100 兄妹
結局、城の兄の宮へと戻ってきた翌朝、目を覚ましてすぐに兄へと取り次ぎを頼んだ。
前夜は兄の顔を見たら胸が詰まってしまって、言葉は出てこないくせに涙ばかりが溢れた。おかげでまともな謝罪も話し合いも出来ないままだった。口を開けば嗚咽が漏れそうな私を引き寄せた手は、とてもあたたかかった。
与えられるぬくもりに触れれば、本当に私は何をしているのかと情けなくなった。
自分ばかりが頑張ってるつもりで、周りが見えなくなって間違えてばかり。間違えたくて間違えているわけではないけど、それに気づけるのはいつも間違えてしまった後。この短慮さできっと傷つけていた。
恥ずかしくて、情けない。そんな私を見捨てることなく、宥めるように背を抱く手は優しかった。
『帰ってきてくれてよかった』
告げられた声には安堵が滲みだしていた。その声に、言葉に安心して、またしても兄に甘えてしまった。
けれど、このままなし崩しというわけにもいかない。
戻ってきた以上は、ちゃんと自分の口から言わなければならないことがある。
早朝だったけれど兄は既に目を覚ましていたらしく、すぐに兄の私室へと通された。入るのは初めてではないものの、人払いされた部屋には兄の他には猫しかいなくて緊張する。いつもは足元に擦り寄ってくる猫も、今日は空気を読んで床の上に丸くなったまま動かない。
久しぶりのドレスの長いスカートの扱いに気をつけながら、促されてぎこちなく一つしかない長ソファに座った。その隣に一人分を空けて兄が腰を下ろす。
立ち上がって謝罪をしたいところだけど、座れと言われた手前、ここで立つのも憚られる。迷ったけれど座ったまま半身だけ兄に向けて、深く頭を下げた。
「ご心配とご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした」
数秒の沈黙の後、頭上に嘆息混じりの声が降ってくる。
「私に負担をかけさせまいと思ったのだろうが、アルフェが私を想ってくれるように、私も妹の人生を犠牲にしてまで生きたいとは思っていない。いなくなったと聞いた時は心臓が止まるかと思った。せめて私には一言相談してほしかった」
「……本当に申し訳ありません」
考えてみれば、当然のことだ。思った以上に心配をさせていた。よかれと思ったことが、余計に負担をかけてしまっていた。
ぐっと唇を噛み締める。合わせる顔がない……。そう思っていたところで、伸びてきた兄の指先がぎゅっと私の鼻を抓んだ。そのまま持ち上げられる。
「っ!?」
引き上げられるままに顔を上げれば、驚きに瞠った私と兄の目線が合わさる。すぐに手は離されたが一度合った目は逸らせない。
「ここを離れて、少しは気持ちの整理がついたか?」
心の内を伺うような瞳に逆らうことなく、躊躇いつつも頷いた。
息を吸い込み、はっきりと言うべきことを告げる。
「手紙にも書きましたが……私は兄様と婚姻することは、出来ません」
出ていく前に手紙は残していったけれど、やはりこれは自分の口から言わなければいけないことだった。
離れてからも幾度となく考えてはみたけれど、この考えは今も変えられない。
兄も陛下も、良いように取り計らおうとしてくれたとわかっている。私を妃に据えて兄の立ち位置を盤石にするためでもあったけれど、同時に私を守る為でもあったことぐらいは理解している。
けれどやはりどう考えても、私を妃に据えるメリットよりデメリットの方が大きい。
たとえば表向きは私を娶り、密かに似た色彩を持つ別の女性に子を産ませる、という手がないわけではない。だけど兄もそこまでは望んでいないだろう。相手の女性だって日陰者になる。
ずっと偽りを抱える生き方なんて、もう誰にもさせたくはなかった。
「ああ。わかってる」
あえて口にしなかったことを兄も考えていたのか、静かに頷いた。
「改めて家族になるのもいいかと思っていただけに、残念な気持ちもあるが……互いに負担となる選択ならすべきではないだろうな」
私を見る目が細められ、静かに告げられた言葉に安堵と少しの淋しさを覚えた。
兄も私も、互いに抱く感情は恋ではない。けれど確かに家族として愛情は芽生えていた。
「ご意向に沿うことのできない至らぬ身で申し訳ありません」
「アルフェが望んでそうなったわけではないのだから、謝る必要はない。……これはただの好奇心だが、もし何の問題もなければ私と婚姻していたか?」
だからこそ、思いがけず問われた内容に動揺した。
息を呑んで、まじまじと兄を見つめる。
(か、考えたこともなかった!)
