102 Hello,My Friend!
王都で世話になっていたリズが来訪したと知らせを受けたのは、自室に戻って数日後のことだった。自室に戻ってきた辺りで自分のことは一段落がついたので、やっと棚上げしていたことに手を伸ばす余裕が出来たからである。
問題というのは中途半端な状態で別れてしまった、リズのこと。
本来はこちらから出向くべきなのだけど、立場上、呼び出す形となってしまった。
ラッセルの妹である侍女のノーラに応接間への案内と人払いの指示を出してから、一度寝室に戻って身だしなみを確認する。
ここに戻ってからは、もっぱらコルセットを使わない普段着タイプのドレス姿でいることが多い。ずっと男装してきたから今の姿が似合っているか不安になるけど、Aラインのシンプルでありながらドレープが美しいドレスは着こなせている、と思いたい。
姿見で確認してから、時間を見計らって部屋を出た。近衛のラッセルを伴い、後宮内の応接間へと歩いていく。
ふと視線を感じたのでラッセルを見れば、微笑ましげに目を細められた。
「お会いするのは2週間ぶりとなられますでしょうか」
私にだけ届く声量でラッセルが問いかけてくる。
私が失踪した際、私の嘆願で周囲の人はお咎めなしだったとはいえ、ラッセルは責任を感じていたようだ。平民暮らしをしている間、夜間から早朝にかけての護衛をずっと請け負ってくれていた。
そのため、彼もリズを知っている。それだけでなく、ラッセルにはリズのことを頼んだこともある。私が城に戻った日のことだ。
「その節は世話になりました。本来の任務外のことを頼んでしまうなんて、無理を言いました」
「殿下の心身をお守りするのが私の役目です。あの場で殿下がエリザベス嬢に付き添われるわけにもいきませんし、かといって不穏な場所にお一人で行かせることも出来なかったでしょう。殿下の護衛は他の者もおりましたから、事情を知る私に託されたことに問題はありません」
だから頼んだことは気にする必要はないのだと言うように、ラッセルが柔らかく微笑む。
クライブが迎えに来たあの日のことを思い返すと、本当に色々あった。
*
あの日は城に戻る前に、何も言わずに消えるわけにはいかないので、工房と借家に立ち寄ってもらった。
工房の雇い主であるヘレンさんは、近衛騎士のクライブを伴って訪れた私を見て目を瞠っていた。
私が切り出すより先に、ヘレンさんは淑女の礼を取った。躊躇いがちに「妃殿下にとても似ていらっしゃると思ったのです」と口にしたので驚いた。
よく考えれば、貴族を相手にしている老舗の洋裁工房の主であるヘレンさんの立場なら、母に会っていてもおかしくはない。化粧で顔を誤魔化していない私を見て動揺したのは、多分そのせいだったのだと今ならわかる。
深く事情は話せないけど、騙して雇ってもらうような真似をしていて申し訳なかったと謝罪し、急に抜けてしまう分の人手は後日紹介すると伝えた。
しかし、それは丁重に辞退された。代わりに、
「ドレスを新調される際は、ぜひ我が工房もご検討ください」
そう悪戯っ子のように笑んで営業された。
その後は、別れの挨拶と荷物を取りに行くために借家へ向かった。
家の近くには馬車が止まっていて、私が変質者と間違えた人が待っていた。制服は着ていないけど、彼も近衛の一人だとクライブが教えてくれる。
守ってくれていたのに、変質者と勘違いして申し訳ない……いやでもあれはすごく怪しかったから!
