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幕間 Say goodbye

※残酷描写注意  5/3(木)…2話同時更新

※第二王妃エルフェリア視点


 兄がアルフェンルートの暗殺を決行して失敗、自害した。

 父が王位簒奪を企てたとして断罪されて、この後で幽閉という名目の死を賜る。

 私自身の処遇も、夫である陛下の口から告げられていた。

 ずっと望んでいたはずの結末を、どこか遠い国の話でも聞くかのように聞いていた。想像していた歓喜も安堵もない。

 それよりも聞きたいことは、他でもないあの子のことだった。


「アルフェンルートは生きたいと言った。元々は私達の咎だ。多少強引でも、正しい立ち位置に戻してやるのが筋というものだろう」


 息を呑んで陛下の顔を見つめれば、共犯者だったはずの相手は私の知らない表情をしていた。

 あの子を駒として扱っていたはずの人が、いつの間にか父親らしい顔をしていることに驚いた。父親らしい顔というのを私自身もよくわかっていないけれど、不思議とそう見えた。

 反して私は、どう映っているのだろう。


「私はそう考えたが――おまえは、どうする?」


 そう私に問いかけた陛下の声が、耳の奥にずっと残っている。




   *


 ずっとずっと、幼い頃から大好きな人がいた。

 その人は兄の傍仕え的な立ち位置で現れた。子爵家の長子で、私より2歳上。兄と同じ年の彼は優しくて穏やかなで、後を付いて歩く私の相手を面倒がる兄と違い、いつも私に気に掛けてくれた。それでいて私を子ども扱いせず、ちゃんと淑女として接してくれていた。

 彼が私の王子様だと思った。初めて会った時から惹かれていた。

 追いかけては躱されて、それでも追いかけて。振り向いてもらったときは天にも昇る気持ちだった。7年越しの恋だった。

 公爵令嬢である私が彼に嫁ぎたいと告げたとき、身分違いだと父は怒って即座に却下した。それを取り成してくれたのが母だった。

 厳しくて冷たい父とは違い、母はいつも私の味方でいてくれた。そして父は私達には目を向けないけれど、母の願いだけはいつも渋々だけど聞いていた。

 身分違いなことにずっと悩んでいたのは彼も同じだったようで、認めてもらうために誉れ高い近衛騎士になると父と約束した。それが婚姻の条件だった。


「近衛の制服で君を迎えに来る」


 誓いの言葉が嬉しくて、私は夢見る乙女のようにその日を指折り数えていた。

 ……いまでも、そのときの選択を悔やんでいる。

 私は愚かだった。

 そんな夢に溺れていないで、どんな地位でもあの人がいいのだと言い張ればよかった。近衛なんて、どうしてもというのなら後から目指したって良い。もっと早くに婚姻していればよかった。

 それでも父が反対するのなら、あの人と駆け落ちしていればよかった。いつだって私はあの人しか見ていなかった。あの人だけが大好きだった。たぶん私は、そういうところは父に似ている。

 それでも、誠実で努力家な彼は順調に昇進していった。思ったよりもずっと早く、近衛に手が届くまであと一歩、というところまで来ていた。


 そんなときに、母が亡くなったのだ。不慮の事故だった。


 そのときから、父は狂気を露わにした。愛する母の目もなく、抑制する人がいなくなったことで父は人の心というものを感じ取れなくなっていたようだった。

 一度は納得していたはずの彼との婚姻を、急に取りやめると言い出した。婚約破棄に破格の賠償金を支払うからいいだろうと言う父に対し、私も、彼の親友でもあった兄も一緒になって反対してくれた。

 けれどそれによって、惨劇は起こされた。


(私が、あの人の人生を奪ってしまった……!)


 気が狂いそうだった。

 髪を掻きむしり、喉から血が出るほど泣き叫び、心の底から父への呪詛を吐いた。この時はいなくなってしまった大好きだった母すらも恨み、憎悪する感情が首を擡げた。

 すぐにでも彼の傍に駆けていきたかった。

 けれど加害者の娘が、どんな顔で彼に会える?

 私が反対したから、兄が反対したから、彼の人生は潰された。未来も、普通に生きていくことすら奪われた。その目が光を見ることは二度となく、利き腕も思うように動かない。

 そんな仕打ちを強いた原因となった私が、彼の目となり、手となることを彼は受け入れられる?

