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89 正念場

※残酷描写注意  5/3(木)…2話同時更新


 エインズワース公爵家が処罰されたことは貴族間に即座に広まった。

 あの家が断絶するわけがないと半信半疑だった者も、これで陛下の告げた話が正真正銘、事実であったと印象付けられたこととなる。


 そしてここからが、私も表舞台に立たなければならない。


 兄に手を取られ、謁見の間へと続く城内の長い廊下を歩いていく。後ろを付いてくるのは護衛のニコラスとクライブだけ。メル爺は既に爵位を息子に移譲しているので、今回は参列出来ない。

 指先が緊張で冷たくなっているのがわかる。

 向かう先の広間には、陛下と今回の件を確かめに来た伯爵位以上の貴族が並んでいる。

 大きな国なので全員が揃うわけじゃない。来ていない者は元から権力争いに興味はないか、介入する力がないので一先ず置いておく。内情を事前に知らされている一部や事なかれ主義の中立派は問題ない。でも私がボロを出せば、彼らとて庇うことはない。


 一番の問題は、陛下の話に納得できない者。


 いわば王家が周囲を謀っていたことになるわけだから、信頼関係が崩れたと考える者もいるだろう。

 特に、これまで第二皇子である私を推していた者にとっては顔面蒼白もの。

 私を試金石として、王家が周囲を取り巻く人間関係に探りをいれていたと穿っていそう。

 実際にはこれまでの私は誰も頼りようがなかったので、図書室で誰に何を言われても胸に仕舞ってきた。それを私が陛下に告げていたのでは、と疑心暗鬼に駆られている者もいると思われる。

 これまで処罰がなかったのは、今回のエインズワース公爵家とまとめて罰する気だからではないか、と不安を抱いていると思う。

 彼らの今後の対応如何によっては、陛下もそのつもりでいる。

 自業自得なのに、その手の人間に限って逆恨みしそうなのがネック。その場合、己が助からないのなら私ごと道連れにしようと考えかねない。警戒すべきが、この辺り。


(あとは私の演技力にかかってるわけだけど)


 ここで私が失敗すれば、私も、陛下が手を回して庇ってくれた私の周りも助からない。

 それに陛下自身も私という重罪人を庇ったことになり、今回の件で燻っている王家に対する不信感を炎上させかねない。

 一応、伯爵以上には慣例通り『至宝』であることは伝えられているらしい。

 とはいっても、お伽話だとしか思っていない者も多い。適当にでっち上げて、それを免罪符にしているんじゃないかと思う者もいる。

 それに兄に伝えた心肺蘇生法は、まだスラットリー伯爵家が有する医師達が主となって検証段階にある。病院というものがないので、易々と試せるものでもない。兄で実証はしているけれど、それを見たのはクライブのみ。全体に公には出来ず、私はまだなんの功績もないことになる。

 せいぜい、ポテトチップスとかのレシピ提供をしただけ。


(元々、私自体にはなんの力もないわけで)


 でもこれで私がしくじった場合は私だけでなく、周囲ごと転がり落ちかねないリスクを背負っているのだ。出来ない、では済まされない。

 ただ陛下も、私がそこまで出来た人間だとは思っていないらしい。

 陛下には、私が口を開く必要はないと言われている。必要最低限の受け答えでいい。下手に口を開いてもボロが出るのはわかりきっている。だから何を言われても堂々としていろ、とだけ命じられている。

 怯えたり泣いたりするか弱い少女を演じた方が、同情は集められる。だけどこれまでどんな噂をされても完全無視を貫いていた私の無感情に見える態度を考えると、それは逆に怪しまれると言うことで、そうなった。

 実のところ、私がすべきことは、たったそれだけ。

 拍子抜けするほど、呆気ない。

 だというのに、聳え立つように感じられる謁見の間へと続く重厚な扉を前にすると、背負ったものの重さに足が竦んだ。

 今の私は、当然ながら本来の姿。

 ドレスを纏い、血の気の引いた顔を誤魔化すために化粧も施し、下ろしたままの髪には真珠を連ねた髪飾り。

 初めて『妃殿下の目を誤魔化すために、その身を偽ることを強いられていた皇女』として、表に出る。

 この先に必要なのは、周囲から押し寄せるプレッシャーに耐えうる精神力。


(ここで怯んでなんていられない……っ)


