50 疑心暗鬼の海に溺れる
※残酷描写注意
祝祭日──
前日までは城で見かける衛兵や侍女たちも浮足立って見えたけれど、当日ともなると城の中は普段より静かになる。城下ではお祭りのような扱いになっているとはいえ、賑わう声がここまで届くことはない。
そのため城下の様相を知らない私からすれば、祝祭日というのは一際静かな一日という印象しかない。本来は神聖な祭祀なので、当然と言えば当然だ。
この日ばかりは城内も通常業務は行われない。
朝から晩まで王と王妃と高官は祭祀に参列し、武官はその警備に徹する。祭祀に出席する必要がない官吏は基本的に休みだ。
祭祀は粛々と行われることに加え、普段よりも人が格段に少ないので城全体が静寂に包まれる。
そんな中で私はといえば、特に何もしていない。
成人前の王族は公式行事への出席はしない。成人すれば常人よりも負担が多くなるからなのか、子供のうちは表に出されることはなく比較的自由に過ごせている。
(とはいっても、お忍びで祭りに出かけられるほどではないのだけど)
どころか今日は城内すら気軽に出歩ける雰囲気ではない。大人しく自室で本を読んで過ごすだけで終わりそう。
それでも今年はふと思い立って、食べ終えた昼食を片付けていたメリッサに声を掛けた。
「メリッサ。お使いを頼みたいのだけど、いい?」
いつもは入用なものがあれば、口頭で告げるか紙に書いておく。メリッサをお使いに出すということは、まずない。
それに普段はこういうことはセインに頼むので、不意に頼まれたメリッサは困惑した様子を見せた。
「お使いですか?」
「城下のお祭りって露店が並ぶんだよね? ちょっと買ってきてほしいものがあるんだ」
「露店でですか」
驚いたのか、榛色の大きな瞳を瞬かせる。
祭りというからには、町中に露店が並ぶはずだ。ゲームのイベントスチルで見た風景を思い出せば、城下は普段とは違うかなり華やいだ状態になっていることが想像できる。
「キャンディーアップルを買ってきてほしいんだ。リンゴに棒が突き刺してあって、その周りを飴でコーティングされているものなんだけど」
テーブルの上に置いてあるメモ帳に簡単な絵を描いて、「こういう感じ」と見せた。簡潔に言えばリンゴ飴である。
「こういう時でないと手に入らないものだと思うから、食べてみたいんだ」
とはいっても、過去の経験からあれはお祭りで食べるから美味しいのだと知っている。持って帰ってきても、さほどおいしいと思ったことはない。
でもこういう理由でもないと、メリッサは祭りに行くことが出来ない。
自分の立場上、「祭りに行く」という概念すら消失していたけれど、クライブに言われて思い至った。私に気を使っているのかメリッサから「行きたい」と聞いたことはないけれど、興味はあるはず。
「お願いできる?」
じっと見つめれば、少し躊躇った後で諦めたように肩を落とした。
私が我儘を言うことはあまりないから、こういう時のメリッサは大抵きいてくれる。
「わかりました。キャンディーアップルですね。探すのに少しお時間をいただいてしまうかもしれませんがよろしいですか?」
「うん、急がなくていいよ。4個でいいかな」
「そんなに食べられないだろ。腹壊したいのか」
すると、それまで向かいに座っているものの黙って聞いていたセインが呆れた目を向けてきた。
「一人で食べるわけないでしょう。せっかくだから今日のおやつにみんなで食べる分だよ」
この部屋にいる4人分だ。
でもセインは「俺はいらない。林檎はしばらくいい」と口を一文字にして首を横に振る。
もしかしたら、前に調べ物をした際に食べたアップルパイがまだ頭に残っているのかもしれない。
「では3個ですね。行ってまいります」
「待って。セイン、メリッサに付いていって」
「一人で大丈夫です」
セインにもお祭り気分を味わってもらおうと思っていたけれど、間髪入れずにメリッサから断られてしまった。
(せっかくのお祭りもセインと一緒じゃ楽しめないか)
でもそんな気はしていた。
対して、セインはどちらでもよさそうな顔をしている。メリッサが不要だというのなら、本人の意思を尊重しそう。好んで人混みに行きたいわけでもないのだろう。
セインは祭りを経験したことはあるだろうから、本人に興味がないなら無理にお願いする必要はない。
かといって、メリッサを一人で行かせるのは心配。昼間だし治安は悪くないとはいえ、祭りで気が大きくなっている者も多そう。変な人に絡まれても困る。
しかしながら、今はあまり護衛を動かせない。
そうなると、頼れるのは残る一人。
