48 天秤に掛ける
ラッセルに真ん丸く見開かれた目で見つめられて、顔面から血の気が引いていく。
凍り付いたように息が出来ない。体も動かない。心臓だけが体の中で暴れるように激しく脈打っている。
(バレた……)
女だって、知られた。
(どう、どうしよう。どうしたら…っ)
口を開いて、けれど言葉が出てこない。
なんて言えばいい。何を言っても誤魔化しはきかない。
確かに王は、エインズワース公爵の思惑は知っている。
けれど私が第二皇子である場合と、女の身でありながら男であると偽って王位継承権を得ていた場合では、完全に対応が異なる。
第二皇子が王位簒奪を企てていたとしても、結果として何も起こらなければ表面上は問題にはならない。最初からそんな企てはなかったのだと言い張れば、何もなかったことに出来る。
でも、私が「女」である場合はまた別の問題だ。
存在そのものが、駄目だ。
エインズワース公爵は、私は、最初から王位を簒奪するつもりだった。そう謀っていたのだと、私の存在が証明してしまうことになる。
──女である私という存在そのものが、罪の証。
だからこそ、絶対に知られるわけにはいかなかった。
それなのに。
(終わっ……)
カタカタと体が震える。歯の根が噛み合わない。
押し寄せてくる恐怖に全身が耐え切れずに悲鳴を上げる。唇が戦慄いて、けれど言葉を発することも出来ずにはくはくと動くだけ。
「っ申し訳ありません!」
先に沈黙を破ったのは、ラッセルの方だった。
動揺した面持ちで掴んでいた手を離し、慌てて私に背を向ける。
(……、え?)
それはただの裸の女性を前にした時の条件反射でしかなかったのかもしれない。
回れ右して浴室から出ていこうとする背に驚いて、咄嗟に手を伸ばした。上着の裾を強く鷲掴んで反射的に引き留める。
「っ待って!」
「!」
この場で拘束されなかったことに助かったと一瞬思いかけたけど、だからといってこのまま行かせるわけにはいかなかった。
今は動揺していても、冷静になれば当然王に報告するはず。
それをさせるわけにはいかない。ここで何も弁解もしないまま、行かせるわけにはいかない。
絶対に!
「ちゃんと説明するからっ、待って、ください」
縋るように強く服を掴んだまま、震える声を絞り出して懇願する。
「おねがい……っ」
バレて終わるのは、私だけじゃない。
私に肩には、私以外の人達の命が乗っている。
ただでさえ私の失態が招いたこの事態を、何の手も打たずに行かせるわけにはいかない。
(まだ、終わらせるわけにはいかないっ!)
幸い、ラッセルは私が女であるということに激昂することも、掴みかかってくることもなかった。
動揺しているだけかもしれないとはいえ、まだ話を聞いてくれるだけの余地はある。
それにラッセルだって、なぜ私が女であるのか、その事情を知りたいと思うはずだ。
冷静になれば私が女であったというだけの事実をただ王に告げるより、内情も含めて報告するべきだと、きっとそう考える。
だから。だから……!
「殿下、お話はちゃんと伺いますから……その、まず服を着ていただけますか」
そう言って、ラッセルが腰に掲げた剣に手を伸ばす。
「!」
その動作に、ビクリッと全身が弾かれたように震えた。咄嗟に手を離す。
けれど剣は抜かれることなく、鞘ごと外された。私に背を向けたまま、後ろ手にその剣を私に押し付けるような形で差し出される。
「剣を預けます。けして逃げたりはしませんから」
近衛騎士の剣は、近衛騎士になる際に陛下から賜るものだ。
だから彼らにとっては、それは命にも等しいはず。
驚きつつも反射的に剣を受け取れば、「扉の外でお待ちしています」と簡潔に告げてラッセルが足早に浴室から出ていく。
どういうつもりかはわからないけど、剣を私に渡すということは、すぐに私をどうこうするつもりはないのだと悟って少しだけ強張りが解けた。
それに浴室からは出たものの扉が閉められないのは、逃げていないと知らせるためか。
それとも、私が自害することを恐れてなのか。
その両方かもしれないけれど、なんとか時間稼ぎが出来たことに細く息が零れ落ちていく。
だからといって、まだ助かったわけじゃない。
(考えろ。考えろ……!)