 竦む足を叱咤して、一度呼吸を整える。

 私の手を取っていた兄が少し握る力を強めた。「大丈夫か」と問うてくるようなそれに僅かに頷いてみせる。それを確認して、兄が扉脇に控えていた衛兵に合図をした。

 ゆっくりと観音開きの大きな扉が開かれていく。

 一斉にこちらに向けられる視線が突き刺さる。驚愕と好奇、憐憫と猜疑、畏怖と怒り。様々な感情が入り混じった空気に、ドクドクと駆け足だった心音が不安を訴えて大きく跳ね上がった。

 彼らを騙し通さなければならない。

 未来を勝ち取るために、立ち竦むわけにはいかない。

 竦みそうになる指先にまで神経を張り巡らせる。出来るだけ優雅に見えるよう、所作一つにまで気を配る。


(顔を上げて)


 強く自分に言い聞かせる。

 狼狽えるな。怯む様など見せてはいけない。後ろ暗いことなど何もないのだと、平然とした表情を崩すな。罪悪感など、欠片も見せてはならない。


(偽るのは、得意でしょう?)


 ここに生まれて14年間、私は偽り続けてきたのだから。


(ここが正念場――!)


 開かれた扉の向こう、兄に促されるまま一歩踏み出した。

 ふわり、と光沢のある淡いグレーのドレスの裾が揺れる。

 一瞬にしてざわりと揺れる空気が全身に纏わりついた。肌がひりひりする錯覚を起こす。心音がうるさくて、全身を舐めまわすような視線は不快でしかない。

 その中を出来るだけ悠然と歩み進めていく。敷かれた赤い絨毯の上、数段高い位置の玉座に座る陛下と一定の距離を置いて兄が足を止めた。

 ゆっくりと私の手を離し、軽く一礼してから段差の下、脇へと逸れてクライブともども控える。数歩ほど斜め後ろを付いてきていたラッセルも脇に逸れて、膝を着いた。


 この場に立つのは、私ひとり。


 誰もが息を呑んで見入る張りつめた空気の中、両手でスカートの裾を抓んだ。片足を斜め後ろ内側に引くと、背筋を伸ばしたままもう片方の膝を深めに曲げてから頭を下げた。

 女であることにどんな疑問も挟めないよう、流れる動作で優雅に行う。特訓の甲斐あって我ながら完璧な所作で出来たそれは、女性としては最上の礼。


「ウィンザーフィールド皇国第一皇女、アルフェンルート。参りました」


 躊躇いを見せることなく、名乗り上げる。


「顔を上げていい」


 命じられる声に応じ、姿勢を正す。両手を腹の上に軽く重ね、背筋を伸ばして凛と立った。

 陛下は視線を一度私に向けたものの、すぐに広間の両脇に一列で並んでいる諸侯に向けた。


「アルフェンルートをこれまで皇子としていた事情は、事前に話した通りだ。箝口令を敷こうとも、公にすれば王妃であるエルフェリアの耳に入れずにいることが不可能なことは簡単に想像がつくだろう」


 そう言って、陛下が深く息を吐き出す。


「成人後はすぐに然るべきところへ嫁がせることは決めていたのだから、それまでは伏せたままでいたかった。だが今回の件で、本来は皇子であるのに皇女と偽って罪を免れようとしているのではないかと疑う者もいるようだから、こうして呼び立てたわけだ。諸侯はこの姿を見て、納得できただろう」


 顔には一切出していないけれど、陛下の言葉に内心で驚く。

 まさか真逆の疑いを持たれていたとは。それとも、そう思わせるように誘導したのか。


「陛下。確認させていただきたいことがございます」


 これであっさり終わってくれればいいと思ったけれど、当然ながらそんなわけにはいかなかった。

 並んでいたうちの一人が声を上げる。

 案の定、それは以前私に擦り寄っていた内の一人だった。

 害のある人間の顔と名前ぐらいはさすがに覚えている。眉を潜めそうになるのを堪え、感情を消したままの顔を向ける。

 私を見るその人の顔は、憎悪すら滲んで見えた。よくもこれまで騙してくれたな、と言わんばかり。この場でそんな顔をするということは二心を抱いていたと言っているようなものだけど、取り繕う余裕もない姿に危機感を抱く。

 追い詰められた人間は、何を口にするかわからない。


「陛下がこれまでアルフェンルート殿下を冷遇しておられたのは周知の事実。それは皇子であるからこそだったのはありませんか」


 鎖骨が見えるドレス姿なのに、まだ男であると疑われることにはさすがに傷つく。それはともかく、相手の抱く疑問は当然とも言えた。ヒヤリと背筋を冷たいものが走り抜けていく。

