34 それは、私の呼吸を止める。
何が見たいのかと聞かれ、面白いものが見たいと頼んだら、広場で開かれているマルシェへと連れてこられた。
所狭しと人と店でごった返していることに驚いたものの、流れに乗ってしまえばスムーズに進んでいく。最初は戦々恐々といった気分だったけど、前に来たときは見られなかった市の風景は面白くて、嬉々として覗き込む。
スーパーでは見たこともない果物や野菜が並んでいて見ていて楽しい。豚の生首がずらりと連なっているのを見た時は、「ひっ」と声が出てドン引いたけど。
食べ物がメインだが、時折異国の細工品とかも並んでいる。表面的には西洋に見えるけど、ところどころに日本的な部分も入り混じっているようだ。
それが懐かしくて、時折足を止める。
いま目の前にあるのは、紫を帯びた赤い豆。小豆だ。まさか小豆も出回っているなんて。これでお汁粉が食べたい……だめだ、米がないから餅も白玉もない。米が欲しい。でも生憎と米にはまだ行き合ってない。
「何か欲しいものでもありましたか?」
「いえ、ちょっと気になっただけです」
こうして足を止める度に、クライブが私に伺ってくる。
我儘を言えば、クライブがいなければもっと楽しめたのだけど。
(せめて手を繋がれていなければ……っ)
ちなみに手を繋がれているのは、例によって私が人混みを歩くのが上手すぎたせいだ。「歩くのお上手すぎるでしょう。見失います」と掴まえられてしまった。
いわば迷子防止の捕獲であって、けして微笑ましいものではない。
それに個人的に手を繋いで歩くのは、徐々に手に汗が滲んでくるからものすごく苦手だ。恋人同士で手を繋いでいるのを見る度に、何がいいのかさっぱりわからないと首を捻りたくなる。
汗でべたべたしてきて気になるし、相手に申し訳ない気持ちになる。かといって、途中で手を離して拭くわけにもいかないし、拭かれてもちょっとショックを受ける。
おかげで言い出せずに、汗で湿った手を繋いだままの状態になっていた。軽く苦行。
それを少しでも紛らわせたくて、ふと思いついたことを口にして意識を手から逸らす。
「そういえば、兄様ももうすぐお誕生日ですよね。兄様は何がお好きなのですか?」
折角マルシェまで来たのなら丁度いい。ここで見繕えるかもしれないと、隣を歩くクライブを仰ぎ見て問いかけた。
ゲームの知識はあれど、細かく趣味嗜好を知っているわけじゃない。兄をよく知る人に聞くのが一番手っ取り早い。
するとクライブは、もの言いたげに緑の瞳でじっと私を見つめた。
なに。なんなの。ちょっと怖くて、少し体を強張らせる。
「クライブ?」
「アルト様の方が知ってらっしゃるのではないですか? ご兄弟なのですから」
「いままでほとんど接点がなかったのに、無茶を言わないでください。血が繋がっていても、味覚と嗜好は完全に別物です」
わかるわけないだろう。眉を顰めれば、なぜかクライブはほっとしたように頬を緩めた。
「アルト様から贈られるものなら、なんでも喜ばれると思いますよ」
そして教えてもらえたのは、全く役に立たない一言だった。聞きたいのはそういう漠然としたことじゃない。
仕方なく、「兄様は日頃どんなことをされているのですか」と質問を変えてみる。こうなったら、行動から予測するしかない。
「普通に、執務に励まれています。もっぱら机に向かわれて書類の処理をされていることが多いですね。たまに息抜きで手合わせに付き合わされますが、基本的に毎日同じですよ」
「それは……肩が凝りそうですね」
「よく首は回しておられます」
だいたい予想はしていたけれど、教えてもらった内容はまるで昔の自分の仕事っぷりと似た感じだった。
(だとしたら、リラクゼーショングッズが嬉しいかな)
肩たたき棒とか……しかしこれだとおじいちゃんへの贈り物みたいになってしまう。湿布……は、どうやって作るのか知らない。仕事とゲームで疲れた時って、他にどうしてたっけ?
(結構目も疲れたから、アイピローとかよく使っていた覚えが……そう、小豆とかの入った)
それだ……!
