幕間 迷信は侮れない
※クライブ視点
夢だと思っていた。
自分のどうしようもない恋情が生み出した卑しい妄想でしかないのだと、そう疑ってもいなかった。
握りしめた手首の細さも、抵抗する力の弱さも、鼻先をくすぐる甘い花の香りも。
自分が考えていたよりずっと少女めいていて、これが現実なわけがないと疑ってもいなかった。
「嘘だろ……ッ」
それに、なにより。
(皇子が起こしにくるとか、ありえないだろう!?)
いくら侍女という名目で来ているからと言って、本当に侍女の真似事をされるなど考えもしない。
これに関しては自分だけが悪いわけじゃないと思う。変に責任感の強いあの方が悪いのだと、そう責任転嫁してしまいたい。
(でも今はそんなこと考えている場合じゃない!)
呼び止める声も聞かずに部屋から脱兎のごとく走り去った後ろ姿を、半ば呆然と見送ってしまった。そんな自分の間抜けさを思い返すだけで頭を抱えたくなる。
時間が戻るなら、ほんの数分前の寝惚けていた自分を全力で殴り倒したい。
(部屋に入って来られた時点で気づくべきだった……っ)
近衛の任に付いている身でありながら、なんという体たらく。
昨夜は考え事をしていて寝るのが遅かっただとか。久しぶりの自宅で気が緩んでいた部分もあるだとか。自分を害することのない知り合いの気配にまで気が及ばなかったとか。
そのすべてが言い訳に過ぎない。
しかし今は悔いている時間すら惜しかった。
額に残る鈍い痛みが、これが夢ではないことを知らしめている。いつまでも動揺している場合ではない。
ベッドから飛び降りて申し訳程度に顔を洗い、最速で着替えて最低限の身だしなみだけ整える。濡らしたタオルを手に、まだ早朝の静けさに包まれた廊下へと飛び出した。とりあえず今は、アルト様が飛び出していった方向へと急いで足を向ける。
割り振られている客室とは逆側に出て行った。方向的に兄であるシークの部屋に向かったのだろう。そうあたりを付けて、早足で急ぐ。
出る前に確認した時計は、まだ起きるには早すぎる時間だった。こんな早朝にわざわざ部屋に来たということは何かしら用があったに違いない。
考えてみればいくらなんでも、僕に対してまで侍女の真似事をするとは思えない。思うに、シークの侍女代わりとして、兄を起こす時間を確認したかったのではないだろうか。
(昨夜のうちに聞いてもらえれば、そんなことする必要はないと言えたのに)
しかし昨夜は僕が余計なことを言ったせいで、訊き忘れてしまったのかもしれない。
そうなると、やはり僕が悪いということになる。実際、こうなったのは僕が悪い。それは紛れもない事実。
涙目になって睨みつけてきた青い瞳が脳裏を過り、喉の奥で息が詰まる感覚に襲われる。
(でも昨夜のアレは、親切心のつもりで)
脳内で誰にともなく言い訳することほど滑稽なことはない。それでも、頭の中には言い訳ばかりが浮かんでいく。
(好きな相手と同じ部屋で夜を過ごすというのは、かなりきついものがあると思ったからで)
アルト様は、侍女のメリッサ嬢に好意を抱いている。
あの態度を見れば、それは疑うべくもなかった。
生まれた時からの付き合いで、気心が知れているのだから当然かもしれないが、彼女には僕らには見せない表情を見せ、砕けた口調で接していた。
僕の知らないあの方が、そこにはいた。
彼女が泣けば、当然のように涙を拭って宥める。
馬車を下りる時などは侍女姿だというのに、当たり前に彼女を気遣って手を差し出す。
綺麗な花があれば躊躇うことなく贈り、彼女が嬉しそうに微笑めばアルト様も嬉しそうに笑う。
メリッサ嬢を気にしている様子のデリックが現れた時には顔を僅かに強張らせ、二人を不安そうに見送った。
あれが恋をしていると言わず、なんというのだろう。
僕と二人になった時、そんな自分を見られたことに気づいてバツが悪そうに目を逸らした。その態度は、幼馴染の可憐な少女に恋をする少年にしか見えなかった。
(実際、アルト様はあんな姿をしていても男なんだ)
肩に届くほどの癖のない金髪をさらりと揺らし、小首を傾げて僕を見上げる様は少女にしか見えない。なまじ細くて整った顔をしているだけに、時折自分に言い聞かせないと男であることを忘れそうになる。
ただ先日女装した時より胸は控えめになっていて、女性要素が減ったことに最初は安堵した。けれど僕の視線に気づいてまたもや睨む様が、余計に年相応の少女らしい潔癖さに見えることになるとは思わなかった。なんとか笑顔を保ったものの、あの時は一瞬、狼狽えそうになってしまった。
