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幕間 これが僕らの愛しき日々(前編)

※クライブ視点


 しばらく降り続いていた雨が止み、久しぶりに空から太陽が顔を覗かせた。窓から見える青空の下、木々は瑞々しい緑に生い茂っている。

 日差しの眩しさに、夏がもうすぐそばまで迫ってきているのが感じられた。

 これから徐々に暑い日が多くなっていきそうだ。しかし図書室に入れば、まだひやりとした空気に包まれる。紙が焼けないように極端に窓が少なくて日が入りにくいせいもあるが、人気も無いので余計にそう思わせるのだろう。

 しんと静まり返った部屋の中、並ぶ書棚の間を抜けて中二階へ続く階段を上がる。上がってすぐの場所に佇んでいた近衛のラッセルがすぐにこちらに気づいた。止められることはなく、「どうぞ」と目線だけで促される。

 示された先、窓の傍らに設置されたテーブルに目当ての人物はいた。

 細い体を包むのはクリーム色のシンプルなドレス。フリルやリボンは好まないのか一見すると派手ではないが、スカート部の生地には同色で繊細な刺繍が全面に施されている。

 しかし随分と手の込んだドレスを着ているというのに、本人は装うことにそれほど頓着しないらしい。癖のない金の髪は、今は邪魔にならないように飾り気のない紐で後ろでひとつに束ねられている。

 仕事中だからだとは思うものの、それにしたって年頃の女性がそれでいいのか。そんな心配が胸を過っていく。

 その時ふと紙を捲っていた手が止まった。気配に気づいてゆっくりと顔がこちらを向く。


「クライブ」


 アーモンド形の深い青い瞳が僕を映した瞬間、口元を自然と綻ばせてくれるようになった。

 寄せられる信用が垣間見えるその一瞬が、好きだ。


「こんにちは、アルト様。驚くほどの量ですが、大丈夫なのですか」


 挨拶をしてから、小さなテーブルに所狭しと山積みになっている資料を見て顔を顰めてしまった。

 シークの執務机もこれと似たような様相ではあるが、正式に成人するまであと半年あるアルト様は本来はまだ遊んでいてもいい年だ。それなのに、たまに陛下に頼まれてこうして調べ物を手伝っている。

 特にここ1週間は雨だったこともあり、ずっと図書室に籠っていたようだ。無理をしているのではないかと不安が過る。


「量だけ見ると驚きますが、難しいことをしているわけではありません。端的に言えば、資料を突き合わせておかしな流れが無いかを確認していくだけです。根気はいりますが、やっていることは単純です」


 アルト様はこともなげに言って苦笑するだけだ。


「たまに私が直感的に不正を暴くと勘違いしている方もいるようですが、監査というのは基本的に地道な作業です」


 至宝と謳われる彼女は自嘲気味にそう言うが、投げ出さずに黙々と向き合うことも才能と言えるだろう。机仕事が苦手な者であれば、三日と保たずに発狂して逃走しそうである。僕でも出来るだけ遠慮したい。


「ご無理はされていませんか」

「心配しなくとも、この手の作業は性に合っています。それに正しく税を徴収して、民に還元していく……その流れが淀むことがあっては、結果として国は衰えていきますから。不正を許さない姿勢は見せておくべきでしょう」


 慣れた仕草で散らかった資料を両手で揃えていきながら、ひどく大人びた表情で静かに微笑む。


「私がここでこうしていることで周囲の節度が保たれるのならば、存在する意味もあるというものです」


 アルト様は良くも悪くも、自分の価値というものをよく理解している。そしてそれを利用することを厭わない。

 この手の役職を背負う者は、逆恨みされることも多い。しかし彼女を排除することは事実上、不可能である。排除できたとしても、あらゆる方面からの報復は免れない。結果、得るものより失うものの方が圧倒的に多いと大抵の貴族は理解しているからだ。万一理解できないような愚か者であれば、彼女に辿り着く前に潰されるのが関の山。

 多分アルト様はそれすらも理解している。だからこそ、自分が筆頭に立つべきなのだ、と悟っているのだろう。

 確かに彼女以上の適任はいない。育ち方はどうであれ、彼女はやはり王族だ。当然のように民に尽くす公僕であろうとする。蝶よ花よと愛でられるだけの存在であることを、当人が自分に許していない。