ちょっとした重みのあるアイピローはそれだけで眼精疲労に最適。眼精疲労から肩こりを起こすこともあるし、これなら一石二鳥かもしれない。
それにアイピローなら布と小豆があれば、簡単に作れる。
「ちょっと買いたい物が出来たので戻ります」
くるりと踵を返し、先程見た店までの数歩の距離を戻った。そして小豆を指さして、「頼めば城まで届けてもらえますか?」とクライブに聞いてみる。
「あんな赤い豆が欲しいのですか?」
「はい」
あまり出回っているわけじゃないらしく、クライブが不審な顔で私を見下ろした。私にとっては懐かしくても、城で食べたことはないからクライブが不審に思うのももっともではある。
しかし迷いなく頷けば、「わかりました。手配させましょう」と折れてくれた。私の自室の方に届くようにしてくれたので、サインする際の名前はメリッサから拝借した。
(これで兄様は良し、と)
布は城に帰ってから手配するとして、ついでに自分の分も作ってしまおう。
「クライブは、何か欲しいものはありますか? ペンのお礼に贈ります」
兄はそれでいいとして、クライブにアイピローはいらなそう。目の前に本人がいることだし、率直に訊けば驚いて目を瞠られた。
そしてすぐに破顔する。
「僕はアルト様が笑ってくれただけで十分です」
(そ、……っそういうところだぞ!)
本当になんなの。一体なんなの。悪いものでも拾って食べた!?
騎士道精神全開のクライブほど恐ろしいものはない。多分これも、素で言っている。怖い。存在がタラシって怖い。
当然、嬉しい気持ちより恐怖が先に立つ。嫌なわけではないけれど、困惑と動揺しかない。
「だから、そういう……」
さっきと同じ苦言を言いかけて、しかし本人は自分の発言の問題点に気づいていなさそうなので、諦めて途中で濁した。
害があるわけじゃないし。いや私の精神には害を及ぼしているわけだけど、好意を示して言ってくれているのだから。責めることでもない。
「そういうわけにもいきませんから、欲しいものがあったら言ってください」
仕方なく苦い顔で私が言えば、クライブはちょっと困ったように笑っただけだった。本当に何もいらないと思っているのが伝わってきて、思わず溜息が零れ落ちる。
(嫌だな。甘やかさないでほしい)
じわり、じわりと、こちらの心を侵食してくる真似はしないでほしい。
居た堪れないけど、どこかくすぐったくて心地いい。だけど同時に、チクリと罪悪感が胸を刺す。
その胸に刺さった針は抜けることなく、血流に乗って体を巡り、いつしか心臓を突き刺して私の息の根を止めるだろう。
そんな恐怖に襲われる。
「疲れましたか? 休憩しましょうか」
黙った私の様子を勘違いしたのか、クライブが手を引いてマルシェの人混みを抜ける。
ふと、この手を振り払ったら。人混みに紛れて、このまま逃げ出してしまえたら。
――そんな妄想が脳裏を過ったけれど、考えるまでもなく、すぐにクライブに捕まるだろうと小さく笑ってしまった。
だけどそのことに、ちょっとほっとしている自分もいる。
ここでそんなことをしても無駄なのだから、今はまだ流されるままでいいのだという言い訳を掲げて。結局、私はどこへ向かおうとしてるのだろう。
*
途中、マルシェを抜ける前にクライブに買ってもらった飲物を広場の隅のベンチで口にした。
そうして一息ついたところで、「他にどこか行きたいところはありますか?」とクライブに尋ねられた。
正直なところ、既にマルシェの人混みに揉まれて疲れている。けれど、こうして出歩ける機会なんてまずないと思えば、ここで帰るのも勿体ない。もう少し頑張りたいところだ。
「あそこに登れますか?」
ちょっと悩んでから、目についた街で一番高い塔を指さした。
朝や夕刻、慶事や場合によっては有事を知らせる大きな鐘が天辺についているその塔は、街の中で飛び抜けて高い。2、3階建の建物しかない中で、それだけは7階建以上は余裕でありそうな高さがある。
「あれに登りたいのですか?」
「はい」
クライブがぎょっと目を剥いたけれど、こんな機会は滅多にないので迷いなく頷く。登れるものなら登ってみたい。
(あの高さなら、街の塀の外まで見渡せそう)
往生際悪く、もし逃げることが出来るとしたら、街の外がどうなっているのかを知っておきたいと思ってしまう。
