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幕間 弟の密やかな葛藤

※デリック視点



 アルフェンルート殿下に関して、僕が知っていることはとても少ない。


 彼はとても体が弱く、成人前であることを差し引いても人と関わり合うことが少ない。彼がよくいるという図書室では一部の高官と最低限の言葉を交わすことはあると聞いたことはある。しかし同年代との交流は侍従で、親戚でもあるセイン・エインズワース以外にない。

 それにも拘わらず、その立場上、噂されることに事欠かないという人である。


 アルフェンルート殿下は異母兄である第一皇子を弑して、王位を狙っている――昔から一定して、そんな噂が彼にはまとわりついている。


 本人はその噂を否定しない。それ以外にもどんな噂をされようとも、彼はこれまでずっと沈黙を守り続けてきた。

 それは噂が事実だから否定できないのか。あまりに馬鹿馬鹿しいと鼻で笑って相手にしていないだけなのか。それとも、その噂と戦えないほどに体だけでなく心まで弱いのか。

 内情はわからないけれど、彼は否定もしなければ、当然ながら肯定もしなかった。本当に存在しているのかと疑われていることもあったぐらい静かだった。

 その沈黙が逆に不気味に思えたのか、いつも噂だけが勝手に独り歩きしていた。

 皆、表立っては口にしないけれど、裏では噂こそが真実だと思っている。誰も彼も、彼のことをよく知りもしないのに、だ。

 そして僕自身も、彼のことをよく知らなかった。それなのに、周りと同じように噂通りの人だと思い込んでいた。

 人は謎を謎のまま許容できない。誰にもわかりやすいレッテルを貼っておかなければ、安心できないからだ。だから僕も勝手に彼に『危険人物』の札を貼り付けていた。

 だけど今現在の僕は、たぶん彼は悪意を散りばめられた噂のような人ではない、ということだけは知っている。


(噂通りの人なら、きっと僕にあんなことを言わない)


 初めて会った時に彼に諫められたことを、今でも時折思い出す。

 思い出す度に、頭を抱えて布団の中で丸くなって意味もなく呻きながら、のたうち回りたくなる。

 自分の勝手な思い込みで、傲慢に未来を描いていた。自分では良かれと思っていたことだったけれど、それが他人から見たらどう映るのか。責任を負う立場も覚悟もないのに、いいところだけを取ろうとしていた自分が、どれほど甘えた考えをしていたのか。

 言われた直後は頭に血が上ってちゃんと考えられなかったが、客観的に見た時の自分を考えて恥ずかしくなった。彼に言われなければ、今も気づかないままだったと思う。そしていずれは道を踏み誤ってしまっていたかもしれない。

 言われた言葉は痛かったけれど、自分の浅はかさに気づかせてくれたアルフェンルート殿下には感謝している。

 あのとき彼の口から出てきた言葉は、噂されているようなものとはかけ離れていた。それは僕が想像していた人物像を真逆に捻じ曲げ、あれ以来本当はどんな人なんだろうって、興味が湧いた。


 とはいっても、僕の立場では彼に近づくことは出来ない。

 王宮では貴族の子息が任意で集まって勉強会をしているけれど、セインはそこに現れるが、彼が来たことは一度もない。唯一その姿を見ることがあるとすれば、近頃は訓練場の傍らにある医務室まで来ている時に見かけるぐらい。

 それすら、彼は交流目的で来ているわけではない。セインから無理矢理聞き出したところ、体力増強のための散歩を兼ねて診察に来ているのだと言う。そこまで弱いのかと驚いたけど、初めて会った時も倒れていたことを思い出せば納得できた。

 日に焼ける機会のない肌は抜けるような白さで、時折青白くすら見えるほど。しかもちょっと勢いよくぶつかっただけで骨折しそうな細さ。セインも細い方だが、彼は鍛えていない分、より病的な細さだ。

 もし彼を同年代の貴族子息の中に入れられても、多分どう扱っていいのかわからなかった。表に出ない理由がよくわかった気がした。

 それに加えて、彼は人見知りが激しいらしい。

 一度だけ医務室で挨拶させていただいた時は静かに微笑まれたけれど、明らかに見えない壁がそこにはあった。安易に話しかけるな、という雰囲気が滲み出ていた。

 セインからも、


「アルフェンルート殿下と話してみたい……? 嫌われない方法なら教えてやる。近づかないことだ。目も向けるな。それさえ守ってれば、好感度は高い」


 そう冷めた目で言われた。

 それ、ただの他人でいろってことじゃないか!?

