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51 約束


 もう迷ってる暇なんてなかった。

 踵を返して地面を蹴ると、細い通路を走り出す。

 等間隔に灯りがあるのでほんのりと明るく、進むことに支障はない。道順はだいたい覚えているだけで不安がないと言ったら嘘になるけれど、進むほかに手段はなかった。竦みそうになる足を叱咤して、焦るあまり時折転びそうになりながらも前に進む。


(首謀者が兄様じゃないとは言い切れないけど……っ)


 その可能性は低い、と思う。そう思いたい。

 だけどもしも万が一本当に、そうだとしたら。

 いっそ私が兄の前にいけば、私がそこで殺されれば、目的は達成されたことになる。そうしたらこれ以上、セインとラッセルが襲われることはないかもしれない。目的さえ達成されれば、凶手とてターゲット以外の人を無理して殺す必要なんてない。

 口止めで消される可能性も、ないわけじゃないとはいえ……

 そう考えかけて、足が止まりそうになった。慌てて首を振って思考を散らし、唇を噛み締めて顔を上げる。今はそこまで考えていたら心が止まる。

 それに何度考えても、そもそも兄がこんなことをする必要性がない。第一皇子派の一部が暴走しているというのなら、その場合は兄に助けを求めた方が止めてもらえる。


(でも)


 ――そんな虫のいい話って、ある?


 私はいままでずっと、兄が暗殺されかけたという話を耳にしても、知らんぷりしてきた。

 自分には何もできないんだって言い張って、聞かなかったフリをしてきた。

 その話を聞いても、どこか他人事のように感じていた。

 それはまるで、駅のホームの電工パネルで『人身事故により電車延滞』の文字を見た時のように。誰かがそこで死んでいるかもしれないのに、心が動かない。電車延滞の文字だけを気にして、そこで傷ついている人がいることは意識の外に放り出していた。

 兄に対しても、それと同じ。

 本当のところを、私はなにも理解していなかった。

 まともに考えたら、受け止めきれないという自己防衛本能があったのかもしれない。だからいつも、私に出来ることなんて何もないと言い訳をして、何もしなかった。せいぜい第二皇子は人付き合いも出来ない無能で、王になんて立てられるわけがないと思わせるようにしてきただけ。

 けれど私がどれだけ愚かだろうがきっとあまり関係なくて、私の行動が兄の助けになっていたかと言えば、微々たるものでしかなかったと思う。

 そんなのほぼ何もしていないのと同じ。

 確かに、兄には王の庇護があり、守ってくれる人はたくさん付けられていた。

 でもだからって、怖くなかったわけがない。誰も傷つかずに済んだわけでもないだろう。今の私と同じように、死ぬのが怖くて、周りの人をなくすのが怖くて、それでも耐えてきたはずなのだ。

 そんなことをずっと強いてきた立場にいる私が、いざ自分が襲われたら助けてほしい、だなんて。


「言える立場じゃないっ。そんなのわかってる!」


 喉が震えて、耐え切れずに悲鳴に近い声で叫んだ。

 それでもこの期に及んで、足を止めることが出来ない。走って、走って、ひたすらに走って。息を切らせて呼吸が苦しくなっても、止まることが出来ない。


(本当は、もっとはやくに事実を言うべきだった)


 自分には何も出来ない、なんて言い訳ばかりを繰り返して目を背けないで。

 自分が死ぬのが嫌で逃げてきたけど、こんなことになるぐらいなら、ちゃんと真実を告げていればよかった。

 もっとはやくに、ちゃんと自分の罪に向き合っていればよかった。


(そうすれば、こんなことにならなかったのに……!)


 じわり、と涙が浮かぶ。

 それでも今更悔やんでも、時間は戻らない。今の自分には、それでも頼れる相手は兄しかいない。

 私は勝手で、傲慢だ。結局、自分のことしか考えてない。

 でももし自分の命でこの状況が止まるなら、もういっそそれでもいい。だけどもしそうでないのなら、今回だけでいいから手を貸してほしい。


(後で全部、償うからっ)


 私の大事な人達を、助けてほしい。

 はっきりいって頭の中はぐちゃぐちゃで、もうまとも思考なんて出来ていなかった。

 もしここで助けても、私が真実を告げれば、結果は遅かれ早かれ同じことになるのだというのも頭の片隅ではわかっている。ただみんな死ぬのを先延ばしにしているだけかもしれない。

 けどこんなわけもわからず、ぐちゃぐちゃな状態で終わりにすることは受け入れられなかった。

 罪は償われるべきだし、代償は支払われるべきだ。

 けれどそれは、今ここでじゃない。こんな形でじゃない。


「っ兄様!」


 やっとたどり着いた目的の扉に握りしめた拳を振り上げ、力いっぱい叩いた。ガンッ!と鈍い音が狭い通路に反響する。


「兄様、アルフェンルートです! お願いしますっ、開けてください!」


 声を張り上げて、手の痛みも気にせずに何度も両の拳で叩く。


「兄様!」


 開けてもらえない可能性もある。その前に、この部屋にいないことだって考えられる。

 駄目かもしれない。絶望が胸いっぱいに湧いてきて、目頭が熱くなって視界が歪んだ。自分には泣く権利もないし、泣いている場合でもないのに視界が込み上げてきた涙で揺らぐ。

 そんな自分の耳に、まるで救いのように扉の向こうからガタガタと何かが動く音が聞えてきた。そういえばこの扉は、書棚で隠されていたのだったと思い出す。


(開けてもらえる……っ?)


