表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

43/138

幕間 つける薬なし

※クライブ視点


 自分の中に生まれていた感情はとりあえず気づかなかったことにして、気を取り直して「他にどこか行きたいところはありますか?」と口にした。

 今は彼の護衛に徹することが、自分の仕事だ。

 考えるのは後回しでいい。

 この時点で応急処置程度でも自分に向き合って律しておけば、あんな真似はしなかったかもしれない。

 しかし後回しにした結果、あんなことになるなんて、この時は思わずに。



   *


 アルト様は少し考え込んだ後、ほっそりとした長い指で街の中に聳え立つ高い塔を指し示した。


「あそこに登れますか?」


 朝や夕刻、慶弔や有事を知らせる大きな鐘が天辺についている塔は、この国で一番高い。

 あの高さを登られるのはこの方の体力では相当苦労されるだろうと思ったものの、引く様子を見せなかったのでお連れした。

 自分の暮らす国を見たいのかと、単純にそう思ったからだ。

 思えば昔、シークも同じように登りたがったことを思い出す。自国を見渡したいと思うのは、王族として当然の欲求なのかもしれない。

 案外、似たもの兄弟なのだな、とこの時までは呑気に思っていた。



 だが頂上に辿り着き、風に乱れて舞う淡い金髪の合間から覗く青い瞳を見た辺りから、無性に不安を掻きたてられた。

 硬く唇を引き結んだアルト様の目は眼下に広がる街並みではなく、更にその奥、城壁の向こう側ばかりを映し出す。


 まるでどこか遠くに、逃げ出したいとでも言うように。


(なぜ、そんな目をされるんだ)


 目の前にあるよりももっと向こう側を見ているようなそれは、けれど興味を示して輝いているわけではない。どころか仄暗く、実際にはどこを見ているのかわからない。

 そういう目をするときは、一人だけ、別の場所に佇んでいるように感じる。

 越えられない見えない壁を打ち立てられたように感じてしまう。まるで一人だけ、別の世界に隔絶されているかのよう。

 そうやって、こちらの焦燥感を煽っていることに気づくこともない。

 手を伸ばしても、触れられないのではないか。そんな漠然とした不安が過って、伸ばした手で風に乱された髪に触れていた。細く思った以上に柔らかい髪は指先を擽って、それにほっと安堵の息が漏れる。


(よかった、ちゃんとここにいる)


 触れられる。当たり前の事なのに、妙にほっとする。

 その手は「無礼な」と振り払われることもなく、驚いた顔はしたもののされるがままの無防備さにも心配が湧いてくる。

 いつもどこか頼りなく、警戒しているくせに肝心な部分で抜けていて、目が離せないと思うのはきっとこういうところだ。

 青い瞳を覗き込めば、その瞳にちゃんと自分が映る。

 それでも、もしかしたら。

 この方の目に自分がちゃんと映っていることなんて、一度だってなかったのかもしれない。

 ……そう思わせたのは、いくつか言葉を交わした後、彼が告げた一言だった。


「――私は、この国にはいりません。本来、いない方がよかったんです」


 そう言うと、いっそ見惚れるほど綺麗に微笑んだ。


「!」


 透き通るような眼差しで、その瞳は逸らされることもなく、迷いを見せずに僕を見据える。

 それが真理なのだと、まるで幼子にでも言い聞かせるかのように。

 ……わけが、わからなかった。


(なんで、そんなことを)


 自分は兄の邪魔になると言って、自ら自分の居場所を作ることを放棄する。

 それを許した周りにも苛立ったが、それ以上にそこに至ったこの方自身になによりも苛立ちが湧いてくる。

 シークが言った通り、彼は自己評価が恐ろしく低い。

 だが彼が孤立し、そう思わせるような環境を作ってしまった陛下や妃殿下、シーク自身にも問題はあったのだろう。

 けれどそれを差し引いても、アルト様の考えに同意は出来なかった。

 この方には、人並み以上の知識がある。得た知識を活用するだけの頭脳もある。つい先日だって、彼が調べていたことが発端で不正行為を暴くきっかけを作った。

 その能力はシーク自身も認めていて、手放したくないとまで言わしめたのである。今ではシークの庇護対象になったことも、ちゃんと本人は理解できているはずだ。

 いくら水面下で王位争いをしているとはいえ、実際に表立ってどうこうなっているわけではない。このまま下手に仲を隠すことなく、本来あるべき兄弟らしく過ごしていれば、エインズワース公爵一派も諦めてくれる可能性がないわけではない。

