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幕間 これが僕らの愛しき日々(中編)

※クライブ視点


 複雑な気持ちを持て余しながら、隣を歩くアルト様にチラリと視線を落とす。

 男装は久しぶりに見た。その姿は今もまだ違和感を覚えない。元々中性的な顔立ちなので、化粧をしていなければ綺麗な少年にしか見えない。元々胸も控えめな方だから……

 そこまで考えて、これ以上は咎められそうだと目を逸らす。


(でもこんな格好だと手も繋げないな)


 器用に人波を擦り抜けていってしまうので、出来れば手を繋いで捕獲しておきたい。しかしこの姿のアルト様と手を繋ぐのは世間の目が気になる。兄弟というには全く似ていないので、僕が人攫いに思われそうだ。

 それはかなり複雑だと思い、思わず小さく嘆息が零れる。


「怒っているのですか?」

「別に怒っているわけではありません。今日ぐらい、アルト様のお好きになさればいいと思っています。ただ手を繋げないので困っているだけです」


 ばつが悪そうな顔で僕を見上げるので、一応訂正しておく。

 複雑な生い立ちのアルト様だ。15歳という成人年齢を迎える今日という節目に、心の区切りをつけたくてこの格好をした可能性もある。その胸の内は僕には計り知れない。ここは見守るべきなのだろう。


「そんなに心配しなくとも、クライブを置いていったりはしません」

「つい先程、焼き菓子の匂いに誘われて僕を置いていきかけたではありませんか」

「それは、つい……だから今は気をつけています。でもまだ日は出ていますし、もしはぐれてもこの辺りは慣れていますから」

「そういう油断が命取りになるのです。何かあってからでは遅いのです」

「これでも逃げ足には自信がありますよ? 逃げる訓練だけはメル爺に徹底されていましたから」


 渋い顔で注意した僕に対し、アルト様が真顔でそんなことを言い出す。

 確かにアルト様の逃げ足は早い。逃げる時の迷いのなさには感嘆すら覚える。

 騎士である僕は『逃げる』という選択肢は余程でなければ考えられないので、少し不思議な感覚だ。だが王家に生まれたのならばその身を守り、血を繋ぐことが重要だと叩き込まれているのは当然と言える。

 でもそうでなくとも、アルト様は誇りよりも生を重要視していそうだ。セインにも、まずは命を大事にするように言い聞かせていた。

 それはずっと己の身の不安定さに晒されてきたアルト様だからこその感性かもしれない。

 誇りを重要視してしまう僕とはまた違う考え方ではあるけれど、生に重点を置く彼女の気持ちもわからなくもない。きっといざという時は僕が惜しまない分、彼女が惜しんで、諦めないでいてくれる気がする。

