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47 とてもとても長い夜


 エインズワース公爵の姿が扉の向こうへと消えたのを見送り、零れそうになる安堵の息を冷えてしまっていた紅茶で飲み下した。


(な、なんとかクリア……!)


 今すぐソファに転がってしまいたいけれど、そんなわけにはいかない。

 足に力を入れてゆっくりと立ち上がり、「部屋に戻ります」と能面のような顔で給仕に控えていた侍女に告げた。

 部屋から出て、早足になりそうなのを必死に抑え、誰がどこで見ているかわからないので出来るだけいつも通り平然とした顔で歩く。

 行きと違って、自室までの道がやけに遠く感じられた。それでも歩いてればいつかは辿り着く。見慣れた扉を前にして、やっと肩から力が抜けた。

 ラッセルに自室の扉を開けてもらい、部屋に入るなりメリッサが心配そうな顔で迎えてくれた。


「おかえりなさいませ、アルフェンルート様……!」


 そこでようやく、それまで溜め込んでいた溜息が口から溢れ出す。


「うん。ただいま」


(疲れた…っ。本っ当に疲れた!)


 メリッサの柔らかい手に手を引かれ、促されるままソファに座り込む。

 テーブルの上には私の疲弊した胃に負担がないよう、サンドイッチと果物が用意されていた。

 あたたかいお茶を差し出され、とりあえずそれは受け取る。しかし飲物はともかく、とても食べる気になれない。

 精神的疲労が体にも影響を及ぼしているのか、体が泥のように重い。このまま目を閉じたら眠れてしまいそう。

 

「大丈夫ですか?」

「とりあえずはね。今日はもう疲れたから、詳しい話は明日にでもするよ。ごめん、食事は取れそうにないから下げてしまって。そのままメリッサももう休んでいいから」

「お食事は了承いたしました。ですが、今夜はお休みになるまでついております」

「考えをまとめたいから、一人の方がいいんだ。それに、ラッセルに少し話があるから」


 だから今日は下がってほしいと言外に含めれば、「かしこまりました」と不承不承、頷かれた。テーブルの上にお茶だけ残して片付けると、名残惜しげに部屋から下がっていく。

 せっかく食事の用意をしてくれていたのに申し訳ないとは思うけど、下げた分はメリッサの夕食になるだろうからそれは問題ない。

 ただ気遣いを受け取る余裕もなく、心配そうな顔をさせてしまったことは心苦しい。でも今は少し笑いかけて見送るぐらいの余力しかなかった。

 それでもこの後、もう少しだけ大事な話が残っているのだ。


「ラッセル。少しいいですか」

「はい」


 それまで黙って控えてくれていたラッセルに視線を向け、テーブル越しの向かいのソファへ座るように示す。

 躊躇ったものの、「座ってくれた方が話しやすいので」と言えば大人しく腰を下ろした。

 ラッセルから見れば、たかが祖父と会話する程度で、これほど私が疲労している意味はわからないだろう。

 私たちがした会話は、表面上だけ聞いていれば甘やかす祖父と甘える孫だ。それに世間的には、あの人は私を溺愛していることになっている。

 実際、溺愛はされている。私の望まない、ひどく歪んだ形ではあるけれど。

 その歪みゆえに、私の立場を害する危険性のあるものを排除するためにどんな手を打ってくるのか、予想もつかないわけだけど。


「単刀直入に言いますが、しばらく身の回りに気をつけてください」

「それはどういうことでしょうか?」


 疲れているのでとりあえず用件だけを先に告げれば、案の定、珍しくラッセルが眉を顰めた。


「そのままの意味です。近衛騎士ともなれば、あの人が欲しいものが何か知っているでしょう?」


 そう言えば、強張った顔をされた。

 それはつまり知っている、と言っているのと同じ。あえて口に出して良い言葉ではないから言わないだけで、沈黙は肯定と同じだ。

 夕刻に話した時も感じたけれど、たぶんラッセルは王宮を取り巻く人間関係よく見ているし、理解もしている。

 近衛ともなれば当然のことだとは思うけれど、王宮が見た目通りに綺麗な場所ではないことをちゃんと知っている。

 だからこそ、私が促した注意の意味もすぐに理解できたはず。

 エインズワース公爵から見れば、近衛騎士であるラッセルは王の間諜だと認識されている。だから排除される可能性がある。

 そう、簡単に考えつくはず。


(簡単に辞めてくれそうにないなら、ある程度は事情を晒した方がやりやすい)