 セインは橋渡しなんてしてくれないし、一度だけ挨拶したっきりで話す機会はもてなかった。あの挨拶すら、今思えば奇跡に近い。かなりのごり押しだった。むしろ一回でも話すことが出来ただけ僥倖だったと思うべきか。


(できればちゃんとお礼を言いたかったんだけどな)


 結局、医務室で会った時は緊張で挨拶しか出来なかった。踏み込めるほどに彼は心を開いてはくれなかったので、肝心な言葉を言えないままでいる。

 というか、侍従にそこまで言わしめるアルフェンルート殿下が、誰かに心を開くことってあるのか……。


 そんな中、一度だけ医務室の窓越しに兄とアルフェンルート殿下が話している姿を見た。


 初めて会ったとき以来、兄からアルフェンルート殿下のことを聞かされたことはなかったから意外だった。けれどそれ以上に意外に思えたのは、アルフェンルート殿下と接する兄の表情だ。


(兄上が、笑顔じゃない!?)


 兄は基本的に、いつも仄かに微笑んで見える口元を崩すことはない。特にアルフェンルート殿下のような相手ならば、胸の内を見せない笑顔は外さないはずだ。

 その兄が、アルフェンルート殿下相手に渋い顔を見せたりしていた。身内以外には外面のいい、あの兄が。呆れた表情でわざとらしく溜息まで吐いていたのだ。

 信じられなかった。


(ど、どういう関係なんです……?)


 少なくとも1、2度会って話した程度の親密さではなかった。アルフェンルート殿下は強張った顔をしていたから、向こうは打ち解けていたつもりはなかったかもしれないけれど。

 そういえば、初めて会った時も兄はアルフェンルート殿下を荷物のように小脇に抱えた。敵対している位置にいる皇子とはいえ、ありえない扱いだ。シークヴァルド殿下とは小さい頃によく取っ組み合いの喧嘩をしているのを見たことはあったけど、ある意味それよりひどい乱暴さ。

 取っ組み合いはまだ対等に相手を見ているけれど、あの扱いはまるで猫の子でも扱うかのようだった。

 思い返せばあの時のアルフェンルート殿下も取り澄ました顔ではなく、毛を逆立てた猫のようだった。そういう表情を見せる時点で、それなりに兄と交流があったということなのだろうか。

 世間的に、第一皇子と第二皇子の間には深い溝がある。はずだ。だから僕らが知らないところで、兄が監視目的でアルフェンルート殿下に接していてもおかしくはない。とは思った。

 しかしながら、兄の表情から読み取った関係性が謎すぎる。

 ただの監視対象に見せる態度には見えない。あれはシークヴァルド殿下や弟である僕、気の置けない仲間にだけ見せる顔だ。しかし兄は立場上、そう簡単に人を自分の懐に入れることはない。

 しかも相手は、あのアルフェンルート殿下。

 一体全体、何がどうなってそんなことになったんです? 兄の中でアルフェンルート殿下はどういう存在なんですか!?

 本当のところは彼が敵じゃなかったにしても、なんだかそれにしたって妙に距離が近すぎるような!?

 それも色々と思い返してみれば、物理的にも!