 そう思えばそれはそれで愛しく、尊重すべき考え方なのだろう。


「スラットリー老とはどんな訓練をなさっていたのですか?」


 いい機会だから、ふと気になったことを問いかけてみた。

 どうやったら、後宮で静かに暮らしていたはずの皇女の逃げ足が鍛えられたのか。密かに疑問だった。


「後宮の二階はほぼ私関連でしか使われていないので、よくそこでメル爺と追いかけっこをしていました」


 それだけ聞けば、微笑ましい話に思えた。

 しかしアルト様の顔に笑みは一切ない。ひたすらに真顔だ。少し蒼褪めているようにも見える。


「言っておきますが、全く甘くないです。あのメル爺が本気で殺気を出して追いかけてきます。制限時間内を逃げ切ればご褒美がありますが、捕まったら恐ろしい目に遭います」

「……差し支えなければ、どんな恐ろしい目に遭うのかお訊きしても?」


 低く重い口調に気圧され、ごくりと喉を嚥下させた。

 アルト様を溺愛していたスラットリー老が罰を与えるのは想像できない。だがアルト様の目は当時を思い出しているのか虚ろだった。


「寝る前の読み聞かせが、医学書の朗読になりました」


 拍子抜けするほど大したことない。そう思ったのが伝わったのか、アルト様の虚ろが増す。


「ただの朗読ではありません。生々しい詳細な実例を引用しての講義です……子供心にトラウマになりました」

「スラットリー老はなんてことをしてくれているのですか」


 絶句してしまった。従軍経験のある医師の実例付き講義だなんて、どう考えてもそれはトラウマになる。いったいあの医師はどんな子育てをしていたんだ。

 そんな思いが顔に出てしまっていたのか、アルト様が慌てて目に光を戻して眉尻を下げた。


「メル爺も慣れない子育てに試行錯誤していたのだと思います。ただそのせいで私が医学書を見ると泣くようになってしまって、乳母には相当怒られたと後で聞きました」

「それは怒られて当然でしょう」

「ですから講義はほんの数回のことだったのですが……でもまた同じ目に遭ったら、と思ってしまっていつも全力で逃げていました」


 思い返すように遠い目をして、「今思えば」とアルト様が続ける。


「メル爺は私を医師にしたいと考えていたのでしょう。医師は希少ですから。少しでも私の価値を高めて、生き延びる可能性を上げようとしてくれていたのだと思います」


 静かに語られた声には信頼と愛情が滲んでいた。

 僕らの見えない場所で繰り広げられていた彼らの足掻きを知れば、思わず胸の奥が引き絞られた。

 やり方を間違えて結果として実にはならなかったようだが、少しでも彼女を生かすための行為だったというのならば。

 そこには切実な祈りが滲んでいるように思えた。

 アルト様もちゃんとそれを汲み取っているのだろう。苦笑いはするものの、トラウマを植え付けられたと言う割に恨みは見えない。不器用な愛情も大切に思っているのが感じられる。


「メル爺の期待に応えられなかったことは申し訳なく思います。それでも今こうしていられるのだから、私は幸運です」


 僕を見上げて目を細め、ふわりと笑う。

 そこには以前は纏わりついていた深い陰りは見えない。柔らかく穏やかで、そんな顔が見られるようになったことにトクリと心臓が跳ねた。

 けれどそれに見惚れることができたのは一瞬で、すぐにアルト様は目線を道の先に向けていた。


「あ、もうすぐそこを曲がれば花屋です」


 示されて入った道は大通りからは数本外れているが、それなりに人が行き交っていた。人の流れが激しい大通りと違い、そこで暮らす人が主に使っている道らしく穏やかな空気が流れている。