さすがに今度は近衛とわかるクライブを連れて行くのは憚られ、彼を伴ってマリーさんの元へ顔を出した。
急なことだけど家から迎えが来た、という怪しいことこの上ない暇を告げれば、マリーさんは寂しそうな顔をしつつも納得しているようでもあった。
「良い所のお嬢さんなのだろうとは思っていたけれど……お迎えが来てくれて安心もしたけれど、寂しくなるわね」
鞄一つ、服一着だけ持って現れた私が事情を抱えているのはわかっていただろうけど、これまでマリーさんが深く追求してくることはなかった。
怪しい私に対しても、親戚のおばさんのように親切に接してくれていた。食材を分けてくれたり、出かけるのを見かけると「いってらっしゃい」と送りだしてくれた。体調の悪い時や、帰るのが遅いだけでも心配してくれる。
それがいつもくすぐったくて、嬉しかった。たった1か月だったけれど、この場で過ごしたことは一生忘れない。離れがたくて、別れを惜しんだ。
ただこの時、リズはまだ家に帰ってきていなかった。
マリーさんが「リズは昨夜の人攫いの件で保護されてるって警邏隊が伝えに来たのよ。大丈夫とは言われたけど心配だわ」と言う。
ロイも一緒にいるはずだけど、そちらは後で立ち寄ってみるとマリーさんに告げれば安心したように笑った。貴族令嬢の私なら、良いように取り計らってくれると思ったのだろう。
そうして慌てて警邏隊の詰所に行けば、貴族の家令っぽい人がリズを迎えに来ているところだった。
リズとロイは私が近衛を連れていることよりも、リズの身に起こっていることでパニックを起こしてそれどころではなかったようだ。特にリズは今にも泣きそうな顔でオロオロしている。
「よくわからないんだけど、私のお父さん? という人が、私に会いたいと言っているみたいなの。どうしよう!」
私もわけのわからない展開に困惑した。でも自分のことも後回しに出来ないし、かといってリズは放っておけない。
この状況をどうすべきかと焦っていると、詰所にいたラッセルがリズに付いていくと言ってくれた。それに甘えて頼んでしまった。
都合よくラッセルがいた理由は、私がリズと一緒に来ると予測していたからだそう。私が人攫い騒動にまで遭ってしまったので、帰城するよう説得するために待機していたようだった。
この日クライブも来たのはラッセルも想定外だったらしいけど、既に私はクライブに説得されて帰ると決めていた。だからラッセルには、リズに付いていってもらったのだ。
そうして連れて行かれたリズは、フェラー伯爵の庶子として認知されることとなった。
なぜあのタイミングでフェラー伯爵が動いたのか。これには私が関係してくる。
あの人攫い騒動の際、私の護衛をしていた近衛が犯人を捕獲していた。彼らは皇女である私を狙った可能性も考えて、即座に犯人を絞り上げたという。犯人はすぐに誰の差し金かをあっさり吐いた。
そこで浮上したのが、フェラー伯爵夫人。
犯人曰く、
『俺はあの奥様に旦那の卑しい隠し子が家を乗っ取ろうとしてるって、泣きつかれただけだ! 攫ってどこか遠くに売り払ってくれって頼まれたんだよ!』
と騒ぎ立てていたそうだ。無茶苦茶すぎる言い分なので、情状酌量の余地はない。
だがそれが本当なら、リズだから狙われた、ということになる。
それを聞いて、日が明けてすぐにフェラー伯爵に連絡が行った。犯人が嘘を言っている可能性もあるし、だとしたらフェラー伯爵夫人が陥れられそうになっていることになる。それにたまたま街に降りていた近衛が捕まえて吐かせたと聞けば、フェラー伯爵も即座に動かざるをえない。
そのため、フェラー伯爵はリズに確認するために早急に家令を迎えに寄越したのだ。
