43 だから違うそうじゃない
あれから約1週間近く経ったものの、未だに私の置かれている現状は何も変わっていなかったりする。
(先生が陛下だったとか、いまだに受け入れられられない……というか、信じたくない)
ここ数日、引き籠って考えていたことと言えば、それだ。
図書室に確認しに行きたいような、しかし万が一顔を合わせても何と言ったらいいのか。
だいたい今まで数か月に1度しか会えなかった人だ。会おうと思って遭遇できる確率は限りなく低く、かといって直に王に謁見を申し出るには敷居が高すぎる。
(だいたい会えたとしても、どうしろと)
直球で「先生は陛下なのですか?」とは当然聞けない。かといって、今までのようにも出来ない。気づいていないフリをする自信なんてない。
それに、クライブは陛下も私の味方だ的なことを言ったけど、生憎と私は王がそこまで甘い人だとは思っていない。
多分あの人は、私の『父』である前に、『王』であることを選んでいる。
(陛下だと黙っていたのは、きっと監視のため)
それは間違いない。そうでなければ、黙っている必要がない。
クライブが言うように、面白がっていた部分も多少はあると思う。だけど私が正体に気づかない方が、都合がいいとすら思っていたはずだ。
きっとこれまでずっと、会う度に注意深く見極められていたんじゃないだろうか。
そしてもしこれまでに一度でも私が兄に敵対するような言動をしていれば、今の私はここにいなかっただろうことは簡単に想像がつく。
そう考えただけで、ゾッと背筋が凍りつく。
(知らない内に死亡フラグ回避してたってことだよね……。っ怖すぎる!)
でも中庭で陛下と会った翌日に図書室でも会ったのは、もう正体はバレてもいいと、むしろバレるだろうと思って来たのではないだろうか。
(私が陛下に向かって、自分の意志を述べたから)
それでやっと陛下は、本当に私自身は兄の邪魔をする気はないのだと判断を下した。だからもう正体がバレてもいいと、そう思ったのではないだろうか。
……まぁ、全然気づけなかったわけだけれども。
でもまだ陛下からは、こちらに対しての行動は一つもない。沈黙を保たれている。
水面下では動いているのかもしれないけれど、私からは何も見えてこない。
メル爺が往診に来てくれたときに相談したけれど、ものすごく渋い顔をして「……今はまだ様子を見るしかありませんな」と言われた。
ただこうなる前に相談してほしかったと延々と説教されたけど、私としても計画してやったことでもないので、行き当たりばったりですみませんと謝ることしか出来ない。
現状、唯一の懸念は、聞かなかったことにされてないといいのだけど、ということだけだ。
長期戦だろうとは思っているけれど、時間を置けば置くほど、実は無視されているのではないかという不安が湧いて来る。
溜息が出そうになるのを朝食後のお茶で飲み下したところで、扉がノックされてセインが入ってきた。
「おはよう、セイン」
「おはよう。やっと出てきたか。頼まれてたもの出来たぞ」
実のところ、顔を合わせるのは久しぶりだ。
セインの物言いにメリッサが顔を顰めたけれど、笑いかけて宥めれば溜息を吐いてセインの分のお茶も用意してくれる。
ここ4日程、ちょっと早い生理に見舞われて寝室に引き籠っていた。
その数日前から頭痛と腹痛に見舞われていたので、自室自体からも出ていない。相変わらず生理不順と起き上がれないほどの生理痛には悩まされているけれど、体が弱いと言い張るためには今は都合良くもある。
「まさか、例のアレ?」
「そう。王都で美味しいアップルパイを作ってるパン屋リスト」
そう言いながら、セインが持ってきた地図を広げた。だけど、アップルパイ?