 我慢できずに「兄上はアルフェンルート殿下と仲が良いのですか?」と恐る恐る訊いたことがある。


「……そう見えるか?」


 兄はしばしの沈黙の後、真顔で僕に訊き返してきた。

 何を馬鹿なことを、と質問に呆れただけならば、兄は目の笑っていない笑顔になるはずだ。しかし、僕を見る顔は真顔。

 もしかして、仲が良さそうに見えたことを喜んでいるのを咄嗟に押し殺そうとしたせいで真顔になっ……いや、そんな馬鹿な。第二皇子と仲が良く見えて嬉しいなどと、思うわけがない。

 いや、待てよ。本当は敵じゃないなら、仲が良く見えるのは嬉しいのか? けどアルフェンルート殿下は複雑そうな表情だった。


「いえ、きっと僕の気のせいです」


 肯定するには相手の微妙な表情が頭に残っていて、その場は適当に流しておいた。兄がちょっとだけ残念そうに眉尻を下げたように見えた気がした。


(兄上はアルフェンルート殿下のこと、気に入ってるんだ?)


 兄が彼を気に入る要素は、あるといえばある。

 僕が初めて彼に会った時の会話を、兄も聞いていたようだった。自分を認められて嬉しくならない人はいない。特に、自分達と敵対しているはずの相手にちゃんと認められていたというのは、より胸に残るだろう。

 なぜアルフェンルート殿下があれほど兄のことを知っていたのかわからないけど、きっと僕が知らない何かがそれまでにあったに違いない。

 それに加えて、兄は長男気質だ。

 シークヴァルド殿下の乳兄弟として生まれた時から仕えることが決まっていて、甘ったれな部分が多い僕という弟がいる。僕らに日々振り回され、面倒を見るのが兄には当たり前の日常になっている。

 そのせいか手のかかる人間を見ると、放っておけないのかもしれない。アルフェンルート殿下が手がかかるかどうかはわからないけど、すぐにぶっ倒れそうな人は見ていてハラハラする。心配で目が離せない、という気持ちになっていそうだ。

 ましてや本当は敵対していないのなら、兄が仕えるシークヴァルド殿下の弟。乳兄弟の弟ということで、兄が気に掛けるのもわかる。兄からしてみれば、もうひとり弟が増えたようなものなのだろう。

 しかし兄にとってアルフェンルート殿下がもう一人の弟分になったとしても、僕も一緒になってアルフェンルート殿下に関わるわけではない。未成年で、見習騎士でしかない僕はそんな立場にはない。




 ――と、つい最近までは思っていたわけだ。




 それだけに、いま自分の目に映る光景を、どう噛み砕いて飲み込んで消化したらいいのか全くわからない。


(なんで僕がこの方たちとトランプをしているんだ!?)


 実家であるランス伯爵邸のシークヴァルド殿下にあてがわれた広い客室で円卓を囲み、ありえない面子でトランプをやっている。

 面白いとか面白くないとか考えている余裕もない。自分の立場では恐れ多すぎて心が付いていかない。

 百歩譲って、兄と、兄が仕える第一皇子であるシークヴァルド殿下までは、まだわかる。

 幼い頃はシークヴァルド殿下の乳母である母に連れられて僕も城に上がっていたから、母が乳母を辞すことになった7歳まではよく一緒にいた。弟とまではいかないまでも、従弟ぐらいの扱いをしていただいているように思っている。こうして実家に帰省する際には同じ食卓を囲み、遊びに混ぜてもらうこともよくあった。

 しかし、今はちょっと違う。

 ここに並ぶ顔ぶれから考えると、自分が場違いなことぐらいはわかる。

 円卓を囲んでいるのは自分から数えて時計回りに、第一皇子付の近衛のニコラス、シークヴァルド殿下、なぜか侍女の姿をしているアルフェンルート殿下、兄、そして僕。


(意味がわからない!)


 なぜアルフェンルート殿下と一緒にトランプをしているのか。

 そもそも、なぜ今回ランス領にアルフェンルート殿下が来ているのか。


(というか、なぜまだ侍女姿!?)