 道沿いにある一際華やかな店先では、アルト様より少し年上に見える赤毛の少年が花を纏めていた。それに向かってアルト様の歩調が少し速まる。


「ロイ!」


 呼ばれて顔を上げた少年は、アルト様を見て怪訝そうに首を傾げた。それはそうだろう。この店に来るのは初めてではないが数か月ぶりだし、この姿で来るのは初めてである。

 混乱させてしまうことに申し訳ない気分で隣に立つ僕を見て、彼はやっとアルト様だとわかったらしい。顔が盛大に引き攣る。


「アル!? おまえ、なんつー恰好して……らっしゃるんですか」


 彼の動揺と困惑は当然と言える。突っ込む口調が乱れかけたが、客商売だけあってすぐに取り繕われる。


「これはただの趣味みたいなものだから、気にしないでくれると助かる。あと、普段通りにしてくれた方が嬉しい」


 言い訳にしては無理があるが、アルト様が淋しそうに眉尻を下げて訴えた。たった1ヶ月とはいえ、ここで暮らしていたアルト様にとって彼は大事な友人である。

 ロイは僕の方に伺う視線を一瞬だけ寄越した。僕のことは気にせず、出来るだけ彼女の意を組んでほしいと頷いて見せる。すると諦めたように小さく息を吐き出していた。


「怖いから深くは突っ込まねーけど……そういえばよく注文くれてありがとな。アルから注文受けた後、得意先が結構増えた」

「ロイのお店の花は持ちがいいって評判だからね」

「そう言ってもらえると嬉しいな。で、今日は直に来るなんてどうしたんだよ」

「ロイの顔を見に来たというのが一番だけど、マリーさんに花束を贈りたいんだ。あと工房の方にも。工房は鉢植えがいいかな。おすすめはある?」


 呆れた声を出す相手に苦笑いして、アルト様は随分と砕けた口調で注文を入れる。それに対し、彼は普通の友人として対応することにしたようだ。

 彼はアルト様が何者なのか、直接訊いてきたことはない。しかしアルト様も請求先を後宮にしているぐらいなので、隠しているわけでもない。それでなくとも近衛姿だった僕が彼女を迎えに来たことも知っているわけだから、嫌でも察しているはずである。

 それでもあえて訊かないのは、真実を明確にしない方が幸せだと思っているからだろう。知らないフリを貫き通すからこそ、これまで通りでいられるという面もある。

 彼はぶっきらぼうに見えて花を扱う手は丁寧であるし、案外周りを細かく見て気を回す性格なのかもしれない。

 そんなことを考えながら見守っていれば、花の注文はいつの間にか近況報告に変わっていった。


「そういえばつい先月、リズも来たぞ。あいつ、その……男連れで来たんだけど」

「弟かな?」

「あの生意気なガキじゃなくて、ほら、前にアルがリズを任せたろ。あいつと」

「ラッセル? リズが泊まりで遊びに来るとき、帰りの護衛を任せてはいるけれど」

「それだけって感じじゃなかったんだよ。なんつーか、リズのあんな顔初めて見た。嬉しそうっていうか、なんかもう……もう、なんだよ」

「……」

「そこで黙られると俺の立場が無いだろ」


 話している内に顔を顰めて項垂れた相手に対し、アルト様はなんとも言えない複雑そうな表情をしている。

 ロイは喉を鳴らして呻いた後、やるせなさを散らしたいのかぐしゃりと自分の頭を掻く。


「今となっては身分が違うってわかってんだけど。一度ぐらいは告るべきだったな、とか……くそっ。女々しすぎかよ」

「リズは今の立場に関係なく、ちゃんと考えてくれると思うよ」

「簡単に言うなよ。困らせるだけだろ。これでも、リズがそっちでもちゃんと幸せそうでよかったって思う気持ちもあるんだよ」


 八つ当たりで睨んでくるロイに対し、「うん」とアルト様が眉尻を下げて頷く。アルト様が真剣に耳を傾けているのが伝わったのか、すぐに我に返ってばつが悪そうに「……悪い」と目を逸らす。