その際、リズが犯人を捕まえたであろう近衛であるラッセルを伴って現れたことで、彼は慎重に調べないわけにはいかなくなった。実際に捕まえたのは別の近衛だけど、勘違いしてくれたのなら丁度いい。
――その後、人攫いをけしかけたのは本当にフェラー伯爵夫人だったと判明したようだ。
(どこの家にもお家騒動ってあるみたいだけど……)
リズはフェラー伯爵が若い頃、王都のタウンハウスで仕えていた侍女との間に出来た子だった。
伯爵は彼女と結婚するつもりだったが、両親は平民との結婚を大反対。リズの母は身籠ったことを知った際、ここにいたら両親に我が子を殺されかねないと思い、身籠ったことを伯爵に黙ったまま別れを告げたのだという。
そうして一人、リズを産んだ。
その後も、リズの母は伯爵家に仕えている侍女の一人とは密かに友として交流は続けていたようだ。
けれど去年の冬、リズの母は流行り病で亡くなってしまう。残されたのは、まだ成人前の娘一人。
それを知った友人は、天涯孤独となったリズを不憫に思った。リズの母との結婚を反対していた伯爵の両親は既に他界していたため、迷った末にリズの存在を伯爵に教えようと思ったらしい。
たまたま私の騒動の件で、普段は領地にいるフェラー伯爵が王都に来ていたせいもある。
ただ娘の存在を知らない伯爵は、リズが生まれた翌年に別の貴族令嬢と結婚していた。普段の夫人は良くできた人だったそうで、友人である侍女は伯爵に話す前に夫人にリズのことを相談したのだという。
しかしその結果、友人の意向に反して、夫人はリズを人攫いに襲わせて排除しようとしたというわけだ。
*
以上が、あの人攫い騒動の顛末。私の聞いた調査結果だった。
本当に私を狙っていたわけではないのかと徹底的に調べたそうだけど、短期間でここまで調べ上げるなんてこの国の人材が有能すぎて慄く。いつでも新聞記者になれそう。
ラッセルに頼んだ手前、何も知らないわけにはいかないから聞いたけど、人の家庭事情を覗き見た形になって気まずい。
(愛憎劇というか……巻き込まれた側は堪らない話なのだけど)
夫人が嫁いだ時、もしかしたらフェラー伯爵はまだリズの母を想っていたのかもしれない。伯爵がリズの存在が知れば、これまで築き上げたものが壊れてしまうと恐れたのだろうか。
だからといって、やっていいことではない。
未遂で済んだからいいものの、人の生を壊す所業。完全にリズは被害者。
だいたい排除するにしたって、一度は迎え入れて他家に嫁に出すという手もあった。人攫いをけしかける時点で悪意しかない。
しかし、御家騒動となると王家といえど安易に首は突っ込めない。
人攫いの実行犯には当然厳罰を下す。けど今回のように貴族の御家騒動に関わる部分は、見ないフリをする事がある。この世界は、残念ながら平等ではない。
それに調べはついたとはいえ、確たる証拠として残っているものはない。実行犯の狂言と言われてしまえばそれまで。王家が「夫人と離縁、拘留しろ」とまでは言えない。
(でもこの件に関しては私も責任を感じる)
遅かれ早かれの問題だったかもしれないけど、私の騒動のせいでフェラー伯爵は王都に来た。且つ私がリズの傍にいたから事の顛末が明らかになり、リズの生活は一変することとなった。
それが良いか悪いかは、本人にしかわからない。
こうなった要因の一部は、確かに私の存在なのだ。責任を感じるし、友人としてもこのまま放ってはおけない。
現在、リズはフェラー伯爵家に身を寄せている。
これでリズの立場は乙女ゲームのシナリオ通りになったけど、ゲームでは元気だったからといって安易に構えるのも危険。
だいたいゲームに継母なんていた覚えがない。乙女ゲームって、基本的に同性は最初から排除されている場合が多いと思うけど。