 優しい彼は、きっと受け入れてくれる。私のせいではないと、あの唇が告げることは想像できた。

 けれど、それが本心からかはわからない。私が傍にいることで、心に無理を強いていないとは言い切れない。

 思うように動かない体に、見えない世界に、絶望で怒りを叩きつけたい時だってきっとあるはず。そんなときに私が傍にいたらきっと彼は抑えこんでしまう。そしてその無理が積もり積もって、いつかきっと崩壊する。

 そう考えたら、動けなかった。

 内密に子爵と父の間で多額の金が動いていたことだけは後からわかったけれど、それで終わらせていい話ではなかった。

 私は私の犯した罪を、一生抱えて生きていかねばならないのだと胸に刻んだ。

 好きで、好きで、大好きだった人。人生を彼と共に歩もうと誓った。それほど大切な人を犠牲にして用意されたのは、第二王妃としての椅子。

 娘である私には、もう父に逆らう力はなかった。

 兄も、私同様にこの時は壊れていた。兄は私以上に自分を咎めているように見えた。力のない妹ではなく、次期公爵となる自分ならばもっとどうにかできていたのではないかと、自分をひたすらに責めていた。

 それでいて父に逆らうことに、ひどく恐怖するようになっていた。ここでまた反対すれば、今度は私が殺されてしまうと思ったのかもしれない。


 そうして、私は王家に嫁いだ。


 夫となる従兄でもある陛下とは、幼い頃は交流があった。

 元々、父は彼と婚姻させたがっており、私は幼い頃に会った陛下に「好きな人がおりますから殿下とは結婚できません」と生意気なことを告げたこともあった。

 あのとき「私にも選ぶ権利はある」と顰め顔をした相手が、皮肉にも私の夫となった。

 この人も、難しい立場に立たされていた。

 望んで迎えた異国の王女が2年も経たない内に産後の肥立ちが悪くて亡くなり、そのすぐ後に陛下も崩御された。忌事が続く王家の為に、そして行く場所を失くしていた私の為に、私を娶ってくれた。

 陛下は最初から私に冷たかったわけではない。彼は、「迎え入れた以上は、ちゃんと妻として扱う」と言って手を差し伸べてくれた。

 それを拒んだのは、他でもない私。


 あの人の人生を踏み躙った私だけが、幸せになるわけにはいかない。そんな自分など許せるわけがなかった。


 それにここに嫁いだのは、父への復讐もあった。ここに嫁いでも子を産まなければ見返してやれる、という気持ちがあった。

 陛下は私の意志を汲んで、後宮では必要最低限の関わりだけとなった。

 けれどここで私を苛んだのは、周囲から絶え間なく掛けられる御子を望む声だった。

「早く御子を」

「貴女はその為にここに来たのだから」

「それが王妃としての義務。それに『彼』を犠牲にしてここに嫁いだ貴女は、『彼』に報いるべく皇子を産まなければならない」

「そうでなければ、『彼』の犠牲は無駄になってしまう」


 『彼』を犠牲にした、という言葉が心を深く抉った。


 囁かれる声に、子を産むまいと思っていた私の頭は洗脳されていく。言われる度に、自分が間違っているのではないか、と恐怖が積もる。

 少しずつ自分の言動がおかしくなっていくのがわかった。子を成さないのなら、せめて王妃としての公務だけは完璧にせねば。そう思っているのに、体が動かなくなっていく。

 そんな私に、周りは子が出来たのではないかと期待する声を寄せる。そんなわけがないという焦燥と罪悪感が悪循環となって、どんどん私はおかしくなっていった。

 そんな私を見かねた陛下が、私を救い上げた。彼の方も、周囲からの圧が限界近くなっていたことも多分にあった。


 ――そうして宿したのが、アルフェンルート。


 皇子であると、根拠もなく信じた。信じたかった。皇子を産めば、『彼』の犠牲も報われる。そう思い込むようになっていた。

 私自身、この状況から解放されたい、と望んでしまっていたから。

 許されてはいけない。幸せになってはいけない。私は罰されるべきだと思いながらも、心がついていかなかった。甘やかされた環境で育った世間知らずでまだ年若かった私は、甘かったのだ。

 陛下が先妻の子の立場を慮って、お腹の子を気に掛けなくとも気にならなかった。産んだ後で我が子が王になるかどうかはどうでもいい。産んだ後のことは私の役目ではないと思っていて、ただ皇子さえ産めば責を果たせるという目的だけが胸を占めていた。それ以上を考える余裕はない。