 自分がここに存在することに、理由を作らなければいられない――今もそう思わせてしまうことが、少し苦しくはあるけれど。


「とはいっても、私は噛み合っていない部分を見つけるだけです。その後の対処は管轄外なので、単に間違い探しをしているようなものです。結構面白いですよ」


 顔を強張らせてしまったせいか、アルト様が和ませるように明るい口調で言った。

 しかし根を詰めていた分の疲労はあるだろう。気持ちを切り替えるように静かに息を吐き出した。テーブルを綺麗に片付け終えると、作業は終わりだというように結んでいた髪を解く。

 伸びた髪が華奢な肩口からさらりと滑り落ちてきた。それを指先で耳に掛けながら僕を仰ぎ見る。

 そのなにげない仕草に、ちょっとドキリとさせられた。完全に二人きりだったら、距離を詰めてしまっていたかもしれない。


「ところで、クライブからこちらに来るなんてどうしました?」


 僕の邪な胸の内に気づかなかったのか、アルト様はあどけない瞳で僕を見た。

 常ならば、天気のいい日のこの時間帯はアルト様が医務室まで散歩に来る。僕も図書室にいる時は極力邪魔をしないように遠慮しているので、アルト様が不思議そうに小首を傾げた。


「シークヴァルド殿下から、アルト様をお連れするように言われて参りました。ぜひ会わせたい者がいるとのことです」

「私に会わせたい方? ……兄様にもとうとうそんなお相手が」


 アルト様が驚きに目を瞠る。

 差し出された手を咄嗟に取って立ち上がったものの、緊張した面持ちが隠せていない。よほど動揺しているようだ。

 移動することを察したラッセルが傍らに来て、「資料は片付けておきます」と請け負ってくれる。僕がいる限り護衛は問題ないので、アルト様はそれに「頼みます」と応えてから歩き出した。

 その間も、緊張した表情のまま崩れない。


「仲良くさせていただけるでしょうか」

「そちらは全く問題ないと思いますよ、アルト様なら」


 シークが紹介したいと言った相手の姿を思い出し、笑いそうになるのを堪えて深く頷いた。



  *


 緊張した面持ちでシークの宮へとやってきたアルト様は、案内されたシークの私室に入るなり目を瞠った。

 正確には、シークに纏わりつく白と灰色の毛玉の姿を見て、だ。


「仔猫……!」


 息を呑み、小さく感嘆の声を上げた。

 シークへの挨拶すら忘れ、視線は仔猫に釘付けになっている。目がキラキラと輝き、口元が我慢できないと言わんばかりに綻んでいく。


「兄様。私に会わせたいというのは」

「これだ。しばらくロシアンの姿を見ないから住処を移したのかと思っていたら、先日子連れで帰ってきた」


 シークに飼われる形になっていたとはいえ、基本的にネズミ捕り要員の猫は放し飼いだ。正確には飼っているというより、共存していると言った方がいい。その為いなくなることはよくあるが、城内では見かけるので特に心配することもない。逆に仲間を連れてきて増えることだってあるのだから。

 今回は冬の終わりに白猫を連れてきたと思ったら、しばらくして二匹とも出て行った。

 そして帰ってきたと思ったら、これである。

 子猫に爪を立てて這い上がって来られているシークは、呆れを見せながらその内の一匹を剥がしてアルト様の膝に乗せた。親猫である灰色の猫も、珍しく取り返しに来ない。アルト様には子供を見せてもいいと思っているようだ。

 たぶんそれは、アルト様のこれまでの餌付けの成果だ。きっと僕より猫に信用されている。


「来たばかりの頃は弱っているのもいたが、ここまで元気になれば触っても問題はないだろう」


 説明するシークにアルト様は頷きはするものの、視線も意識もほぼ完全に子猫に奪われていた。さっきからひたすらに言葉も忘れて感じ入っている。

 細い指先で子猫を壊れ物を扱うかのようにそっと撫でて、頬を緩めっぱなしだ。

 否、頬だけでなく眉尻も目尻も下がり、口元はつり上がったまま固定されている。僕らの存在など眼中にない。完全に子猫に心を持ってかれていた。3匹いた子猫をすべてアルト様の膝に乗せたところで、小さくうわごとのような呟きが聞こえる。


「かわいい。ちいさい。ふわっふわ。肉球、ぴんく……仔猫パラダイス……ここは楽園?」


 そんな簡単に楽園認定していいのですか!?

