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42 経験値って大事


 しばらくそのままで時間だけが過ぎた。どう処理したらいいのかわからない感情に飲み込まれていたけれど、頭は徐々に冷静さを取り戻す。

 そして冷静になれば当然、自分が置かれている状況にじわじわと焦りが滲んできた。


(これ、抱きしめる必要あった……?)


 私の顔はクライブの肩口に埋まったまま。顔を上げるタイミングが掴めない。

 涙ぐんでしまったから、それを誤魔化すためにこうしてくれたんだろう。やっぱりクライブは私に対して距離が近すぎると思う。ただ今回に限っては、駄々を捏ねて泣いた弟を宥める兄的なつもりだったとは思うのだけど……たぶん。


(兄様の乳兄弟なわけだから、私も弟みたいなものになるのかもしれない)


 ……弟にキスするかどうかは、ともかくとして。それは考えないことにして。

 椅子に座ったままだから一応距離はある。けれど宥めるために背中に回された掌の感触が、今更ながらにリアルに感じられて焦る。

 顔を上げて「取り乱してすいません」と言えばいいだけだ。けどここで顔を上げたら、すっごく顔が近いことになる。


(思い出してはいけないことを思い出してしまいそう)


 お互いに。それはちょっとどころでなく困る……!

 そう思ったところで、唐突に背後からガンガンッとガラス戸が割られんばかりに叩かれる音が響き渡った。

 音に驚いて、ビクリと体が跳ねさせて振り返る。同時にクライブも立ち上がった。


「スラットリー老! 急患ですッ!」

「!」


 紺の制服を着た衛兵が二人がかりで肩を貸し、ぐったりと力をなくしている人を運び込んできた。

 勢いよく立ち上がり、けれど今日に限ってメル爺が不在である。顔から血の気が引いていく。


「怪我ですか!」


 動顛して固まった私に反して、クライブが険しい顔で鋭い声を掛けた。


「いえ、訓練中に倒れましたっ。元々こいつは朝から体調が悪そうではあったのですが、ここ数日ずっと扱かれていて……今日も朝からずっと、俺らが言ってもやめてもらえなくて」


 連れてきた衛兵の一人が言い辛そうに、苦い顔をして答える。


「朝からですか? まさかずっとこの炎天下にいたというのですか!?」


 怪我じゃないと聞いて一瞬安堵したものの、説明された言葉が信じられなくて反射的に聞き返してしまった。


「アルフェンルート殿下!? は、はい。そうです。そうなります。あの、スラットリー老は……」

「スラットリー老は急患で不在なのです」


 私がいたことに衛兵は驚いたものの、すぐに不在という返答に途方に暮れた顔をする。

 ひとまず運び込まれた衛兵はベッドに横たえられた。赤い顔をして息を荒げている。何ができるわけではないけれど、咄嗟に駆け寄って顔を覗き込んだ。


「殿下! 伝染病だったらいけません!」

「意識はありますか。持病はありますか? つい最近、熱を出した方の近くにいたりしましたか」

「……だい、じょうぶ、です。持病も、ありません。ねつをだしたひととも、とくには」


 駆け寄った私を引き留めようとクライブに腕を掴まれかけたけれど、振り切って声を投げかける。幸い、本人から途絶え途絶えではあるが返事は寄越された。

 まだまともに返答があったことに僅かに安堵する。


(だけどこれってまずいんじゃ……)


 吹き出る汗と、顔の火照り。脱力している体に力を入れて無理に起き上がろうとするので、肩を押さえてベッドに押し付ける。


「クライブ、メル爺以外に医師はいますか?」

「シークヴァルド殿下の家令に、医術の心得がありますが……」

「ならば急いで呼んできてください。兄様に無理をお願いしたことは後で私から謝罪します」

「ですが」

「お願いです! 私では対処できません。ここで私が出来ることは、合ってるかどうかもわからない応急処置だけです!」


 本来、皇太子宮にいる人間は兄の私兵扱いだ。勝手に頼って使うなど、許されることではない。だけど非常事態である。ここでこんな状態の騎士を見捨てろと言うほど、兄も非情ではないはず。