ちょっと待ってほしい。
王都の美味しいアップルパイを作ってるパン屋リストなど、いったい私はいつ頼んだというのか……。アップルパイは好きけど、そこまでさせるほど熱烈に大好きというわけでもない。
「に、見せかけたアルが指定した条件のパン屋。万一、誰かに見られても大丈夫なようにそう偽装してある」
首を傾げていたところにそう続けられて、そういうことか、と目を瞬かせた。
「丸を打ってあるところがパン屋で、二重丸のところが条件に当てはまってる店だ。三角は募集はしていたけどアルが言った条件じゃない。バツは条件には当てはまってるけど、アップルパイは不味い」
「全部の店の食べたの?」
「偽装する以上、信憑性のないものは作れないだろ。当分アップルパイは見たくない」
セインが僅かに眉を顰めて言い切った。
地図を見れば王都には結構な数のパン屋があるようなので、相当無理して食べ歩いてくれたように思う。
わざわざ言わずともそこまで気を遣ってくれる、痒い所に手が届くような仕事っぷりに目を瞠る。
思えばセインは、スラム上がりなのに僅か1年程の教育で私の元に寄越しても問題がないと判定された人だ。
セインの母親は高級娼婦だったというから、貴族を手玉にとれるほどの教養や知性を兼ね備えていたのだろう。だからこそ、セインがどこででも生きていけるように下地を整えていたのだろうと予想は付くけど、それにしても驚異の学習速度と言える。
攻略キャラではなかったけれど、さすが乙女ゲームの世界の住人というべきか。勿論、当人の努力の成果なのはわかっているけれど、周りがハイスペックすぎて自分の無力さに打ちひしがれそうな今日この頃。
つくづく私の侍従なんかにしておくのが勿体ないと、感嘆の息が漏れる。
「ありがとう、セイン。すごく助かる」
「言っておくが求人なんてすぐ変動するからな。だいたいこれぐらいある、っていう参考程度だ。あと、ああ見えて重労働だからアルに出来るとは思えない」
「やってみないとわからないよ」
「自分の体力のなさを甘く見るなよ。だから、念の為にこっちは服飾関係」
私の反論に対して淡々とそう切り返し、セインがもう一つ地図を取り出して広げた。
「裁縫も出来るとは信じられないけど、パン屋みたいに店先に立たない分、見つかる可能性はかなり狭まる。こっちの方が慢性的に募集してるみたいだった。これは偽造しようがなかったから、頭に入れたら燃やせ」
「何からなにまでありがとう」
受け取ったそれに目を通し、パン屋の記載してある地図と比較してだいたいの位置は把握した。
実際に自分の足で行くと迷う可能性はあるけれど、紙に記されていて、興味があることならほぼ覚えられる。
その間にメリッサがセインにお茶を差し出す。視界の端では、お茶を飲んだセインが渋い顔をしていたから、かなり苦いお茶を淹れられたのではないだろうか。
相変わらず仲が悪いけど、でもこういうことが出来てしまう関係はむしろ仲がいいと言えるのかもしれない……と、思うしかない。
「うん。覚えた。ありがとう。メリッサ、燃やしておいて」
「承りました」
お湯を沸かす用のアルコールランプで、メリッサはすぐに紙を燃やしてしまう。これで証拠隠滅は完了だ。
調べてもらったことが役に立つ日が来る確率は限りなく低いとはいえ、備えがあるだけでほんの少し安堵する。
肩から力を抜いたところで、それを待っていたようにセインが「それと一つ聞きたいことがある」と声を掛けてきた。
首を傾げて何かと促せば、少し怒った顔をしているように見えて困惑する。
「アル、俺が街に降りてた間に何をした?」
しかし突拍子もないことを聞かれて、目を瞬かせた。何をした、とは……?