以前に私が王都を出たのは、もう5年も前だ。その時は川と森と平原と畑が主で、たまに小さな村を見かけたぐらいで特に目立つものは何もなかったような覚えもある。けどもしかしたら何かが変わっているかもしれない、という期待もあった。
「そう仰るなら、登ることは出来ますが。本当に登りたいんですね?」
「お願いします」
クライブが、「何を言ってるんだこいつは」的な呆れを隠しもせずに言った理由を、私は後で嫌というほど思い知ることになる。
――クライブの権限があれば、塔に入ることは可能だった。1階にいた管理人に鍵を開けてもらって、階段を上っていく。
よく考えたらエレベーターなんて当然あるわけがない。私の体力で7階以上ある階段を上り切るのはかなり厳しかった。
しかも塔の中の壁に沿う形で螺旋状に石の階段があり、そこに手摺なんて親切なものはない。階段は並んで2人くらいは余裕で歩けそうな幅はあるけど、ちょっとでもふらつけば真っ逆さまに落ちてしまいそうな恐怖がある。
安全管理のしっかりされている日本の階段を想像していた私が馬鹿だった。
登れば登るほど、ちょっとでも下を覗きこもうものなら足が竦む怖さがある。おかげで変に体に力が入った。
しかもどれだけ運動不足なのかと我ながら呆れたくなるけれど、息が切れ、足がガクガクしてくる。一段一段がかなり高いのも堪えた。
「ま、まって、くださ……もうちょっと、ゆっくりっ」
「だから本当に登られるのかとお訊きしたでしょう」
「っここまでとは、思って、なくて」
肩で息をして、ぜぇはぁ、と自分の喉から擦れた呼吸を繰り返す。
クライブは平然として手を貸してくれていたけれど、残り1階分でとうとう足が止まってしまった。クライブの手と壁に縋りつき、一歩足を出すことがもう辛い。自分でも情けないと思うけど、しばらく休憩させてほしい。
「仕方ありませんね」
「っひゃ!?」
溜息を吐かれ、その直後に体が浮遊感に包まれた。この浮遊感を味わうのはもう何度目かわからないけれど、クライブの腕に抱えられている自分に気づいて目を白黒させる。
「歩けますから!」
「どう見ても歩けてなかったでしょう。どうせあと少しですから、大人しくしていてください。暴れて落ちたら二人とも死にます」
そう言われてしまったら、大人しくするしかない。ここでクライブともども落下死だなんて、絶対にお断りだ。
それまでは私に速度を合わせていたのか、私を片腕に抱え上げているのにクライブはさっさと階段を上り切ってしまう。
そのまま古びた木の扉を開けると、一気に光と強い風が吹き込んできた。
「!」
一瞬、あまりの眩しさに硬く目を瞑る。
「どうぞ、アルト様。到着です」
「……、わぁ……っ」
声に促され、ゆっくりと目を開く。目の前に広がる景色に素直に感嘆の声が漏れた。
見開いた眼下に広がる街並みは、まるでよく出来たミニチュアみたいだ。
「すごい。高い!」
「頑張って登られましたからね」
まるで子供を褒めるように言われたことがちょっと恥ずかしい。腕から下ろしてもらうと、強風に煽られてスカートの裾と髪が翻る。
「わ、っと」
慌てて手でスカートと髪を押さえる。遮るものがないせいで、かなり風が強い。数歩歩くだけで踝丈のスカートが風に煽られてよろけそうになる。女装はこういう時不便だ。
「落ちないでくださいよ」
「落ちません」
クライブが手を伸ばそうとしてきたけれど、さりげなく避けて行ける範囲まで足を進めてみる。
障害物が無い為に、遠くまで見渡せる。それこそ、王都を囲う塀の向こうまで。
(……なにも、ないんだ)
いや、勿論昔、私が見た川や森や野原はある。畑が広がっているから、ここからは見えないけど小さな村や町も有るのだろう。
ただ、王都から出ると家は極端に少なくなる。ぽつんぽつんと、畑を管理する者の家らしきものが見えるだけだ。ぐるりと首を巡らせてみても、森に遮られている場所以外はどこも同じような景色が広がる。
(王都から出たら隠れ住める場所はなさそう)
たとえば村や町まで行けたとしても、町はともかく小さな村だとよそ者は目立つだろう。ここから一番近い町まではどれだけ掛かるんだろう。
馬なら数刻だとしても、それが人の足だったら?