しかしながら、その中身はちゃんと少年だ。
背が伸びれば、喜ぶ。
侍女服よりは近衛の制服の方が着たかったと言って、残念そうな顔をする。
近衛の制服をかっこいいと言って憧れる様は、まさに年頃の少年らしい。
今は恰好が恰好だけに、メリッサ嬢と並ぶと少女二人が仲良く戯れているようにしか見えなかった。だがもしアルト様が普段通りの格好をしていれば、絵になる二人だ。
メリッサ嬢も、アルト様を大切にしているのは十分伝わってきた。昨夜だって、可憐な見た目に反して真っ向から僕に対峙したほどである。主人を貶めることは許さないという気迫は、こちらが臆してしまいそうなほどだった。
ただあくまでも主人としてしか見ていなさそうなことには、気の毒になったけれど……。
しかしうまく噛み合えば、あの二人が恋人になることだって十分有り得る。
(第二皇子なら、伯爵令嬢と結婚することは釣り合わないというほどじゃない)
立場的にもっと高位の相手が望ましいとはいえ、無理な相手ではない。ましてやアルト様は体が弱い。幼い頃から自分のことをよく知っている相手の方が望ましいだろう。
そこでふと、以前言われた言葉が脳裏を過った。
『たとえば、誰かを好きになって。結婚してみるのもいいかもしれないです』
歌うように告げられた夢は、ひどくささやかなものだった。
あの時はああ言っていたから、もしかしたらアルト様自身も彼女への恋心をまだ自覚していないのかもしれない。
だからこそ、昨夜も呑気に「同じ部屋でいい」と頷いたとも考えられる。
(ああいうところは、まだ子供なんだな)
とはいえ、昨夜はどうだったのだろう。
下世話だと思いつつも、気になってあまり眠れなかった。うまくいけばいいと願う気持ちと、おかしな雰囲気になって困ってないだろうかという心配。それに反して、こじれてしまえばいいのに、と一瞬でも思ってしまった自分がいた。
そんな自分を思い出しただけで、胸の奥から苦いものが込み上げてくる。
あの方には幸せになってほしい、と心から望んでいる。
けれど。
自分以外の誰かの隣で幸せそうに笑うのかと考えたら、無性に息苦しさを感じた。
(……あの方があんな姿で、あんな風で僕に笑いかけるからいけない)
――昼間、やけに一生懸命になって四葉をクローバーを探すから、よほど欲しいのかと思って目を凝らした。
元々、目はかなりいい方だ。
護衛なわけだから周囲へも気は配らなければならない。とはいえ、見渡す限り平野一面にシロツメクサが広がっている。敵が隠れられる場所もなく、木陰から矢で射貫くにも距離がありすぎる。
そんな状況だったから手伝ったものの、アルト様につられて自分も真剣になって探してしまった。そのおかげで、それは思ったより早く見つけられてほっと胸を撫で下ろした。
珍しいと言われる、四葉のクローバー。
「どうぞ」
差し出せばアルト様は驚いて目を瞠り、素直に「すごい!」と感嘆の声を上げた。深い青い瞳を輝かせて、信じられないものを見るような目でまじまじと見入る。
けれど、アルト様の手がそれに伸びることはない。
「良かったですね、クライブ。幸せになれますよ」
あれほど欲しがっていたというのに、そう言うだけ。
羨ましそうな目で見られはしたけれど、僕の手からそれを受け取る気配すら見せない。どころか、持ち帰って栞にすることまで推奨されてしまった。
「僕はいいので、どうぞ。アルト様が欲しがったから探しただけですから」
四葉の小さな葉っぱは、どれだけ珍しくとも自分にとってはただの雑草でしかない。
何の未練もなく差し出す僕を見て、心底驚いた顔をする。奪うなんてとんでもないと言いたげだ。
「クライブは幸せになりたくないのですか?」
しかしそこまで驚かれても、雑草一つで幸せになれると思うほどおめでたくもない。
いや、けしてアルト様の頭がおめでたいと思っているわけではない。個人的に、幸福を得たいなら迷信に頼るより自分でどうにかしたいと思っているだけだ。
「僕にとってはただの葉っぱですから、価値をわかっている方が持っている方がいいでしょう」
正直に言えば、アルト様は躊躇いつつもやっと手を伸ばした。
僕の手から小さなクローバーをそっと受け取ると、手に入った四葉を目を細めて愛しげに見つめる。そうして嬉しい気持ちが溢れ出したかのように、綺麗に笑った。
「ありがとう」