 生まれてくる日が待ち遠しくて堪らなかった。自分の中で育っていく子に愛情も湧いていった。愛しくて、毎日お腹の子に話しかけた。

 この子は私を解放してくれるのだと、そう期待してしまっていた。


 だからアルフェンルートが女児だと知った時、天罰が下ったのだと思った。


 皇子だと信じて、苦しみから解放されることを望んだ私への罰なのだと。

 だから生まれてきたのは、私の罪が形となったもの。私の罪を知らしめるもの。

 私の罪はけして消えず、こうして形を成して目の前にあり続ける。

 ……耐えられなかった。

 浅はかにも解放されることを望んだ自分も。罪を具現したかのような我が子も。存在すべきではなかった。

 自分でも何をしでかしたのかは、はっきりと覚えているわけではない。けれど紛れもなく、そこに殺意はあった。

 私は、あの子も、自分も、殺すつもりでいた。

 けたたましく泣く赤子の声と、自分が叫ぶ獣の雄叫びのような絶叫だけが今も耳の奥に残っている。


 そうして次に目を覚ました時、私はアルフェンルートを皇子だと思っていた。


 なぜそう思い込めたのか。自己防衛本能が働いていたのかもしれない。

 陛下が周囲の目を警戒してこちらに顔を見せなかったことも、その妄想に拍車をかけた。父がアルフェンルートを皇子だと陛下にも偽ってしまっていたから、余計に疑うわけもない。

 ただ、ただ、安堵した。

 陛下がアルフェンルートを気に掛けなくても、この子が王にならないのだと思えば父への復讐になると思った。陛下もこの子を駒としてしか見ていないということに、安堵する自分がいた。

 私達は幸せになってはいけないのだから。

 乳母となったメアリーは、強張った顔で私に赤子を見せてくれた。けして私に抱かせようとはしなかったけれど、それすら私の体を気遣ってくれているのだと都合よく考えた。

 周囲の腫物に触れるような態度も、子を産んで本当に正式に王妃として認められれば、周囲とは一線を引くものなのだと思い込んだ。

 アルフェンルートが別室で育てられ、私と会うのは毎日2時間もないことも、王族ならばそれが当然なのだろうと思っていた。

 歪な思い込みで、私は自分の置かれた立場を自分に都合よく処理していた。

 けれどそんな思い込みは、日々の些細な切っ掛け一つですぐに破たんする。

 たとえば、あの子のおしめを替えるのに居合わせた時。

 それだけでなく、愛らしいリボンやフリルのついた産着を見た時。

 女児向きの可愛い玩具を渡された時。

 現実を思い出す感覚が短くなっていき、限界はあの子が産まれてから2年目を迎えることなく訪れた。

 娘なのだとわかれば、生かしておけないと思う感情が湧き上がる。だけど殺したくなんてなかった。接するうちに、愛しい気持ちは生まれていた。しかし愛していたけど、許せなかった。

 相反する感情が私の心を蝕んでいく。

 このままでは殺してしまう恐れから、遠ざけるしかなかった。

 幼い頃から父と親交があった人だけど、母が亡くなった後も親身になってくれていた城の医師でもあり、秘密も知るメルヴィンおじ様にアルフェンルートを託した。


 そこから私は、あの子の姿をまともに見られなくなった。


 顔を合わせるのは年に1、2度。冬と、時々夏に非公式な時候の挨拶の時だけ。

 あの子が私に向ける眼差しには気づいていた。期待して、縋る瞳。いつだって私にばかり目を向けていた。けれど目を合せない私に、いつも落胆して肩を落とす。

 それがいつからか、何の感情も見せなくなっていった。ガラス玉のような瞳をして私の前に立つ。

 けれど挨拶をして顔を伏せるその一瞬、あの子の顔が痛々しく歪む。

 それを見て、安堵する自分がいた。愉悦を感じる自分がいた。

 あの子は私から生まれた、私の一部。私の罪の塊なのだから。あの子が愛されることなどあってはならない。幸せになどなる資格はない。

 そんな風に捉え、自分とあの子の境界が見えなくなっていた。

 離れていたくせに、母親らしいことなど何一つしていなかったくせに、あの子が私に似ていたせいもあるけれど、もう一人の私なのだと思い込むようになっていた。

 だからメアリーの娘である、あの子の乳姉のメリッサが私を頼ってやってきた時も突き放すことに躊躇いはなかった。

 どころか、やっとこの時が来たのかとすら思っていた。

 私達は罰せられるべきなのだ――そう望むだけの日々。

 あの子を切り捨てた私を見るメリッサの瞳は、私を見限るものだった。それがなぜか、あの子の瞳に重なった。色も顔立ちも似ていないのに、失望を滲ませる表情になぜか焦燥感が湧いたのを覚えている。