 なぜエインズワース公爵の思惑を黙認しているのかと責められるだろうけれど、非常事態だ。仕方がない。

 じっと見つめれば、それまで険しい顔をして黙り込んでいたラッセルが口を開いた。


「そのようなことを、私に言うべきではありません。いまの言葉を私が陛下にお伝えすればどうなるのか、わかっていないわけではないでしょう。聞かなかったことにしますが、安易にそういうことを口にすべきではありません」


 初めて聞く厳しい口調で、怒られた。

 険しい表情のまま言われた言葉は、けれど私の予想していたものではなかった。全く予想外なことに、私の浅慮さを諫めるものだった。

 それに驚いて、何度か目を瞬かせてラッセルを見る。


(まさか、怒られるなんて)


 そんな言葉を私に言うということは。

 この人は私よりもずっと、私に付くことの面倒さを理解した上で任を受けてくれたのではないか。

 そんなことに、今更気づかされた。

 向けられる好意が、敬意が、嘘ではなかったのだと思い知らされる。


(ほんとに良い人なんだから……私には勿体なさすぎる)


 きっとこの人の唯一の欠点は、人を見る目がないことだと思う。

 おかげでこんな時なのに、ちょっと苦笑してしまった。少しだけ肩から力が抜けていく。

 すると、笑い事ではないというようにラッセルが「殿下」と咎める声音で私を呼んだ。


「確かに私の立場では言うべき言葉ではなかったと思います。ですがこのことは当然、陛下もおわかりになっていることでしょう」


 あえて口に出さないだけで、見ないフリをしているだけで、本当は誰もが皆わかっていることだ。

 ならばここでわからないフリをする茶番など、するだけ無駄というもの。

 ラッセルはそういう問題ではないと言わんばかりに苦虫を潰した様な顔をする。その気持ちもわかるけれど。

 でももしラッセルがこの話を王に告げたとしても、私は事前に王に「辺境に追いやってくれ」と言ってあるわけだから、エインズワース公爵の胸の内は確定しているも同然。

 体が弱くて役に立たないから遠ざけてくれなどというのは、所詮ただの建前。そんなことは王もわかりきっている。

 私が王に告げた言葉を直訳するならば、『私は王位なんていらない。エインズワース公爵の思惑に乗る気はない。でも私にはどうにもできないから、王の力で私を死なないレベルで排除してください』である。

 王とて王位争いによる内乱で国を乱したくないから、穏便に水面下でどうにか済ませるために騒ぎ立てることはないだろう。

 それは近衛騎士であるラッセルが私に付けられたことで証明されている。

 だからこの会話を知られたところで、今のところ問題にはされない。それぐらいは、私も多少は考えてから口にしている。


「それにここで何も言わずにいて、貴方をむざむざ危険に晒すことは出来ない」


 それに何より今は、それどころじゃない。人ひとり分の命が掛かっているのだから。


「あの人を私が止めることが出来ればいいのですが、残念ながら私にはそれだけの力はないのです。一応釘は刺したつもりですが、気をつけるに越したことはありません。極力一人にならないようにしてください」


 そう言えば、ラッセルは溜息を吐いてから困ったように眉根を寄せた。


「本当にアルフェンルート殿下は、いつだって人の事ばかり気になさるのですね」

「自分のせいで誰かが傷つくのが嫌なだけです」


 良い方に解釈してくれているけれど、生憎と私はそこまでいい人ではない。単にそこまで背負いきれないというだけ。

 ひとつ溜息を吐いて、窺うようにラッセルを見つめる。


「本当は今からでも遅くないので、辞退していただけると私としては助かるのですが」

「それはお受けできかねます」

「……後悔するのは、貴方だと思うのですが」

「自分が主人と決めた方は、アルフェンルート殿下だけです」


 しかしこの期に及んでもそう言われて、見た目にそぐわない頑固さだと呆れてしまう。


(本当は近い将来、辺境にやられるだろうことが決まっていることも言えればいいのだけど)


 いくらラッセルだって、左遷コースだとわかっていて私に仕えるとは言わないだろう。

 でもまだ確定しない状態で、そこまで口にするのは憚られた。

 それに、なぜ私がそこまでするのかと問われても返事に困る。ラッセルはやたら私を過大評価してくれているから、私が辺境にやられなくて済むよう、私自身は危険人物ではないのだと王に取り成されても困る。