 それでも胸の内のわだかまりを口にしたことで少しは吹っ切れたらしい。次にアルト様に向けられた顔は幾分すっきりとして見えた。


「ここで言っててもどうしようもないな。かっこわりぃだけだ。もしまた機会があったら、今度は後悔しないようにやれることをする」


 宣言する彼を見て、アルト様が眩しそうに目を細めた。ちょっとだけ微笑んで、背中を押すように頷く。

 ロイはそれに苦笑いを返してから、新たに店に立ち寄った人に気づいて焦ったように目をやった。「悪い、客が来た」と断って意識をそちらに向けてしまう。

 思ったより長話をしていたので、出かける時から西に傾いていた日は既に赤く染まっている。アルト様もそれ以上は長居する気はなかったようで、「またね」と告げた。

 次があることを約束する挨拶に、相手も片手を上げて応えた。それを見てほっと頬を緩めると、僕を促して店を後にする。

 大通りに戻る道を暫し歩いた後、隣に視線を落としてアルト様を伺った。何か考え込んでいるのか、先程から無言だ。

 それがなんとなく心ここにあらずな感じで淋しい気がして、以前から気になっていたことを問いかけてみる。


「アルト様は、御友人には随分砕けた口調でいらっしゃいますね」


 すると意識を引き戻される形となったのか、弾かれたように顔が上げられた。深い青い瞳に僕を映し、困ったように眉尻を下げて笑う。


「男の子みたいでしょう?」


 他の人にばかり気安くて羨ましいという気持ちでいたので、そう切り返しが来るとは思わなかった。なんと答えたものか一瞬悩んで、曖昧に頷くに止める。


「つい癖で普通に話そうとすると、ああなってしまうのですが……実のところ、あまり得意ではないのです。演じているようで」


 言われた言葉がチクリと胸に棘を刺す。今更ながらに自分の浅はかさに言葉を失った。

 考えてみれば好きで男でいたわけではないアルト様からしたら、その口調はきっと好んでしていたものではない。

 そういえば、あまり話さない子供だったと聞いたこともある。声も女性にしては低い方だし、思い返せば今より低めに話していたようだけど、それでも性別を偽る際には気になったところだろう。


「これはメリッサ達には内緒ですよ。知れば気にさせてしまうでしょうから」


 アルト様は目元を笑ませると、立てた人差し指を唇の前に持ってくる。

 これまでずっと胸の内に仕舞っていたことを教えてくれたのは、僕に気を許してくれているからこそだとわかる。もしかしたら拗ねている僕に気づいて、仕方なく教えてくれたようにも思えた。


(何を気を遣わせているんだ……っ)


 でも僕が謝ったりしたら、彼女の気遣いを台無しにすることになるとわかる。


「勿論、秘密にします」


 顔を引き締め、ここは深く頷くに止めた。

 アルト様は僕の胸の内すら見透かしているのか、許すかのように微笑んでくれた。




「それにしても、リズがラッセルと」


 仕切り直しのつもりなのか、アルト様は唐突に話題を切り替えた。でも僕に言っているというより、半ば独り言に聞こえる。


「まさかのダークホース。そうなる原因を作ってしまった自分に責任を感じます。胃が痛いです」


 よくわからない単語を口にしながら、僕にはわからない葛藤があるらしく深く嘆息を吐き出す。

 どうやら先程の彼と、アルト様の友人であるエリザベス・フェラー伯爵令嬢のことを言っているらしいことはわかる。幼馴染だという二人の恋愛の方向が行き違ってしまっているのか。他人事のはずだと言うのに、ひどく悩ましげな面持ちだ。

 これに関しては、僕の範疇外なのでどうしてあげられようもない。


「少し休憩されますか? といっても夕刻の鐘までそんなにありませんから、お疲れでしたらもう帰りましょうか」


 元々アルト様は昼間は用があったのか、城を出てきたのも昼を随分回った遅めの時刻だった。既にこれまでに歩いている時に見つけた焼き菓子を買って食べ、寄りたいと言っていた花屋も終わった。マルシェを見たいのかと思っていたが、足の向く先を見る限りその様子もない。

 だからそう申し出たわけだが、アルト様は驚いたように目を瞬かせた。


「これからが今日一番の目的ですよ。今日は夕食を取ってから帰るのです。お父様にもそう許可は頂いてきています」

「そうなのですか!?」

「そうなのです。そろそろお店も開く頃でしょうか」


 言いながらアルト様が空を仰いだ。赤く染まった夕日はもうすぐ沈んで行きそうだ。

 しかし夜にやっている食事処というのは、露店か居酒屋が圧倒的に多い。アルト様でも入れそうなちゃんとした食事を出してくれる店もあるが、正装でなければならない。

 しかしアルト様は男装。自分も地味な服ということで、貴族には見えるものの簡素に済ませている。とてもじゃないが入れない。

 それなのにアルト様は自信たっぷりに歩いていく。そういえば行きたい店は決めてあると聞いていた。

 だが軽やかな足取りで向かう先に、嫌な予感しかしない。


「本当にこちらなのですか?」

「はい。ニコラスにはこの辺りにあると教えてもらいました」


 アルト様が向かう方向には、彼女が入ってもおかしくなさそうな店はない。大通りから少し外れているとはいえ城寄りだから治安は悪くないが、その辺りは城で働く者が帰りに立ち寄って食事を取る店が並ぶ。

