幕間 兄の事情
※クライブ視点
スラットリー老の屋敷からの帰り道、馬車が走り出すと同時に向かいに座っているシークに話しかけた。
「シークが僕を羨んでいたとは思いもしませんでした」
待機してた間に微かに聞こえてきた話に突っ込みを入れるのは、本来マナー違反だ。わかってはいたけれど、自分も絡んでいる話だったので黙っていられなくて口を開いた。
するとシークがこちらをちらりと見て、忌々しそうにチッと行儀悪く舌打ちする。
「だからクライブに聞かれるのは嫌だった」
「疎外していたつもりはなかったのですが、そう感じさせていたなら申し訳ないです」
「昔のことだ。立場上、仕方のないことだし今更とやかく言う話でもない。それに今はアルフェがいるからな」
昔の話だと割り切ったようなことを言いながらも、最後はなぜか優越感に満ちた顔をして僕を見た。
「可愛くて羨ましいだろう、クライブ?」
「やっぱり根に持っているではありませんか。言っておきますが、弟なんてすぐに大きくなって可愛げがなくなりますから」
羨ましいかと言われて、一瞬心が揺れたのを押し隠して顰め顔を作る。けれどこちらの胸の内なんてお見通しなのか、人の悪い笑みを浮かべられた。
「まるでそうなるのを望んでいるかのようだな。さっきもだが、おまえはそんなにアルフェに大きくなってもらいたいのか?」
「いつまでもあんなに小さくて弱いままでは心配ではありませんか」
帰り際、呼び止められた時の頼りなさを思い返して溜息を吐く。
『――クライブ』
蒼褪めた顔で、『ごめんなさい』と悔いるように謝られた。
いったい何を謝られる必要があるのかと問えば、今にも泣きそうな表情で口を開いた。
『私がいることで兄様にも、兄様を守るクライブにも、また迷惑が掛かると思うのです』
だから、ごめんなさい。
そう告げる声はあまりにも頼りなくて、震える肩は細い。思わず抱きしめそうになる手を抑えるのに、内心必死だった。
……もし周りの目がなければ、衝動に任せて抱きしめてしまっていたかもしれない。
『シークヴァルド殿下がそれをよしとされているのなら、僕はそれに従うだけです。迷惑であるとかは考える必要はありません。それが僕の仕事ですから』
そう告げても納得していなさそうなアルト様に笑いかける自分の顔は、いつものように平然を保っていられただろうか。
不安げに揺れる青い瞳に心を揺さぶられているのが、見抜かれてはいなかっただろうか。
未だこの胸にくすぶる熱情を僅かでも垣間見せたりは、していなかっただろうか。
『今のアルト様の仕事は、ちゃんと寝て、食べて、大きくなることです。はやくシークヴァルド殿下のように大きくなっていただきたいところです』
顔を覗き込んでそう言えば、途方に暮れたように眉尻を下げた。
『そんなに大きくはなれません』
無茶を言うなと言わんばかりに口をへの字にする態度はいつも通りで、それに少しだけほっとした。
(でも本当に、はやく成長してもらわないと困る)
シークの執務室に逃げ込んできた、あのとき。
凶手に襲われて予断を許さない状況だったというのに、自分に向かって伸ばされた手に。助けを求めて縋られた声に。あの場で自分を選び取られたことに、僕がどれほど歓喜したか。
きっと、あの方は知らない。
だが僕にこんな想いを抱かれているということを、アルト様は快くは思わないだろう。
だからせめてもう少し大きくなって、その繊細さも改善してもらえたら、この感情も落ち着いていくはずだと思うのだ。
「前も言ったと思うが、弱くてもいいだろう。むしろあの弱さは貴ぶべきだな」
そう考える僕とは反対に、貴ぶべき弱さだと言い出したシークが理解できなくて眉根を寄せた。どういうつもりなのかと視線だけで問えば、シークがゆっくりと息を吐き出す。
「たぶん私もクライブも、人の生死に関しては麻痺しているところがある。いちいち気にしていたらキリがないからな」