 一見すると、円卓に侍女が一人混じっているという図になっている。もし何も知らない人が見たら、ぎょっと目を剥くだろう。

 現時点で、僕もどんな顔をしたらいいのかわからない。

 ちなみにアルフェンルート殿下と一緒に来ている本物の侍女であるメリッサ嬢は、誘われたゲームを丁重に辞退していた。時折減った紅茶を注ぐ給仕に徹している。

 もう一人、一緒に城から来た近衛のオスカーは扉の傍で感情の読めない真顔で警護しているけれど、出来れば僕もそっちに回りたい。僕では護衛は役不足なことは理解しているけれど、この面子の中に混じっていることが居た堪れない。

 たぶん僕がここに呼ばれたのは、アルフェンルート殿下と年が近いというだけの理由だと思う。しかし相変わらず僕は彼と仲が良いわけではない。見えない壁を感じる。

 最初の出会いが出会いだっただけに、きっと彼の中で僕に対する印象は最悪だ。自分の立場も弁えられない馬鹿だと思われていそうな気がする。

 一応今回は呼ばれたからここにいるものの、特に仲良くすることを推奨されている風でもなかった。その証拠に、彼の左右の席はシークヴァルド殿下と兄で固めている。たぶん僕はアルフェンルート殿下が心置きなく遊べるようにという配慮の元で呼ばれただけの、ただの数合わせ。

 元々今回の帰省、自分の実家だというのに僕が来ることは完全にオマケ扱いだった。

 毎年、夏になると避暑を兼ねて実家のランス領にシークヴァルド殿下と共に兄と帰省する。今年の帰省は例年より遅れていて、それでいて行くときは急遽決まったような感じになっていた。


『明後日ランス領に帰ることになった。……デリック、ある程度何が起こっても対応できるように覚悟を決めておきなさい』


 本当は留守番していてほしいところだ、と兄から嘆息混じりにそう言われた時は意味がわからなかった。覚悟を決めるも何も、自分の実家へ帰るのにどんな覚悟がいるというのか。

 そのときは首を捻ったものの、その疑問は予想もしていなかった人物の登場でやっと理解できた。

 今回、ランス領へ向かうのに侍女が一人付いて来ると聞いていた。同乗する彼女の姿を見た時に「そういうことなのか」と理解した。

 現れたのは小柄で、とても愛らしい侍女だった。

 年齢は僕と同じか、少し下ぐらい。ふわりと揺れる柔らかそうな栗色の髪。けぶる睫毛に縁どられた榛色の大きな瞳。小さいけれどつんと立った鼻と、薄紅のふっくらとした小さな唇。

 十人中九人は「可愛い」と見入ることは間違いない。実際、自分も息を呑んで食い入るように見入ってしまった。僕の視線に気づいた彼女が僅かに口元を綻ばせてはにかむように微笑んだ時には、心臓がドクリと大きく跳ねた。

 可愛かった。とにかく、可愛かった。一目惚れしたと言ってもいい。

 でも侍女とはいえ、彼女はきっと、シークヴァルド殿下の恋人か許嫁候補なのだろうと、そう思った。だから今回は馬車を使って、彼女も避暑に連れていくのだと。

 仄かに湧いた恋心は、気づくと同時に失恋したようなものだった。

 ただ彼女のメリッサという名前を聞いた時に、どこかで聞いたことがある気がして首を捻った。しかし見習騎士として城に出入りしているとはいえ、まだ自分は成人前。そこまで城の人間に詳しいわけじゃない。

 でも、確かに自分はその名前をどこかで聞いたはずなのだ。

 その疑問はランス領へ向かう道中、兄に伴われてどこからともなくひょっこりと現れたもう一人の侍女を見たときに、やっと思い出した。


(そうだ! メリッサって、アルフェンルート殿下の侍女だ!)


 どうりで聞いたことがあったはずだ。たぶん、セインからその名前を聞いたことがあるのだと思う。

 なんてことに思い至ったのは後になってからで、その時はそれどころじゃない事態に目玉が飛び出るかと思った。

 兄に伴われて現れたのは、メリッサ嬢と似た年頃の侍女……侍女?