 いわば、平民向けの大衆食堂居酒屋だ。

 特に仕事明けの衛兵が腹ごしらえを兼ねて飲んでいく店が多い。僕も宿舎の食事に飽きるとよく同僚を誘って来たりする。近衛は貴族で構成されてとはいえ、体を使う仕事柄、質より量が欲しい時もある。食事はこういう店で平民に混ざって取ることは珍しくない。


(でも、そんなまさか。ニコラスがこの手の店を紹介するわけがない)


 ふざけたところのある同僚だが、皇女にそんな店を薦めたとは思いたくない。男として育てられたといっても、この方は紛れもなく女性。今日で誕生日を迎えたので子どもとまでは言わないが、それにしても立ち入らせていい場所じゃない。

 きっと僕が知らないだけで、道を抜けた先に隠れ家的なまともな店があったりするに違いない。


「ここですね。首にスカーフを巻いた鶏の看板が目印だと聞きました」

「……冗談でしょう」


 一縷の願いを込めて必死に自分に言い聞かせていたけれど、無駄に終わった。

 足を止め、嬉々として店の看板を指さしたアルト様を見て絶望が押し寄せてくる。どう見ても、僕もよく行く店の一つだ。

 所詮は大衆食堂居酒屋。

 丁度その時、日没を知らせる鐘が鳴り響いた。同時に開店を知らせるように店の窓に光が灯る。その場に崩れ落ちたい気持ちでいる僕の前で、アルト様はそそくさと扉に手を掛けようとした。


「いけません!」


 慌ててその手を掴んで止める。

 するとアルト様は不満げに眉根を寄せ、小首を傾げて僕を上目遣いに見た。あざとい。しかし、ここで絆されてはいけない。


「お手頃価格で美味しい料理を提供してくれる、近衛騎士も御用達のおすすめの店だとニコラスに聞きました」

「それは確かにその通りなのですが、ですがアルト様は駄目です! ご自分の立場をご理解ください!」


 店の入口で揉める僕らに胡乱な目を向ける周囲を気にして、一応は潜めた声で叱りつける。だがアルト様は全く堪えた様子を見せない。


「クライブ、だからこそです。私がこの手のお店に入れるのは、顔の知られていない今ぐらいしかありません。これは市井を知る機会なのです。それに近衛御用達ならば安全は保障されているでしょう?」


 真面目な顔で尤もらしい理由を言われて、一瞬ぐっと喉が詰まった。


「大丈夫です、大人しく食事をするだけです。それに私もいつもの姿では目立つと思い、この為にわざわざ男装してきたのですから」

「そんな理由でその格好でいらしたんですかッ!?」


 もっと深い理由があると思っていた僕が馬鹿みたいだ。いや、それも全くないわけではないだろうけど、今はそれは置いておこう。

 足を踏ん張り、僕を見据えて諦める様子を見せないアルト様に頭が痛くなってくる。

 確かにアルト様の言うことにも一理ある。でも軽やかな足取りで向かっていたことを考えると、理由はきっと後付けだ。単純にこの手の店に入ることをものすごく楽しみにしていることぐらいは目に見えてわかっていた。

 だからもしここで僕が無理にやめさせれば、落胆させてしまうこともわかる。

 誕生日なのだから好きにさせてあげるべきなのか。陛下が許可を出したと言うことは、これも含めてなのか。シークならばどうしただろう……駄目だ、アルト様が強請ればあっさり許可を出しそうな気がする。

 僕が過保護なだけなのか? 何が正解かわからなくなってきた。

 だいたいどうしてニコラスはアルト様にこういう店を教えてしまうんだ。この方の不可解な方に発揮される行動力を甘く見ないでほしい。一体どれほど僕が振り回されてきたことかッ。


「そこで入口を塞いでると他の客の邪魔になりますよ?」


 悶々と自分と戦っていたところで、少し間延びした第三者の声が投げかけられた。

 反射的にアルト様を背中に庇ってそちらを振り返れば、くるくるとした癖の強い金髪が視界に入る。途中から声でわかっていたが、こちらに向かって歩いてきたのは脳内で責めたばかりのニコラスだった。

 僕の背に庇われたアルト様が後ろからひょっこりと顔を出す。


「ニコラス。なぜここにいるのですか」

「今日の仕事を終えたので食事を取りに来たんです。せっかくアルフェ様にここの食事券もいただきましたしね」


 言いながら、制服姿のままのニコラスが胸ポケットから一枚の紙を取り出して軽く掲げた。


(食事券?)