 私は、あのとき自分の愚かさを顧みるべきだった。


 アルフェンルートが私とは別物だとやっと理解したのは、その後。




「アルフェンルートがシークヴァルドを庇って、毒矢を受けた。今夜が峠だそうだ」


 陛下に告げられた言葉に、ひどく動揺する自分がいた。

 だって、あの子は私と一緒に死ぬ予定にしていた。あの子だけが一人、先に逝ってしまうことなんて欠片も想像したことがない。

 全身が震えて、心が抉られるように痛んだ。「どうして」と呟く自分は、誰に何を問いたかったのだろう。


 アルフェンルートは私の一部なんかではなく、別の人間なのだ。それをこの時にやっとわかった。


 あの子はあの子の人生を生きている。私とは関係なく、自分の意志を持ち、自分の選んだ道を歩いているのだ。

 気づくと同時に、身が千切られるような痛みに襲われた。

 当然のように、あの子がずっと私に付いてくるのだと思っていた。最期まで、ともに歩んでくれるのだと思っていた。

 それは傲慢で勝手な私の妄想。あの子の為に何もしていなかったのに、愚かにも自分はあの子に必要とされているのだと信じ込んでいた。

 私が母を慕っていたように。母なのだから、慕われて当然なのだと。

 けれど私が母を慕うのは、いつだって私に対する愛情が感じられたから。ずっと守ってもらってきたからに他ならない。

 だけど、私は?


(……なにも、してこなかったわ)


 あの子の元に駆けつけたい衝動は、理性で捻じ伏せた。今更私がどんな顔をあの子に向けられるの?

 それにあのとき、『いっそここで死んだ方が、あの子は幸せなのではないか』と思った時点で、私に母親の資格などなかった。

 ……いいえ、とっくにそんなものはなかった。

 生まれ落ちたその時点で、疎み、呪い、生き方を捻じ曲げたのだから。

 けれどここまで来てしまった以上、私に打てる手はなかった。たとえあの子の死を装って逃がそうとしても、それ以前にあの子の周りは決して私を近づけさせはしないだろう。既に私への信用は欠片も残っていない。

 助けを求められたあの日に、私は最後の糸を自ら断ち切ってしまっていたのだから。

 私は愚かな母だった。

 どうしようもない人間だった。

 人として、許されない事しかしてこなかった。

 逃がしてやるべきだと思う反面、今更遅い、と思う自分もいた。別の人間だとわかったはずなのに、あの子が罪の塊だという思い込みは簡単には消えてくれない。

 やはり私はとうに狂ってしまったまま、判断力が正常に動いてくれなかった。

 それにあの子を逃がしてやれたとしても、父の手から守り切れるかもわからなかった。父の呪縛は今も私を蝕み、逃した先で死ぬより辛い目に遭ったら、と思うと踏ん切りもつかない。

 そうやって私が尻込みしていた間に、アルフェンルートは自分の足で歩きだしていた。

 危なっかしくて、だけど私の手助けなど信用はされないので手も出せない。そうして、結局あの子の暗殺騒ぎがあった時にすら、私は何の役にも立てていなかったのだ。兄があの子を殺す気でいたなど、考えもしなかったから。

 けれどあの時私が見過ごしてしまったことで、父の企みは表沙汰にされることになった。

 兄は責任を取って亡くなり、父も私が望んだとおりに遠くない未来、絶望を噛み締めて死んでいくことになる。

 私自身も、結果として生涯幽閉という形となる。

 それ自体は、望んでいたことだから問題はない。

 けれど、アルフェンルートが望んだことは――


『おまえは、どうする?』


 陛下が告げた言葉が、ずっと脳裏にこびりついていた。

 問われたそれに私は答えられなかった。まだ迷う気持ちがあるのは、私の中に巣食う狂気が消えたわけではないから。

 陛下も、あの子の異母兄も、あの子をここに据え置くつもりでいる。けれど彼らがあの子をフォローしようとも、前提がまず違うので齟齬を感じる者も少なからず出てくる。

 アルフェンルートの今の立場では、ここは生き難い場所だ。


(私は、どうすべきなの)