どうしたら切り抜けられる。
どうしたら丸く収められる。
当然、女だと黙っていてもらうことが一番だ。
けれど私に仕えているとはいっても、近衛騎士の正式な主は王。
私じゃない。
時間稼ぎにのろのろと床に落ちていたタオルと寝間着を拾い上げ、おざなりに体を拭いて寝間着にしている脹脛丈のシャツを着る。
その間にも頭をフル回転させ、今の自分に出来る策を必死に探る。
考えて。
考えて。
けれど何度考えても、するべきことなんて一つしか思い浮かばない。
(……口を封じるしか、ない)
頼み込んでも黙っていてもらえる保証なんてない。
だいたい近衛騎士ともなれば、取引材料として地位の確約や金銭的な交渉を持ち出しても応じるとは思えない。むしろそんな話を持ち出せば、そんなもので懐柔できるなどと軽んじるな、と侮蔑されて状況を悪化させるだけなのは目に見えている。
近衛騎士というのは、誇りと忠誠を重んじる。そんな立場にあるラッセルが、王に対して黙っているとも思えない。
そして王とて、聞いてしまえば見過ごすことは出来ない。
(私が、やらなきゃ)
ぎゅっと唇を噛み締めて、震えそうになるのを抑えるために拳を握る。
自分の蒔いた種だ。どうにか自分で狩り取らなければいけない。この状況では誰の助けも期待できない。
(私が、この手で)
──このひとを、殺さなければいけない。
考えただけで目の前が真っ暗になる。震えが止まらない。心臓は胸を突き破りそうなほどの強さで早鐘を打ち、恐怖と焦燥感に気圧されて呼吸の仕方すら忘れそう。
それでも怖気づいてはいられない。
奥歯が砕けそうなほどに噛み締めて、顔を上げる。
(やらなければ、未来がない)
踝丈のガウンを羽織ってから、預けられていた見た目以上に重く感じる剣を両手で抱えた。
不穏な動作を悟られれば、この刃が私の首を刎ねるかもしれない。
そう考えるだけで、重さが増した気がして一歩も動けなくなりそうになる。それでもこのまま立ち竦んでいても、どうにもならない。
なけなしの覚悟を寄せ集めて足を踏み出し、開けられたままだった扉から出る。
「……おまたせしました」
脇に控えていたラッセルは少しほっとした顔をした。けれどすぐにどんな顔をしたらいいのかわからないのか、また頬を強張らせる。
きっと私の血の気の引いた顔は、それ以上に強張っているのだろう。
「向こうで話しましょう。たぶん、色々と訊きたいことはあるでしょうから」
促した後、抱えたままだった剣を渡すのを躊躇っていれば、「そのままお持ちください」と言われて少しだけほっとする。
少なくとも、私を害するつもりはないという意思表示には感謝しかない。
こんな時なのにそんな余裕があることにも驚くけど、ラッセルの中ではこれは何かの手違いなのかもしれない、と思いたい気持ちもあるのかもしれない。
(ほんとにただの手違いだったらよかったのに)
だけどそんなわけがない。
寝室から出て、いつも居間として使っている部屋へと移動する。
部屋の中は昼の間に光を溜めている蓄光石の入った灯りが等間隔で設置されているので、ほんのりと明るい。
座って、と口にする代わりに手で示し、預けられたままだった剣は一応ラッセルの手の届かないソファの背にそっと立てかけておいた。
それでも念の為にラッセルがテーブル向かいのソファに腰を下ろしたのを確認してから、背を向けて食器棚へと向かう。
その間、ラッセルは何も言わない。
沈黙が重くて、かといってまだ心の準備が出来ていないので本題に入るのも躊躇った。
迷った末に、言ったところでどうしようもない恨み言が口を突く。
「私は下がれと言ったのに、どうしてまだ部屋にいたのですか」
「アルフェンルート殿下のお加減が思わしくなさそうだったので、念の為にお休みになられるまではと、寝室前の扉で控えておりました」
「……そう」
なんて余計なことを。
その善意がこんな状況を引き起こしたのかと思うと、思わず苦い笑みが零れ落ちる。
「ラッセルは落ち着いているのですね。驚かないのですか」
「勿論驚いてはいます。ですが今までのアルフェンルート殿下の振る舞いを思い返せば、むしろ得心がいきました」
あえて私が語らずとも、私を待っている間にラッセルも自分なりに考えたのだろう。