とりあえずまだ2週間なので、伯爵が夫人をどうするのかはわからない。監視はしているだろう。離縁するにも、夫人の実家との関係もある。リズには異母弟もいるというし、大事にしたくはない気持ちもあるはず。ちなみにゲームでは異母弟もいなかった。
そんな状態なので、伯爵に認知されて華やかに貴族令嬢としてスタート、というにはリズの身辺に不安がある。
(私の近衛がたまたまリズを助けたってことになっているから、今はまだこちらの目を気にしておかしなことは出来ないだろうけど)
しかし釘は刺しておくべきでしょう。
今日は、私の近衛が世話をした令嬢に会ってみたい、という名目でリズを呼び出している。リズも世話になったラッセルに礼を言いたいだろうし、フェラー伯爵からは二つ返事で許可を取れた。
こうして私からリズを呼び出せば、皇女と繋がりが出来たと思われる。フェラー伯爵家は中立派とはいえ、私の存在は無視できない。
今の私の立場でなければ、使えない力。それを使わない手はない。
辿り着いた応接間の扉をラッセルがノックをした。中から緊張の滲んだ返事が聞こえてきたので、ラッセルが静かに扉を開く。
室内に入れば、ソファーから慌てて立ち上がった少女が深く頭を下げた。癖のない艶やかな黒髪が肩から滑り落ちる。その姿を確認して、ラッセルが部屋の扉を閉めた。この場にいるのは私とリズ、ラッセルの3名だけ。
テーブルを挟んだ向かい側に立ち、頭を下げたままの少女に声を掛ける。
「顔を上げてください。本来は私から伺うべきところを、ご足労いただき感謝しています」
「いえっ、そんな、勿体ないお言葉です……」
緊張しているのか、震えたか細い声が返ってくる。言いながら恐る恐る顔を上げた相手が私を見て、アンバーの瞳を大きく瞠った。
あれっ。なぜそこまで驚かれるの。私がアルフェンルートだと、ラッセルから伝わっていたはずだけど。
「久しぶり、リズ。無理を言ってごめん。来てくれて嬉しい」
愕然としている相手に困ったように笑いかけて、改めて今まで通りの口調で話しかける。リズは何度も目を瞬かせ、わなわなと震えていた唇から声を絞り出した。
「ほんとにアル? ……いえ、アルフェンルート皇女殿下、であらせられるのです、ね」
ものすごく動揺している。目にしているものが信じられない、と顔に書いてあった。その顔が徐々に蒼褪めていく。
思い返してみれば、皇女らしいことは何もしていなかった。信じられないのは無理もない。話し方も、メリッサやセインと話していたような感じでいたから女の子っぽさもない。脳内はともかく、実際に女の子らしい語尾で話すのはまだ抵抗がある。
ちょっと切ない気分を噛み締めている私の前で、リズが深々と頭を下げた。
「私、皇女殿下になんてことを……残り物で作った料理食べさせたり、害虫駆除までさせて、していただいていたなんて!」
「作ってもらえて感謝しかないよ。私が料理すると炭になるから。それに害虫は逃す方が気になるよ。それと、ここには私達しかいないから今まで通り話してくれていいから。呼び方も」
あと、座って。手で促して自分も向かいのソファに腰を下ろす。ラッセルも部屋にいるけど、リズは当然ラッセルを知っている。事情を知っている彼に聞かれて困ることはない。
慄きながらも腰を下ろしたリズに、何から話そうかと小首を傾げた。
「騙すような真似をして申し訳ないと思ってる。不快にさせたでしょう。ごめんなさい」
「それは、事情があったんだと思うから」
「うん。深くは話せないけど、少し思うところがあって家出していたんだ」
「家出……」
「内緒にしてね。恥ずかしいことだけど、少し疲れていて冷静な判断が出来ていなかった」