 侍女!?

 いや、侍女じゃ、ないだろ。だって僕は、その顔を知っていた。

 髪の色は違うけど、セインと同じ印象的なアーモンド形の深い青い瞳。目を奪われるような派手さはないけれど、精巧に作られた人形のように均等に整った顔。僕よりも一つ年下で、虚弱なせいかセインよりはずっと線の細い体。

 おかげで侍女姿に違和感がなかった。隣に並ぶメリッサ嬢と比べると、胸はとても控えめだったけど。

 というか、なぜ彼がここに? しかもなんでそんな姿で? もしかして、そっくりさん!?

 なんてことが脳裏を過ったものの、シークヴァルド殿下は「侍女もどきのアルフェだ」と紹介した。

 いや、侍女もどきって……。


(どう見ても、第二皇子のアルフェンルート殿下ですよね!?)


 癖のない明るい金糸の髪は結ばれることなく肩で揺れていて、その頭にはホワイトブリムが乗っていたけれど。服装もそれに合わせた紺色のエプロンドレスで、シークヴァルド殿下付の侍女であるとわかるよう、袖口とエプロンに二本ラインの入った侍女服を纏っていたけれど!

 どうして第二皇子がそんな奇天烈な格好をしているのか。

 それがまた違和感なく似合ってしまっていたわけだけど、だからこそ恐ろしい。この姿を見て、アルフェンルート殿下だと思う者はまずいない。いっそアルフェンルート殿下によく似た少女なのだと思いたかった。

 しかし、アルフェと呼ばれた侍女の傍らには当然のようにメリッサ嬢が控えた。アルフェンルート殿下の乳姉でもある、彼女が。

 そしてそのメリッサ嬢の手を、当たり前のように侍女もどきが取った。侍女姿でありながらも、馬車を乗る際に手を差し出して彼女をエスコートしようとする様は絵本から飛び出してきた王子のように、あまりにも自然。


「今はエスコートされるお立場ですよ」


 メリッサ嬢に小声で窘められて、はっとした顔をして困ったように眉尻を下げていた。

 服装が服装だけにその行動は違和感がありまくりだったけれど、その流れるような動作は日常のことなのだと一目でわかった。

 彼女に対してそういう態度を取ると言うことは、つまりやっぱりどう考えてもアルフェンルート殿下ってことじゃないか!




 ――あの時の衝撃を思い返して遠い目になりかけていたところで、シークヴァルド殿下の持つカードから一枚引いたアルフェンルート殿下が小さく呟いた。


「あっ」


 その声で現実に引き戻された。

 円卓の向かいに座るアルフェンルート殿下を見れば、すぐに表情を引き締めて澄ました顔をしたものの、その一言でクイーンを引いたことは一目瞭然だ。


「なぜアルフェは毎回狙ったようにクイーンを引くのだろうな」

「兄様が表情で引くように誘導されたのではありませんか……!」

「私はそれがクイーンだという顔をしてやっただろう。信じなかったアルフェが悪い」

「正直に顔に出されるなんて思わないではありませんか。私を騙そうとしているのだと思うに決まっています」


 思ったとおり、シークヴァルド殿下が呆れた声を掛けていた。アルフェンルート殿下はせっかく取り繕ったすまし顔を曇らせ、口を一文字に引き結ぶ。

 実はまだアルフェンルート殿下にそっくりな少女だと思いたかったのに、目の前の彼はシークヴァルド殿下を兄と呼んでいる。

 最初は「シークヴァルド殿下」と呼んでいたというのに、部屋の中には事情を知っている者だけだと判断したのか今は「兄様」呼びだ。シークヴァルド殿下も当然のようにそれに返事をしているから、どう考えてもそっくりさんでは済まされない。

 間違いなく、本物のアルフェンルート殿下である。


(この方は一体何をしてるんだろう……)