 生まれてすぐのあの子を虐げ、疎み、呪い、捻じ曲げてきた私が、あの子をどうしたいのか。

 どうすべきだと、思っているのか。

 目を閉じて考えていた。あれからずっと。

 

(私に出来ることであの子を救う方法なんて、ひとつしかないわ)


 何を救いというのかは、わからない。私が与えられる救いは、同時にあの子にとって苦痛にもなる。

 それでも――。



   *


 ゆっくりと後宮の自室のソファから立ち上がった。


「エルフェリア様……」


 成人前から仕えてくれている侍女が痛々し気な顔を私に向けてくる。ずっとこんな私を支えてくれていた彼女は、引き留めたいと言いたげな声を出した。それに対して、緩く首を横に振る。

 今頃陛下は、あの子を救うために下手な弁舌をしている頃でしょう。私も得意ではないので人のことは言えないけれど、多分決定打に欠ける。

 あの子を救うには、きっと足らない。不信感の種は誰かの心に残り、それはいつしか根を張ってしまう。


「これは、私の手で終わらせるべきことよ」


 きっぱりと告げて、侍女が開いた自室の扉を抜けた。その先にいた近衛が強張った顔を見せる。


「妃殿下、なりません。ご自分の今のお立場をお考え下さい」


 部屋から出すなと告げられているのでしょう。特に、今は。


「下がりなさい。私は行かねばならないのです」


 それを強い口調で跳ねのける。陛下から命じられている以上、彼らはそれに従う。けれど私の立場はまだ第二王妃。止めようとしても、私の身に触れることなど許されない。


「陛下には、後でこれが私の答えだとお伝えしなさい。ご理解いただけるはずです。あなたを咎めることはありません」


 言い切って歩き出す。困惑を見せつつも、近衛は後ろを付いてくる。ここから謁見の間までの道のりを、いつもよりも格段に速い速度で黒衣に近いドレスのスカートの裾を揺らしながら歩み進めていく。

 緊張しているかと言えば、顔に出ないだけで当然している。この先に己がすることに対する恐怖も、ある。これは万人に純粋な救いとはならない。むしろ見る者の心に影を落とすだろう。

 ひたすらに進んだ先、見えた大きな扉まで迷わず進むと、私の姿に衛兵が目を剥いた。


「開けなさい」


 私の命じる声に逆らえる者は、この城には陛下しかいない。けれど彼はこの扉の向こう側にいる。扉の向こうは騒めいていて、衛兵はたじろぐ様子を見せた。もう一度「開けなさい」と命じれば、意を決したように扉をノックする。

 扉の向こうが、音に反応して静かになった。その一瞬の隙に、衛兵が扉を開いた。思ったより蝶番の軋む音が響き渡る。

 開かれた扉の向こう側、玉座へと繋がる赤い絨毯の上。佇む一人の少女の後ろ姿があった。

 ほっそりと華奢で、癖のない明るい金髪は肩に届くぐらいの長さ。私と同じく喪に服しているからか、その身を包むドレスは淡いけれどグレー。

 振り向かずとも、誰だかわかっていた。


「このような集まりがあるとは伺っておりませんでした」


 自分の声が、しんと静まり返った広間に響いて聞こえた。

 それと同時に、周りの空気が緊迫して張りつめるのを感じる。私の視界の先、ぎこちない動作で振り返る姿をただ見つめていた。


「…………妃殿下」


 私の姿を視界に認めて呼ぶ、擦れた声。

 私とよく似た深い青い瞳が驚愕に見開かれ、声に応じてその瞳を見据えれば強張った顔に怯えが走る。

 あなたにとって私は、今となっては恐怖の対象でしかない。


「なぜそのような格好をしているの、アルフェンルート」


 驚くほど硬い声が自分の口から漏れた。

 私を前にして、反射的にアルフェンルートが後ずさる。そのおぼつかない足取りに、ふと懐かしい記憶が脳裏を過った。

 こんな時に、と思うと同時に、こんなときだからこそかもしれない、と思い直す。


(あなたが初めて歩いた時のことを、今でも覚えているわ)