 そうすれば、すべては丸く収まるはずなのだ。

 それなのに、まだそんなことを口にする。どれだけシークが、僕が、手を差し伸べようとしても、けして頑なにその手を取ろうとしない。

 何がこの方をそこまでさせるのかわからない。どうしてここまで思い詰めるのかわからない。

 いつだってこの方は、城の中に自分の居場所が作られることを良しとしない。


「貴方は、まさか死のうだなんて、思っていませんよね?」

 

 ゴクリと息を呑んで問うた声は緊張で擦れて、唸るような声になった。

 無意識に握りしめた拳は冷たい汗が滲み、胸の奥では鼓動が競る上がるように速度を上げていく。

 だって、そうとしか思えない。

 僕が襲ったときは確かに死の恐怖に震えていたはずとはいえ、現在の言動を見る限りだと、自分が生きてそこにいることを全く想定されているように見えない。

 どれだけ手を伸ばして引き留めようとしても、掴んだそばから溶け落ちていくような恐怖を突き付けられる。

 焦りばかりが湧いてきて、だけどその手を掴む術を思いつけない。


「死にたいわけがないでしょう。死ぬのは怖いですから。それにまだやってみたいことはあります」


 すると、予想外に苦笑された。

 死ぬのは怖いと素直に口にもする。僕が襲った時の反応を見れば、死ぬことまでは望んでいないことは本当なのだろう。

 でも。


「本来与えられるものをすべて投げ捨ててまで、何をされたいというのですか」


 それならば何を、望んでいるというのか。

 以前、その口で望まれたのは平穏な生活。普通に働いて、大切な人が欠けることなく、誰もが当たり前に来ると思っている日常の続き。そんなひどくささやかなものだったはずだ。

 そこに嘘はなかったように思う。シーク自身も、それは疑っていなかった。

 鋭い声で詰問すれば、アルト様は躊躇いがちに目を泳がせる。


「そうですね……色々、あるんですが」


 しかし小さく呟いたものの、その続きが出てこない。考え込んだまま、ふと遠い目をする。

 この方は考え込むと周りが見えなくなる癖がある。調べ物をしている時もそうだったが、ここではないどこかに心を飛ばしてしまっているかのように、青い瞳がここではないどこかを見つめて揺らぐ。

 時折仄暗く揺れる青い瞳は、もしかしたら本当に、僕らの見えないものを見て、知らないことを知っているのかもしれないと思わせた。

 でも不思議とそれを、気持ち悪いとは思えなかった。

 ただひどく、生き辛そうに感じられる。痛々しくて見ていられない、という気持ちの方が強い。

 握りしめた掌に爪が深く食い込み、そうでもしないと肩を掴んで強く揺さぶってしまいそうだった。全部吐き出してしまえばいいと、そう言ってしまいたくなる。

 きっと特別であるということは、周りが思うほどいいものではない。

 知っていることが多い分、それで見えてしまうものがある分、がんじがらめに縛り付けられて身動きできなくされているのだろうか。

 回答を待つ時間が、異様に永く感じられた。じりじりと焦燥感で胸が焼けていくような息苦しさすら覚える。

 すると不意に、場に不似合いな小さく笑う息が聞こえた。


「たとえば、誰かを好きになって」


 囁くようなそれは、まるで歌うみたいな声だった。


「結婚してみるのもいいかもしれないです」


 夢物語でも嘯くように、その唇が甘い言葉を告げて、小さく笑う。

 言われた瞬間、理解できずに数秒息をするのも忘れて固まった。間の抜けた顔をしてしまっていたかもしれない。

 だけどその言葉を理解すると同時に、この期に及んでそんな冗談で誤魔化すつもりか、という苛立ちが湧いてもいいはずだった。

 けれど自分の胸を襲った衝撃な、そんなものではない。


「貴方が、誰かを好きになるのですか?」


 気づいた時には、自分の口が勝手に擦れた声でそう口走っていた。

 まじまじと見据えたアルト様の目と表情は、けして冗談を言っているようには見えない。

 本当にそんな未来でもいいと思っていそうな、透き通るような瞳で、あどけない表情で僅かに小首を傾げる。

 それを見ると同時に、無性に耐えられないほどの苛立ちが湧き上がってくるのを感じる。

 だがそれは冗談のような話で誤魔化されたことに対して、ではない。

 

(目の前にいる僕らを、差し置いて?)