 実のところ、僕はこうなっている事情を全く知らない。そして聞ける立場でもない。

 駄目元でこっそりと兄に訊いてみたものの、


「お忍びの静養だから、デリックは普通にしていればいい」


 あっさりと、そう言われただけだった。

 僕には言えない事情があるのだろうけれど、それにしたってもうちょっと説明が欲しい。アルフェンルート殿下を見ても顔色どころか表情一つ変えなかった両親は知っているのかと訊けば、兄は「当たり前だろう」と頷いた。

 しかしながら、彼は僕らと食事は別だ。あくまで彼は侍女として来ているという扱いになっている。

 蚊帳の外扱いは面白くないとも思うけど、聞いたところで抱えきれないもののような気もして結局それ以上は何も聞けなかった。

 ならばこの場は僕に求められていることをすればいいわけだけど、この方に対する『普通』がわからない。

 この面子でトランプをするのは普通なのか? しかもやっているゲームは平民もやっているようなオールドメイドだ。

 アルフェンルート殿下は最初、「オールドメイドって、ババ抜きのことなのですね」と呟いていた。ルールを知っていてくれているようで助かった。

 しかしクイーンのカードを1枚抜いてやるゲームだけれども、クイーンをババア呼ばわりするのはどうなんだ。いったい誰が彼にそんな名称で教えたのか。スラム育ちだと言うセインあたりだろうか。皇子にとんでもないことを教えているな。

 ちなみにこれが2戦目だけど、さっきから彼はシークヴァルド殿下に翻弄されてクイーンを引かされている。おかげでお得意の澄まし顔が珍しく顰められていた。

 こんなカードゲームで真剣になって薄い唇を引き結んでいる姿を見れば、彼も自分とあまり変わらない普通の子どもに見えてくる。

 いや、普通は女装なんてしないけど。しかもそれが似合ったりはしないけど。


(でも、セインも余裕で似合うかもな)


 目の前の彼にとてもよく似ている相手を思い出したけど、しかし脳内でセインが侍女服を着ているところを想像してちょっと吐き気がした。

 似合っててもなんか、すごく嫌だ。背筋にぞわっと嫌なものが走り抜けていった。奴の中身を知っているせいかもしれない。

 アルフェンルート殿下は一つ年下だから、まだ違和感なく着こなせている。普段の服装を知っているだけに視界に入るとぎょっとするけど、普通に似合っている。何も知らなければ、綺麗な少女だと思ってしまったに違いない。

 兄もしみじみと「シークも昔同じ格好して無駄に似合っていたから、やっぱり兄弟なんだな」と言っていた。


(兄弟揃って何しているんだろう)


 シークヴァルド殿下は何を考えているのかよくわからない人だけど、この状況を受け入れているアルフェンルート殿下もよくわからない人だ。変な兄弟だと思う。案外、二人は似ているのかもしれない。

 そんなことを考えながらこっそり窺っていたら、アルフェンルート殿下が小さく嘆息を吐いた。片手に持っていた3枚の手札の内、1枚だけ上に引き出した状態にしてから、兄に向き直る。


「どうぞ、クライブ」

「……。そういう手を使われるのは卑怯ではありませんか?」


 いかにも飛び出しているカードを取れと言わんばかりの状態で差し出され、兄が呆れた表情を見せた。

 ただのカードゲームとはいえ、アルフェンルート殿下にそんな真似をされれば、兄の立場ではそれを取ることを強いられているようなものだ。


(なんて卑怯な!)


 たかがカードゲームだけども。そこまでして負けたくないのか。それともそれが許されると思う程に、兄を軽んじているのか。

 そう思うと、ちょっと嫌な気持ちが胸に湧いた。以前あった噂のように、やっぱり嫌な奴なのかという疑惑がジワリと胸に滲んでくる。


「どれがクイーンかなんて、私は一言も言っていません」

「言っているようなものですよね」


 兄が責めても、アルフェンルート殿下は澄まし顔を崩さない。さっさと飛び出しているクイーンを取れと言わんばかりに平然としている。


(兄上がそんなことに素直に従うわけがないだろ)