市井に降りて平民の生活を体験していたと誤魔化しても良かったけど、嘘はつきたくなかった。少しだけ本音を零せば、私に関する噂を思い出したのか顔を強張らせる。
リズはいつも、聞いて良いことと悪いことを空気を読んで判断していた。何かの拍子に家族の話になった時もそう。私の噂に関しても、私がその手の話を避けていたのに気づいたのかすぐに流した。
傷つけないように、よく人を見てくれている子なのだ。恋愛方面だけは、なぜかからっきしだけど。
だからこうして話したことも、たぶん頼まなくても誰にも言わない。
「……もう、大丈夫なの?」
今も心配そうな目で私を窺う。騙していたというのに、これまでと変わらない友としての目で見てくれる。それに内心緊張していた心が解けていく。
問われた言葉に、大きく頷いて微笑む。それは本心からの笑み。私が考えていたよりずっと、私は大事にしてもらっている。
それを見て、強張っていたリズの頬も緩んだ。
「よかった。アル、よく暗い顔してたから心配だったの。今の顔を見たら、本当に大丈夫そうだね」
そう言うと、まるで自分のことのように安堵を滲ませる。今はリズの立場の方がずっと大変なはずなのに、こうして喜んでくれるのは彼女の持つ優しさだ。
リズにはたくさん助けてもらった。知らないことを色々教えてもらった。今だってこうして優しさを与えてくれる。
そんな彼女だからこそ、私の最大限で報いたいと思う。
「心配かけてごめん。私のことは問題も片付いたから大丈夫。それで今回来てもらったのは、私のことよりもリズのことを話したくて呼んだんだ」
顔を引き締めて、アンバーの瞳を見据える。
「フェラー伯爵に引き取られたでしょう。新しい生活で、困ったことはない?」
リズ本人に、どこまで事情を知らされているかわからない。フェラー伯爵夫人が襲わせたと知らない可能性も高い。下手なことは言えないので、当たり障りのない問いを投げかける。
リズは目を瞬かせ、少しだけ困ったように眉尻を下げて笑った。
「アルには色々助けてもらったよね。ラッセル様も、本当にお世話になりました。ありがとうございます」
扉脇に控えていたラッセルを振り返り、彼にも律儀に頭も下げて礼を述べる。
「急にお父様が出来て、あと異母弟もいて驚いたけど、あっ、夫人にはまだ会えてないんだけど……お父様は優しくしてくれて、弟もすごく慕ってくれるの。一人ぼっちだと思っていたから、すごく嬉しい」
いつもより少し大人びた表情をする。嬉しいと静かに告げた声は躊躇いが無く、本音に聞こえた。
この感じだと、フェラー伯爵は夫人をリズとは会わせないようにしているようだ。それには安心する。ただ領地に帰ったとは聞いていないので、同じ屋敷内にはいるのかもしれない。
(となると危険な状況に変わりはない)
穏やかに微笑んでリズの話を聞いているけど、内心は落ち着かない。
リズが私に心配させまいと、すべて本当のことを言ってるとも限らない。ゲームでも父親は空気のようなものだったし、異母弟に関しては全く情報がない。
「行儀作法とかダンスの練習とか、慣れないことばかりで大変だけどね。お嬢様って実はすごく大変なんだね。ダンスなんてお手上げだよ」
「ダンスの相手は誰がしているの。先生?」
「今はまだ、ほとんど弟が相手してくれてるの。4つ下なんだけど、まだ少し小さくてね、すごく可愛いの!」
そう言って笑みを零して語る姿は、本心からだと思えた。異母弟とは良好な関係が築けそうなら、安心と言えそう。
4歳下なら11歳ということになる。思春期突入の難しい年頃だと思うけど。いきなり出来た綺麗なお姉さんに、淡い恋心に似た憧れでも抱かれたのでは……。
(まさか、ショタ枠の第二皇子の私がいなくなったからって、異母弟が捻じ込まれた!?)