 誰かを、好きになる?

 それはまるでまだ見ぬ誰かに、助けを求めているように聞こえる。

 この世界から連れ出してくれる見知らぬ誰かを、期待しているように見える。


 ――それはつまり、自分を救い出してくれるのは目の前にいる僕なんかでは、ないのだと。

 

 そう無邪気に、残酷に、突き付けられたように感じた。

 目の前にいても、どれだけ手を差し伸べようとも、この方の視界に僕が映ることはないのだ。

 おまえには期待していないと、助けてと手を伸ばすにも値しないのだと、そう言われたようなものだった。


(僕らは……僕は、この方にとって必要ないのか)


 そう告げられたようにしか聞こえない。

 そもそも必要だと思わせられるようなことなど、まだ自分は何もできていない。この方の思考は当然だ。そのことに苛立ちが湧く方がおかしい。

 それなのに。


「人を好きになるぐらい、普通にあるでしょう」


 愕然としている僕をどう誤解したのか、眉を顰めて尚も言い募ろうとする。

 ――それが無性に、許せなかった。

 それ以上、聞きたくなんてない。その口が動いて、否定される言葉を告げられたくない。

 突き上げる衝動のままに、細い腕を掴んで引き寄せた。

 何かを言いかけていた言葉を驚いて詰まらせ、すぐに青い瞳が批難を乗せて僕を見上げる。


「クライブっ。いきなり何を…っ」


 逃さないように強く腕を掴んだまま、衝動に任せて薄い唇を半ば無意識に自分の唇で強引に塞いだ。


(黙ってくれ)


 こうして封じてしまえば自分が願った通り、塞がれた唇はそれ以上の言葉を発されることはない。呼吸も忘れているのか、ただ唇に柔らかくてあたたかい感触だけがある。

 真ん丸く零れ落ちんばかりに見開かれた青い瞳が、すぐ間近に映る。長い金色の睫毛に縁どられた、深い青い瞳。

 それが今はちゃんと、僕を見つめる。

 今このときだけは、間違いなく僕だけを見る。

 どこか遠くを見ることもなく、憂いに仄暗く陰ることもなく、ただただ僕に見入っている。まるで今この世界には、僕しか存在しないかのように。

 それに、胸の奥の渇きが満たされていくように感じた。


(そうやって、僕にしておけばいい)


 助けを求めるならば、他の誰かじゃなくて。目の前にいる自分を頼ればいい。

 自分なら二度と傷つけることはないし、一番手っ取り早く頼れる存在だろう。いくらでも利用してくれればいい。

 僕を選んでくれれば――そうすれば、僕は。


(僕は……?)


 その時、目に映る青い瞳が一度瞬いた。

 閉じられて、再び開かれた瞳が大きく揺れる。


「!」


 その瞬間、急激に我に返った。

 反射的に掴んだままだった腕を引いて、自分から細い体を引き剥がす。


「……、殿下?」


 アルト様という許された呼び名ではなく、あえて「殿下」と呼んだ。

 そうでもしないと、目の前にいる人が何者か、一瞬わからなくなっていた。それぐらい、自分のしでかしたことが理解できない。


(僕は、何をした……!?)


 アルト様も僕同様に驚いているが、しかしそれより自分の方が驚愕が激しかった。呼吸すら忘れて、呆然としている目の前の存在に食い入るように見入る。


(何をしてるんだ。この方は、アルフェンルート殿下。そうだ、殿下だ。シークの、弟君)


 そんな相手に、自分は何をした?