 訴える眼差しで見上げる。クライブは厳しい顔はしたものの、「承知しました」と頷いた。颯爽と踵を返して、ガラス戸から駆け出していく。

 それを確認する間もなく、オロオロとしているだけの衛兵に「その人の服を緩めてください」と命じた。言われるままに衣服を脱がしている間に水場に飛びつく。水差しに水を注いで、急いで戻った。

 

「飲めますか?」


 頷かれたので、口元に水差しを持っていって流し込んだ。勢いよく、ごくりごくりと喉が嚥下される。まだ自分で水分を摂取できることに安堵する。

 でも水差しを支える手が震えているのを見て、顔が強張った。


「めまいや頭痛、吐き気はありますか」

「……頭痛と、少し体がだるい、だけ、です」


 どう見ても、少し体がだるい程度ではない。こういう症状、見たことがある。私自身にも覚えがある。

 今の私ではなくて、昔の私だけど。

 思い至ると同時に、介添えで来ていた衛兵の一人に視線を向けた。


「厨房に行って、水と氷と塩、それから砂糖も持ってきてください」

「えっ、水と氷、ですか」

「それと塩と砂糖です。誰かに訊かれたら、私に命じられたと言いなさい。大至急!」


 声を荒げて命じれば、弾かれたように一人が飛び出していく。 

 もう一人にはタオルを水で濡らすように言って、受け取ったそれで首元や脇を拭って冷やした。手持ち無沙汰になった衛兵には、その辺に置いてあった、うちわ代わりになりそうな本で風を送ってもらう。


(これって熱中症……で、合ってる?)


 思い出すのはオタクの聖地である、夏の祭典。炎天下に長蛇の列で、みっちりと埋まった人の中、日傘も差せず、ただひたすらに列が動くまで待つ間の地獄。そこで気分を悪くして離脱せねばならなかった時の己の姿と重なる。

 どれほど事前に体調を整えたりして備えていても、限界はある。鍛えてどうにかなる問題じゃない。


(だとしたら、まずい)


 自分も救護室に運ばれた時はベッドから起き上がれなくて「死ぬかも」と思った。

 倦怠感と熱と頭痛。気持ち悪さに加えて、止まらない手の震え。スポーツ飲料をどれだけ飲んでも全然尿意を感じなくて、考えていた以上に水分が足りてなかったことにかなり焦った。

 ただ今回は自分ではなく、しかも完全に素人目線なので、熱中症か日射病か熱射病か正しくはわからない。実は全然違う病気かもしれない。

 だけど最低限、今考えられる処置ぐらいはしておくしかない。

 実際に彼は熱を出して水分を欲しているので、この対処法は間違ってないはず。

 じりじりと待つ間、最初に戻ってきたのは厨房に向かわせた衛兵だった。

 全力疾走してきたのか、汗だくで差し出されたそれにお礼を言って受け取る。水の中に塩と砂糖を一つまみ入れてかき混ぜてから、もう一度飲ませた。簡易のスポーツ飲料だけど、こうすればただの水よりは吸収が速い。手っ取り早く失われた水分、塩分、エネルギーも補給できたはず。