「寝込む前は、裁縫かな」
メリッサにお願いして裁縫道具を貸してもらい、自分の分と兄に贈るアイピローを作っていた。
裁縫と言えないレベルの簡単なものとはいえ、寝室で作っていたけれどやはりよくなかっただろうかと顔を強張らせる。
「ほんとに裁縫するのか……いや、それはどうでもいい。医務室でとんでもないことしてくれただろ」
「ああ、そのことか。暑さにやられて倒れた人の介抱はしたよ」
「それ以外は?」
「……ちょっと腹立たしい上官に無茶を言われて殺されそうになってる人がいたから、保護したけど」
でも、それってそんなにとんでもないことだった? 人として当然の対応では? さすがにいくらなんでも、助ける力があるのに見殺しには出来ない。
小首を傾げてから頷けば、セインがこめかみを押さえて「それか」と呻くように口にする。
えっ。なに!? そんなにまずかった!?
「大事にしないでほしいとは言っておいたはずだけど……」
そういえば、彼はどうなったのだろう。
一応あの後、頼んでいた通りに即日兄からは正式な任命書類が届いていた。
それを確認してサインをして、一緒に作ったアイピローと家令への令状も添えて返したけれど、それで終わったと思って忘れていた。
陛下のことを考えるのに忙しくて、それどころではなかったというのもある。
でも彼もそろそろ回復した頃かもしれない。あれから行けていなかったけど、今日の午後にでも様子を見に行ってもいい。
(回復していたら、正しい部署に戻してもらわないと……でも昇進するって言ってたから、私のところから直にそっちに回した方がいいのかな)
あの腹立たしい上官の元には絶対に返したくない。既に降格させられている気もするけど、生憎とこの国の貴族のコネというのはなかなか馬鹿に出来ないものがある。
彼が間違いなく安全な場所に配置されたことを確認するまでが、私の責務だ。
「衛兵の間では、アルが理不尽な仕打ちをする上官を降格させて、身を呈して仲間を守ってくれたっていう噂が流れてる。英雄扱いだ」
呑気にそんなことを考えていた私の耳に思ってもみなかった言葉が届き、ぎょっと目を剥いて息を呑む。
英雄!?
「どうしてそんな……それにあの件は口止めしたはずだけど」
少なくともあの場にいたクライブと、寝込んでいた彼には。そして当然、兄の家令がそんなこと言いふらすわけもない。
だいたい身を呈した覚えはない。結果的にそうなりかけたというだけで、でもあれは煽るような形になった私も多少は悪いわけで、噂に尾ひれどころか背びれと胸びれまで付いている。
(いったい誰があの時のことを……他に見てた人がいる?)
いや、そういえば、大事にするなと言ったのは、一緒に介抱してくれた衛兵が立ち去った後だった気がする。
それと、説明者に説明してきてほしいと頼んだ衛兵も、もしかしたらあの上官に説明する時に私の名前を出したとすると、その時点で広がっている可能性もなきにしもあらず。
「今までの苦労が水の泡だぞ」
「あのまま連れていかれたら死ぬかもしれなかったわけだから、それを見殺しには出来ないでしょうっ?」
セインが冷めきった目を向けてくるけれど、こっちも予想外のことに目を白黒させる。
でもたとえ時間が巻き戻ったとしても、私は同じことをする。見殺しにして、後悔はしたくない。
だけど更に時間が戻るなら、もっと先に誰にも言うなと口止めしておくべきだった。しかしまさか、そんな話を人にされるなんて考えてもいなかった。
私の中では完全にあれはあれで終わった話になっていたから、噂になっていると聞かされても絶句しか出来ない。
人の噂も七十五日というけれど、それって2か月半もあるってことでしょう。長すぎる!
「やってしまったものは仕方ないから、しばらく大人しくするしかないな。もしくは噂を覆すぐらい傍若無人な振る舞いをするかだな」
「……努力はする」
自分で自分の首を絞める真似をしてしまうなんて。
私は、下手に誰かに庇われるような人間になってはいけないのだ。たとえば辺境に飛ばされても、いなくなってせいせいしたと思われるレベルでなければいけない。
まかり間違っても、「アルフェンルート殿下をこのまま城に置いてください」などという嘆願書が出されるような人徳者になってはいけないのだ。絶対に!
