32 ペンは剣よりも強し
「クライブ。今の貴方は侍女の胸を不躾に見やる不埒者に映るとわかっていますか」
視線に耐えかねて、歩きながら硬い声で注意を投げかけた。時折胸元に投げかけられる視線を遮るように、さりげなく片腕でやんわりと庇って睨みつける。
わざわざ人気の少ない道を選んでいるのか、まだ誰ともすれ違ってはいない。けれどもし今の図を傍から見られたら、完全にクライブの視線はアウトだ。
それになにより、中身の半分以上は綿だけど、残り半分は自前なので良い気分はしない。
クライブにはそんなつもりはなくとも、本来の性別の私から見ればただのセクハラ。
「すみません。……何が入っているのかと思いまして」
すると自分の無礼にやっと気づいたのか、即座に謝罪を口にして目を逸らされた。だがよほど気になったのか、もう一度チラリと視線を投げられて中身を聞かれる。
(どうせ中身の半分以上は綿よッ!)
この男はデリカシーをどこに置いてきたのかと、小一時間問い詰めたい。
「それを私に言わせるのですか」
自分でも驚くほど冷ややかな声が出た。
クライブを見やる瞳は侮蔑を隠しもせず、さっき庇われたことで上がった株が急落していくのを感じる。
「クライブ、私はやっぱりあなたと仲良くなれる気がしません」
「! 申し訳ありません。ですが、全く違和感がなかったものですから……シークヴァルド殿下は規格外としても、殿下もとてもよくお似合いです」
「そう言われて喜ぶとでも思っているのですか?」
慌てて背筋を正して言われたものの、似合っても欠片も嬉しくはない。それに平常時は潰さなくとも貧乳の私からしたら、この膨らみは違和感しかない。嫌味かと言いたくなる。
口元をへの字に曲げて、目を細めて冷ややかな眼差しを向け続ければ、クライブが咳払いした。
「複雑なお気持ちはわかります。申し訳ありません。ですがお似合いになるのも、今のうちだけですから」
全くフォローにならないフォローを入れてくる。
確かに私が本当に男ならば、兄のように似合わなくなる日も来るだろう。だが残念ながら、私には女装が似合わなくなる日など来るわけがない。
仏頂面をしたままの私の態度にまずいと思ったのか、クライブが「殿下も少し背が伸びられたようですし」と付け足す。
「そうですか?」
クライブを振り仰ぎ、言われてみればほんの少しだけど視線の位置が高くなったことに気づいた。
以前はクライブとゆうに頭一つ分以上違ったけれど、今はちょうど頭一つ分くらい……というには、まだ足りてないか。残念。
クライブの公式身長は、乙女ゲーらしいハイスペックさで183cmぐらいだった気がする。兄は179cm。微妙に180cmにはcm届かなかったことが妙に印象に残っている。
(ということは、いま私は150cm代後半ってところ?)
この年齢で、特に夏にかけてよく伸びる時期だから、初めて会った時よりは伸びているのかもしれない。
確かアルフェンルートのゲーム時の身長は、ヒロインの1歳年下の15歳ということで160cmだったはず。
最低でもそこまでは伸びると信じているけれど、実際に伸びていると実感できると安心する。やっぱり身長はあった方が性別の誤魔化しがきく。
「身長が伸びて喜ぶなんて、殿下もお年頃ですね」
自然と顔が綻んでしまっていたのか、クライブが微笑ましいものを見る目で私を見下ろしていた。
別にそういう意味で嬉しかったわけじゃないけれど、誤解されていた方が有り難いので「高い方がいいでしょう」と神妙に頷いておいた。
「成長ついでに、もう少し体も丈夫にしていただきたいところですが」
不意に痛いところを突かれて、ギクリと体を強張らせた。
先日諦めていたはずだけど、まさかまだ私に鍛えろというつもり!?
恐る恐る伺えば、苦笑いをしているクライブと目が合う。
「どうにも無理そうですので、こちらをご用意しました。殿下、お手を」
「はい……?」
クライブが立ち止まったので、釣られてその場に立ち止まる。言われるままに片手を差し出せば、手を取られて掌を上向きに引っ繰り返された。
その上に、クライブが胸ポケットから取り出した細長い物を乗せる。
「これは、ペンですか?」
小首を傾げながら、掌に載せられた物を暫し見つめる。
持ち手部分が琥珀で、持ち歩き用なのかキャップが付いている。それを外せば、金属であることを示して鈍く輝くペン先が現れたので驚いた。
この世界には万年筆やボールペンはまだなく、羽ペンが主流だ。だけど近頃ではペン先が金属のペンが一部で使われていたりする。
言ってみれば、漫画を描く際に使うGペンや丸ペンに似ている。あまり出回っていないし、主に使っているのはペンの消費が激しい文官の高官クラスだと思う。まだ値段も高いし。
「殿下は護身用の短剣も持ち歩かれていないでしょう?」
「はい。持っていても、取り上げられたら逆に危なくなるだけだと言われていますから」
それでどうしてペンを渡されるのか。
怪訝な顔になって、まじまじとペンを見つめる。『ペンは剣よりも強し』という言葉はあるけれど。
「万が一襲われたときは、これで敵の目を突けと……?」
そういう意味の格言ではなかったはずだけど。
それにいざとなっても、そんな恐ろしいことは咄嗟に出来ないと思う。思いつくとしたら殴るか蹴るか、目潰しするといっても、砂を握って投げつけるのがせいぜいでは?