 あなたが私の手元にいたのはお腹にいた十か月、それと1年と半年。

 あなたが男の子だと思っている時の私は、自分のしでかしたことを都合よく忘れていた私は、愚かにもあなたの母親の顔をしていた。あなたも、私を母親だと思ってくれていた。

 初めて歩いた時。

 今にも倒れてしまうのではないかというおぼつかない足取りで、あなたは私に向かって歩いた。思わず、というようによたよたと小さな足で、小さな手を伸ばして、追いかけるみたいに。


『すごいわ!』


 驚いて、駆け寄りそうになるのを堪えてその場に屈みこんだ。


『あと少し。そう、上手よ、アルト』


 両腕を伸ばして、励ます自分の声は切羽詰まって聞こえた。

 思えば、たった数歩の距離。でも私まであと2歩程の距離で、あなたはお尻をついてしまった。勢いのまま後ろに転がりかけて、私は慌ててあなたに飛びついた。


『アルト!?』


 しかと両腕に抱え込んだ時には、私の心臓がバクンバクンと破裂しそうだったことをよく覚えている。

 床にぶつかることなく抱え込めたことに心から安堵して、でも今度は驚いたあなたが泣くのではないかと焦って見つめた。

 私と同じ色の深い青い瞳を大きく瞠って、必死な形相で見つめる私と目が合う。

 泣かれることを覚悟して身構えた。そんな私の前で、不意にあなたは声を上げて、笑ったの。


(なんて呑気な子なの……!)


 こちらの心配も焦りも気づいた様子もなく、子どもらしい高い声で、楽しそうに無邪気に笑う。

 私の腕の中で呑気に笑うあなたの顔と声に、呆れると同時にどうしようもなく、幸福を感じた。

 あなたが笑ってくれる。それだけで胸がいっぱいになるの。その時の私は、きっとこの世の誰より幸せ者だった。


(本当に……本当に、幸せだったのよ)


 幸せになることなど許されない私が、あなたを殺そうとした私が、あなたと幸せになるなんて。

 認めることなんて、出来なかった。そんな権利はなかった。私は幸せになってはいけなかった。

 幸福と同時に込み上げてくる罪悪感。なぜこんなにも罪悪感を抱いたのかとすぐに思い至って、自分のしでかした罪の深さを思い知る。そこからは、いつも狂気に呑まれた。

 私達が幸せになるなど、許せなかった。

 それでも愛しく思えたのは本当。愛していたのも、本当。それでいて、自分の罪を目の当たりにしている恐怖もあった。あれ以上傍にいれば傷つけてしまうことは間違いなく、だからあなたを信頼できる人に託して、私の目に入らない場所に遠ざけた。

 いつしか私の心は勝手に辻褄合わせの妄想を構築し、あなたが憎いから遠ざけているのだと思い込んでしまったけれど。


(あなたを愛していた気持ちも、ちゃんとあったのよ)


 だからアルフェンルート、私はあなたを――。




「貴方は、男の子でしょう?」


 狂った言葉を口に乗せて足を踏み出す。口にすれば、それが真実だったかのような錯覚を己の頭に起こす。

 自分の心に、呪いをかける。


(終わらせるわ)


 一度踏み出した足は歩みを止めることは出来ない。既に私を護衛してきた騎士は場の空気に気圧されて動けず、アルフェンルートを守る騎士も王妃で母という私の存在に咄嗟に手が出ない。

 陛下は壇上の上、アルフェンルートの異母兄も駆け寄るには距離がある。その一瞬の間に距離を詰めて、アルフェンルートの首へと両手を伸ばした。


「私が産んだのは娘じゃない! 皇子よ――!」


 呪詛のような言葉と共に、飛び掛かる形で首に指を絡めた。


「!」


 アルフェンルートの体は持ち堪えることが出来ず、後ろに蹈鞴を踏んで私の体ごと大きく傾ぐ。


(あのときと、よく似ているわ)


 咄嗟に、首に絡めた片手だけは首の後ろに回して支えた。私はきっと必死の形相だった。頭を庇うことは出来ずとも、せめてものワンクッションにはなったはず。それでも尻餅をついて背中から私ごと床に転がった体は、相当な衝撃が走っただろう。 

 そのまま押し倒して、上に乗りあげる形でアルフェンルートの細い首に絡めた指に力を入れる。

 その一瞬は、本気だった。


「ぉ、かぁ……さ、」


 体に受けた衝撃のせいだけではなく、息の出来ない苦痛にアルフェンルートの顔が歪む。開かれた口からひどく擦れた声が漏れるのを、確かに聞いた、と思った。


 お母様――最後に私と接した時には、まだちゃんと言えなかった呼び名。


 首を絞める指から、不意に力が抜けた。

 急激に目の奥に熱いものが込み上げる。


(あなたは私を、お母様と呼ぶの?)