 怪訝な顔をした僕を見て、ニコラスが「アルフェ様が世話になったからって、今日くださったんだよ。オスカーとフレディも頂いてたし、デリックだって渡されてたけど」と教えてくれる。

 なぜアルト様は自分の誕生日に食事券を配り歩いているんだ。

 アルト様に問いかけようとしたところで、ニコラスが「とりあえず邪魔なんで、さっさと入りましょう」と僕の腕を掴んだ。有無を言わさず店に入っていく。

 アルト様はこれ幸いと言わんばかりに一緒に付いて入ってきてしまった。店に入れば店員が慣れた仕草で「お好きな席にどうぞ」と声を掛けてくれる。勝手知ったる店なので、ニコラスは僕を引きずって奥の四人席に陣取った。

 アルト様もちゃっかり席に腰かけている。仕方なく頭を抱えて隣の席に着いた。その間、アルト様は店内を見渡して目を輝かせる。

 店内は汚くはないが、綺麗とも言えない。年季の入ったテーブルや椅子は傷だらけだし、壁には食べ物の匂いや染みが付いている。アルト様はそんな店でも眉を顰める気配は欠片もなく、どころかご満悦である。


(こうなったら仕方ないか)


 こんなにも楽しそうなアルト様は滅多に見られない。先日仔猫と会った時とはまた違う機嫌の良さだ。それを見れば諦めも湧いてくる。


「それで、なぜアルト様がこの店の食事券なんてものを配られていたのですか」

「私がこうして今日を迎えられたのは、周りの方の助力あってこそです。ささやかですが、感謝の気持ちとしてお贈りしました」


 僕の問いに、アルト様は当たり前の事のように答える。

 だから今日は花屋で、以前暮らした大家と勤めていた工房にも花の手配をしていたのか、と気づかされた。ロイには何も渡していなかったが、得意先が増えるようにしていたようだし、後で多めに支払いをしそうな気がする。

 アルト様は与えられることを当然とは思わない。いつだって感謝を忘れない人だった。


(こういうところも好きになったのだった)