(…………遠いなぁ)
たかが王都の外、まだ国内なのに。途方もなく遠く感じられて、無意識に嘆息が零れる。
「アルト様は、王都の外に行かれたいのですか?」
「え?」
いつの間に傍まで来ていたのか。クライブが手を伸ばして風に乱れた私の髪を直し、覗き込むようにして尋ねてきた。
「そう、ですね。私は王都の外に出たことは1度しかないので、気にならないと言ったら嘘になります」
「でしたら、行ってみますか?」
「はい?」
「毎年、夏になるとシークヴァルド殿下がうちのランス領まで避暑に行かれるのです。アルト様さえよろしければ、ご一緒されませんか?」
いきなりの申し出が理解できなかった。目を丸くして、ぽかんと開いた口が塞がらない。
確かランス領は、空の色を映した青い湖と、その湖畔に立つ屋敷が水面に映る様が美しいと謳われる観光名所でもある。
兄がそこに避暑に行っているとは知らなかったけど、そういうこともあるんだろう。
でも、そこに私まで?
「それは、私が行っても良いものなのですか?」
「駄目なら最初からお誘いしません。シークヴァルド殿下からも、誘えそうなら誘っておくよう申しつけられていましたから、僕の一存でもありません」
「……それは、嬉しい申し出ですけど」
行ってみたい。正直に言えば、とても行ってみたい。
他の領に行く機会なんて、この先あるかどうかもわからないのだ。
しかし、素直に申し出を受けるには問題がある。
「私は体調を崩すことが多いので、お受けしてもその時になったらご一緒できないことも出てくると思うのです。それではさすがにご迷惑をおかけするので、やっぱりいけません」
生理とか。どう足掻いても、被ったら絶対に無理。ここで行くと言っておいてやっぱり行けないというのは、失礼に当たるからやはり安易に受けるのは無理だ。
眉尻を下げて、残念なのを隠せずに言えば、「それでしたら」とクライブが苦笑する。
「いつも行く日程は特に決まっていませんから、アルト様に会わせるおつもりだと仰られていましたよ」
「……兄様は私に甘すぎるのではありませんか?」
「年の離れた兄弟というのは、とても可愛いらしいです」
そういうものなのか。私にはよくわからない感情だ。でも兄をよく知るクライブがそう言うのなら、そうなんだろう。たぶん。
ただ私が第二皇子として堂々と同行するのは、エインズワース公爵の手前、問題があると思う。でも兄のことだから、その辺もちゃんと考えてくれてるんだろう。
今回のように、無茶ぶりをされる気もひしひしと感じるけど。私だけ大樽に入って馬車に詰め込まれて移動とか。やりかねない。あの兄なら。
そういう恐怖がないわけではないけれど、でもそれを推してでも行ってみたい。……いや、樽詰めはさすがにちょっとアレだけど。
「兄様がそれでお許しくださるなら、行きたいです」
「わかりました。ではその旨をお伝えしておきます」
クライブが微笑んで頷く。
その眼差しはやけに優しくて、なんだか見つめられていると落ち着かない。
「その避暑に、クライブの弟君も同行されるのですか?」
「デリックですか? ええ、一緒に帰ります」
ふと思い出した存在のことを訊いてみると、あっさり頷かれて顔が引き攣った。
それもそうか。兄が里帰りするなら、弟だって一緒に里帰りするに決まっている。ランス領は王都に隣接した領とはいえ、遠いものは遠い。
引き攣った私を見て、クライブが少し怖い顔をした。
「デリックはまた何かしでかしましたか?」
「いえ、何も……ただ、近頃とてもその、好意的と言いますか。クライブは彼に何を言ったのですか?」
あのキラキラした視線を思い出して、遠い目になりかける。
あの眼差しには尊敬の輝きすら感じられ、どうしてそうなったのかと考えるだけで頭が痛くなる。
「貴方のお心の在り方を説いて、その考え方を見習えと言いました」
するとクライブは悪びれもせず、どころか誇らしげに微笑んでそんなことを口にした。
待って。妄信的に敬愛している兄にそんなことを言われて、勿論デリックも躊躇いはしたのだろう。けれど、私があの時言ったこと等も色々考えてみた結果。
ああなってしまった、と?
(なんて余計なことを……っ)
見習ってくれなくていい。順番をちゃんとわかって弁えてくれたなら、それだけでいい。それ以上なんて欠片も望んでいない!