 しかし見るからに『至福』と顔が物語っていた。アルト様にとって、ここは楽園に早変わりしたらしい。


(くそっ、かわいい……!)


 猫がじゃない。アルト様が、だ。

 未だかつて、ここまで幸せを噛み締めているアルト様を見たことがあっただろうか。溢れんばかりの満面の笑みは僕でもあまり見られるものではない。

 おかげで僕は猫に負けた感がすごい。

 けれど今は敗北感すらどうでもよくなる。アルト様が幸せなら、苦手な猫にも感謝しかない。脇に控えている僕も頬が緩みそうになるのを堪えるのに精一杯だ。緩んだ顔をシークに見られたら、後でからかわれかねない。

 しかしシークも子猫に骨抜き状態になっているアルト様を見て目も口も緩めているから、相当だ。


「アルフェは来週、誕生日だろう。一式用具を揃えてやるから、自分の部屋に連れていくといい」


 そう言われたアルト様がパッと顔を輝かせた。見るからに喜びを見せ、けれどなぜかすぐに肩を落とした。


「お申し出はとても嬉しいのですが、すぐにお別れしなければならないことを考えると難しいです」

「猫の寿命はそう心配するほど短くはない」

「寿命の問題ではなくて……その、嫁ぐときに連れてはいけませんから」


 躊躇いがちに告げて、眉尻を下げる。

 アルト様の落胆を察して、シークの淡い灰青色の瞳が責めるように僕を見た。猫ぐらい許してやれ、と顔に書いてある。

 きっと僕から猫の飼育許可を取り付けることも含めて、シークからの誕生日祝いのつもりなのだろう。猫はよくアルト様の精神安定に役立っていたし、シークとしては少しでも妹が心地よく過ごせる環境を整えてやりたいと思っていることが伝わってくる。

 この兄、今に始まったことではないが過保護だ。


(言われなくとも、わかってます)


 なんだかシークに言われたから言うようで癪だが、小さく咳払いをしてから口を開く。


「ちょうど屋敷にもネズミ捕り要員が欲しかったところですから、猫も歓迎しますよ」


 アルト様と婚姻後は近衛宿舎を退寮して、王都にあるランス伯爵邸に移ることになる。一時的にランス領で育成した騎士を預かる寮もあるので、それなりの広さはあるから猫が数匹加わったところで困らない。

 眉尻を下げたアルト様を不安にさせないように言い聞かせる。


「ですが、クライブは猫が苦手でしょう? 無理をしてほしくはないのです」

「苦手というか、扱いが難しいと思っているだけです。さすがに近頃は慣れてきましたから」


 やっぱり僕が猫を苦手だから、と遠慮していたらしい。

 こう告げてもアルト様はまだ胡乱気味だが、けして嘘ではない。シークの部屋に来るといるのだから、嫌でも慣れるというものだ。これまでにも何度脱走しようとした仔猫を捕獲させられたかわからない。


「それに、可愛いと思いますから……」


 猫がというより、猫と接するアルト様が、だが。

 しかし猫がいるからこそあの笑顔が簡単に引き出せるわけだから、けして嘘ではない。

 ちょっと躊躇いがちに口にすれば、アルト様が見るからにパッと顔を輝かせた。同士を得られた、と言わんばかり。猫を心底可愛いと思っている人なので、僕の言葉を疑いもしないで納得したようだ。


「では、本当にうちの子にしてしまいますよ?」


 うちの子、という言い方に一瞬動揺した。ぐっと心臓が鷲掴まれたかのようだった。

 そんな言い方をされれば絆されるに決まっている。ほんの僅かなわだかまりすらも一瞬で溶かされて跡形もなく消える。


「大丈夫です。うちの子にしましょう」


 必死に顔には出さないようにしたけれど、応える口元が緩みそうだった。

 そんな僕の視界の端では、シークが死んだ魚のような目で僕を見ていた。見せつけるな、と言わんばかりだ。

 でも先に言ったのはアルト様ですよね!? 僕は悪くないでしょう、今のは!