まさかそんな質問をされるなんて。狼狽して即座に言葉が出てこない。
私の体や近親婚による遺伝子異常の問題がなければ、了承していた、と思う。そもそもこんな事情さえなければ私に拒否権はない。
でも、兄が聞きたいのはそういうことではない気がする。しかし愛情を注いでもらっていたことは疑いようもないけど、兄が私を見る目も恋ではなかったはず、なのだけど。
(……兄様も、不安に思ったのかも)
兄の負担になりたくなくて失踪したわけだけど、兄から見れば、私が兄自身を厭って逃げ出したのかも、という不安を感じなかったとも限らない。
相手の気持ちがわからなくて、迷ったり傷ついたりするのは誰だって同じ。本心を確認して安心したい気持ちはよくわかる。
それならば、ここは正直に答えるべきだ。
「兄様との婚姻は、正直に申し上げますと、想像したこともなかったのですが」
どう言葉にしたものかと迷いつつ、返事を絞り出す。
「兄様のことは、とても大切です。ですが……」
婚姻するとなると、拒否権が無くてもやはりとても迷ったと思う。
元々、性別が迷子な状態で育ったので、婚姻以前に恋愛観すらあやふやだった。結婚するならメル爺がいいと思っていたけど、「大きくなったらパパと結婚する」と言い張る子どものような感情でしかない。
とはいえ、兄を庇って死にかけたことで前の意識が戻ったばかりの頃は、兄にドキッとしなかったといったら嘘になる。
それまで手の届かない遠い位置にいると思っていた人に振り向いてもらって、優しくされたら心は浮き立つ。
けれど既に前の自分の常識が根付いていて、「兄妹は恋愛対象外」という固定観念があったから、いつしかそんな気持ちは別の感情に塗り替わっていた。
それに兄から向けられる感情は、兄として私を思いやり、守ろうとしてくれるものだった。
そのせいか隠し事をしている罪悪感を抱えつつも、どこか兄に対しては安心感があった。家族という形で繋がれることが嬉しくて、心地よかった。
(妹だと知られていたとわかってからは、特にそう)
この人には見捨てられない、という安堵があった。
それはこの人が『兄』という揺るがない立場だからこそ感じられるもので、他のどんな形でも得られない。
けれど同時にそれは、甘えにも繋がった。
「これは私の我儘なのですが、兄様の前では妹でありたい、という甘えがあります」
兄といるとつい気持ちが緩んで、甘える気持ちが勝ってしまう時がある。兄もそれを許してしまうから余計に。これでは妃となっても、また守られるだけになっただろう。
けれどいずれ王となるこの人の傍らにいるのは、兄を支えて立てるだけの力がなければならない。無意識に甘えてしまう私では役不足で、足手纏いにしかなれない。
そういう意味では、兄と夫婦になるのは難しかった。
「ですから、私では兄様を支えて共に歩く妻という大役は難しかった、と思います」
「……そうか」
ほんの少しだけ兄が淋しそうな顔をしたように見えた。失恋というわけではないと思う。どんな形であっても家族が離れていくときは、きっと少し寂しい。
私だって、たとえば兄がお嫁さんを連れてきたら心から祝福するけれど、もう私だけの兄でなくなることに淋しさは覚えると思う。
(もしかしなくても、ブラコンなのかも)
そんな今更すぎる事実に動揺してしまった。でも、こんな兄を持てばブラコンになるのも仕方ない。そう思い直す。
ずっとこの兄に助けてもらってきた。
私が気づかないところでも、これまで見守ってもらっていた。穿った目で見れば兄の手の上にいた感がなくもないけど、この人が黙って守ってくれていなければ、いま私はここに存在していない。
だからこそ。
「私にとって兄様は、代わりのないたった一人の大切な兄様です。今も、これからも」
それは唯一無二の、誰も成り代わることは出来ない立ち位置。
顔を上げて兄を見つめ、それだけは迷うことなく心から告げられる。
「そうか」
告げた言葉に頷く兄の返事は、いつもと同じ単調なものだった。
けれど細めた瞳を三日月形に笑ませ、口元を自然と嬉しそうに綻ばせる顔は初めて見た。ちょっと得意げな少年めいていて、たぶんそれは兄の素の顔。