そこは怖いから考えないでおこう。とりあえず身内に味方がいるのならいい。
それでも一応、今日呼んだ一番の理由は告げておこうと息を吸い込む。
「うまくいっているようなら良かった。だけどもしも、この先一緒に暮らすことが難しいと思うようなことがあれば、私の侍女としてリズを引き受けることも出来るから」
「アルの侍女?」
「リズを侍女として雇い入れる許可は陛下に頂いてあるんだ。守秘義務と礼儀作法は他より厳しいけれど、ここで暮らすという選択肢もある」
「陛下から許可を!?」
「念の為に許可を頂いておいたというだけだから、侍女になることを命令しているわけではないよ」
これは別に私がリズと一緒にいたいから、という理由で言っているわけではない。勿論、それもないわけではないけど。
伯爵令嬢とはいえ平民上がりの庶子となると、ゲームの話を除いて現実的に考えれば嫁ぎ先が絞られる。でも皇女の侍女をしていたという経歴があれば、評価は跳ね上がる。
それにここにいれば否が応もなく礼儀作法を主に、貴族令嬢として必要な事を覚えられる。元々リズの母が伯爵家に仕えられる程の人だから、それを見て育ったリズも所作は綺麗だ。食事マナーも問題なかった。そこまで苦労はしないと思う。
ただこれは、私からしてみれば付加価値に過ぎない。
申し出た一番の理由は、もっと別のところにある。
「個人的には家族は一緒の方がいいと思うから、無理にお願いはしない。ただどうしてもフェラー伯爵の家が合わない時は、私が成人して嫁ぐまでの短い間にはなるけど、ここにいる限りは守ることが出来る。それを覚えておいてほしい」
頑張っても頑張っても無理だと思った時、逃げ込める場所はあるのだと覚えていて。逃げ場所があるかないかだけでも、精神に掛かる負担は大きく変わる。
アンバーの瞳を見据えて告げれば、その瞳が揺れて少し潤んだ。
「……ありがとう」
ぽつりと湿った声で呟かれる。
きっと気を張っていたと思う。慣れない生活、家族とはいえ見知らぬ人に囲まれて、緊張しないわけがない。帰る場所はもうそこしかないと思えば、少しでも気に入られようとして無理に明るく振る舞っていたことも想像できる。
それでも、侍女になる、とは言わなかった。家族が出来て嬉しいと言った気持ちに嘘はないのだ。大事な人を失って淋しい気持ちを知っているから、たぶんリズは頑張りたいのだろう。
ならば私はリズの過ごす環境を少しでも良くするべく、働きかけるだけ。
「友人として息抜きに遊びに来てくれてもいいよ。週に一度ぐらい、ダンスの練習なら男性用のステップは覚えているから私でも付き合える」
私に遊びに来るよう誘われた、と言えば伯爵夫妻には私がリズを気に入ったと伝わるだろう。皇女の友人ともなれば、自分の娘とはいえ下手なことはできない。万が一リズを虐げようとした場合の抑止力となれる。
あと、単純に私がまたリズと一緒に遊べたら嬉しい。
「私、アルと友達なの!?」
「え……っ」
だからそこを突っ込まれて、息が止まった。
驚きに目を瞠られ、こちらも同じように大きく目を瞠った。唐突に思い至ったそれに徐々に顔を強張らせ、動揺を殺すために手をぎゅっと拳に変える。
「…………ごめんなさい。勝手に、これからも友人でいられると勘違いしていました。身分を偽り、騙していた私が、おこがましいにも程がありました。申し訳ありません」
狼狽えて、反射的に他人行儀なよそよそしい口調になった。強張った自分の顔から一気に血の気が引いていくのがわかる。
「友達なのが嫌なわけじゃないの! 私は平民で……今は違うけど、でもアルは皇女様でしょっ? 私が友達でいて、いいの?」
「皇女だって、ただの人間だよ……。友達でいてくれたら、嬉しい」
途方に暮れて訴えれば、リズは破顔した。
「私も、アルと友達でいられることがすごく嬉しいよ。ほんとはね、アルは皇女様だから、これっきりだと思ってたの」
そう言って、お互いに安堵して気が抜けたのか、ちょっと泣き笑いの顔になった。
リズはフェラー伯爵と共に登城しており、フェラー伯爵は兄が対応してくれているけど、あまりリズを長時間引き留めるのは憚られた。名残惜しいけれど次の約束をして、後宮の出口まで送るべく部屋を出る。
その途中、長い廊下の先から人が二人歩いてくるのが見えた。常ならば後宮内で会うことのない人なので目を瞠る。