 あとは受け取った氷を氷嚢に入れ、脇の下と股の間に挟ませた。これで体に流れる血液を冷やしてくれる。

 この辺の対処は、自分が熱を出した時と同じだ。だてに何度も寝込んではいない。


「もうしわけありません……こんなことを、殿下に」

「いいから、貴方はおとなしく寝ていてください。すぐに医師がきてくれるはずなので、もうしばらくの辛抱です」


 心底申し訳なさそうに眉尻を下げて謝る衛兵に宥める声を掛け、密かに息を吐き出す。

 ここまですれば、もう自分に出来る処置はない。

 顔を巡らせて、先程頼んだものを持ってきてくれた衛兵に視線を向ける。


「貴方は戻って、責任者に説明してきてもらえますか。もし他にも体調が悪そうな方がいれば連れてきてください」

「は! 承りました」


 衛兵の背を見送ってから、ぬるくなった濡れタオルを取り替える。ベッドに横たわる人の表情は最初に比べて落ち着いてきた。とりあえず、さっきよりは安心できそう。


「いったい誰がこんな無茶をさせたのですか。責任者は何を考えているのです」


 思わず疑問が口から零れる。

 昨日は雨が降っていたが、今日は肌が痛くなるほど日差しが強くなっている。本格的な夏の先ぶれを告げるように空は晴れ渡っていて、雲一つない。

 おかげで今朝からずっと蒸される暑さがまとわりついていた。

 急激な気温の変化と湿度がもたらす不快さは、健常な人間であっても体力を奪う。ただでさえ疲労していた状態で、しかも朝からこの太陽の下でずっと扱かれていたとなれば、どんな体力がある者でも倒れるに決まっている。

 だが、この国はここまで強いるほどブラック企業じゃなかったはずだ。あのクライブだって、適度に休憩や休暇を取っている。

 それに社畜だった頃の自分から見れば、全般的に仕事は緩い。多忙な者も勿論いるけれど、衛兵や侍女は見ている限りそこまで忙しくしていない。

 それがどうして、こんな状態になるまで……


「実は……この者はもうすぐ昇進することになっておりまして。どうもそれを妬まれて、このところずっと班長に無茶を強いられていたのです」


 半ば独り言のつもりで呟いたので、介添えに残った衛兵に躊躇いがちに教えられて目を瞠った。


「そんなことをする者がいるのですか」

「残念ながらいるのです……」


 申し訳なさそうな顔で言われて、呆然としてしまう。いつの時代もそういう人間っているものなんだな。呆れて言葉もない。

 確かに、自分より下だと思っていた者が自分を飛び越えて昇進したら、面白くない気持ちもあるだろう。でもそれはその人にそうなるだけの力があったからで、才能も少なからずあるだろうけど、努力だって当然していたと思う。

 それらを認められず、ただ妬んで苛める真似をするなんて。そういう人間性だから周りに認められないのだと、なぜわからないのか。馬鹿なの?

 

(馬鹿なんだろうな……そんな人を班長にした人の顔が見てみたい)


 ただこの国は人事にコネや権力が絡んでくるから、その馬鹿はどこぞの貴族のお坊ちゃまなのかもしれない。だとしたら手に負えない。あまりお近づきにはなりたくない人間だ。

 そう考えたところで、広場側のガラス戸がノックされる音が響いた。クライブが医師を連れて戻ってきたのかと期待して顔を向ける。

 しかしそこに立っていたのは、紺の制服に身を包んだ見たことのない衛兵だった。急患には見えない。


(誰?)


 その男はベッド脇の椅子に腰を下ろしていた私の姿を認めるなり、顔をわざとらしく笑ませる。


「これはこれはアルフェンルート殿下、ご機嫌麗しく。私の部下がお手を煩わせてしまい、誠に申し訳ありません」

「……」


 医務室に踏み入りながら気安く声を掛けられた。思わず顔を顰めそうになるのを抑え、冷めた視線を送る。

 たぶんこれが、その例の班長ってやつに違いない。先程私が送った衛兵の伝言を聞いてやってきたのだろう。


(すごく苦手なタイプだ)


 関わりたくないと思った傍から、これだ。思わず舌打ちしたくなる。行儀が悪いからしないけど。

 思っていたよりずっと若くて清潔感もあるし、金髪に青い目をしていて、甘ったるい顔立ちはむしろ女性受けしそう。

 ただ、態度が最悪。私が王族とわかっていながらも、子供だからか下に見ていると感じる。鼻に突く態度と視線を見るからに、それなりの位置にいて、もてはやされてきた貴族の子弟なんだろうと感じられた。

