこうして結ってさしあげていました」


 体を強張らせている私に気づいたのか、囁くような声で夫人がそう口にした。

 結ってもらっているから頭は動かせないので、視線だけを向けると懐かしそうに目を細める夫人と目が合う。

 優しい眼差しだった。

 兄のことを思い出しているからかもしれないけれど、慈愛に満ちた目をしている。

 ……ふと、それが遠い記憶にひっかかった。


 髪を掬い上げる指先。

 「今日はどんな髪型にする?」と尋ねる優しい声。

 リボンを選ぶときの、楽しそうに笑う顔。

 ひどく懐かしい、幼い頃の記憶。


(……お母さん)


 思い出してしまったそれに、ぎゅっと胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

 こちらの世界の母親じゃない。あの人には、そんなことしてもらっていない。

 これは、もっと前。懐かしくて愛しいのに、今は切ない思い出。

 この人の手と眼差しは、それを思い起こさせた。もうけして手の届かない、私が置いてきてしまった過去。


(小さい頃だけど、お母さんによく結んでもらってたっけ)


 目を閉じれば、懐かしい気持ちに浸れる。そんな場合じゃないと思うけれど、誘惑に勝てなかった。

 髪を掬う時の指が少しくすぐったくて、編むために引っ張られると少し頭が揺れる。懐かしい感覚に、苦手意識が和らいでいく。

 こちらに来てからは、乳母にも髪を結ってもらったことはなかった。

 こちらの世界では、特に貴族は男でも髪の長い人は多い。実際、陛下も兄も長い。髪を伸ばせるほどに手入れが出来るということだから、恵まれた者の証でもあった。

 けれどやはり男は短い方が主流であり、小さい頃の私はずっとショートにしていた。

 乳母は私が女であろうとする要素は極力避けていたので、伸ばしたいなんて言えなかった。少しでも伸びると、切られてしまう。

 だから私が髪を伸ばすようになったのは、乳母がいなくなってから。

 それは、私なりの小さな反抗だった。

 それでも罪悪感は付き纏っていて、伸ばしても肩に届くぐらいが精一杯。それすら、いつもは後ろでひとつに結んでしまう。


(思えば、メアリーに髪を梳いてもらうこともなかったな)


 物心つく頃には、自分でやっていた。

 乳母に髪を梳いてもらったのは、本当に小さな頃だけ。基本的に、私は自分のことは自分でするように言われて育った。

 性別を隠すためには、極力人と関わらないようにさせなければいけないので仕方がないことだったとは思う。別にそれで困っていないからいいのだけど。

 だからこそ、兄が侍女に着替えの手伝いをさせると言ったときは心底驚いた。

 でも王族なら、それが普通なのだ。

 きっとそうやって、『人を使う』ということを幼少期から馴染ませていくのだと思う。

 王というものはいわば管理職なわけで、人をうまく使うことが出来なければやっていけない。人が一人で出来る仕事量には限界がある。特に王の処理すべきことは多すぎて、しかるべき者に任せていかなければ回っていかない。

 だからこそ常に周りに人を置いて、相手がどこまでできるのかの力量を測り、信用して任せるということが自然に出来るよう、身に沁み込ませていくのだろう。

 私のように出来るだけ一から十まで自分でやりたがる人は、責任感はあるのだろうけれど管理職には向いていない。

 私の乳母は極力、私が一人で出来るようにと育ててくれたけど、多分王族としては致命的だ。


(たぶんメアリーも、私がずっと城にいられるとは思ってなかった)


 いつかは城を出ていかざるをえないと考えていたに違いない。

 そしてそうなった時に、私が必要最低限は一人で出来るようにしてくれていたのだと思う。

 そういう方面では、厳しい人だった。

 それは愛してくれていたからこその愛の鞭だったのだろう。けれど、女児なのに皇子として育てなければいけないという、計り知れないプレッシャーもあったからに違いない。

 王都には来ても顔を見せないのは、城に出入りしにくいという以前に、私に合わせる顔がないとでも思っている可能性も高い。皇女として扱えなくて、守れなくて、申し訳なかったと考えていそう。

 私に関わる人には、後悔ばかりを抱かせている気がする。


「出来ましたよ」

「!」


 うっかり物思いに耽ってしまっていたせいか、気づけば出来上がっていたらしい。

 鏡がないからわからないけど、両サイドを編み込んでいるっぽい。髪の量が多い方ではないので、ホワイトブリムを押さえていたピンで耳の後ろで止められた。ピンは編んでいない部分の髪を被せて隠して、完成。


「ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございます。うちの子は二人とも短いので、こういったことが出来なくて残念でなりません」


 立ち上がって御礼を言えば、満足そうに微笑まれた。


(こういうことするの、好きなのかな)


 なぜかとても嬉しそうに見えるから、私も今度は少しだけちゃんと笑い返せた。


「なっ……にをしているのですか!?」


 そこでようやく上着を取り替えたクライブが戻ってきて、私を見て、夫人を見て、盛大に顔を引き攣らせた。動揺のあまり声が上擦っている。


「お似合いでしょう?」

「似合うとか、そういう問題ではないでしょうっ」

「シークヴァルド様もよく編んで差し上げていたではないの」

「シークはいいんです。気にする人じゃありませんから!」


 どうやらクライブは自分の母親がやったことに焦っているらしい。

 まぁ、普通に考えて皇子の髪を編み込みするのはどうかとは思う。でも今の私はこんな格好だし、目立たないようにするためにしてくれたのだから咎めることでもない。


(それに、懐かしい思いもさせてもらったから)


 人に髪を編んでもらうなんてもうこの先ないだろうし、悪くない体験だった。


「私もかまいません」

「アルト様!?」

「それより、準備が出来たのなら行きましょう」


 伯爵夫人に向かって、慣れていないせいでぎこちない形になってしまったけれど淑女の礼を取る。

 本当は皇子として礼をしたかったけれど、誰が見ているかわからないから仕方がない。せめてもの感謝を込めて頭を下げれば、少し驚いたように目を瞠ってから、同じように礼をしてくれた。


「お気をつけて、いってらっしゃいませ」


 私とクライブを見送って背中を押す声は、とても優しく耳に響いた。



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