「思い込むと少々周りが見えなくなる弟ではあるのですが、その分仕えると決めた相手には絶対だと思うので、アルト様がよろしければ気にかけてやってください」
よろしくないです。全っ然、よろしくないです。そういう妄信的に突き進むところ、兄そっくりですねと嫌味を言いたい。
本人を前にして言えないけれど。引き攣った笑顔しか絞り出せない。
「ですが彼はどうも、セインと相性があまりよろしくないようですから」
「貴方の侍従は大概協調性がありませんから、デリックと一緒にいれば多少は改善されるのではありませんか?」
「……セインは、あれでいいのです。あれは一応、私の為を思ってやってくれていることなので」
痛いところを突かれたけれど、正直に言った方が早いかと溜息混じりに答える。
クライブは私の言葉に怪訝そうな顔をしたので、「たとえばですけど」と話を続けた。
「今のセインの態度を見て、私に対する世間の評価はどうなっていますか?」
セインは基本的に人を寄せ付けない。相手が第二皇子派であろうとも、一定の距離を保っている。あえて輪を乱すことはしないけれど、だからといってその輪を強固なものにしようなどとは露ほどにも考えていない。
それは近頃の訓練を傍から見ていれば、よくわかる。
するとクライブは眉を顰め、「正直に申し上げれば」と硬い口調で口を開いた。
「アルト様は侍従一人まともに御せないのかと、そう陰口を叩く者も少なくはありません」
「そうでしょうね」
わかりきっていたことなので、鷹揚に頷いた。するとクライブが目を丸くする。
「私は無能だと、誰もが思うでしょう。そう思うように、セインは仕向けてくれている。本当はセインだって、周りに迎合しようとすれば出来るのです。その方がセイン自身も楽に生きられる。でもそれをしないのは、そうしてしまうことで私の立つ位置を確固たるものへとしてしまうから」
「仰っている意味がよくわかりません」
「セインが真面目に周りに働きかけて足場を築いて、私が城で確かな位置を手に入れたとします。そうなったら、兄様のお立場はどうなりますか?」
問いかければ、クライブは悟ったのかすぐに硬い表情になる。
「今更隠すことでもないので言いますが、私がそれなりに使える人間だとわかれば、エインズワース公爵にすり寄りたいものは私を立てようと躍起になる」
それでは困るのです、と吐息混じりに呟く。
「私が無能だと思っているからこそ、様子見をしている貴族も多い。私は兄様こそが王であるに相応しいと思っている。セインはその意志を汲んで、あえてああしてくれているのです。……素の部分がないわけでも、ないですが」
セインは面倒くさがりなところもあるから。愛想笑いをしなくてもいいなら、その方が楽だとも思ってそうな部分がないわけでもないけど。
思い出して、小さく苦笑する。
「アルト様は、それでいいのですか。それでは貴方の居場所がなくなってしまう」
「私は、この国にはいりません。本来、いない方がよかったんです」
不意に口から本音が零れた。
私は笑ってみせたけれど、クライブは更に顔を強張らせた。険しい顔をして、睨むような強さで私を見据える。
怒っているのかもしれない。何に対して怒っているのかまでは、わからないけど。
私を利用しようとする周りにか。私を甘やかしているセインにか。それともこんなことを考えている、私自身になのか。
だけど不思議と、怖くはなかった。
クライブに譲れないものがあるように、私にも譲れないものがある。
「貴方は、まさか死のうだなんて、思っていませんよね?」
まっすぐに見つめ返すと、擦れた低い声で唸るように問われた。その言葉にはさすがに驚いて、目を丸くする。
(死ぬ? まさか)
死ぬことを何よりも恐れている私が。だからこそ今これでも必死に足掻いている私が。死のうだなんて思うわけがない。
少なくとも、まだ今は。
「死にたいわけがないでしょう。死ぬのは怖いですから。それにまだやってみたいことはあります」
「本来与えられるものをすべて投げ捨ててまで、何をされたいというのですか」
鋭い声で詰問されて、改めて「何を」と訊かれると躊躇った。
さすがに馬鹿正直に平民になって、仕立て屋にでも就職して、命の危険なく過ごしたいと言うわけにもいかない。
「そうですね……色々、あるんですが」
必死に脳を回転させて、無難な言い訳を探す。
以前は途中で強制リセットされたから、庶民でもなんでもいいから、今度はちゃんと生きてみたい。それが一番の願い。