そしてきっと彼が考えついたことは、答え合わせをする必要もないぐらいだいたい合っているはず。
というか、女の私が男だと偽っている理由など、一つしかない。
会話をしている間に食器棚から二人分のティーカップを取り出した。いつでもお茶を飲めるように常備してある水差しの水をポットに注ぎ、アルコールランプに火をつける。
まともに顔を見て話す勇気は、さすがになかった。
それに私には、これからやらなければならないことがある。
(こんなもの、使う日なんて来なければいいと思っていたけれど)
メリッサがいないときは私が自分でお茶を淹れることを、幸いラッセルはこれまでに見て知っている。落ち着くためにお茶を淹れるという動作を怪しまれることはない。
万一の場合に備えて、なんの準備もしていないわけじゃない。
できるだけさりげなく、いつものように。
震えそうになる手を叱咤して、棚にいくつも並ぶ茶葉の缶の内の一つを取り出した。
いくつも並ぶ缶の内、メリッサとセインには絶対に触ってはいけないと言い渡してある缶が何個かある。
一応は私も王族のはしくれだ。有事に備えて、部屋にはいくつか毒が用意してある。
これは、その中の一つ。
でもここでラッセル一人を毒殺したのでは、なぜそんなことをしたのか、後ろ暗いところがあるのではないかと疑いの目が向けられてしまう。
けれど私も一緒に飲めば、私を暗殺するのに巻き込まれたと思われるだけで済む。
普通の人間が飲めば間違いなく死ぬけれど、毒に慣らされた私が飲んでも、悪くて仮死状態。
(ラッセルが付けられたことで私をよく思わない第一皇子派はいる。暗殺されてもおかしくはない、と周りは考えるはず)
それでもし兄を調べられたとしても、実際のところは私の単独犯なわけだから、当然ながら第一皇子派がやったという証拠は出てこない。
勿論、派閥間にしこりが残らないわけではない。けれどエインズワース公爵は私がラッセルを殺した理由はすぐに思い至るだろう。下手に動いて調べられても厄介だから、この件では大きく動けないはず。
勿論、服毒することで私にもリスクがないわけじゃない。むしろハイリスクだ。
いくら耐性があっても、これだけ強い毒なら廃人になる可能性もある。
今の私の体力だと、もしかしたらそのまま目覚めないかもしれない。
(いっそそれならそれで、いいのかもしれない)
むしろ、その方がいいのかもしれない。
死ぬのは今も怖くて怖くてたまらない。考えただけでも、喉が絞られているような息苦しさを覚える。
けれど、ここらが引き時なのだと諦めかけている自分もいる。
明日の朝になって、倒れている私達を最初に発見するのは間違いなくメリッサ。
当然メル爺を呼ぶだろうから、メル爺なら私が生きていても、死んでいても対処してくれる。
毒の中には、顔が腫れて原型をとどめないものだってある。もし私が死んでいれば、そういう毒だったという偽装ぐらいは出来る。エインズワース公爵なら、金髪の痩せた少年の遺体も用意できるだろう。
こうして考えてみれば、私が死んだっていくらだって誤魔化しはきくのだ。
(それで内乱突入、ということにならないとも限らないけど)
けれど掲げる旗を失った状態で、何も得るものがないのにそんな馬鹿な真似をするとは思えない。
さすがに近衛騎士まで命を落とせば、セインが入れ替わるという真似が出来るとも思わない。
ふと、人の生き死にを前にして頭の片隅でそう冷静に考えている自分に気づいて、自嘲して笑いたくなった。
動揺しすぎて感情が追いついてないのか。
それともやっぱり、私もあの非情な人の血を引いているのだと、そう思わざるをえないのか。
(もしかしたら、私ひとりの死を誤魔化すために、誰かが殺されることになるかもしれないのに)
さすがにエインズワース公爵とて、身代わりの遺体としてセインを使ったりはしないだろう。
そうなると、例えば何の罪もない、スラム街にいる金髪の痩せた少年が犠牲になる可能性は高い。
私は私の大切な人達を守るために、見知らぬ誰かを殺そうとしている。
そして運悪く私の秘密を知ってしまったラッセルを、殺そうとしている。
顔も知らない誰かなら、たいして親しくもない相手なら、死んでもいいと思っているの?