 じわりと胸の奥に温かいものが込み上げてくる。ぎゅっと手を拳にしていないと、愛しくて抱きしめてしまいたい衝動に襲われる。

 しかしなぜかそれを違う風に誤解したらしいアルト様は、ハッと気づいた顔をした。


「クライブに食事券を渡していないのは、今から御馳走する予定だったからです。仲間外れにしたわけではありません」

「誰もそんな心配はしていません! それ以前に払わせるわけないでしょう。今日はあなたを祝う為に来たんですよ?」


 こんな場所になってしまったけれど。

 アルト様は顔を顰めて「それでは御礼になりません」と言うが、一旦聞かなかったことにする。


「なぜニコラスはアルト様にこんな店を紹介したのですか。もっと相応しい店もあったはずです」

「俺だってアルフェ様がいらっしゃるとは思ってなかったよ。騎士連中が好んでいくおすすめの店はどこかって聞かれたから答えただけで」


 ニコラスも想定外だった、と顔に書いてある。

 だが今日こうしてここに来たということは、半分ぐらいはアルト様も来そうだと予想はしていたんじゃないだろうか。


「まさかアルフェ様にここの食事券を頂けるとは思ってませんでした」

「私の晩餐に招待するより、気に入っているお店で気の置けない方と食事をする方が楽しいでしょう。その節は情報をありがとう」

「いえいえ。おかげでこうして頂けたわけですから」


 僕そっちのけで、ニコラスとアルト様はにこやかに会話をしている。

 アルト様にとってニコラスは遠縁に当たるので、親戚枠に入れているらしく他より気安いらしい。ニコラスも変に構えたりしないので、それが楽なのもあるのだろう。


「それはそれとして、なんでニコラスまで僕らと同じ席に着いているんですか」

「だってクライブ、飲むだろ。食事券のお礼に今夜のアルフェ様の護衛は勤めるよ?」

「飲むわけないでしょう!」

「えっ。飲まないのですか……クライブはお酒に強いと聞いていたのですが」

「強いのは否定しませんが、今日は飲みません」


 隣に座るアルト様がひどく驚いた顔で僕を見た。

 なぜ飲むと思われていたんだ。万が一にもアルト様の護衛に差し支えるような真似をするわけがない。


「そうですか。残念ですが、無理強いは出来ません」

「じゃあ俺は1杯いただきます。まったく酔わない体質ですし、遠慮なく」


 それを聞いたアルト様はなぜかほっとした顔をした。そして嬉々として手を上げると、「すいません」と店員を呼び止める。

 ……なぜだろう。その様が、とても場慣れているように見えてしまった。そんなことがあるわけないのに。


「お店一押しメニューと、今日のおすすめを三人前お願いします。それと麦酒を二つ」


 注文を聞きに来た店員の娘に笑顔で注文していく。しかし最後の麦酒二つが気になった。

 なぜ、二つ。もうここに来てから嫌な予感しかしない。そして大抵アルト様に関する僕の嫌な予感は、外れない。

 しかし僕が突っ込むよりも早く、「そういえば」とニコラスがアルト様に話しかけた。


「新婚旅行、スラットリー老のところに行かれるんでしょう? 今から楽しみですね」

「え?」


 アルト様がぽかん、と間の抜けた顔をした。反して僕は、焦ってニコラスを睨みつける。

 僕らの顔を見て、ニコラスが糸目を驚いたように見開いた。責める眼差しを向ける僕を見返し、「まだ言ってなかったのか」と少しバツが悪そうに口元を歪める。


(今日言うつもりだったのに)


 現在スラットリー老が暮らしているのは、海沿いの辺境の地だ。今は平和とはいえ、かつては隣国との小競り合いがあった場所でもある。それに加えて王都からだと、往復でかなりの時間を要する。

 そんな場所に至宝であるアルト様を行かせることに反対する声も多数あった。だから計画倒れでぬか喜びさせることになったら可哀想だと思って、決まるまで黙っていたのだ。

 先日やっとのことで反対意見をシークが捻じ伏せて、本決まりになったところである。それを。

 僕の『言われてしまった』とばかりの苦い顔を見て、冗談ではないと悟ったアルト様はみるみる大きく目を瞠った。


「……いいの?」


 瞳を揺らして問いかけられた声は、ひどく頼りなげな子どものようだった。

 スラットリー老は己の犯した罪をなかったことにする気はないようで、王都へ足を踏み入れることを自分に許さなかった。

 アルト様の成人の儀も、婚姻式の招待すらも、「自分が出ればケチがつきましょう」と固辞されていた。

 スラットリー老の年齢を考えれば、このまま生涯会えないこともアルト様は覚悟されていた。手紙のやり取りはしていても、それでもひどく淋しそうにしていた姿は強く記憶に残っている。

 アルト様にとって、本当に血の繋がった家族よりも絆の深い人だ。きっと誰よりも大好きで、大切な彼女のもう一つの家族だ。

 幸せになる姿を、誰よりも見てもらいたいと思っている人だろう。


「お会いしたいでしょう?」

「はい」

「でしたら、会いに行きましょう」


 はっきりと告げれば、信じられないと言いたげに目を瞠る。


「……ありがとう」


 噛み締めるように感謝の言葉を口にする。

 少し泣きだしそうに顔を歪め、けれど次の瞬間には涙を押し退けて花が咲き零れるように笑った。



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