 だいたい私は、私に話しかける許可も出していない。

 下位の者が高位の者に話しかけるなんて、親しいわけではないので相当な無礼に当たる。それなのにこの態度。相当舐められているとわかる。


「まったくこの程度で倒れるなど、軟弱で使えたものではありません。殿下からもぜひ、そう言っていただきたい」


 それでいて、こちらにすり寄ろうとしてくる甘ったるく媚びる声。視線と声が噛み合っていなくて、見ているだけで気持ち悪い。


(こういうの、すごく嫌い)


 黙ったままの私が人見知りをしていると思ったのか、媚びるように笑う。それからベッドで顔を強張らせている衛兵へと、わざとらしく冷たい視線が向けられた。


「殿下のお手を煩わせるなど恥を知れ。この程度で休むなど許されない。今すぐ戻ることだ」


 やたら厳しい顔を作って、そんなことを口にする。

 それには呆れるのを通り越して怒りが湧いた。

 こういう人、本当に嫌い。それならおまえはこの炎天下で、朝からずっと休みなく鍛錬できるのか?って言いたくなる。ゴリラでもそんなこと出来ないから!


「恥を知るのは貴方の方です。見るからに立ち上がることも出来ない者にこれ以上の無理を強いるなど、人としての心はないのですか」


 自分でも驚くほど冷たい声が出た。

 椅子に座ったまま見据えれば、まさか私にそんなことを言われるとは思いもしなかったのか驚いた顔をした。けれどすぐに、ひくりと頬を引き攣らせたものの笑顔を取り繕う。


「殿下、大人というのは出来ないで済まされないのです。まだ子供で、とても弱くていらっしゃる殿下にはわからないかもしれませんが」


 明らかに嫌味を混ぜられて、さすがに顔が強張った。ベッド越しの向かいに立っていた衛兵も絶句している。


(いっそすごいわ、このバ……馬鹿!)


 馬鹿、とは言いたくなかったけど馬鹿としか言いようがなかった。

 いくら私が子供だろうと、成人すれば王族として上に立つ立場になるというのに。そんなことすら考えつかないほど愚かなの? 確かに近い将来、私はここにいない予定ではいるけど、それにしたって看過できる態度ではない。

 もしかしたら第一皇子派なのかもしれない。だが兄だって、こんな人が下にいるとしたら心底迷惑だろう。私だったら、絶対いらない。

 

「そんな怖い顔をなさらないでください。これもすべて、この軟弱者が悪いのです。今すぐ御身の前から排除いたしますので、ご辛抱ください」


 近づいてこようとする相手を制するために、咄嗟に椅子から立ち上がった。


「離れなさい。連れていくのは私が許しません」

「殿下! わたしは、もう大丈夫ですから……!」

「貴方は黙っていてください」


 私と目の前の男との問答に耐え切れなかったのか、病人が起き上がろうとしたので鋭い声で制す。そんな私に対して、目の前の男は不遜に笑う。


「殿下、我儘を仰らないでください。この者はいま、私が預かっているのです。この者の責任の所在は私にあります」

「ならばこの方が倒れたことは、貴方の監督不行き届きということになります」


 纏めるべき長としての能力が欠如していることに他ならない。

 それなのに自分の愚かさを棚上げして、もっともらしいことを言って説き伏せようとする。その態度には腸が煮えくり返るのを感じる。

 前の職場にもいたな、こういうタイプ。忘れていたかったけど、思い出しただけで怒りが湧いてくる。実力も伴っていないくせにやけに自信だけが過剰で、常に上から目線だった人。

 問題を起こす度、何度尻拭いをさせられたことか……こういう人は、生理的に受け付けない。


「貴方には、任せられない。この者は私が預かります。下がりなさい」


 気づいた時には、睨みつけて口からは咎める声が発せられていた。

 持っている権力を、こういう時に使わないでいつ使うの。

 目の前の人に縁なんてないけれど、だからといってこの状態で見過ごすことなんてできない。このまま連れて行かせたら、本当に死なせてしまう。それだけはなにがなんでも、阻止しなければならない。

 死ぬのは、本当に怖いのだから。


「また御冗談を! 殿下は何もわかっておられな……」

「私は今この時を持って、この者をウィンザー王が第二子、アルフェンルートの騎士にすると言ったのです。下がりなさい!」


 耳障りな言葉を遮り、はっきりと言い放った。

 するとそれまでなんとか笑顔を取り繕っていた相手の顔がひくりと引き攣った。眦が吊り上げる。険しくなった顔と据わった目には怒りが滲み出して、その豹変っぷりに体が強張った。


(しまった……っ)


 言い過ぎた? やりすぎた!?