(だって、それなら他にどうしろっていうの……っ)
私は助けられる数が多い方を、選んでいるだけ。
自分にそう言い聞かせる。
最悪の場合、犠牲になるのは私とラッセルと見知らぬ子ども。その3人が死ぬだけで、あとは助かる。私の罪が明るみになれば、死ぬ人間はそれよりももっともっと多くなる。
正直なところ、エインズワース公爵はどうでもいい。妃殿下もどうだっていい。
ここまできたら私自身も、どうしようもない。これは自業自得だ。
確実に処刑されるとわかっているのは、私の傍近くに仕える人間。
本当は乳母と一緒に下がってもよかったのに、こんな私の傍にいてくれたメリッサ。
否応なく巻き込まれただけなのに、これまで付いてきてくれたセイン。
力に抗えないとわかっていても、その中で私が生きやすいように最善を尽くしてくれた乳母とメル爺。
そして処刑されるとなれば、その一族もろともだ。
国を転覆させる程の罪を、関わった当人達だけで贖えるわけがない。
それにもしも内部の腐敗もこの機会に一掃しようと思ったら、第二皇子派に付いている貴族も纏めて処分されるかもしれない。
それらの命を天秤に掛けて、どちらの犠牲が少なくて済むのか。
考えるまでも、ない。
「なにから話せばいいのかわからないので、質問があればどうぞ」
火を止めて茶葉を蒸らし、ティーカップにお茶を注ぐ。
「このことを、陛下は知っておられるのですか」
「知っていらしたら、私がここにいるわけがないでしょう?」
ティーカップをトレイに乗せ、覚悟を決めて振り返る。
ゆっくりと歩いていって、硬い顔をしているラッセルと自分の前にそれぞれ琥珀色の液体が揺れるティーカップを置いた。
カップを置く際、カタカタと小さく陶器とテーブルが当たる音が静かな部屋に響く。
手が震えてしまうのはもうどうしようもない。けれど現状、緊張と恐怖に支配されていて当然の状況なのだから、そこまで怪しむものでもないはず。
私が向かいのソファに腰掛けると、それを待っていたかのようにラッセルが私を見据えた。
「アルフェンルート殿下は、この先どうなさるおつもりだったのですか」
(それを貴方が私に訊く?)
このまま何の手も打たなければ、この先に待っているのは周囲を巻き込んでの処刑一択でしかないのに。
こうしてバレなければ、また別の道もあったかもしれないけれど。
「……確定しているわけではないので言っていませんでしたが、陛下には私を王宮から遠ざけていただくよう、お願いはしてあったのです」
「!」
「あの人が望むようにはいくわけがない。そんなことは私が一番わかっているのです。だから私は私なりに、なるべく穏便にことが済むようにしてきたつもりでした」
細く嘆息を吐き出す。
そう、ラッセルが私の秘密を知らなければ。あと少しで、うまくいくかもしれなかったのに。
あと1年ほど隠し通すことが出来れば。もしかしたら。もしかしたら。
貴方も、私も、死なずに済んだかもしれないのに。
「貴方に知られなければ、全部丸く収まったのに。台無しです」
こちらが全面的に悪いというのに、口からは責める言葉が呪詛のように出てきた。
そして全く面白くないのに、なぜか口が勝手に小さく笑ってしまう。人間、どうにもならないと思わず笑ってしまうのだと知った。
だって笑ってでもいないと、意味もなく泣き喚いてしまいそう。
息を呑んで私を見つめるラッセルの視線を受け止めることも出来ず、視線を落としてティーカップを見つめた。ラッセルの手は、当然ながらお茶を飲んでいる場合じゃないから伸ばされもしない。
(そう簡単には飲んでくれないか)
当たり前だ。私だってこの状況でお茶を出されても、呑気に飲もうと言う気にはなれない。
けれど、そのことに安堵している自分もいる。
焦る気持ちはあるのに、飲んでほしくないと願う自分もいる。
だってこれを飲んでしまったら。
(死んでしまう)
考えただけで背筋が凍り付く。心臓が鷲掴まれたように感じて息苦しい。
恐怖に支配された心が耐え切れないとばかりにギリギリと引き絞られたように痛む。
怖い。
死ぬのは、怖い。
殺されたことのある私だからこそ、その恐怖を誰よりも知っている。
(……殺されるのが怖いと知っているのに、私はこの人を殺すの?)
だってそうしないともっとたくさんの人が、なにより私の大事な人達が死んでしまう。
(じゃあ、目の前の人は大事じゃないの? 他の人を守るためなら、この人は殺してもいいの?)