「まぁ、そうですね」
次から次へと手を変え、品を変え、昔からシークを狙う人間は絶えなかった。その傍らにいた乳兄弟の自分も当然、それに出くわすことは数知れず。処分された場面に居合わせたことも珍しくないし、自分が手を下したことだってある。
殺すか殺されるかの状態で、相手のことを気に掛ける余裕などない。向こうとて、そんな気遣いは求めていないだろう。
「もしクライブが私を庇って怪我をしても、たぶん仕方がなかったと割り切る。クライブとて、私を庇ったせいだと責めたりしないだろう?」
「そうなった場合は、自分の力不足を恥じるだけです」
「だろうな。だがアルフェの場合は、自分の為に誰かが戦えば心配もするし、自分を庇って傷つこうものなら泣いて悔いる」
あの日、駆け込んできたアルト様の姿を思い出す。
涙に濡れた顔を歪めて、必死になって助けてほしいと訴えた。自分ではなく、自分の周りの人間を助けてほしいと頭を下げた。王族に限らず、貴族でもそんなことをするなんてあまり見られる光景ではない。
「私達から見るとそれを弱いと思ってしまうが、きっとあれが普通の人間の感性だ」
「あれが普通、ですか」
「普通だとわからない時点で、たぶん私達は歪んでしまっている。そういう意味でも、わからせてくれるアルフェの存在は貴重だ」
「アルト様も、普通とは言い難いと思うのですが」
話を聞いていた限りでは、むしろかなり特異な部類に入る。
そこでふと、先程の話で引っかかった部分を思い出した。
「エインズワース公爵は、本当にアルト様の特異性に気づかれていなかったのでしょうか?」
「気づいてないだろうな。気づいていれば、とっくの昔に私は引きずりおろされている」
それはそうだろうけれど、時折見せる知識の片鱗を考えるとこれまで知られていなかったことに違和感を覚える。訝しく思ったのが伝わったのか、シークが意外なことを教えてくれた。
「アルフェは知識に関しては特殊だが、飛び抜けて出来がいいというわけじゃなかった」
「そうなのですか? 図書室で色々と調べられているではないですか」
「それは今でこそ、だ。アルフェは元はたいした勉強もさせられていなかったが、その程度の勉強でも普通の成績でしかなかった。ちょっと計算が得意なぐらいで、目につくようなところはない」
「目を引かないよう、ご自分で調整されていた可能性は?」
「そんな策士なら、図書室の本におおよそ正確に色を塗るなどという間抜けな真似はしない」
冷めた目で、間抜け、という容赦のない評価を下す様に息を呑んだ。
しかしシークがこう言うということは、本当にそれなりだったということである。確かにこれまでのことを考えると、駆け引きは向いてなさそうな方だ。
「ただ、落書きされた配色も完璧だったわけではない。なぜか馬だけは白と黒の縞模様にされていたり、角や翼が生やされているものもあった」
「そんな改悪をするほど、小さい頃から馬が嫌いだったんでしょうか」
「そこまでは私にもわからない。おかげで私も確証が持てなくてな。色を確認してから塗った可能性もあるから、本だけ回収してアルフェの特異性は保留にしてあった」
そう言って、溜息を吐き出す。
「当時、陛下はアルフェを気に掛けなかったし、取り入ろうとする者からは本人が逃げ回っていた。エインズワース公爵もそう頻繁には訪れられない上、乳母はアルフェが何か言っても読んだ本の知識だとでも思ったのだろう。それに加えて、実母とは折り合いが悪い。あまり喋る子供でもなかったようだから、誰もアルファの特異性に気づかなくても不思議はない」
説明した後、「だがそのおかげで、エインズワース公爵にも気づかれずにいたとも言える」と僅かに眉を顰めた。
「なぜ妃殿下と折り合いが悪いのですか?」