 全身に戦慄が走る。動揺して動けない自分より先に我に返ったのは、アルト様の方が早かった。


「クライブ。貴方の恋愛観に口を出すつもりはありませんが、いくら私がこんな格好をしているからと言って、その、さすがに……節操がなさすぎるのではありませんか?」

「貴方だけですッ!」


 震えて擦れる声でそう言われて、申し訳ありません、と言うべきところを反射的にそう声を荒げていた。

 言われたアルト様が絶句する。僕はそれ以上に勝手なことを口走った自分の口に驚いて、片手で口を覆った。


(嘘だろう? なんでこんな)


 わけのわからないことばかりして、こんなことを口走って、自分でも何がしたいのかわからない。


「……そ、れはそれで……問題がある、と、思うのですが」


 アルト様の言うことは尤もだ。自分でも頭の冷静な部分ではそう思う。気が触れたとしか思えない行動だった。

 いくらこんな格好をしていたからと言って、彼は少女ではない。

 そうだ、アルト様がこんな格好をされているから、こんな変な思考に陥ったに違いない。これがもしいつも通りの姿だったとしたら、そんなことは。

 そんな、ことは。


(……同じことを、していたかもしれない)


 そんな恐ろしい事実に行きついて、頭を殴られた様な衝撃を覚えた。いっそここで、彼に全力で殴られていた方がスッキリしたかもしれない。

 だがアルト様は、こんな時でも誰かを傷つけるという考えに及ばないらしい。動揺しながらもこの場をどうにかすべきだと思っているのか、必死に言葉を紡ぐ。


「そう、そうでした。私、貴方にペンのお礼をすると言っていました…っ」

「……は、」

「私の唇がお礼になるなどおこがましいと思いますが、今ので、そういうことにしましょう……っ! これで不問にします!」


 そう叫ぶように言い切って、必至な形相になって説き伏せる。


「私は忘れます。貴方も忘れなさい。これは不幸な事故だった。何も起こらなかった。いいですね?」

「……は、い」


 そんな安いものではないだろう。皇子の唇だぞ。しかも当然ながら同意を得ることもなく無理矢理奪って、尚且つその後のフォローも出来ていない。

 どころか、事態を悪化させることまで口走った。

 それでも半ば涙目になって、必死に言い募る被害者相手に、そんなことを言うのも憚られてこの場は頷くことしか出来ない。

 自分自身、相当動揺していたのだと思う。

 当然だ。こんなことをしでかすなんて、夢にも思わない。確かに、可愛いとは思った。守りたいという気持ちもあった。

 だからといって、これはどういうことなんだ。自分で自分が理解できない。けれどやったことと自分の思考を合わせれば、そこから導き出される答えなんて一つしかない。


(僕は、この方を)


 ――好きなんだろう。


 それを疑う余地はない。

 その事実に自分のことながら愕然とはするものの、それはなぜだとか、どうしてだとか、思い返せばいくらだって思い当たる節はある。

 相手が男だということを差し引いても、そんなことが問題にならないぐらい、いつの間にか心を持っていかれていた。

 最初は要注意人物という扱いだったはずなのに。注意深く見ているうちに、接していくうちに、その心の琴線に触れて、目が離せなくなっていた。


(これで、このまま本当になかったことにされたら)


 アルト様に命じられるまま塔を下りるうちに、頭は冷静さを取り戻していく。

 不問に処すと言われたところで、それでは駄目に決まっている。


(それに絶対この方は僕を恐れて逃げ回るはずだ)