 優し気な風貌に騙されがちだが、兄は結構負けず嫌いだ。安易に軽んじられることを受け流しはしないし、後できっちり報復している。立場を振り翳されての不条理を素直に受け入れることはない。シークヴァルド殿下が同じことをしても、従わずに違うカードを取る。

 だから当然、そんな真似をしても兄が従うわけがない。兄の内心では、アルフェンルート殿下の評価が下がっただけだ。

 案の定、はぁ、とわざとらしく兄が溜息を吐き出した。カードに向かって手が伸ばされる。

 しかしその指は、1枚だけ飛び出したカードを素直に抜き取った。


(なぜ!?)


 予想と違う行動に、思わずぎょっと目を瞠った。


「え!?」


 しかしそれは、なぜかアルフェンルート殿下も同じだったらしい。深い青い瞳を真ん丸くして、取られたカードを見ていた。

 カードを引き抜いた兄は中身を確認して、怪訝そうに眉根を寄せた。自分の手持ちのカードの中から一枚引き抜くと、アルフェンルート殿下から抜き取ったカードと重ねて札を捨てる。

 つまりそれは、クイーンではなかったということだ。

 小首を傾げ、兄が動揺しているアルフェンルート殿下に呆れた眼差しを向けた。


「何がされたかったのですか?」

「そういうクライブこそ、なぜ馬鹿正直に取っているのですか? 普段は私の言うことなんて全然聞かないのに、どうしてこういう時に限って素直にきくのですかっ」

「あの場合、僕の立場だと聞かざるをえないでしょう」

「カードゲームにそんなものは求めていません。クライブのことだから、絶対このどちらかのカードを取ると思ったのに……!」


 心底悔しそうに唇を引き結び、手元に残ったクイーンの混じったカードを握る手に力を込められる。八つ当たり気味に睨まれた兄は、そんな理不尽をぶつけられても肩を竦めて苦笑いするだけだ。

 しかもアルフェンルート殿下を見る眼差しが、やけに優しく見えるような。目の錯覚だろうか。


「クライブがアルフェにどう思われているのかよくわかるな」

「なぜきいてほしい時にきいてくれなくて、どうでもいい時に従うのか……天邪鬼にも程があります」


 シークヴァルド殿下が揶揄するように薄く笑い、そこでやっと兄が少しだけ口元をへの字に曲げる。それに気づいた様子もなく、アルフェンルート殿下は残ったカードを難しい顔で眺めながらぼやく。

 この様子を見るに、もし本当にアルフェンルート殿下が差し出したのがクイーンだったとしても、兄は甘んじていたように思える。


(兄上……アルフェンルート殿下に甘すぎるのでは!?)


 もし僕が同じ真似をしようものなら、「卑怯な手を使うな」とこっぴどく説教されたと思う。それに加えて、腐った性根を叩きなおすために後で徹底的に扱かれたに違いない。

 これは、本当に僕の知っている兄か? 兄の皮を被った別人じゃないのか?

 年下の、しかも本人自体に大した力もないのに地位を振り翳して不条理を押し付ける相手など、普段の兄なら軽蔑していたはずだ。

 いや、実際にはアルフェンルート殿下は純粋にゲームとして心理戦を仕掛けただけなわけだけど。兄を下に見て利用しようとしたわけではなく、対等にゲームを楽しむ相手として接されていたわけだが。でも兄の様子を見るに、それをわかっていてあのカードを取った風でもない。

 強請られたから、仕方なく甘えさせてあげていた、ような。


(いや、いやいやいや。あの兄上が?)


 弟である僕に甘いこともある人だけど、さすがにここまでじゃない。やっぱり相手が皇子だから特別なのか? その割に、仕えるべきシークヴァルド殿下に対してもそこまではしない。


(明らかに、とびっきり特別扱い、していませんか?)