 近衛の言葉なら、王も耳を傾けてしまうかもしれない。それで万が一にも王宮に残ることになったりしたら、とっても困る。

 おかげで決定打にならない言葉しか、言うことが出来ない。


「私は貴方が命を掛けてまで仕えるような人間ではないです」

「それを決めるのは殿下ではなく、私自身です」


 駄目押しで言ってみたものの、微笑んで流されてしまう。

 思った以上に意志が固くて、だけどそれぐらいでなければ近衛にまで登りつめることは出来ないか、と思い直した。

 この人もただ優しいだけの、見た目通りの人ではないのかもしれない。クライブもそうだけど、近衛騎士って苦手かもしれない。全然こっちの言うこと聞いてくれないもの。

 思わず口から細く長い嘆息が零れ落ちる。


「忠告はしました。辞退したくなったらいつでも言ってください。口添えぐらいはします」


 早いところ見限ってほしいと願うばかりだ。

 それだけ告げて、これ以上は平行線をたどりそうなので話は終わりだという代わりに立ち上がった。


「っ…!」

「アルフェンルート殿下!」


 けれど急激に立ち眩みに襲われ、真っ暗になった視界に慄いて再びソファに座り込む。

 驚いて駆け寄ろうとする気配を感じたけれど、「ちょっと立ち眩みがしただけです」と手で制す。


(これだけストレスが続けば、自律神経もやられるよね……)


 心の不調は体の不調も招く。まさに私がいい例だ。

 しばらくして目を開くと、さっきは真っ暗だった視界が戻っていたことに安堵する。今度は立ち眩みを起こさないよう、気をつけてゆっくり立ち上がった。

 ラッセルはそんな私を見て心配そうな顔をしていたけれど、「よくあることです」と軽く笑っておく。


「私はもう休みます。ラッセルも今日は下がってください」


 そう言いおくと、返事は待たずに居間にしている部屋から続く扉を開いて寝室へと入った。後ろ手に扉を閉めて、更に足を止めることなくそのまま突き進む。

 寝室に備え付けられている浴室の扉を開けてその中に入り、そこまできてようやく、体中の二酸化炭素を吐き出すように長く深い息を吐いた。


「ほんっとに疲れた……っ」


 弱音を吐くと体中から一緒に力も抜けていくのを感じる。扉に背を預けた状態でずるずるとその場に座り込んだ。


(……いまになって、手、震えてる)


 小さく震える自分の手を見て、思わず自嘲した笑みが零れ落ちる。


(あのひとに反抗したのなんて、初めて)


 なんとか穏便に済ませたかったけど、結果として反抗するような態度を取ることになってしまった。

 それに関してはどう転ぶかわからないとはいえ、今打てる手はあれしかなかったので仕方がない。

 そう自分に言い聞かせてはみるけれど、先を考えると不安しか湧いてこない。ここまで来たらなるようにしかならないとはいえ、ただの反抗期で済ませてくれるだろうか。


(セイン、返してもらえなかったらどうしよう)


 いやでも、それは大丈夫なはず。最低最悪を考えたときに、私と入れ替わらせたいのなら私の傍に置いておく方が都合がいい。だから害される心配もない。

 自分にそう言い聞かせて、最悪の事態から思考を引き剥がす。


(大丈夫。まだ大丈夫)


 繰り返し繰り返し、脳内で言い聞かせる。

 根拠なんてないけれど、そうでもしないと焦燥感で心が押し潰されそう。


(疲れてると碌なこと考えつかない。とりあえず今日はお風呂入って、眠って、明日考えよう)


 重い体を叱咤して、ゆっくりと立ち上がる。

 本当はこのままベッドに倒れ込みたいけど、入浴も着替えもせずに寝ているのをメリッサに見られでもしたら心配させてしまう。なにより、暑くなってきたので肌が汗でべたついているように感じて気持ち悪かった。

 ジレを脱ぎ、襟元のループタイを外して、脱いだシャツは脱衣カゴに入れる。全部脱いでから髪を解いて、猫足のバスタブに体を沈ませた。

 結構話し込んでいたせいか張られていたお湯は温くなっていたけれど、今日は嫌な汗ばかりかいたから心地いい。

 お湯につかったまま石鹸を滑らせて、ふんわりとした花の香りがすると心が解けていく。つられて無意識に固まっていた体のこわばりが解けるのも感じる。


(ラッセルは辞めてくれないし、セインも心配だし、明日はメリッサとメル爺にも説明しないといけないし、それから……あとはなんだっけ)