 でも助けてもらえるかどうかまでは、まだわからない。

 それどころか、私は飛んで火にいる夏の虫かもしれない。

 心臓がドクンドクンと激しく脈を打って、体中に鳴り響く。緊張のあまり、呼吸の仕方も忘れた。息を止めて目を見開き、扉が勢いよく開かれるのを見つめる。

 立ち竦む私の前に、痛いほど眩しい光と黒い人影が現れた。


「アルト様!? どうなさったのですか!」


 開けた途端、驚愕した表情で私を見る相手から即座に気遣う声を掛けられた。肩を掴まれ、切羽詰まった様子で問いかけられる声には、心配が滲み出ている。

 緑の瞳は心底驚いていて、こんなことを画策した側の目ではなかった。その目と目が合っただけで、安堵のあまり体から力が抜けていきそうになる。


「クライブ……」


 顔を見た瞬間、張りつめていた糸が切れたように、ぐしゃりと顔が歪んでしまった。崩れそうになる足に力を入れて、目の前の相手を見つめる。

 怖いはずの人だった。一番恐れなければいけないはずの人だった。

 それなのに、どうして。こんなにも。


(きっと助けてくれるって、思えるんだろう)


 ここで手を伸ばしたら、助けてもらえる――そんな確信があった。

 無意識に手を伸ばして、扉を殴るように叩いていたせいで皮膚が破れて血が滲む手でクライブの服を掴む。


「お願い、助けてください……っ」


 声が詰まりそうになるのを叱咤して、喉の奥から突き上げてきた言葉を絞り出すように口にした。

 肩を掴まれた手に、力が入るのを感じる。


「アルト様、何が」

「アルフェ、何があった」


 それまでクライブに視界を遮られて中が見えていなかったけれど、不意にクライブの声に兄の声が重なった。それと同時に、僅かに身を引いたクライブの後ろから険しい顔をした兄が現れる。


「兄様」


 どんな時でも曇らない、冷たく見えるほど秀麗な美貌。その姿を前にして、一瞬、全身が緊張に包まれる。

 けれど兄の淡い灰青色の瞳を見る限り、緊迫した様子を見せてはいるものの私に対しての警戒は見受けられない。

 そう見て取れて、一縷の希望が湧いてくる。


「部屋に賊が押し入ってきてっ、ラッセルが逃がしてくれたんですが、外にもまだいて……セインと図書室まで逃げたら、そこの衛兵にも襲われたのです」


 込み上げてくる嗚咽で声が詰まりそうになるのを叱咤して、必死に早口で言葉を紡いだ。

 私の説明を聞くうちに兄が大きく目を瞠り、見る見る内に顔を強張らせていく。その表情は、明らかに想定していなかったことだと告げていた。


「本来、アルフェの部屋は一番警備が厳しい。おまえに何かあればエインズワース公爵からどんな報復をされるかわからないからだ。だからそういう状況が起こらないよう陛下も私も、なによりエインズワース公爵がそうしていたはずだ」


 兄にも起こりえないはずの事態なのだと聞かされて、混乱しかない。けれど起こっている以上は、現実なのだ。


「でも、本当なのです! 私は通路から助けを呼びにきたんですが、セインが。囮になるって言って、残ったまま……まだ図書室にいるはずなのですっ」


 ラッセルは、メリッサに呼ばれたメル爺が駆けつけてくれている可能性はある。でも、セインの方はわからない。


(間に合わなかったら、どうしよう)


 言っている内に不安と恐怖が込み上げてきて、耐え切れなかった涙が目から勝手に零れ落ちていく。


「こんなこと、頼める立場ではないのはわかっています。恥知らずなのは承知でお願いしますっ」


 頼み込む声が震える。

 厚顔無恥にも程があるけれど、今の私にはこれしかできない。


「セインとラッセルを、助けてください……!」


 深く頭を下げて、血を吐くような思いで訴える。

 お願い。お願いだから、私の大事な人達を、どうか助けてください。


「――シーク。僕に行かせてください」


 受けてもらえるかどうかなんてわからなかった。

 けれど下げた頭上からそんな声が聞こえてきて、驚いて弾かれたように顔を上げた。真ん丸く見開いた目には、クライブが真剣な顔をして兄を見据えている姿が映る。


「わかった。元々今日は護衛を増員しているから、私の方は問題ない。使える者を連れていけ」

「はっ!」


 対する兄はそれを見返し、迷う間もなく簡潔に答えて頷いた。

 その素早さに驚いて、ただでさえ瞠っていた目を零れ落ちんばかりに開く。


「なん、なんで」


 駄目元で頼ったものの、こんなに簡単に救いの手が差し伸べられるとは思ってなかった。

 助けてくれる、そんな予感はあった。けれどクライブが直に動くなんて、そこまでは考えてなかった。

 思わず呟けば、私の言葉を耳に止めたらしいクライブが私を見下ろした。そしてこんな時だというのに、ほんの少しだけ笑いかけてくる。


「約束したでしょう。貴方が助けを求めたら、お助けすると。僕は交わした約束は守ります」


 真摯な眼差しでそう言われて、息を呑んだ。

 約束と言われて脳裏を過ったのは、以前に自分が告げた言葉。


『――もし私がこの先、本当に困って助けを求めたら。一度だけでいいから、助けてください』』


 ただ一度の口づけを代償に、私がさせた約束。

 それは、たった一度だけの救い。


(でもあんな、あんなことで……っ)


 命を懸けるほどの事なんかでは、なかったのに。

 だけどきっとクライブは、果たしてくれる。

 そんな確信が胸に落ちてきて、驚きに止まっていた涙が再び零れ落ちそうになるのを堪えながら頷いた。



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