サイコパスじゃあるまいし、咄嗟に人の目を突くなんて考えられない。考えたとしてもやるのは躊躇する。
スプラッタもグロも苦手だったから、その感触を想像しただけで背筋がゾッとする。
「殿下、結構えげつないことを仰られますね。とても出来るようには見えませんけど」
「出来ない自信はあります」
「そんなことを自信たっぷりに言われても心配になるのですが……。そんな無茶は言いません。人は急所を狙われれば当然庇いますし、特に首から上は手で邪魔されて、思うようにうまくはいきません」
頷いた私に呆れた顔をしたけれど、すぐにクライブは顔を引き締める。次いで、突然いざという時の対応講座を開きだした。
困惑しつつも、真面目な顔に気圧されて大人しく耳を傾ける。
「ですからもしもの時は、これを暴漢の太もも辺りを目掛けて振り下ろしてください。大した怪我にはなりませんが、痛いものは痛いですし、足をやられれば追いかける速度も落ちます。それぐらいなら、殿下にも出来そうでしょう?」
「たぶん、それならなんとか出来そうです」
目玉を狙うのは無理だけど、太ももぐらいならなんとかいける気がする。
そういえば昔シャーペンを誤って逆向きに持って芯を出そうとしてしまい、泣くほど痛い思いをしたことが何度かある。シャーペンの先程度であの痛みなのだから、Gペンレベルを故意に振り降ろされれば相当堪えるはずだ。
なるほど、と大きく頷けば、クライブが安堵の息を吐いた。
「それではこちらは差し上げますので、どうぞ護身用に肌身離さずお持ちください。勿論、普通にペンとして使っていただいても問題はありません」
街に出るから念の為に今だけ貸してくれるわけではなく、くれると言われて慄いた。
だって見るからに高そう。少なくとも、簡単にぽいと人にくれてやるものではない。
「私が頂いてしまってよいのですか?」
「殿下、お誕生日だったのでしょう」
驚きに目を瞠って聞き返せば、クライブが笑う。
「それは僕からの贈り物です。受け取ってください」
「!?」
まさかクライブからも誕生日祝いを贈られるなんて。
夢にも思わない事態に動揺のあまり絶句してしまった。
(クライブが!? 私に!?)
しかもある意味、兄よりもずっとまともだ。いや、兄の心遣い自体はとても嬉しいけれど。
機能的には本来のペンとしての役割を求められてはいないけれど、今まで丸腰だった私としては、ちょっとした武器が手に入っただけでも心強く感じる。
(そっか、だからキャップが付いてるんだ)
通常、ペンは持ち歩くものではないのでキャップはない。それをわざわざ持ち歩けるように考えてくれたんだと思う。短剣ほど大仰でもなく、私でも簡単に扱えるものを。
私の為に、考えてくれたんだ。
そう思い至ると同時に、じわり、と胸の芯が熱くなるのを感じた。ぎゅっと掌にペンを包んで、クライブを見上げて笑いかける。
「ありがとう、クライブ。大事にします」
「!」
自然と笑顔になれたのは、本当に嬉しいと思えたから。
「……殿下が僕に笑いかけてくれたのは、今が初めてな気がします」
しかし私の喜びに水を差し、一瞬目を瞠ったクライブが動揺したように呟いた。
それはさすがにないでしょう。ちゃんと愛想笑いしているというのに。
「そうですか? いつも笑っていると思いますが」
即座に笑顔を引っ込めて眉を顰めれば、「いつものは愛想笑いではありませんか」とクライブが渋い顔で言う。
どうせバレているだろうとは思ったけれど、突き付けられると少しバツが悪い。
「ですから、僕に対してちゃんと笑ってくれたのは、これが初めてです」
きっぱりと言い切られて振り返ってみれば、確かにそうかもしれない。
それが伝わったのか、不意にクライブが真面目な表情になって私の顔を覗き込んできた。
「近頃の僕は、多少は殿下の御目に適っているということでしょうか?」
緑の瞳に見据えられて、思わず狼狽えて口籠る。
思い返してみれば、近頃のクライブはやたら好意的だ。いっそ恐ろしいぐらいに。
偏見と先入観と過去の行いのせいで、ついこうやって歪んだ目で見てしまうけれど。特に過去の所業はクライブ自身の責任だから、私にそういう目で見られても文句は言えないことだと思うけど。
でもそれらを一旦脇に置いて見れば、私に対する近頃のクライブの態度は真摯ではある。
何か企んでるんじゃないかって一応考えはするし、たとえどれだけ仲良くなろうと、兄に何かあればまた殺伐とした関係に戻るんじゃないかという不安も拭えない。
それでも。