 僕らの声なき攻防にも気づかず、アルト様は目を三日月形に細め、嬉しさを堪えきれないと言わんばかりに唇を緩める。へにゃりと緩みきった顔はレアだ。いや、初めて見る。

 そんな顔を見られたのだから、むしろ僕は猫に感謝すべきかもしれない。

 しかしアルト様は何匹もは難しいと言って、三匹の中から唯一親猫によく似た色の仔猫だけを選んだ。僕に配慮して一匹にしたのかもしれない。

 名前は迷うことなく「ロシアンⅡ世」と呼んでいた。そんな安直でいいのかと思うが、「Ⅱ世ってつくとなんだかかっこいいですよね」と真顔で同意を求められたのには、曖昧な笑顔で頷いておいた。


「ロシアン。あなたの仔は私が責任を持って、生涯大切にします」


 慈しみに満ちた眼差しで、とろけるような笑顔で、宝物のようにそっと仔猫を撫でる。

 それを見れば、誓いは疑いようもない。ロシアンと呼びかけられた親猫は、わかっているのか、いないのか。ただ満足そうに目を細めていた。



   *


 中庭を通って自室へとアルト様を送っていく間、アルト様は上機嫌だった。

 とはいっても、仔猫はまだ親猫の元に残してある。もう2、3か月は預けたままにするようだが、会いに来る約束を取り付けて鼻歌でも歌い出しそうだ。見るからに足取りが軽い。

 未だかつて、ここまで幸せそうなアルト様を見たことがあっただろうか。


(シークに先を越された感が強い……っ)


 仔猫を産んだロシアンが一番偉いはずなのに、シークは美味しいところを掻っ攫っていってしまった。

 アルト様が好きなもので、喜ぶことといえば、確かにあれ以上のことはない。アルト様の誕生日は来週だから、とその日に祝うつもりでいたのが悪かった。完全に出遅れた感じになっている。なんてことだ。

 でも誕生日同日に仔猫を譲られていたら、きっと僕の方は完全に霞んでいた。シークなりに気を遣ってのことだったのかもしれない。アルト様の誕生日は僕が申請するより先に休みにされていたりしたので、一応は気を遣われているのだと思う。

 でも今以上に喜ばせることが出来るかと問われると、頭を抱えたくなる。


「そういえば私、来週が誕生日なのです」


 そんなことを考えているときに、隣を歩くアルト様に絶妙な内容で話しかけられた。おかげで一瞬、息が詰まりそうになった。

 

「勿論、存じています」


 咄嗟にそう答えたものの、声は強張ってしまっていないだろうか。

 僕を仰ぎ見たアルト様は緊張しているのか、幸いにもそれに気づいた様子はなかった。しばし躊躇いを見せてから、足を止めて口を開く。


「来週、クライブの空いている日があれば、私に付き合っていただけませんか?」


 そう言われて、ドクリと心臓が跳ねた。

 実のところ休みの日は僕から誘うばかりで、アルト様から誘われたことはほとんどない。僕に気を遣って言い出せないだけなのだとわかっているものの、やはりこうして誘われるのは嬉しい。自分を必要とされていると実感できて、胸の奥がくすぐったく感じる。指先まで熱を持つかのよう。


「はい、喜んで。お祝いしたいと思って、休みにしてありますから」


 自然と笑顔が零れれば、アルト様がほっとした様子を見せて嬉しそうに口元を綻ばせる。


「ありがとう。それで、王都に降りたいのですが……良いですか?」

「勿論です」


 アルト様が外に出ることは、これまでにもほとんどなかった。ましてや、自分から出たいと言うことは稀だ。

 僕から街へと誘わない限り、行きたいと言う場所はもっぱら城に併設された王立図書館であったり、普段は行かない城内の探索だったりする。城自体が広いのでそれでも問題なく過ごせるものの、常に遠慮をしているのを感じる。

 でも誕生日だから、我儘を言う気になったのかもしれない。

 それと我儘を言える相手に自分がなれた、ということが密かに嬉しかったりする。


「よかった。ではクライブ、お忍びで行くので地味な格好でお願いします。私も変装していきますから」

「お忍びなのですか」

「ちゃんとお父様に許可は取ってあります。クライブがいれば問題ないと言われているので、それは大丈夫です」


 しかしアルト様が嬉々として言った言葉に、思わず息を呑んだ。

 いや、陛下から許可を貰っているということ自体はいい。

 そうではなく、誕生日ならば王都の珍しいお店を予約して食事をする、とか。ドレスアップして観劇をする、とかではなく?