 そう考えたら居ても立っても居られなくなって、「アルト様」と呼びかけながら振り返った。


「っはい!?」


 急に振り返ってしまったからか、アルト様は素っ頓狂な声を上げて、後ずさろうとしたのか尻もちをつきそうになる。

 慌ててその腕を掴んで引き寄せれば、体が硬くなったのを感じた。目が合ったのは一瞬で、即座に顔を伏せられる。

 当然だ。あんなことをされた後では、警戒されるに決まっている。

 それなのにこの期に及んで、その視界から自分が外れるのが許せないと思うだなんて、どうかしている。

 頭の片隅では冷静にそうわかっているのに、一度箍が外れてしまった感情は、自分の思う通りに動いてはくれない。

 わざと覗き込めば、口元を硬く引き結んで強張った顔がそこにはあった。


「先程の件ですが」

「なんのことかわかりません」


 間髪入れずに突き放すように言い返されて、更には強い瞳で睨まれて言葉を詰まらせる。

 本当に、なかったことにするつもりらしい。

 どう見てもなかったことに出来ている感じはないけれど、蒸し返すな、とその目が語っていることぐらいはわかる。

 本来なら、本当にこのままなかったことにしてくれるというのならば、自分にとっては好都合でしかなかった。

 あれはただの気の迷いで。まだ成長途中の紛らわしい姿で、特に今はこんな恰好をしていたから、あんな間違いを犯してしまっただけだ。

 あまりにも脆弱だから、繊細過ぎるから、どうにかしてやらねばならないという庇護欲を勘違いしてしまっただけなのだ。

 なかったことにしてくれるなら、見逃してくれるのならば、このまま自分も口を噤めばいい。


「わかりました」


 一度頷いて、だがなぜかそれを許せない自分がいる。

 なかったことにされるなんて、認められない――愚かにも、そう思う自分を抑えきれない。

 そんな簡単に、一度芽生えて動き出してしまった感情が消えてなくなってくれるわけがない。

 すっと目を細め、僅かに顔を傾けて窺う。


「でしたら、もう一度しましょうか?」

「!? っやめてください! わかりました! とりあえず話はちゃんと聞きますから!」


 直後に、僕が顔を近づけるよりも早くアルト様の手が僕の口を押さえつけた。

 半泣き状態で叫ばれて、だけどちゃんと向き合ってくれるという言葉に、すっと溜飲が下がる。

 加害者の分際で、こんな脅す真似までする自分はどうかしている。次から次へと、自分でも何をしでかしているのかわからない。

 けれどそれぐらい、余裕がない。

 彼の厚意を覆してまで、本当なら我を通す必要なんてない。

 それに後でシークにバレれば、さすがに唇を奪ったことで処刑されるなんてことはないが、それでも謹慎処分と減俸、当面の接触禁止令ぐらいは言い渡されるだろう。

 出掛けにシークに「よからぬことはしてくれるなよ」と釘を刺されたことが、今更ながらに脳裏を過る。まさかこれを想定していたわけではないだろうが、後でシークに殴りつけられる可能性は十分ありうる。

 それでもよかった。

 このままなし崩しになかったことにされて、なかったことにすると言うくせに、逃げ回られるだろうことを考えれば。

 ここできっちり向き合った方が、ずっといい。


「不問に処すと仰ってくださった言葉は有り難いです。ですが、このさき貴方がずっと僕を警戒されるぐらいなら、ここで処罰された方がいい」

「……そう言われても。なかったことにしてくれたら、それでいいと言いました」

「それでは僕の気が済みません。それにこのままなし崩しにすれば、貴方のことだから僕から逃げ回る気がします」


 行動を読まれていると思ったのか、アルト様が顔を引き攣らせる。

 本当に、この方はわかりやすい。心の奥底に沈めている真意は見せようとしないくせに、こういうところは馬鹿みたいに素直で、目が離せない。

 こんな厄介な人を自分の視界から外すことだけは、心臓に悪くてとても出来そうにない。

 視線を逸らすことなく見据え続ければ、逃げられないと理解できたのだろうか。それとも何をしでかすかわからない僕が怖かっただけかもしれないが、アルト様が観念して長々と嘆息を吐き出した。


「処罰すれば、いいのですか?」

「はい」

「なにをしても?」

「命の危険を感じたら避けてしまうかもしれませんが、ある程度までなら甘んじて受けましょう」


 殴られても蹴られても、どころか階段から突き落とされたって文句は言えない。勿論その場合は受け身は取るが、どうぞ、と口にする代わりに膝を着く。

 けれど、しばらく待ってもアルト様が行動を起こされる気配はなかった。その代わりに、頭上にやや疲れた声音が降ってくる。


「誰かを傷つけるということは、自分にも跳ね返ってくることだと思うのです。だから私はあまり好きではありません」

「アルト様」


 だが、それでは示しがつかない。

 眉根を寄せて顔を上げれば、そこには静かな面差しで僕を見下ろす少女が佇んでいた。


(!)