案外、庶民でも余裕でやっていけるとは思ってる。
こちらでは衣食住に関しては至れり尽くせりで育ってきたけれど、前の時は築20年以上の古びたマンションの1DKに住んでいた。毎日満員電車に揺られながら会社に行って、朝から晩まで働く日々。
食事はコンビニかスーパーの惣菜のおつとめ品とか、前日の残り物とかざらだったし、お茶葉を買い忘れて連日水道水を飲んで済ませたこともあった。掃除洗濯もそれなりにこなして、一人暮らしだったから、害虫に遭遇しても怖いけど一人で対処だってできる。
以前に普通に出来ていたのだから、今も一人で問題なくやっていけると思う。
(前と状況は違うから、不安がないわけじゃないけど)
以前はそんな生活でも、家は違ったけれど家族の支えがあった。恋人はいなかったけど、友達だっていた。仕事には確固とした自信も持っていて、上からは定年後もいてくれと頼みこまれたほどだったから将来に憂えたこともない。
周りの人にも恵まれて、仕事もオタク趣味も充実していた。そのぶん恋愛はおざなりにしたけど、それに後悔はないぐらい満足のいく生活だった。
自分が誰かに必要とされていると感じていたから、独り身でも全く問題にはならなかった。
……だけど、今はそれとは少し違う。
まだ自信を持てるほどの仕事は出来ないし、信頼できる人もほんの僅か。
それにもし庶民生活を手に入れたとしても、メリッサとセインを巻き込むわけにはいかない。
メリッサは付いてきたいと言いそうだけど、本来は彼女も伯爵令嬢である。庶民暮らしに対応できるとは思わない。セインはセインで、余計なしがらみを投げ捨てて気ままな生活に戻りたいだろう。
そうなると、今度はひとりぼっちだ。
(それはさすがに心が挫けそう)
勿論、働き出して周りと関わっていれば、少しずつ信頼は出来てくる。だけどその信頼を築くまでの時間が、一番大変なことを私は知っている。
それに働くのは食べていくために手段としてするのであって、たとえばお針子がどうしてもやりたいのかと聞かれるとそういうわけでもない。趣味で作るのと、仕事にするのは違う。行き詰まる時もあるだろう。
もし庶民になれば、今は良くしてくれている兄は当然頼れないし、親は言うに及ばず。メリッサやセインにも迷惑はかけられないから離れることになる上に、そうなると友達も一人もいない。
そんな状態で、たった一人生きていく。
それは考えただけで不安になることだった。
そしてその先も、ずっと一人で生きていかなければならないと考えると、恐怖すら感じる。
それなら、そう。
以前は仕事と趣味を選んでしまったけど、二度目なら違う道を歩んでみてもいい。
「……たとえば、誰かを好きになって。結婚してみるのもいいかもしれないです」
誰か一人でも、信頼したいと思える人を作って。
今度は、その人と一緒に人生を歩んでいってみてもいいかもしれない。
思いついたことを口にして、案外それはとても幸せなことかもしれないと思うと自然と口元が綻ぶ。
(ちょっとどころでなく、難しそうだけど)
前はアラサーまで生きても、一緒にありたいと思える人を作れなかった。これでもチャンスは何度かあったはずなのに、それを選ばなかった時点で、私には結婚なんて向いていないのかもしれない。
でももしもこの先、生きていくことが出来るなら。
今度は前の自分が選ばなかった人生に、挑戦してみてもいい……なんてね。
「貴方が、誰かを好きになるのですか?」
すると、こちらの気持ちに水を差すように、クライブが半ば呆然とした声でそう問いかけてきた。
私を見る緑の瞳は驚愕を露わに瞠られていて、そんな反応をされるなんて心外だった。
でも確かに全部投げ捨ててまで何がしたいのかと聞かれて、「恋愛結婚してみたい」だなんて、何を馬鹿なことを言っているんだって話ではある。
あるけれど、恋愛結婚を馬鹿にしているというより、私が誰かを好きになることそのものを信じられないと思っていそうな態度は、心外でしかない。
「人を好きになるぐらい、普通にあるでしょう。いったい私をなんだと思っ、て……っ!?」
眉を顰めてそう言い返そうとした瞬間、腕を掴まれて強く引き寄せられた。バランスを崩してよろけかけた体は、クライブの腕で支えられる。
「クライブっ。いきなり何を…っ」
するつもりなのか。そう文句を口にしようと顔を上げたら、すぐ目の前にクライブの顔があった。
(…………。は?)