視線を傍に控えていたラッセルへと向ける。
「私は殿下のお傍を離れるわけには参りませんよ?」
仰ぎ見れば眉尻を下げた困った顔をされたけど、そこをなんとかお願いしたい。
「セインがいてくれますし、外には衛兵も控えているからこちらは大丈夫です。お願いできませんか?」
前に私がクライブと街に降りた時は、侍女のお使いに騎士が付き合うという体裁を取っていた。
ということは、こういうことは珍しくないはず。それに私の警備状態も、ラッセルが来るまではこの状態で過ごしていたわけだから問題もない。
じっと茶色の瞳を見上げれば、数秒見つめ合った後で折れたのはラッセルだった。
「あまり長居は出来ませんよ。用を済ませたらすぐ戻ってくる形になりますがよろしいですか?」
「それで十分です」
メリッサも寄り道はしたがらないだろう。それでも行かないよりはいい。
笑顔で頷けば、二人揃って溜息を吐かれた。
念を押すように「すぐ帰ってまいりますから」と言い置いて二人が出ていく。それを笑顔で見送った。
(楽しんできてもらえるといいな)
日頃気を張らせてしまっているから、これぐらいの息抜きぐらいあってもいい。ラッセルなら大人の余裕でメリッサをうまくエスコートしてくれるだろうから心配もない。
「一緒に行けばよかったのに。その方がメリッサも気兼ねなく楽しめたんじゃないか」
扉が閉まってしばらくしてから、セインがそう声を掛けてきた。
どうやら私の思惑はバレていたらしい。きっとメリッサとラッセルもわかっていて、私の自己満足に付き合ってくれたのだと思う。
「私の立場ではそうはいかないよ」
苦笑いをしながらテーブルに残されていたポットに手を伸ばした。
せっかくエインズワース公爵が何もしてこなくて済んでいるのだから、このまま大人しく時が過ぎるのを待ちたい。
「それにセインと話したいこともあったから」
ティーカップに紅茶を継ぎ足し、私を窺うセインと視線を合わせた。
よく似た顔だけど、こうして改めて見ると男の子っぽさが増してきた気がする。
「エインズワース公爵家に戻った時に、何か言われたのではない?」
「口うるさいのはいつものことだけどな」
「でもこのところちょっと沈んでいるでしょう」
無事に帰ってきてくれたのは嬉しいけど、以前より気が張りつめているように感じる。そう突っ込めば、セインが小さく嘆息を吐きだした。
意を決したように顔を上げると、私とよく似た深い青い瞳に見据えられる。
「念の為に確認しておきたいことがある」
「うん」
「アルは本当に、ここでの生活に未練はないのか」
「ないよ」
間髪入れずに頷く。
綺麗な服や宝石、豪華な食事、当たり前に何でも揃う恵まれた環境を整えられても、身の丈に合ってないと感じてしまう。
何も返せないのに、受け取るばかりだと居た堪れなくなってくる。
ここでしか出来ないことといえば図書室の本を読むことだけど、それは現実逃避を兼ねている。だから現実を生きるのに忙しければ、なくても困らない。
(もし一人で生きていかねばならないとなれば、それどころじゃないだろうし)
それにこのままうまくいって穏便に辺境に移ることになれば、エインズワース公爵派の手前、冷遇も出来ないだろうから貧窮している領に追いやられるってこともないと思う。
メリッサは付いてきてくれるというし、セインは……どうなんだろう。
エインズワース公爵家には帰りづらいだろうから、一緒に来てくれるというのなら心強いけど、無理強いする気はない。
私にとっての気がかりそれぐらいなので、ここでなければいけないということはない。
(でもメル爺と別れるのは、ちょっとどころでなく心細いかな)
さすがに城付きの医師であるメル爺は連れていけない。一緒に行くと言いかねないけど、あの年齢で慣れた土地を離れさせる気にはなれない。
ラッセルは……この間話した感じだと、付いてくる気満々な気がする。王がどうするかにもよるけど、最悪の場合は近衛騎士を辞してでも付いてきそう。
王といえば、改めてもう少し話してみたかった気もする。
せっかく良くしてくれた兄に会えなくなるのも、少し寂しい気持ちは湧いてくる。
脳裏に気になる人の顔を思い浮かべていって、しかしそこから先は嫌な予感がしたのでシャットダウンした。
胸が軋むのは、きっとそのせい。それ以外、あるはずがないと自分に言い聞かせる。
今は生き延びるのが最優先事項で、他事にかまけている余裕なんてないのだ。
「そうでなければ、セインにあんなこと頼まないよ」
困ったように笑えば、私の真意を確かめるようにじっと見つめられた。