心の底から嬉しさが滲む声と、花が零れるような笑顔。
「!」
そんな笑顔を向けられて、一瞬、息が止まった。
迷信なんて信じていなかったけど、きっと自分も四葉がもたらす幸運の恩恵に預かっていたのだろう。
(そんな風に、笑ってくれるなんて)
心臓がドクリと大きく飛び跳ねて、そこからドクドクと忙しない音が鳴りやまない。
思わず食い入るように見つめてしまった僕に気づいた様子もなく、アルト様はエプロンのポケットから小さなメモ帳を取り出した。真ん中辺りを開き、四葉のクローバーを崩さないように置く。
自分にとってはただの雑草でしかないそれを、大切そうにそうっとメモ帳に挟んで閉じた。
まるで手に入れた幸せを、宝箱に納めるように。
その一連の動作と、嬉しそうに微笑む姿に見惚れた。
――この旅の道中も、アルト様の表情が度々陰っていたことには気づいていた。
外を流れる景色を見て目を輝かせることは思ったより少なくて、やけに遠い目をしているように見えることがあった。
立場的に思うことが多いのか。今回の旅に自分が同行することを気に病んでいるのか。理由は色々あるに違いない。それでも少しでも気が晴れればいいというのが、この旅の一番の目的だった。
とはいえ、無理をさせているだけじゃないかという不安は付きまとっていた。笑ってくれたとしても、無理に合わせているだけじゃないかと心配だった。
だからそんな風に笑ってくれるとは、思ってもいなかったのだ。
そしてそんな表情を引き出したのは、他でもない自分である。
そのことに、無性に胸の奥から熱いものが込み上げてくる。今思い返しても、そうだ。考えるだけで心臓はドクンドクンと強く鳴り響く。
どうしても一挙手一投足が気になって、目が離せない。
……だが、アルト様が男なことはわかっている。
皇子なわけだし、最初から手が届く人じゃないことなど百も承知。あんな顔をさせても、それはほんの一時のこと。この先もずっと、自分が幸せに出来る相手じゃない。せいぜい見守ることしか出来ない。
そのことに、無性に苛立ちと焦りが湧いた。
幸せになってほしい。そう思う気持ちに、嘘はない。けれど見知らぬ誰かの手で幸せになると考えるだけで、焦燥感が一気に膨れ上がる。
だけど自分は諦めなければならない相手だった。
そもそも、最初から叶う恋じゃない。
(だからあんな馬鹿なことを言ったわけで)
『メリッサ嬢がお好きなのですか?』
本当は確認しなくても、わかりきったことだ。
問われたアルト様は大きく目を見開いて、あきらかに挙動不審になっていた。でもそれは僕に気づかれたことに狼狽しているというより、突拍子もないことを言われた、という感じに近い。
それでもあれ以上触れては可哀想なほどの狼狽えっぷりを見せた。だから答えをちゃんと聞く前に、その話は打ち切ったのだ。
実際、いちいち言われなくてもわかりきった事実である。
ただ、アルト様は自分の気持ちに気づいていなかったのかもしれない。――そう思い至ったのは、後になってからだった。とりあえず部屋割の時点では、まだちゃんと自覚していたかどうかは疑わしい。
余計なことを言ったかもしれないと思ったのは僕自身も部屋に戻ってからで、それから悶々として眠れなくなった。
(じゃあもしもあの時、僕がアルト様と同じ部屋になって平然といられたかというと……それはそれで自信はない)
もし本当に同じ部屋になっていたら、あの方が眠ったら部屋の外に出るつもりでいた。別に廊下でだって、寝ようと思えば眠れる。
けれど同じ部屋で、あの方が紛れもなく男であることを目の当たりにすれば……自分の恋も、あっさり終わりを告げるようにも思えたのだ。
そういう打算も、少なからず働いていた。
とはいえ、あのとき断られたことに安堵はした。自らの手で、自分の失恋を招くにはまだ覚悟が足らない。
だが結果を先延ばしにしただけであることに変わりはない。おかげでなぜこんなに悩まなければいけないのかと思い、いっそアルト様が女の子であればよかったのにとすら、呪うように考えたりもした。
そのせいで、アルト様が本当に女の子になった夢を見たと思ったのだ。
侍女になったアルト様が僕を起こしに来るというシチュエーションなど、本来は夢でしかありえない。悩み過ぎてろくでもない夢を見ている、そう思った。自分に呆れる反面、夢ならば好きにしてもいいじゃないか、という魔が差した。
どうせ現実では、出来ないのだから。
夢の中ぐらい、夢を見させてもらってもいいだろう――なんて。