いつも人を寄せ付けない雰囲気の大人びて見える顔が、そうやって笑うと年相応に見える。
驚いたけど、思わず目にしたその表情が嬉しくて、私もつられて笑顔になった。
(兄様が私の兄様でいてくれて、よかった)
胸を撫で下ろし、肺で詰まっていたように感じられる息を細く長く吐き出す。言わなければならないことを告げられて、肩の荷が下りた気分。
しかし、まだ言わねばならないことがあった。
肝心な、この先の私の処遇を。
「兄様。それともう一つ、お伝えしたいことがあります」
息を吸い込み、勇気を奮い立たせるために膝の上の手が拳に変わる。
私が決められる立場ではないので、私の口から言っていいのかわからない。だけど黙ったままでもいられない。
「私のことは、その、クライブが引き受けてくれる……と言ってくれている、のですが」
「ああ、聞いている」
覚悟を決めた割にしどろもどろになってしまった私の言葉に、驚くほどあっさりと兄は頷いた。
「クライブならば、アルフェを任せられる。アルフェには誰を宛がっても多かれ少なかれ文句は出るだろうが、クライブならば比較的周りも納得する。クライブ自身も覚悟はあると言っていたし、あれ以上の適任はいない」
あまりにもあっさりと了承されて、目を瞠って呆然としてしまった。
「陛下もこの件は了承している」
どうやら私の与り知らないところで、話は進んでいたらしい。
でもよく考えれば、クライブが私にあんな話を持ち掛けるのなら事前に兄と陛下の許可は取っていたに決まってる。むしろ、この二人からクライブが頼まれた可能性が高い。
(私の苦悩は、いったい……)
愕然として、安堵を通り越して虚しさが湧いてくる。いや、話もしないで飛び出した私が悪いことはわかってるけれど!
それが顔に出ていたのか、兄が私の髪をぐしゃりと乱す強さで撫でた。
「私も陛下も、周りが私達の思考を読み取って動くのが当然の環境にいるせいか、言葉足らずになりがちだ。相談もせずに飛び出したアルフェも悪いが、陛下も今回の件で話し合いが足らなかったことを反省されているようだった。悪いようにはならないから、後でちゃんと話すといい」
陛下に関しては未だに父親というより、王という認識の方が強くて委縮する気持ちはある。だけど先生として接していた時のことを思い出せば、話が通じない人ではないこともわかっている。
必要なのは、少しずつでも歩み寄ろうとする勇気なのだと思う。
でもまだ少しだけ、不安はある。
「……本当に、それでいいのですか?」
あまりにも自分に都合よく、とんとん拍子に進み過ぎて怖い。
慄きが声に滲んでしまったせいか、兄が小首を傾げて私を覗き込んだ。不意に真剣な顔をする。
「アルフェこそ、本当にそれでよかったのか?」
私を窺う淡い灰青色の瞳には気遣う色が見えた。改めて気持ちを問われると、気恥ずかしさが込み上げてくる。
けれどここで恥ずかしがっていても意味はない。羞恥を捻じ伏せて、しっかりと頷いた。
「私は、クライブが、いいです」
もしここにクライブがいたらここまで素直に頷けなかっただろうけど、今は兄しかいない。
許されるのならば。
こんな私でも手を差し伸べてくれたクライブが、いいです。
「クライブを好きか?」
しかし、いざ直球で訊かれると息が詰まった。
(クライブを、す……っ)
顔が熱を帯びて、一気に耳まで熱くなる。きっと今、私の顔は茹蛸も驚きの赤さ。心が宿っているのかと思いたくなる心臓が急激に早鐘を打つ。体中の体温が上がったように感じられて喉まで熱い。
(好き、ですけど!)
答えなければ、と思うけど今この口を開いたら火を吹いてしまうかもしれないっ。
「わかった。よくわかった」
口を開くより先に兄が喉を震わせて笑った。すぐに笑っては失礼だと察したのか、口を引き結び、誤魔化すように私の頭を撫でる。
口に出すより、反応だけで胸の内を見透かされただなんて恥ずかしすぎる。でも向けられる眼差しが柔らかいので、すぐに許せてしまった。
「たとえ誰が反対しても、私が味方になるから安心していい」
そう言って笑いかけてくる兄は、頼もしい『兄』の顔をしてくれていた。