これが紛れもない本心なのだと告げる代わりに、その瞳を真っ向から見つめ返す。
「……わかった。それならいい」
「確認したいことは、それだけでいいの?」
「それさえわかればいい。たまに爺と話してると洗脳されそうになるからな」
セインがソファの背もたれに体を預け、はー、と長い息を宙に吐き出した。
「迷惑かけてごめん」
「いいかげん慣れた。ただ本気で穏便に済ませたいならもう少し注意してくれ」
「……ごめんなさい」
ラッセルにバレてしまった件はメリッサを筆頭に、セインとメル爺にも当然こっぴどく怒られた。特にメリッサには散々泣いて叱られた。
そして当のラッセルにも、あれからかなり説教をされた。
結果としてどうにかなったからいいようなものの、あの時のことは思い出す度に背筋が凍り付く。
今こうしているのは奇跡のようなもので、本当は謝って済む問題じゃないのだ。それなのに、みんな今まで通りに接してくれる。
「危険な目に遭わせて、本当にごめんなさい」
「一応言っておくけど、俺もメリッサも、スラットリー老もいざという時の覚悟はとっくにしてるんだ。たぶん往生際悪く諦めてないのはアルだけだ」
そう言われて息を呑んだ私を見て、珍しくセインが少しだけ笑った。
「でも前みたいに諦めた顔しているより、ずっといい。皆そう思ってる。アル一人に背負わせる気はないし、出来ることはしてやるから、もう少し頑張れ」
ぶっきらぼうだけど、優しい声だった。
そんな言葉を与えられたら、急激に胸いっぱいに熱いものが込み上げてくる。
(私の周りは、お人よしばっかり)
自分の命が掛かっているにしても、甘やかし過ぎだ。
まだその優しさを受け取れるだけのことを出来ているとは思えない。けれど、せめて報いれるように。
「うん……。ありがとう」
頑張るよ。
だって死にたくない。
なにより、誰も死なせたくない。
頷くと、セインは少し晴れやかな顔になったように見えた。最近までずっとまとわりついていた思い悩んでいたような気配が消えていくのを感じる。
その時、部屋の扉がノックされる音が響いた。
一瞬、メリッサ達が忘れ物でもして戻ってきたのかと思った。けれど扉が開く様子はない。
ノックはされたものの、扉の前で警備している衛兵からは声がかけられない。メリッサが出て行ったのは知っているわけだから、いつもなら誰が来たのかを教えてくれるのに。
そもそも、この部屋には人が訪ねてくること自体が稀だ。午前中に教師が来る等の決まった時以外は、食事や荷物が届けられる時ぐらいしかない。
とはいえこんな日に荷物が届くとは思わないし、私に用がある人なんてそれ以上にいないはず。
首を傾げてセインを見れば、セインも眉を顰めながら立ち上がった。扉に向かい、「どうした」と扉越しに声を掛ける。
「お荷物が届いております」
扉越しにくぐもった声が聞こえてくる。
こんな日に荷物が届くとは思わなかったけど、届いているというのならそうなのだろう。対応していたセインが扉を開く。
それから間を置かずして、キンッ! と金属同士が弾き合う音が部屋に響いた。
「!?」
それは聞き慣れた音。
だけど、こんな場所で聞くはずもない音。
「ッアル! 逃げろ!」
一瞬、セインに投げつけられた言葉が理解できなかった。
けれど目前で輝く白刃と弾き合う金属音を聞けば、嫌でも理解する。
(なんで……っ)
開いた扉から部屋に押し入ってきた人は、普段部屋の前に立つ衛兵の格好をしていた。制服のラインは私に仕えていることを示す3本ライン。
けれどなぜかそんな立場の人間が、抜き身の剣を手にセインと相対している。
セインは扉を開けた瞬間、警戒していたらしく咄嗟に突き付けられた剣を刀身で阻んで事なきを得ていたようだ。今も剣も構えてじりじりと間合いを測っている。
「ぼけっとしてるな! はやく!」
再び急かされる鋭い声に我に返り、慌てて立ち上がった。
いくら私の衛兵の格好をしているとはいえ、目的は私の暗殺であることなど一目瞭然。
偏見で「暗殺者=黒づくめ」というイメージを抱いていたけれど、夜でもないのに漫画のように黒づくめで現れるわけがない。城の人間に溶け込んで、その機会を窺うことなど定石。
(凶手!? でも、なんで私をっ)
驚愕と動揺で、心音が一気に跳ね上がる。
けれど、考えるのは後だ。
凶手と切り結ぶ音を背後に聞いて血の気が引いていく。けれどここに私がいても、何の役にも立たない。どころか足手まといでしかない。
頭の中は混乱一色だけど、寝室のテラスから中庭に逃げようと踵を返す。中庭を突っ切れば、メル爺に助けを呼びに行ける……!