実際、夢としか思えない状況だった。
真ん丸く見開かれた青い瞳だけが現実的だったといえ、シーツの上に広がる金の髪も、抗う力の驚くほどの弱さも、甘い香りも、すべてが少女めいていて惑わされた。
(あれが現実とか、冗談だろう……っ)
弱いにも程があるし、だいたいなぜあんな花の香りがするんだ。紛らわしいにも程がある。
たぶん客室の石鹸が、わざわざ貴族令嬢仕様に取り替えられていたのだろう。侍女の一人が皇子だと知らされていないから仕方ないとはいえ、自分の家の使用人の気の回りっぷりを呪う日が来るとは思わなかった。
……そして今でもまだ、実は夢だったんじゃないかという期待をしていたりする。
*
「おはようございます、シークヴァルド殿下」
しかし自分の淡い期待は、予想通りシークの部屋にいたアルト様が顰め面で僕を振り返ったことで見事に挫かれた。
丁度起こしたばかりだったのか、シークはベッドから半身を起こしたところだった。こちらに視線を向け、遅いと言わんばかりに眉を顰める。
「アルト様」
シークの視線は予想通りだったが、アルト様の視線も予想通りだった。
僕を見る目は警戒に満ちていて、薄い唇は一文字に引き結ばれていた。言葉は一言も発しない。
(……やっぱり夢じゃなかったのか)
よくも自分の前に顔を出せたな、と顔に書いてある。
こうやって正直に顔に感情を出すだけ、気を許されているのだとは思う。しかし今は「怒ってます!」というのが全身から感じられて、居た堪れない。
だが怒るのも当然だ。あの時は両手を封じられていたから仕方がなかったのだろうが、暴力を厭うこの方が頭突きをしてまで止めたのだ。
相当、嫌だったのだろう。
僕自身、男に押さえつけられて迫られたら、きっと叩き切っている。
「申し訳ありません。こちらで額を冷やされた方がいいかと思います」
前髪から覗く額はコブこそ出来ていないようだけど、まだ赤くなっている。せめてものお詫びで、濡らしてきたタオルを差し出した。
ただ差し出したタオルはここに来るまでの間、無意識に強く握り締めていたようですっかり温くなってしまっていたけれど。
アルト様は幸いにも僕を無視するつもりはないのか、手を伸ばして「……どうも」と顰め面で受け取られた。いつものように「ありがとう」じゃないところに、距離を感じる。
しかしそれだけでも、安堵の息が漏れた。
けれど伸ばした指先で抓むようにタオルは抜き取られた。絶対に僕に触れないようにしている。自分が悪いとはいえ、さすがにその態度は堪える。
(いや、まだ無視されなかっただけいい)
口もきかなければ、顔を背けられることだってあり得たのだ。
どころか、もっと最悪の事態も考えられる。
(もしシークに告げれば、護衛解任も有り得る)
いっそ解任された方が、この方の為かもしれない。
「アルフェ、額はどうした?」
「!」
そう思いかけたところで、シークが怪訝そうに眉を顰めてアルト様に問うた。
ギクリと竦んだのはなぜか自分だけでなく、アルト様も一瞬息を呑んだ。そのほんの一瞬を見逃すシークではない。
「柱に……ぶつかりました」
しかしアルト様は、濡れたタオルで額を押さえながら苦しい言い訳をした。
本当のことを言わないのかと驚いたものの、男に襲われかけましたなどと、自分の口から兄に言いたくはないのだろう。
だが、どう考えても言い逃れできる誤魔化し方ではない。案の定、シークは「柱に?」と言ってからアルト様ではなく僕を見た。アルト様はばつが悪そうに目を逸らされているので、それに気づかない。
シークの視線は、正確には僕ではなく僕の額を見ていた。多分、アルト様同様に赤くなっているそこを見つめて、淡い灰青色の瞳を細める。
一瞬、心臓が凍り付くように感じた。たぶん間違いなく後で追及が来る。覚悟を決めておかなければならない。
「柱に、な。前は向いて歩いた方がいい」
「……はい」
注意されたアルト様は釈然としないと言いたげだけど、うまく切り抜けられたと安堵する姿を見せた。
……切り抜けられて、いないのですが。
僕には多分、この後で間違いなく何かしらの処罰が待っている。しかし多分アルト様が僕に対して罰らしい罰を与えるとは思えない以上、甘んじて受けるべきことである。
ただ視界の端で、脇に佇んでいるニコラスが既に事情を察しているのか、糸目を更に面白そうに細めていることは気に入らない。どこまで知られているのかわからないが、あいつは後で僕をからかうつもりなのが見て取れる。