 ドクリ、心臓が一際大きく跳ねた。見上げた姿がなぜか、紛れもなく少女に見える。

 凛と背筋を伸ばし、金の睫毛に縁どられた深い青い瞳で僕を見下ろす。

 侍女の格好をしているのに、まるで皇女の如き貫録がそこにはあった。

 

「なのでもし私がこの先、本当に困って助けを求めたら。一度だけでいいから、助けてください」


 波音一つ立たない凪いだ湖のような青い瞳で僕を見つめて、そう命じる。

 抗うことを許さない、心ごと呪縛するようなそれは確かに、命じる声だった。

 そしてそれは、何よりも自分が望んだ言葉でもあった。そう思い至ると同時に、心臓が再びドクリと跳ねる。

 それでは、なんの罰にもならない。むしろ、それは。


「一度と言わず、お助けしますが」

「いいから。そう約束してください」


 貴方がそれを望んでくれるなら。こんな自分を、その視界に入れてくれるなら。必要だとそう言ってくれるならば、いくらでも。

 いつの間にこんなに心を傾けていたのか、自分でもわからない。

 容姿に惑わされている部分も、ないわけじゃないだろう。もしかしたらこの先成長されて、シークのように少女らしさなど見る影もなくなった時に、この時の自分のことを自嘲する日がくるかもしれないけれど。


「わかりました。お約束します」


 でも今この時誓った言葉だけは、自分は覆すことはないだろう。

 頷いてそう告げれば、アルト様は小さく息を吐いた。

 そして僕を見て、なぜか一瞬、自嘲気味に笑ったように見えた。


「あとクライブは、もっと節操というものを覚えてください。次にこんな真似をしたら、兄様に言いつけます」


 だけどそれはほんの一瞬でしかなかったから、僕の見間違いだったのかもしれない。

 次の瞬間には、アルト様は渋面を作って僕を睨みつけていた。僕から一歩距離を置き、二度目は許さないと態度で示す。威嚇する猫のような様相だ。

 

「今回のことも報告はしますが」

「! 絶対にやめてください。何を考えているんですか、知られたら私の沽券に関わります。言ったら今度こそ絶対に許しません」


 しかし慌ててこうやって言うということは、やはりアルト様は男なのだろう。

 それは当然のことなのだが、先程一瞬でも気高い皇女の如く見えたのが嘘のように、いつも通りの態度に戻ったことに胸を撫で下ろす。

 すぐのすぐには、この胸に抱いてしまった感情を殺すことは出来ないとは思うものの、これ以上好きになってしまいそうな要素は極力排除してもらいたい。女性のように見えるなど、もってのほかだ。

 今も顔を歪め、シークに今日のことを告げようものなら今度こそ殴られそうな雰囲気がある。この方が少年らしくて、ほっとする。

 確かに、敬愛する兄に、男に口づけられたなどと死んでも知られたくないだろう。

 たとえば僕だって、デリックに「男にキスされた」などと言われたら……笑ってしまうかもしれない。

 いや、笑い事ではないが、いったいどんな隙を見せたのかと呆れはする。キスされた挙句、そんな視線を向けられるなんて本人は絶対に避けたいに違いない。


「具体的に、どう許されないのかお聞きしても?」

「私の侍女に、クライブが侍女の胸ばかり見ているという噂を侍女達の間に流してもらいます」

「それは確かにご遠慮したいです……」

 

 恐ろしくえげつない報復手段を剣呑な眼差しで提示されて、顔が引き攣った。もしかして最初に胸を見ていたことも、まだ根に持っていたのだろうか。

 初めてこの方を、本気で敵に回したくないと思った瞬間だった。


 ――けれどそんな意外な一面を見られたことにも、思わず喜んでしまう自分に気づいて密かに溜息を吐いた。


(なんでよりによって、こんな面倒な相手を好きになったりしたんだ)


 男で、皇子で、どう足掻いたって報われるはずもない相手。本来は想うことすら、罪。

 それなのにその感情は気づいた時には毒のように体に回っていて、取り除く方法が今もわからない。

 むしろ気づいてしまったせいで、余計に病状が加速している気さえする。

 この恐ろしい病に一体どんな薬が効くのか、今の僕には思いつかなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