 胸にも言葉に出来ない感情が広がった。

 思わず泣き笑いするようになった顔を、飛び掛かった拍子に解けた髪が周りから隠してくれる。


(…………さよなら、私の娘)


「っ!」


 その瞬間、誰かが私の腕を折りそうなほど強く掴んだ。腰に回された腕が、痛みを感じるほど強引に私の体をアルフェンルートから引き剥がす。

 こんな状況とはいえ、私にこれほど無茶な行為を出来るのは陛下か、シークヴァルドぐらい。距離的に義理の息子かと思ったけれど、シークヴァルドは床に引き倒されたあの子を抱え起こしていた。


「はなしなさいッ!」


 叫んでも私を掴む腕は離されない。それは黒い服に包まれていた。喪服でもないのに黒い服は、この国では近衛騎士の制服のみ。

 私が大好きだったあの人が着ることの叶わなかった、あの制服だけ。

 腕の先を辿れば、鋭く私を睨み据える緑の瞳があった。いくら近衛とはいえ王妃である私にこのような扱いをすれば、あとで相応の罰が下される危険性もあったというのに。

 それなのに彼は躊躇うことなく、私を引き剥がした。


(見たことのある子だわ)


 よくシークヴァルドといる近衛騎士だ。確か乳兄弟だったはず。


(あなたたちは、アルフェンルートを守ってくれるのね)


 視界の端で咳き込んでいるアルフェンルートを、シークヴァルドが介抱している。

 それを認めて、安堵する。

 ここから先、傷ついたあの子を支えていってくれる人がいることに感謝する。

 だから私がここでするべきことは、ひとつだけ。


「はなしなさい! 私は皇女など産んでいないのよ! あれは私の子なんかじゃない! ……そう、そうよ、私の子はどこ!?」


 声の限りに、髪を振り乱して金切り声で叫ぶ。


「隠しているのね!? 出しなさい! 私の皇子をッ! 返して――!」


 羽交い絞めにする腕が増えても、容赦なく爪を立て、這い出す為にがむしゃらに手足を動かす。狂気に満ちた爛々と輝く瞳で見据え、手を伸ばし、諦めないと言うように。陛下に「そのまま引き離して隔離しろ!」と荒げた声で言わせるほどに。

 視線の先、アルフェンルートが驚愕に大きく目を瞠って私を見ていた。

 アルフェンルートだけではない。誰もが動揺で言葉を失いながらも私の姿に釘付けになっている。

 誰の目にも明らかに、私は狂人に映る。

 完璧だったはずの王妃が、皇女の姿をしている我が娘を見た瞬間、なりふり構わずに喚いて殺害しようとした。

 私の行為は、アルフェンルートの心に傷を大きく残すことになるだろう。けれど私の醜態は些細な齟齬すら一気に濁流で洗い流してしまうほど、強烈に周囲の脳裏に焼き付いたはず。


 狂った母親に殺されかけた、不遇の皇女――。


 誰もが目の当たりにしたそれを、疑うことはない。

 これまで築き上げたすべてを根底から覆すほどの私の姿は、演技だとは思われない。

 ……それに、完全に演技だったわけでもない。

 愛していたわ。同時に、憎む気持ちも消せなかった。あなたの首に手を掛けた時、ほんの一瞬、本当に終わらせた方がいいのではないか、と狂気が脳裏を掠めた。

 だからこそ私の狂気は、誰の目にも本物に映る。


(あなたは私を許さなくてもいいの)


 憎んでいい。恨めばいい。けれどずっと憎しみを抱き続けることは、とても苦しい。

 だから私のことなど、忘れていい。こんなどうしようもなく愚かな母のことは、母だと思わなくていい。

 私があなたに「愛している」と告げることはない。きっとあなたも今更そんなことは望んでいない。

 だから私に出来ることは、せめて罪をあなたに残さない。元々これは私の罪なのだから、私がすべて持っていく。

 この人たちと生きたい、とあなたが望むのならば。


(あなたにあなたの人生を返すわ、アルフェンルート)


 これが、私の答え。




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