「アルフェ。ここはいいから、朝食の用意をするよう伝えてきてくれ」
「はい」
シークが頼んだ言葉に、アルト様はこの場から離れられることに安堵を滲ませて頷いた。
しかし実のところ、アルト様が行かずとも朝食は時間通りに用意される。これは彼をこの場から遠ざける口実に過ぎない。
思った通り、一礼して出ていくアルト様を追いかけようとした僕は「クライブ」とシークに呼び止められた。代わりにニコラスが肩を竦めてから、アルト様を追いかけて出ていく。
二人きり、シークと取り残された部屋は急激に空気が重くなったように感じられた。
「で、アルフェに何をした?」
ベッドから下り様に、シークが冷ややかな声を投げかけてくる。
大方予想はついているだろうに、わざわざ言わせるところが容赦がない。
「今朝方、アルト様が僕を起こしに来てくださったのですが、闖入者と誤ってベッドに押し付けました」
「それで、頭突きされたわけか」
「はい」
実際には、その後でよからぬことをしようとしたせいで頭突きされたわけだが。
なんとなく実のところを察されているようにも感じる。押さえつけた状態で頭突きするには、相当距離が近くなければできない。
なぜそんなに近づいたのかと考えれば、シークの眼差しが氷柱のように鋭くなるのも当然と言える。けれど、アルト様の名誉のためにもこれを言うわけにはいかない。あんな苦しい言い訳をするほどだから、うやむやにしておくことを望まれているのだろう。
堂々と頷けば、シークの目が更に温度を下げる。
平然と嘘を貫いた僕に呆れているのか、それとも言えないことをした僕を蔑んでいるのか。
多分、両方だ。
「寝起きが悪いのは体質だからどうにも出来ないとは思うが、それを差し引いても見逃せないことはある」
「はい」
よからぬことを除いても、自分がしたことは許されることではない。寝惚けていたとはいえ、よりによって護衛対象をねじ伏せるなど、あってはならない。明らかに自分の痛恨のミスである。
「クライブ。歯を食いしばれ」
僕の前に立ったシークは、いつもと変わらない淡々とした表情だ。しかし怒っていることは肌に伝わってくる。
言われた言葉は、半ば予想していたことでもあった。
お忍びで来ている以上、公に出来ない状況での失態で降格には出来ないだろう。減給されても自分にとっては大した損害ではない。
この場合は、可愛い弟に何をしでかしているのかという、兄の鉄拳制裁が一番堪える。
言われるままに足を踏み締め、迫る衝撃を覚悟して奥歯を強く噛み締めた。
「……ぐ、ぅッ!」
次の瞬間、自分を襲った痛みは頬ではなく、鳩尾に来た。
倒れないよう腹部にも力を入れていたからいいものの、かなり加減されていたとはいえ呻き声が喉から漏れる。数度咳き込み、殴られた腹部を堪らずに手で押さえた。じんわりとした鈍痛が広がる。
「普通、歯を食いしばれと言って、腹を殴りますか……っ?」
「顔を殴るとは一言も言っていない。顔が腫れたらアルフェが気にするだろう。こういうのは、見えないところにやるものだ」
喧嘩の基本だな、とシークは悪びれもせず整った顔に似合わない言葉を吐く。
幼い頃は取っ組み合いの喧嘩もしたし、くだらないことで殴り合いもした仲だ。今でこそ主従を貫いているが、幼い頃はもっと兄弟のように育った。近頃は大人しいから忘れかけていたけど、そういえばこういう人だった、と今更思い出して口をへの字に曲げる。
「とりあえず、これで済ませておいてやる。アルフェの機嫌は自分でなんとかしろ」
「護衛は解任されないのですか?」
「アルフェがそれを望まなかったからな」
シークは不機嫌そうに言うと、「これに懲りたら、寝起きを改善する努力をしろ」と吐き捨てた。
たぶん人見知りの激しいアルト様の中で、今いる近衛の中では消去法でまだ知り合いである自分の方がいいと思われただけなのだろう。
けれど、とりあえず続投されることには胸を撫で下ろした。
自分など遠ざけられた方がいいだろうと思う気持ちもあるけれど、まだ傍にいられることに喜んでしまう自分もいる。
(本当に、どうしようもないな)
どうにもならなくて持て余して、足掻いても叶うわけもないというのに。
捨てきれないまま膨れ上がっていくばかりの感情を、自分はどうしたいのだろう。
レビューくださった方、ありがとうございました。
ブクマ・評価もありがとうございます。ここまでお付き合いいただけてとても嬉しいです。