 でも口から出てしまった言葉は取り消せないし、言った言葉自体に後悔もない。今の自分に出来る最善手だったと、そう思う。

 思うけれど、逆上されることまでは想定外だった。


「この……っ」


 掴みかかろうと伸びてきた手に息が止まった。逃げなければと思うのに、こういうとき体は動いてくれない。

 咄嗟に胸ポケットに手を押し当てたものの、目当ての物を布越しに握っただけで取り出す余裕なんてない。反射的にぎゅっと目を閉じて、体を強張らせた。


「!」


 衝撃は、だけど想像していた前からはなかった。

 代わりに背後から服を掴まれて、強引に後ろに引っ張られる感覚。ベッドに尻餅をついた衝撃だけを体に受ける。


「ヒ……ッ!」


 その間に人が動いて出来た風が頬を撫でた。誰かが悲鳴を詰まらせて息を呑む声が聞こえる。


(……へ?)


 なに? 何が起こった!?

 少なくとも、掴みかかられなかったし、殴られてもいない。ただ強引に後ろから服を引かれたからシャツの襟が詰まって喉が苦しくて、勢いよく尻餅をついたお尻がちょっと痛むだけ。

 閉じていた目を恐る恐る開く。目の前には、三方から剣を突き付けられて顔を引き攣らせている男がいた。

 そう、三方から。


「何もわかってないのは貴殿だ。立場を弁えろ」

「……っ」


 そう厳しい声で言って、後ろから今にも首を払わんばかりに剣を突き付けているのは。

 一体全体いつ来たのか、クライブ。

 そしてベッド越しではあったけど、一緒に介添えしていてくれた衛兵も横から剣を向けてくれていた。

 そして正面からまっすぐに相手の喉元へ剣の切っ先を突き付けていたのは、起き上がれないぐらい弱っていたはずのもう一人の衛兵。

 どうやらこんな状態だというのに半身を起こして、更にベッドに立てかけてあった剣を手にして、かつ咄嗟に私を後ろに引っ張って庇ってくれたのも彼だ。


(お、おお……さすが、騎士)


 日々鍛錬していることは見て知っていたけれど、こうして改めて守られる事態になってようやくその凄さを思い知る。

 それに引き換え、私ときたら。心臓はバクバクと早鐘を打っていて、目の前の光景をただ呆然と見ていることしか出来ない。


「申し訳ありません。遅くなりました」

「い、いえ……ありがとう。助かりました。二人も、ありがとう。感謝します」


 私を見て謝罪を口にするクライブを慄きながら見上げて、脇に控えていた衛兵と、体が辛いはずなのに守ってくれた衛兵にもお礼を口にする。


「処分は追って伝える。連れていけ」

「は!」


 クライブに視線を向けられた衛兵が頷く。剣を収めて目の前の暴漢を後ろ手に捩じりあげると、早々に部屋から退出していった。さすがに近衛であるクライブに見咎められてしまえば、言い逃れは出来ないだろう。