本当は今すぐにでも引っ立てて王に突き出してもいい状況なのに、命にも等しい剣を私に預けて、ちゃんと耳を傾けてくれるこの人を?
(こんなことになるなら、最初から助けなければよかったのに)
私があのとき余計なことをしなければ、きっとラッセルはここにいなかった。
そう思ったところで時間は巻き戻らない。なかったことにはできない。
人にはあんな偉そうなことを言っておきながら、今の自分の体たらくには反吐が出そう。
人を預かるには責があると言ったくせに、いざ自分に都合が悪くなったからって、殺してしまうの?
(だってそれ以外、守る方法を思いつかない……っ)
それなら、どうすれば正しいの。
私はどうしたらいいの。
(っ私だって、殺したいわけじゃない!)
もうこれ以外、私にはどうしたらいいのかわからない。
時間を巻き戻せないなら。やりなおしがきかないのなら。私はどうすればよかった!?
「無理を承知でお願いしたいのですが、このことは秘密にしていただけませんか……っ」
ぎゅっと手が白くなるほど服を強く握りしめて、無駄な足掻きだとわかっている言葉を喉の奥から絞り出した。
こんなこと言っても無駄だとわかってる。
それにもしここで頷かれたとしても、その言葉を信じることなど出来るわけがな……
「わかりました。誰にも言いません」
だからそんな言葉が耳に届いて、驚愕に弾かれたように顔を上げた。真ん丸く見開いた瞳でラッセルを見つめる。
「…………なにを、言って、」
今、この人はなんて言った?
(言わない? なんで!?)
そんなこと、ラッセルの立場では許されるわけがないのに。
息をするのも忘れて食い入るように見つめる私の前で、ラッセルは視線を逸らすことなく真っ向から私を見つめ返して再び口を開く。
「殿下がそうお望みなら、私は誰にも言いません。アルフェンルート殿下の性別が何であろうと、私の主人であることに代わりはありませんから」
「そんな……そんなわけにはいかないでしょうっ。貴方は自分の立場をわかっているのですか!?」
はっきりと言い切られた言葉が信じられなくて、思わず声を荒げた。
「ええ、私は貴方の騎士です。それに私にはアルフェンルート殿下を裏切る利点がひとつもありません」
「利点、って……」
僅かに首を傾げ、言い聞かせるような口調で予想外の言葉を告げられて動揺が止まらない。
利点? むしろ裏切らずにいる利点の方がない。
意味がわからなくて困惑する私の前で、ラッセルがゆっくりと息を吐き出した。
「もし私が陛下にアルフェンルート殿下のことを告げたとして、その結果、どうなりますか?」
「……私は当然として、関わった者は一族すべて処刑になるでしょう」
躊躇う口を叱咤して起こり得るであろう未来を硬い声で告げれば、ラッセルは肯定するように頷いた。
「ですがそうなった場合でも、必ず残党というものは出てきます。切っ掛けを作った私は、死ぬまで彼らの報復対象として狙われることになるでしょうね」
「それは、……そうなるのかもしれませんが」
淡々と告げられる内容は、確かに冷静になれば理解は出来る。
「それらを全部排除できたとしても、私は主を裏切った不忠の騎士という汚名を一生負い続けることになります。そのような騎士を自分に仕えさせたいと思う者はまずいません」
「待ってください。ラッセルの主は陛下でしょう?」
「陛下に任じられる以前に、私の主はアルフェンルート殿下です。陛下にも貴方にお仕え出来ないのなら近衛を辞すこともお伝えして、ご理解いただいた上で私はここにいるのです」
説明されれば、私の秘密を暴いたとしてもラッセルには何のメリットもないことは理解は出来た。
出来たけど、それでも一緒に秘密を抱えてもらえるほどの価値は私にはないはずだ。
秘密を知ってもなお私に仕えるということは、本当にその命を懸けることになりかねない。
「なんで、そこまで。私はラッセルにそこまで言われることはしていません」
まっすぐに見据える瞳に慄いて震える声を絞り出した私に向かって、ラッセルが苦笑いをした。
「アルフェンルート殿下にとっては大したことではなかったのかもしれませんが、そこまでのことをしていただいているのです」
言い聞かせるように、静かな声でそう告げられる。
「あのとき貴方が私を庇ってくださらなければ、私は今ここに生きていないと言われました。貴方に救っていただいた命です。貴方のために使おうと、そう決めていました」
そこまで言い切ると私をまっすぐに見つめていた瞳が伏せられて、自嘲気味に小さく笑う。
「ですがアルフェンルート殿下が、それでも私を信用できないと仰られるのであれば仕方がありません」
ラッセルの手が、目の前に置かれているティーカップに伸びる。
それを見て心臓がドクン、ドクン、激しく大きく脈を打ち出す。一瞬、呼吸も忘れてその動作を食い入るように見つめた。
実際には、たいした時間はかかっていない。それでもティーカップを手に取り、ゆっくりと口元にもっていく動作がスローモーションのように瞳に映った。
(それを飲んだら、)
死んでしまう。
死なせてしまう。
(私が、殺してしまう)
そのために用意したのだから、それでいいはずだ。
計画通り、何の問題もない。
(でもここまで言ってくれた人を、それでもまだ信用しないの?)