第二王妃は、自分の子を王にするために嫁いできたようなものだ。
そうして、念願の皇子を生んだ。
一族の悲願を果たすためには、アルト様の存在は尤も貴ぶべき存在だろう。それなのに折り合いが悪いと聞けば、首を傾げずにはいられない。
王妃は公務はしっかりと果たされるが、それ以外ではあまり表に出てくる方ではない。私的な生活はあまり知られていないが、てっきり後宮では我が子を溺愛しているものだとばかり思っていた。
純粋な疑問をぶつければ、それまで饒舌だったシークが感情の読めない顔をして口を閉じた。じっと見つめれば、今日何度目かわからない溜息を吐く。
「上の世代では知っている者もいる話だが、妃殿下は陛下と婚姻する以前に恋仲の婚約者がいたらしい。だが私の母が亡くなってしばらく後、その婚約者に不慮の事故があり、陛下に嫁ぐことになった」
「そんな話、聞いたことがありません」
「なかったことにされているからな。その不慮の事故は、仕組まれたものだったと聞いたことがある。これはアルフェも知らない話のはずだ」
潜めた声で告げられた内容に絶句しか出来なかった。
仕組んだのはエインズワース公爵だと思われるが、実の娘に対してもそんな仕打ちをするのかと言葉を失う。
「アルフェを生むためだけに結婚も約束した恋人を犠牲にしたとあっては、妃殿下としても我が子に対して思うところがあったのかもしれない。私は妃殿下がアルフェと目を合わせるところを、一度も見たことがない」
淡々とした口調で残酷な事実が告げられて目を瞠った。
「アルフェの自己肯定感が低いところは、この辺が関係しているのだろうな。自分はいらない存在なのだと、周りが思わせてしまった。私も含めてな」
不意に脳裏を過ったのは、以前に告げられた言葉。
『――私は、この国にはいりません。本来、いない方がよかったんです』
いっそ清々しくすら感じられる程、綺麗に笑って言われた。
あの時に感じた焦燥感が急速に胸に湧いてきて、やけに息苦しさを覚える。
時折どこか遠くに逃げ出してしまいたいと思わせるような、ここではないどこかを見つめる青い瞳。それが仄暗く揺れていたのを、知っている。
幾度となく、自分はいらないのだと訴えていたことを思い出して胸が軋んだように痛んだ。けれど自分のこの痛みなんて、あの方が受けてきた痛みとは比べようもない。
きっと何度も何度も期待しては、否定されてきた。主治医や乳母、乳姉や侍従がいくら傍にいたとしても、すぐそばにいる血縁者からの徹底的な拒絶を補いきれるものじゃない。
それにもしも万が一、アルト様が妃殿下の事情を知っているとしたら、憎まれていると感じとっていた可能性もある。
そう考えれば、今更ながらにあの言葉の重さを思い知る。
(なんでもっとはやく気づかなかったんだ……っ)
思い返せばここ数年、年始の挨拶の前に見かけるアルト様の瞳はいつも人形のようだった。何の感情も込められていないように見える、無機質なガラス玉のような瞳。
そうやって心を麻痺させていなければ、あの場に立つことすらできなかったのかもしれない。
それなのにそんな表情をしている意味を、自分は考えようともしていなかったなんて。
「アルフェが私を庇ったとき。もしかしたら、アルフェはあのとき自分は死んでもいいと思っていたような気がしている」
「!」
息を呑んだ僕の前で、シークが感情を隠すように淡い灰青色の瞳を伏せた。静かに一呼吸置いて、懺悔のように呟く。
「そこまで追い詰めたのは、私達だ。だから今こうしているのも、半分は罪滅ぼしな気持ちもある」
そう言ってゆっくりと瞳を開き、滅多に見ない眉尻を下げた少し情けない顔をして笑う。
「今更虫がいいとは思うが、今まで出来なかった分を与えてやりたい」
そう言ったときのシークの顔は、日頃与える冷たい印象は鳴りを潜めて、ちゃんと兄の顔をしているように見えた。