 やっと姿が消えたことに、安堵にほっと息を吐き出す。

 けれど、ここでそのままお任せするわけにもいかなかった。


「言い過ぎた私も悪いので、あまり大事にはしないでください」

「殿下に暴挙を働こうとした者を庇う必要などありません」


 クライブが怖い顔をして言うけれど、しかし好きで庇っているわけではない。


「逆恨みで何かをされても困るのです」


 そう告げて、まだ半身を起こしたままだった衛兵を見る。

 私には守ってくれる人がいるけれど、この人はそういうわけにはいかない。結果として巻き込んでしまったわけだから、私には彼を守る責がある。

 そう言いたいのが伝わったのか、クライブは諦めたように嘆息して「わかりました」と了承してくれた。せいぜい再教育ぐらいで手を打ってほしい。


「それにしても少し目を離しただけで、どうしてあんなことになるのですか」

「私も好きでああなったわけではありません……」


 クライブが私を見て、心底苦い顔をした。ちょっと怒って見えて、条件反射で体が強張る。 

 けれどクライブの向こうに以前に会ったことがある兄の家令の姿を発見して、それどころじゃなかったと目を瞬かせた。慌ててベッドから立ち上がり、場所を譲る。


「無理を言って申し訳ありませんでした。手を貸してください」

「いいえ、大丈夫ですよ。シークヴァルド殿下もきっと同じようになさったことでしょう」


 急に連れてこられた兄の家令だが、優しく微笑んでくれた。その笑み一つで冷たい印象が和らぐ。おかげで無意識に張っていた肩から力が抜けた。

 一応自分が処置した内容を知らせれば、どうやらあれで問題なかったようで一安心。あとは彼に任せて、邪魔にならない場所まで身を引いて見守る。

 けれど、そのすぐ隣をクライブに陣取られた。

 クライブがいる側からピリピリした空気が感じられる。非常に落ち着けない。


「……ごめんなさい」

「それは何に対して謝ってるのですか。謝るようなことをなさったのですか」


 淡々と言われて、ものすごく居た堪れない。けれど思い返してみれば、謝ることはなかった。悪いことをしたとは思っていない。

 悪いのは、逆上したあの人だけだ。


「してない、と思います。あの時はああするしか思いつきませんでした」

「そうですね。強いて改善点を上げるとすれば、もう少し速く、それを取り出せるといいとは思います」


 そう言われて、クライブが私の胸元に視線をやる。

 けして胸のサイズを確認されているわけではなく、胸ポケットに収納していた護身用にとクライブに貰ったペンを見ていた。さっき咄嗟に握ったものの、取り出すには至らなかったそれ。


「……頑張ります」

「でも思い出してもらえただけ、よかったです」


 そう言って、クライブがやっと表情を緩めて微笑んだ。


(そういう顔されるの、ほんとにどうかと思うのだけど……っ)


 落ち着かない。胸がざわざわする。どんな顔をしたらいいか、わからなくなる。

 だからわざと話題を変えた。


「そういえば大口を叩いた手前、恥ずかしいのですが」

「はい?」

「私に人事権はありません。兄様のお手を煩わせて申し訳ないのですが、少しだけあの方を私の騎士ということにしていただく処理をお願いしたいのです」


 そう言ってクライブを見上げる。するとクライブがなんとも不思議なものを見る目で私を見ていた。


「アルト様は王族なわけですから、口頭でも十分だと思います。僕も聞いていましたから」

「王族だからと言って、正規の手続きを踏まずに押し通すのはよろしくないと思うのです。それが当たり前になってしまっても困ります」


 それに昇進する予定だと言っていたから、私が下手に介入したことで捩れてしまっても困る。少なくとも兄に伝えてさえおけば、いいように取り計らってくれるはず。

 ここでも人任せにしか出来ない自分の不甲斐なさに落ち込むけど、こればかりはどうしようもない。


「真面目ですね」

「真面目とかではなく、当然のことでしょう。体調が戻るまででいいので、1週間程だとは思うのですが……お願いします」


 王族だからこそ、私が規律を破っては示しがつかない。

 顔を顰めて言えば、クライブはなぜか小さく笑った。


「アルト様は結構頑固なところがありますよね。曲げないというか」

「頑固とか、そういう話ではないと思うのですが」

「僕は、貴方のそういうところが好きです」

「……っ」


 不意打ちで言われた言葉に、思わず息を詰まらせた。耳が熱くなるのがわかる。


(好……っいやいやいや、他意はないから! 尊敬してる的な意味だと思うから!)


 ほんとにこの人は、こういうことを平気で言うから扱いに困るんです……!



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