だって私はラッセルのことなんて、信用できるほどに知らない。口でなら、なんとでも言える。
それならこれで本当にいいの?
後悔しない?
(後悔なんて、しないわけがないッ)
だって私は殺されるのがどうしようもなく怖くて、理不尽で、悔しくて。
そこには絶望しかないのだと、そう知っている。
「こうすることでご安心いただけるのなら、これも有効な使い道なのでしょう」
最期の一瞬まで迷う私を安心させるように、ティーカップに口を付ける寸前にラッセルの茶色の瞳が私を見て小さく笑んだ。
(まさか、わかってて……!?)
「──ッ!」
ッガシャン────!
次の瞬間には、陶器が床に落ちて割れる甲高い音が部屋に響き渡った。
割れたティーカップから零れた琥珀色の液体が絨毯にじわじわと広がっていく。
私の弱さを、罪を、その場に刻むかのように滲みを作る。
「…………こういう貴方だからこそ、私は貴方にお仕えすると決めたのです。アルフェンルート殿下」
ラッセルはティーカップを叩き落されて空っぽになった手から視線を上げ、息を乱している私を見て笑いかけてくる。
気づいた時には、立ち上がると同時に伸ばした手で勢いよくラッセルの持つティーカップを振り払っていた。
反射的に、最後の最後で、踏み切れなかった。
「私と一緒にいたら無駄死にするかもしれないのに、ですか…っ」
言っている傍から、感情が昂ぶってきて目頭が熱くなる。
だけど私に泣く権利なんて、ない。
奥歯を噛み締めて必死に堪えて、八つ当たり気味にラッセルを睨みつける。
自分でも呆れるほど、私は弱かった。背負う勇気がなかった。
そしてこうしてしまった今も、これで正しかったのかわからないし、既に後悔もしてる。
それでも。
(出来なかった……っ)
どうしても、この手で人を殺すことが許せなかった。
私は人ひとり殺す勇気も持てない。もしかしたらそのせいで他の誰かがたくさん死ぬかもしれない。そうとわかっているのに、いざとなったら何も出来ない弱い人間だった。
そんなことでは許されないのに、どうしても最後の一線が越えられなかった。
だって死ぬのは怖い。
殺されるのは、なによりも怖い。
強制的に今までいた世界から切り離されて、突き飛ばされて、二度と戻れないあの恐怖。
二度と味わいたくないと思ったそれを、何よりも忌むべき行為だと思っていることを、この手で強いることがどうしても許せなかった。
「そうならないようにお守りするのが、私の役目です」
ラッセルがソファから立ち上がり、改めて私の前までくると手を取り、目の前に傅いた。
「この身を掛けてお守りすると誓ったでしょう。アルフェンルート殿下」
奥歯を噛み締めて泣くのを我慢している私を見上げ、ラッセルが少し困ったような顔をした後、宥めるように目を細めて笑った。
「それにこんな殺伐とした王宮より、のどかな田舎で猫を飼いながら平和に暮らす殿下をお守りするだけで給金がもらえるなら、これ以上に楽な仕事はありません」
私の心の重石を溶かすように、茶化して告げられた言葉に笑うべきだと思ったけれど、堪えきれずに涙が零れた。
(殺されかけたくせにそんなこと言うなんて、ほんとに馬鹿なんだから)
貴方も。
そして、それに甘えてしまう私も。
でも許されるならもう少しだけ、悪足掻きをさせてほしい。