顔が近い。なんて、思う間もなかった。
なんでそんな、息すらかかりそうなほど。近くに。
真ん丸く見開いた自分の目に、クライブの緑の瞳が映る。それしか、映らない。
それほどの至近距離で、抵抗する間も、それどころか何が起こっているのかも理解する間すらもなく。
自分の唇に、あたたかいものが押し付けられるのを感じた。
(へ?)
時間としては、数秒だったのか。一瞬だったのか。
息が、止まった。
柔らかくて、熱くて、唇同士が触れ合っただけなのに、一瞬で全身の血が沸騰したように感じられる。
目に映る現実が信じられなくて、ただ呆然と、されるがままで立ち竦んでいた。
動けなくてまじまじと見返して、一度、瞬きをした。その瞬間、クライブの緑の瞳が瞠られて、私の体が勢いよく引き剥がされる。
「!」
「……、殿下?」
呆然と私を呼ぶクライブは、私以上に驚愕に目を見開いて、固まっていた。
(まっ……待って。なんでクライブがそんなに驚いているの? 驚くのはされた私の方じゃない!?)
そもそも、今の流れってキスするような要素あった!? というか、キ……キス!?
なんで! クライブが!
(なぜ私に!?)
クライブはまだ固まったまま、息すら忘れて私を食い入るように見つめている。まるで自分がしでかしたことを、脳が理解できないとでもいうように。
そうでしょうとも。私も理解できないもの。まったく。欠片も!
だけど人間というのは不思議なもので、なぜか焦る人間を前にすると、少しだけ冷静さを取り戻す。
「クライブ。貴方の恋愛観に口を出すつもりはありませんが、いくら私がこんな格好をしているからと言って、その、さすがに……節操がなさすぎるのではありませんか?」
ちょっと苦言を呈して、とりあえず終わりにしよう。わけがわからないけど、一先ずこの場はただの悪ふざけだと流してしまおう。これはちょっとの気の迷い。
「貴方だけですッ!」
そんな風に無理やり片付けてしまいたかったのに、私の声で我に返ったクライブが、なぜかそう声を荒げた。
そして口にしてから、クライブは自分で自分の口を愕然とした表情で押さえる。
自分でも、何言ってるんだ?と言いたげな動揺を取り繕えない態度に、こっちこそ動揺したい。
どうしたの。何があったの。クライブは何かに取り憑かれているの? いっそそうだと言ってくれた方が、まだ理解できる。
「……そ、れはそれで……問題がある、と、思うのですが」
呆然と、私もしどろもどろにそうとしか言えなかった。
(まさか、だけど。バレていたり、する……? 私が女だって、バレてる!?)
そんな疑問が脳内をグルグルと急速回転している。心臓は壊れそうなほど脈打っていて、その音がうるさくて思考がまとまらない。
いやでももしそうだとしたら、私はこの国の皇女ということになる。
婚約者でもない皇女の唇を同意もなく奪うなどという、首を跳ねられても文句を言えないレベルの不敬罪を、騎士であるクライブがするわけもない。
(ということは、私が男だと思ったままで?)
それはそれで、多大に問題があるわけだけど。そもそもなぜ、キス。
私相手に、どうしてここでそうなった!?
いざこういう状況に立たされると、咄嗟に殴るとか、平手打ちを見舞うとか、そんなことは欠片も脳裏を過らなかった。
ただただ、理解できない。とにかくフリーズしているこの場をどうにか切り抜けなくてはと、それだけで舌を動かす。
「クライブ……そう、そうでした。私、貴方にペンのお礼をすると言っていました」
「……は、」
「私の唇がお礼になるなどおこがましいと思いますが、今ので、そういうことにしましょう…っ! これで不問にします!」
自分でも何を口走っているのかわからない。そういうことって、どういうことだ。言われているクライブも、理解できていないだろう。
その隙に畳みかけて、とにかくこの場に必要なことを言い伏せる。
「私は忘れます。貴方も忘れなさい。これは不幸な事故だった。何も起こらなかった。いいですね?」
「…………は、い」
必死に言い募る私と向かい合い、ゴクリと息を呑んで、クライブはそれでも確かに頷いた。
お互い忘れられるわけもないだろうけど、忘れると約束した、今はその約束だけが残ればいい。
そう、何も起こらなかった。
何も! なかったのだと!