けれど私が寝室の扉に手を伸ばすより早く、目の前のそれが開いた。
「ひっ…!」
その扉から現れるはずがない衛兵の姿に、喉の奥から悲鳴が零れた。
驚愕のあまり、逃げなければ、という思考すら停止する。その手が振りかぶる抜き身の剣の鈍い輝きに目が釘付けになり、恐怖で足が凍り付いたように動かない。
「アル──ッ!」
切羽詰まった声が耳に届いて、背後から服を掴まれて強く引っ張られた。蹈鞴を踏んで、踏み止まり切れずに尻餅をつく。
「!」
その間に自分の目の前、庇うように割って入ったセインの剣が相手の剣を持つ腕を薙ぎ払った。
咄嗟に相手も背後に飛んだものの、避けきれなかったのか切れた片腕から血がぼたぼたと垂れ流れされていく。
真っ赤な色。
鼻に衝く、鉄錆の匂い。
これは普段見ている潰した刃でもって行われる演習などではなく、あの刀身に触れればそうなるのだと思い知らされる。
立ち上がらなければ。
立って、逃げなければ。
時間としては、きっとほんの数秒。必死に足に力を入れて立ち上がりかけた自分の上に、黒い影が掛かる。
反射的に顔を上げれば、セインが咄嗟に私を庇った分、放置されたもう一人が目の前に立ち塞がっていた。
もう一人の対応をせざるをえなかったセインには、間に合わない。
無防備になっているこの隙を、見逃してもらえるわけがない。
(ッもう駄目!)
体を竦めた瞬間、けれど剣が降り下ろされることはなかった。
代わりに床を強く踏み込む靴音と、薙ぎ払われる剣の生む風圧を感じる。
驚いて開いた目の前、血飛沫が上がって、鮮やかな赤で視界が染まった。頬にかかる濡れたあたたかい感触に呼吸が凍り付く。
「ぐ……ぅっ」
しかし凶手は直前で気づいて横に飛び退ったからか、自分を襲った剣は致命傷にはなりえなかったようだ。
血に濡れた肩を押さえながらも腰を落とすと、突然の闖入者と対峙の体勢を取る。
「……ラッセル? なんで」
突然現れたその人を見て、安堵のあまり自分の唇から擦れた声が漏れた。
つい先程メリッサと一緒に送り出したはずのラッセルが、いつもは柔和は表情を強張らせて私を背に庇う形で立った。剣を構えて凶手と向き合う。
「こんな日なのに廊下にいる衛兵が見かけない顔ばかりなので戻ってきたのですっ。メリッサ嬢にはスラットリー老を呼びに行かせました!」
ラッセルは息を切らしながら手早く説明すると、凶手と睨みあいながらもへたり込んでいる私の腕を強引に掴んで立たせる。
「セイン! ここは私が引き受けます。殿下を連れて本宮に逃げなさい! 殿下の部屋周りは戻るまでに何人か片付けてきましたが、こっちはほぼ敵です!」
見れば、ラッセルの剣は目の前の凶手を傷つけただけでは足りないほどの血に濡れていた。
それほど大事な仕掛けをされているのかと、血の気が引いていく。
「了解した! アル、行くぞ!」
それまでもう一人と切り結んでいたセインが力いっぱい剣を薙ぎ払い、距離を取らせてから振り返る。
私の駆け寄って手を掴むと、息を切らせず走り出した。追いかけようとした凶手はラッセルによって阻まれる。
セインに「待って」と言いかけたものの、ここにいても邪魔なだけだ。
そう自分に言い聞かせて、踏み止まりたい言葉を飲み込む。
「ラッセルっ、すぐに助けを呼びますから!」
本当はこんなこと言いたくない。一緒に逃げようって、そう言いたい。
セインもけして弱いわけじゃない。メル爺直々、それにクライブから定期的に試験として容赦なく扱きも受けていて、近頃はラッセルにまで手解きされていると聞いていた。
身長も伸びてきているし、その分、力だって成人男性に追いついてきている。
それでも尚、手負いの状態でここまで保っていた凶手は相当な手練れなのだとわかる。いくら凶手二人が傷を負っているとはいえ、その相手をラッセル一人に任せるのは不安しかない。
それでも、ここで立ち止まれなかった。
自分か、メリッサか、どちらが先でもいい。とにかく今の自分に出来ることは逃げ延びて、助けを呼ぶことだけ。
歯を食いしばって、廊下に出る。中で起こっていることが嘘のように静かで、けれど扉から一歩出ただけで鉄錆の匂いが鼻を衝いた。
倒れている衛兵の姿と絨毯に広がる血が視界の端を掠めて、息が止まった。その場に硬直しかけて、「アル!」と叱咤する声で我に返る。
慌てて目を逸らすと、引っ張られるまま走り出す。
怖い。
怖くて、怖くて、堪らない。
(どうしてこんなことに!)