(この様子だと、街娘の格好とか、場合によっては侍女服で出かけそうな感じがする)


 なんだか嫌な予感しかしない。


「念の為にお尋ねしますが、僕は制服でなくてもよいのですか?」


 侍女姿で行く気なら、付き添いは近衛の方が自然ではある。しかしアルト様は首を横に振った。


「目立たない私服ならなんでもかまいません。ロイのところにも寄ってみたいですし、実は行ってみたいお店は決めてあるのです。あまり華美な格好だと入りにくいようなのです」


 王都でほんの僅かだが暮らしたことのあるアルト様は、平民の知り合いもいる。マルシェを見たいとか、以前気になっていた店に行きたい、とか。そういうことなら理解できた。

 本当はあまり良いことではないが、それが望みならば、と頷く。皇女という立場を忘れて、気楽に過ごしてみたい時だってあるだろう。


「わかりました。では、馬車ではなく馬を出しましょう」

「そうしていただけると助かります」


 これまでも王都に行ったことはあるが、簡素とはいえドレス姿だったので馬車を出していた。苦手な馬で行くことを了承するぐらいだから、本当に気楽な街娘姿で現れることを覚悟した方がいい気がしてきた。

 時折恐ろしく突拍子もないことをするアルト様なら、やりかねない。

 ある程度は何があっても覚悟しておこうと心に決める。どんどん予定とずれていっている気がするとはいえ、そんなときぐらい本人の好きなようにさせてあげるのが一番かもしれないと思い直す。

 日時を約束して、「楽しみです」と顔を綻ばせるアルト様は満足そうだった。きっとこれが正解なのだ。

 僕も微笑み返して、「僕もです」と頷いた。




 ……このとき僕も浮かれた気分だったとはいえ、ほんの僅かに嫌な予感はしていたことから目を逸らすべきではなかった。

 どんな変装をする気なのか、臆さず聞いておくべきだった。

 なんせ相手はアルト様だ。普段はおとなしいからと油断していると、時折こちらの想像の斜め上を余裕で飛び越えていくような人なのだ。

 約束した日、予定の時間より早くアルト様が近衛宿舎にやってきた。


「待ちきれなくて、迎えに来てしまいました」


 少し恥ずかしそうにはにかんで笑う顔は、文句なしに可愛かった。待ちきれない、という態度もいじらしい……と思いたかった。


「さぁ、いきましょう」


 僕の手を取り、明るく言うアルト様のこちらに突っ込ませる気のないあざとさと言ったら。

 その笑顔も、行動も、絶対に確信犯だと言える。


「アルト様」


 咎めるように呼んだ僕を見て、アルト様が上目遣いを向けてくる。


「クライブ。私は今日この日を、とても楽しみにしていたのです」


 そう言って微笑まれれば、「……行きましょう」以外の何が言えただろう。

 やっぱり確信犯だ。

 先を歩くアルト様の後ろで一つに纏められた長い髪が背中で揺れるのを見て、思わず頭を抱えて呻きたくなってくる。

 服装は僕に指定した通り、アルト様も地味だ。地味……という以前の問題だ。

 いや、けして似合っていないわけではない。むしろ似合いすぎるぐらい似合っているから問題である。

 飾り気のないシャツの首周りには、シンプルな飾り石のついたループタイが締められている。久しぶりに見たカフスは瞳の色とお揃いのお気に入りらしい青い石。ジレを着た上に短めのコートを羽織っていて、下に履いているのはズボン。

 以前は当たり前に見た姿。

 けれど今となっては、きっと誰もが忘れかけている姿。


(なんで男装してくるんだ!?)


 心の声が聞こえたのか、肩越しに振り返ったアルト様が悪戯っぽく笑う。


「この姿の私を見ても、誰も私だとは気づかないでしょう?」


 それはそうでしょうけど!




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