「兄様? こちらにお見えになられるなんて、どうなさったのですか?」
クライブを伴って、目の前までやってきた兄の姿を見て驚いた。とっくにフェラー伯爵との談話が終わっていたのなら、私達は話し込み過ぎていたのだろうか。
焦りを滲ませたのに気づいたのか、兄の手が私の頭を宥めるように撫でる。これ、もう兄の癖なのかも。
「アルフェの友人が来ているのだろう。世話になった礼を言わねばならない」
呼びに来たわけではなく、どうやらそれが理由のようだった。兄が私から手を離し、リズに向き直る。
リズは、……可哀想なぐらい固まっていた。淑女の礼を取ることも忘れている。どころか瞬きすら忘れて兄に見入っている。このままだと眼球がカッサカサに乾燥してしまいそう。
(わかる、わかるよ……兄様と初見の場合は、誰でもそうなる)
私だって、未だに兄に間近から見据えられると落ち着かない。もっぱら私が悪くて説教を受ける場合が多いせいかもしれないけど。
「エリザベス嬢、アルフェンルートの兄のシークヴァルドだ。妹が世話になったようで、心から礼を言う」
「っエリザベス・フェラーと申します。お初にお目にかかります、シークヴァルド殿下。こちらこそ、アル……フェンルート殿下には大変ご迷惑をおかけしてばかりおります」
「アルフェが貴女に掛けた迷惑程ではないと思うが。もしよければまた相手をしてやってほしい。アルフェも喜ぶだろう」
「身に余る光栄でございます」
リズはなんとか礼を取って持ち直したようだけど、声は震えている。頭も下げたままだ。それを見て兄は少しだけ残念そうに眉尻を下げた。
心の準備もなくいきなりこの美貌、しかも第一皇子に会って礼を言われるなんて、もし私がリズの立場ならまともに話せない。息が止まっている。リズは頑張った方だ。尊敬する。
兄に目で訴えれば、わかっていると言いたげに小さく肩を竦められた。緊張しているリズを気遣ったのか、「用件はそれだけだ」と告げて早々に踵を返す。
兄は颯爽と歩き出したが、立ち止まって見送る私達に向かってクライブが一礼した。ついでに、私に笑いかけてくる。いつもの定番の笑みじゃなくて、目を細めた優しげな微笑。
たぶん、特別仕様。
不意打ちだったので、ちょっと狼狽えてしまった。
(どうしよう)
少し迷って、顔を必死に引き締めたまま片手を上げて小さく振っておいた。
私の立場でクライブに会釈を返すのもおかしいし。得意先じゃないのだから。かといって、無視するのもどうかと思うし。いままでは、澄ました顔でさっくり別れていたけど。
苦し紛れの私の反応を見たクライブは、驚きに目を瞠った。そのすぐ後で破顔する。
(うわっ。びっくりした!)
そんなに嬉しそうに笑うなんて、反則では!?
不意打ちすぎて、心臓がびっくりしてバックンバックンと飛び跳ねている。
しかもその笑顔が、なんだかちょっと可愛い、と思ってしまった。相手はクライブなのに。不覚っ!
いや別にドキッとしてもいい立場のはずだけど、そんな自分の有様に顔が熱くなる。クライブも踵を返して背を向けた後でよかった。本当に良かった。もしこんな顔を見られてたら、恥ずかしくて逃走している。
「……今の人、あの日に警邏隊の詰所にいた人だよね。私がアルは一人でマルシェで落とし物を探してるって言った時に、血相変えて飛び出していった人」
「そうなの?」
そういえば私は一人じゃなかった。隣にいたリズがぽつりと零したので、驚いて遠くなっていく背を見入る。
そうなんだ。あのクライブが血相を変えるぐらい、本当に心配させていたんだ。
「あの人が、アルの好きな人?」
「!」
不意に小声で耳打ちされて、ぎょっと大きく目を瞠った。リズを見つめて、なんて返したものかと固まる。
この一時で気づかれるって、どういうことなの。自分の恋愛は見事にスルーなのに、どうして人の恋路には目ざといのかなっ。
唇を引き結んで息すら止めてしまっていたけど、何も言わなくてもリズにはわかってしまったらしい。目を三日月形に細め、嬉しそうに唇を吊り上げる。
「よかったね」
リズは私に好きな人がいると知っていた。それがもう会えない人だと、そう言ったこともあった。
覚えてくれていたのだと思う。「よかったね」と言ってくれた声音はひどく優しくて、じわりと熱を持って胸の中に落ちてくる。
嬉しくて、素直に頷いていた。