まるで映画のようで、けれど紛れもなく自分に起こっている現実。
死が身近すぎて、恐怖でどうにかなってしまいそう。
わけもわからず泣き叫んでしまいたい衝動に襲われる。
けれど安易に大声を上げることは出来なかった。ラッセルの話から考えれば、声を上げたところで味方が駆けつけてくれるとは限らない。
(誰に助けを求めればいいっ?)
セインに痛いぐらい掴まれた手首を引かれるまま、全速力で走る。
心臓がバクバクとうるさかった。砕けそうなほど強く奥歯を噛み締めていないと、恐怖で歯の根が噛み合わない。
メリッサはメル爺の元に行ってくれているという。
ならば自分はここから最短で、いったい誰を頼れる?
どこに向かえばいいのか、酸素の行き届かない頭は何が正しい判断かを弾きだせない。
私の部屋の周りの衛兵は、エインズワース公爵の息が掛かっている。一人ぐらいならともかく、これほどの人数の衛兵をそう簡単に凶手と入れ替えられるとは思えない。
いくら今日が祭祀でそちらに警備が集中しているとはいっても、だからといってこちらが疎かになるということは考えられないのだ。
指示したのが、エインズワース公爵でもなければ。
(でも、そんなわけないっ)
いくら私が反抗したからと言って、私を処分するのは早計すぎる。今までの努力が水の泡になるようなことをするはずがない。
私の反抗心に気分を害したとしても、そんなことをするほど短絡的な人ではない。
(じゃあ、誰? 誰が敵?)
エインズワース公爵の目も掻い潜って、そんなことを出来るのは、誰──。
そこまで考えたところで、図書室の扉が見えてきた。
後宮寄りの本宮の端にあるそこは、人が多くいる場所へ行くために必ず通る道。
そして私がよく行く場所は、ほぼエインズワース公爵の手配で第二皇子派が護衛に付いている。その為この扉を護るのも、本来は私寄りの衛兵。
「っここもか」
しかし走ってくる私たちの姿に驚くでもなく、扉の前に立っていた衛兵は無表情で剣を抜いた。
その姿を見てセインが隣で舌打ちをするや否や、私の手を離した。剣を構えて、スピードを保ったまま突っ込んでいく。
「っ!」
そのまま剣で貫いて相打ちする気かと、目を見開いて息を止めた。
けれどセインは予想に反して、直前で片足を軸に体を捻って剣を避ける。腰を低く落とすと剣を薙いで、衛兵の手に握られていた剣を弾き飛ばした。
キィンッ!と刃が弾かれた甲高い音と、ガランガランと派手な音を立てて剣が床に転がる音が響く。
それに視線を向けることなくすぐに剣を持ち替えると、柄の部分で容赦なく鳩尾を抉るように打ち込んだ。
くぐもった声を上げて崩れ落ちたところで、追い打ちのようにセインがこめかみに肘鉄を食らわせて昏倒させる。
それらの音と私たちの慌ただしい足音に反応したのか、目指す先の通路から人の足音が聞こえてきた。
けれどそれが敵か味方か、わからない。
後ろには、戻れない。
前から来る人も、信用できない。
「セイン! こっち!」
崩れ落ちている人の横を擦り抜け、セインの手を掴んで図書室の中へと駆け込んだ。
扉を閉めて、入り口入ってすぐの整理前の本が置かれている小さな書棚を二人がかりで引きずってきて扉を塞ぐ。腰の高さほどしかない書棚ははっきりいって、無いよりマシとはいえ大した時間は稼げない。
「ここだと袋小路だろ。2階の窓から飛び降りる気か」
図書室は機密文書も多い。そのため1階に窓は作られておらず、出入りには必ず扉を使用するしかない作りになっている。
セインが言うように、外に出ようと思ったら2階の窓から飛び降りるしかない。
そう考えるはずだ、普通なら。
「地下に隠し通路があるっ」
本来、私が使っていい通路ではない。セインに知らせていい場所でもない。
けれど迷っている暇はなかった。