 考えることは山積みだけど、体を包むぬるま湯と甘い香りに頭がぼんやりとしていく。

 目を閉じれば視界は真っ暗闇に包まれる。暗闇は怖いはずなのに、眠る前の闇はどうしてこんなに心地いいのだろう。

 なんだかこのまま眠れてしまいそう。

 次に目を開けた時には、一人暮らしをしていた頃の狭い部屋の自分のベッドの上ならいいのに。

 「なんだ、ぜんぶ夢だったんだ」って、笑い飛ばせてしまえればいいのに。


「……っ!」


 ぼんやりとしていたせいで、気づけば浸かったまま眠ってしまっていたみたいだった。数分か、数秒か、それはわからない。息を吸い込んだ途端、急激に鼻と喉に入ってきた水に驚いて噎せ込む。

 しかし咳き込んだはずなのに声は出ず、ただ息がたくさんの泡になって水中を飛び出していく。


(くるし…っ)


 息が苦しくて、慌てて目を開けばそこはぐにゃぐにゃと揺れる視界がある。あと、目に水が入って痛い。

 待って、なんで水!?

 息を吸い込めば、水が肺の中に容赦なく入ってくる。


(うそっ、おぼれ……っ)


 自分の部屋の風呂で! 溺れるとか!

 足を伸ばしても余裕があるほど広いバスタブな上に、立ち上がろうにも体は重いし、お湯に溶けた石鹸で滑ってうまくいかない。焦っているせいで息をしてしまって、鼻にも口にも水が入ってくる。

 嘘。嘘。やめて。苦しい。


(ここで溺死なんて、冗談じゃない!)


 がむしゃらに手を動かして掴めたものは、バスタブ脇に置いてある目隠し代わり兼、タオルを掛けておくパーテーションの布地部分だった。

 藁にもすがる思いで掴み、それに縋って勢いよく水面に顔を突き出す。


「っごほっ!」


 ラタンと布で作られた2連のパーテーションなので安定性があるわけじゃない。勢いよく引っ張ったせいでバランスを崩し、布の避ける音とガランガランッとバスタブと床にぶち当たる派手な音を立てて倒れていく。

 壊れたかもしれないけど、今はそんなことを気にするより息をすることに必死だった。

 勢いよく空気を吸い込めば、肺や喉に入った水と衝突して余計に息苦しい。

 バスタブに縋りついたまま、何度も勢いよく咳き込む。酸素が欲しいのに、酸素を取り込むのが苦痛だ。

 でもとりあえず溺死は免れた。


(よかった……っ助かった!)


 しかし目と鼻の奥はツンと痛み、酸素が足りないのか耳の奥はキンキンと耳障りな音が鳴り響く。

 だから、気づくのに遅れた。


「殿下! どうされましたッ!」

「!」


 扉が開く音も、駆け込んでくる足音にも。

 寝室の扉から浴室まではそこまで離れていない。大人の男の足なら10歩も必要ないほどの距離。

 浴室の扉が勢いよく開かれ、飛び込んできた相手の声に全身が凍り付いた。制止の声を上げようにも、咳き込んでいるせいでうまく声にならない。


(なんで)


 一気に顔から血の気が引いていく。

 止まって。近寄らないで。どうしているの。なんでここに入ってくるの。


(下がれって言ったのに!)


 言いたい言葉はたくさんあるのに、全部言葉にならない。声にならない。口を開いて声を発しようとすると、咳き込む息が邪魔をする。

 バスタブに縋りついて咳き込んでいる私に溺れかけたことを察して、湯船から引き上げようとしたのか伸びてきた手が私の腕を掴む。

 だけどそんな余計なことはしてくれなくていい!


「……め、てっ」


 やめて。

 お願い。


(触らないで!)


 苦しい息の合間、擦れた声を喉から絞り出る。それでも制止には届かない。

 必死にバスタブに縋りついても、腕と背に回された大人の男の手に引き上げられれば、どうしたって引き剥がされる。

 隠しようが、ない。


「見ないでッ!」

「っ!」


 声を振り絞って叫んだ自分の声は、悲鳴になって浴室に反響した。

 けれど制止の声より早く私を見たラッセルの茶色の瞳が、驚愕に真ん丸く見開かれる。


「え、…………女、の子……?」


 呆然と擦れた声が口から零れ落ちるのを聞いて、足元が崩れ落ちていくように感じた。



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