 ジワリ、と嫌な汗が背筋に滲んだ。胸に過った、不穏な疑惑。

 脳裏に浮かんでは消える、アルフェンルート殿下に対するこれまでの兄の態度の数々。


(……まさか)


 いや、そんなまさか。


(確かに、お綺麗だよ。アルフェンルート殿下だって知らなかったら、あんな風に我儘言って甘えられたら、ちょっと言うこと聞いてあげてもいいかなって気になってもおかしくないけど)


 でも、それアルフェンルート殿下ですから!

 今は侍女の姿をしていても中身、男! この国の第二皇子! わかってますよね!?


(女の子じゃないんですよ!?)


 心臓が急速に込み上げてきた焦燥感で、バクン、バクン、と大きく脈打ってくる。

 兄の周りにはいつもお年頃の綺麗なご令嬢が次から次へと群がろうとしていて、だけど兄はそのどれにも靡かなかった。モテて悪い気はしていないだろうけど、「今はそれどころじゃありませんから」と躱していたことを知っている。

 いずれシークヴァルド殿下に合わせる形で結婚相手も選ぶのだろうと思っていたけれど、もしかして。もしかしてだけど。


(兄上は、そっち系の人だったんじゃ……!)


 そんな馬鹿な!

 いや、でも、うん。兄がそれで幸せだって言うなら、僕が後継ぎを作ればいいだけなんだけど。僕は女の子が好きだし。出来れば小柄で、目が大きくて、いかにも女の子って感じのふんわりした、そして胸が大きな子だと嬉しい。それは揺るがない。

 だから別に兄が男を好きだろうと問題はない。尊敬する気持ちは揺らがな……まぁ、うん。ちょっとはあれだけど、複雑な気持ちがないわけではない。しかし兄も人間なんだし、完璧なわけじゃないということだ。

 頭の中で必死に感情を整理して、心を落ち着かせるべくゴクリと乾いた喉を嚥下させる。

 出来れば僕としては義姉上と呼ぶ相手が欲しかったけど、仕方ない。無理強いできるものじゃない。もしかしたら両方いけるのかもしれないし。出来れば弟としては、そうであってほしい気持ちはある。


(というか。男だとかいう以前に、どう考えても相手が悪いです!)


 メリッサ嬢に話しかけた僕を見るアルフェンルート殿下の顔が曇っていたことから考えても、彼はメリッサ嬢が好きなんだと思う。

 それでなくても、相手は皇子。手が届く相手じゃない。どう考えても、不毛。

 なんでよりによって、そんな相手を!?


(でもまだ兄上がアルフェンルート殿下を、……す、好きって決まったわけじゃない)


 チラリとアルフェンルート殿下を見る。

 でも兄上、こういうのがタイプなのか……。まぁ、顔はお綺麗だよ。でも性格は扱いにくそうなのに。清楚と言えば聞こえはいいけど色気は感じないし、胸も小さいのに。いや、男だから胸がないのは当たり前だけど、どうせ詰め物するならもうちょっと入れてもいいよな。

 

「デリック」


 不意に隣の席からやけに低い声で名前を呼ばれて、反射的にビクリと背筋が伸びた。

 慌てて視線を向ければ、兄が手札を僕に向かって差し出している。しかしゲームの続きを促しているという割には、僕を見る目がなんか、ちょっと怖い。

 それは邪な目でアルフェンルート殿下を見るなとでも言いたげな、据わった眼差し。

 それは僕の馬鹿みたいな疑惑を、確定に変えてしまうかのような。


(やっぱりほんとの本気で好きだったりするんですかッ!?)


 僕はこの兄の不毛すぎる恋を、どうしたらいいのだろう。

 見ないフリをしていていいのか。引き留めればいいのか。そもそも引き留めるまでもなく、脈がないと諦めさせるべきなのか。男を好きになるなどおかしいと糾弾すべきか。しかし現時点でただ想うだけなら、誰にも迷惑はかけて……アルフェンルート殿下にかけているだけだ。

 どうせ叶わないのなら、いっそ一時だけの恋なのだから精一杯すればいいと、応援すればいいのか。


 読みあぐねて、途方にくれたのだった。


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