信頼までは出来ないけど、ちょっとぐらいは向けられる好意を信じてもいいんじゃないか、とは思いかけてる。
そんな風に考えそうになっている自分は、我ながら甘いというか。危機感が足りないというか。
(私は自分で思っている以上に、馬鹿なのかもしれない)
人に好意を向けられるのはくすぐったくて、心地いい。
騙している罪悪感は勿論あるけれど、嬉しい気持ちも止められない。
(今の私はそういう感情を人からもらうことって、あまりなかったから)
例えば本来は一番近くにいるはずの、世間一般なら無条件で愛してくれるはずの人達からの愛がなかった。
親と兄は言わずもがな、エインズワース公爵は歪んでいるし、その取り巻きもあけすけな下心しか見えなかったから信じられなかった。
メル爺は大事にしてくれたけど、彼にも自分の守るべき家庭があるから、いざという時の一番に私はなれない。
守ってくれていた乳母も今は傍にいないし、それに乳母は『メリッサの母』という印象の方が強かった。彼女は私に仕える身であり、どうしたって私はただの子供にはなれなかった。
そしてメリッサは同じ年の女の子だから、そこまで求めるのは無理がある。セインも同じく。
今でこそ兄が気にかけてくれるけど、これまで空っぽだった分はそう簡単には埋まらない。それに騙している分、心から甘えることも出来ない。
おかげで私の持っている愛情貯蔵タンクは、常時給水待ちの状態だ。
昔の私がある程度は埋めれても、それは「今の私」が受け取ってきた愛情ではない。
今の自分にはそれほどの価値がないのだと、いつもそう感じてしまう。
だからたまに向けられる純粋な好意に弱い。見返りを求められているわけではないのだと思えば、特に。
そういう感情に耐性がないから、向けられると簡単に飛びついて、喜んで受け入れてしまいそうになる。
本来クライブは、私に好意を向ける必要はない。兄が私を気にかけているからといって、ここまでクライブが優しくする必要もない。
それにクライブは既に兄の信頼を勝ち得ている位置にいるわけだから、私に取り入っても得るものも何もないのだ。
それなのに、わざわざこんな風に好意を向けてくれる。
それを突っぱね続けられる程、私は残念ながら強くはなかった。
……たとえそれが、私を襲った相手だとしても。
私を襲ったことだって、兄を想っての行動だと思えば、情に厚い人なのだと考えられる。私に私の守りたいものがあるように、クライブにはクライブの守りたいものがあった。それだけなんだと思う。
襲われた私からしたら、堪ったものではないけれど……クライブの気持ちは、一応は理解できる。
それに今は、クライブが私を害そうとする気配は微塵も感じられない。時折、悔いている気配も感じられる。
そうとわかってしまうから、性質が悪い。
おかげで必死に線引いて踏ん張っていないと、あっという間に向けられる好意に甘んじて転がり落ちていきそう。
近頃はそれが怖い。
(最初から知らなければ、失う恐怖なんて感じなくて済むのに)
いま手に入れたと思ったものは、いつかきっと零れ落ちていく。
それがわかっているから、本当はこの先に踏み込みたくはない。
「…………以前ほど、クライブを嫌いではないです」
だからこの一言を呟くだけでも、正直とても勇気がいった。
正確には嫌いというか、苦手だった。怖かった。いまも苦手か苦手じゃないかと訊かれたら、こんな立場の私に対して今みたいな想定外ことをするから、何を考えているかわからなくて苦手な部分はある。
それに私が女だと知られたら、と考えるとどうしようもなく恐怖する部分も、なくなるわけではない。
(でも、嫌いじゃない)
好きかと言われると、……それはまだちょっと考えさせてほしいけど。
「そうですか。それなら、よかったです」
チラリとクライブを見やれば、なぜかこんないいかげんな返答だというのに嬉しそうに笑っていた。
目尻まで下げられた、その屈託のない笑顔に心臓がドクリと脈打つ。
いや、でもこれはトキメキじゃないから。きっとこれはただの動揺だから。そんな笑顔を向けられることなんて想定していなかったから、驚きすぎて不整脈を起こしただけだから。
本当に、ただそれだけで……!
(やっぱり苦手なのは変わらないかも)
正視に耐えなくて、貰ったペンを大事に胸ポケットに収めることで視線を逸らす。
しかし、私は今までは嫌いだって言っているようなものなのだけど……それでいいの? 本人がそれで納得しているなら、別にいいんだけど。