人ひとり庇った程度でそこまで人徳者な扱いはされないだろうけど、危険要素は極力排除していきたい。
思えば、病人を庇ったのもかなりの危険ゾーンと言える。やってしまった、と思うけど、でもあれはさすがに仕方がない。
(あれは死ぬ人が出なくてよかった、と思うしかない)
細く長く嘆息を吐いて、苦い気持ちを温くなってしまったお茶で喉の奥へと流し込む。
そのとき、部屋の扉をノックする音が響いた。
セインとメリッサは既に部屋にいるので、こんな朝食直後から尋ねてくる人は思いつかない。何か届け物かと首を傾げると、メリッサが心得たように扉に向かう。
そして扉を開き、扉の向こうにいる人物と数回言葉を交わすと、なぜか困惑した顔で書類を手に戻ってきた。
「どうかした?」
「それが……アルフェンルート様の騎士だと仰る方が、お見えになられたのですが」
そう言って差し出された書類を受け取り、意味がわからなくて首を傾げる。
私の騎士といえば、エインズワース公爵の息が掛かっているとはいえ、この部屋の周りに配置されている人はみんな私の騎士になるわけだけど。
わざわざそう言う意味がわからない。
(あえてそうやって言うとしたら、メル爺ぐらいだけど)
私に剣を捧げてくれた、私の騎士。
でもメル爺ならわざわざ扉の前で待ったりはしない。いつものように入ってくるだろうから、そうではない。
書類に目を通し、それが先日自分がサインした書類だったことを思い出す。兄に作ってもらった、例の倒れた衛兵の正式な任命書。
それを持ってきたということは、つまり。
「ああ、わかった」
「お通ししてもよろしいですか?」
「うん」
あの倒れた彼が、体調が回復したからわざわざ挨拶に来てくれたのかもしれない。
あの時は便宜上、私の騎士にすると言ってしまったから、確かに私の騎士で間違いない人だ。一応、現時点では。
そう安易に構えていた私の前に現れた人は、確かにあの時見た病人と同じ顔だった。それに安堵する間もなく、その身を包んでいる制服の色を見て言葉を失くす。
(黒? なんで。この人って、紺色の制服じゃなかった?)
紺だったはずだ。さすがに真昼間に黒と紺を見間違えたりしない。紺ならば、城を守る内兵のはず。
それが今は黒い制服に身を包んでいる。
(ラインが、3本……)
襟や袖口の3本ラインは、現在は王妃か私、そのどちらかに仕える者だけのはず。
黒い制服。ラインが3本。
それを身にまとった人間が何者かなど、考えたくなくても思い至る。
理解すると同時に顔から血の気が引いていく。私だけでなく、セインも顔を強張らせ、メリッサも硬い表情をしている。
私と2m程の距離を置いて、その人が躊躇いもなく床に片膝を着いた。柔らかそうな三つ編みを横に流したミルクティーベージュの頭を垂れる。
正しく礼を受け、動揺が衝撃に変わる。
「アルフェンルート殿下直々に騎士に任じられながら、ご挨拶が遅くなり、私の不徳の致すところです。心よりお詫び申し上げます」
こちらの動揺を他所に、目の前の人に柔らかい声音で丁寧に謝罪をされて、慄きながら言葉もなく見守ることしか出来ない。
「本日よりアルフェンルート殿下の近衛を拝命致しました。ラッセル・グレイと申します」
「……私の近衛、ですか? 衛兵では、なく」
近衛騎士ということは、陛下直轄。
呆然と零れる声が、自分の声には聞こえない。どこか遠くから聞こえるようで、けれど相手の耳にはちゃんと届いていたらしい。
顔を上げ、下がり気味の茶色の瞳が私を見上げて優しげに細める。柔和な顔立ちを更に優しげに微笑ませて、その人は頷いた。
「はい。必ずや、この身を掛けてお守りすることを誓います。よろしくお願い致します、アルフェンルート殿下」
迷いも見せずに告げられて、目の前が真っ暗になりそうだった。
(だ、……っ誰もそんなこと望んでないんですけど!?)