書棚の合間を走り抜け、階段を駆け下りると地下書庫の奥を目指す。
「確か、この辺……っセイン、手伝って!」
本が詰まった書棚が並ぶ一角、覚えがある本棚に手を掛ける。一見すると、普通の書棚だ。
重いので私だけでは開けないが、この向こうに通路が隠されている。
目を瞠ったセインは、けれどすぐに察したのか手を貸してくれて書棚を動かす。全開にする必要はない。人ひとりが擦り抜けられるだけの隙間を開けると、セインを振り返った。
「本当は私が使っていい通路じゃないけど、ここから兄様の執務室まで行ける」
祭祀は王と王妃がメインで行われる。第一皇子であるとはいえ、兄は午前中に出席をするだけでいい。
忙しそうな人だから、祭祀が終わった後は執務室で仕事をしている可能性は高い。
そう口にして、けれど躊躇った。
「行ける、けど……」
ずっと考えていた。
エインズワース公爵の目を掻い潜って、私の周りの護衛を入れ替える。そんなことが出来る人なんて、本当に限られる。
(たとえば……兄様)
王族であれば、出来ないことではないと思う。
ただ私の意志を知っている王がこんな派手な真似をするとは思えない。それに父は兄を立てているわけだから、兄にも私の意志は伝わっているはず。
ならば兄もこんな真似をするとも思えない。
思えないけれど、わからない。
第一皇子派の一部が暴走しているだけかもしれない。
それとも本当に、エインズワース公爵なのか。
わからない。わからない。わからない。
迷っている間に、上からガタガタと何かがいくつも床に落ちる音が聞こえてくる。考えるまでもない、バリケードにした書棚の本だろう。多分そう遠くない内に突破されてしまう。
どうする。どうしたらいい。
迷っている間に、時間は過ぎていく。
(どこにいけば、助けられるの)
焦るばかりで、心が決まらない。
蒼白になって唇を噛み締めた私を見て、不意にセインが口を開いた。
「道は覚えてるんだな?」
「たぶん」
途中で分岐点はあったけど、たぶん行ける、と思う。
「今日はランス卿はシークヴァルド殿下に付いてるのか」
「そう、聞いてるけど」
この日は来客が多いから、兄に付いていると言っていたことを思い出して答えた。
けれどなぜここでクライブのことを聞かれるのか理解できずに顔を顰めると、セインは頷いた。
「それなら問題ない」
何が問題ないのかと問う間もなく、上階からさっきより一際大きく崩れ落ちる音が響いてきた。
それと同時に、セインの手が私を通路に押し込むと力いっぱい背中を突き飛ばす。
「っ!」
「シークヴァルド殿下がアルをどうにかするつもりだったなら、ランス卿が鬼のように俺を扱いたりはしないだろ」
突き飛ばされた勢いが強すぎて狭い通路の床に倒れ込んだところで、セインが早口にそう言った。
振り返れば、向こうにセインを残したまま扉がわりの書棚が閉められていく。
「セイン!?」
「念の為にこっちで囮になって時間を稼ぐ。何とかするけど、頼むからはやく助けを呼んできてくれ」
立ち上がって手を伸ばしかけて、けれどそれを阻むよりはやく書棚に全体重をかけたらしく一気に閉められてしまった。
反射的に爪を立てて開けようとしたけれど、私一人の力ではどうしたって動かせない。
「セイ……、ッ」
拳で叩いてもう一度叫ぼうとして、けれど上から響いてきた足音に気づいて口を噤む。
もしこの声が届いたら、セインがここにいると知らせてしまう。これ以上、声を上げるわけにはいかなくて喉の奥で叫びたい言葉を押し殺す。
綴じられた場所からは、光一筋すら漏れない。
戻れる場所はない。
ここまで来たら、もう行く先はひとつしかない。
(でも)
本当に助かるんだろうか。助けられるんだろうか。
(私に、)
助けを求める権利なんて、あるの?