 陛下が私を冷遇していたのは、紛れもなく周知の事実。いくら母の目を誤魔化すためとはいえ、皇女だと知っていたならばそこまで徹底する必要はなかったのでは、と言いたいのだろう。


「冷遇? アルフェンルートを?」


 それに対し、陛下が呆れすら滲ませた声を返した。


「体が弱く外で遊ぶこともままならない幼い娘の為に、限られた高官しか入れない図書室を遊び場にする許しまで出していた私がか?」


 傍目にも尤もな言い分に、相手が一瞬言葉を詰まらせる。


「ですが、アルフェンルート殿下には近衛を配されておられなかった」

「本来はどこよりも警備が強固な後宮と、同じく他より警備の厳しい目と鼻の先にある図書室に近衛が必要とは思えない。それに近頃は出歩くようになれたから近衛を付けていただろう」


 先程私が伴ってきたラッセルに視線を向ける。このところ私が彼を伴って医務室まで通っていたのは、誰もが見ていた。それに、兄付きのクライブが私に話しかけているのを見ている人も結構いるはず。


「だいたい冷遇していたというが、私がアルフェンルートと図書室で話す姿を見たことがある者もいるのではないか?」


 一部の人が頷いているのが視界の端に映る。

 陛下と一緒にいる時は周りが避けていたようなので、私も隠れることなくそのまま話していた。陛下も見られても困らない人にしか二人でいる様は見せていなかったのだろう。頷いた人は、私も本探しを手伝ったことのある人だった。


「ついでに言っておくが、アルフェンルートが至宝であることをまだ疑う者もいよう。アルフェンルートは図書室で常に農作物の流通状況を確認しているが、不審な点を見つければ誰に教わったわけでもないのに詳細に調べ上げて、そこで私に報告していた。直近だと、さくらんぼの収穫状況の異常に気づき、そこから脱税が発覚している」


 身に覚えがあることを言われて内心で慄く。表情を崩さずに保つのに必死だ。

 確かそれはクライブに聞かれて答えた話だけど、そこから兄に伝わって、当然陛下の耳にも入ったに決まっている。報酬として、後でさくらんぼを貰った記憶があった。


「過去にも似たことは何度かある。アルフェンルートが指摘する不審点を調べれば、十中八九が黒だ」


 淡々と言われた内容に周りが息を呑む気配が伝わってきた。

 蘇生法の件を知らないと思わしき人達の「それが今回の至宝の力か」という囁き声が波のように広がって耳に届く。


(あんなのが至宝扱いになるの!?)


 身に覚えはある。うっすらとだけど、多々ある。食べたい物を調べていて不思議だな、と思う点があれば調べて、それでも解明しない時は『先生』に訊いていた。だって食べたかったから。

 多分、陛下が言っているのはそれのことだ。

 いやでも、あれは資料と根気さえあれば誰にでも出来る。無表情を必死に保っているけれど内心は冷や汗ものだ。あんなのは完全にただの趣味!


(でも以前やってた仕事の経験があるからこそ、無意識に出来たことでもある……?)


 とはいっても、過去にしていた仕事そのものでは当然ない。大まかにやり方を応用しているだけ。

 端的に言えば、私がしているのは監査行為。

 この年齢の子どもが因果関係を辿って信憑書類を突き合わせ、疑問点を突き詰めて洗っていくのは傍から見れば確かに異常。

 つまり陛下もとっくに私が何者かわかっていて、でも兄の立場を考えると確信に触れることが出来なかった、ということになる。見た目に現れればどうしようもないが、頭の中のことはどうとでも隠し通せる。私の特技に関しては年を重ねればやれてもおかしくない事だから、それまで黙認するつもりだったのだと今ならわかる。


「そういう話ができるほどには、アルフェンルートと交流している。だがそれを表に出せば周りが無駄な期待をするから見せていなかっただけのこと。身に覚えのある者もいるだろう?」


 深々と嘆息を吐きだし、冷たく見える淡い空色の瞳が睥睨する。


「正しき血統で言えば、エルフェリア妃殿下との御子を立てるべきでしたでしょう!」

「おまえは今のシークヴァルドを見て、仕えるに値しないと言うのか」


 二心があると思われた相手が咄嗟に反論したが、冷ややかな眼差しで更に痛いところを突かれた形になって口を噤む。


「本来は皇女であったことを差し引いても、第二子である時点でアルフェンルートは王位を継ぐ立場にはない。私は何度もそう言っていたし、態度でも示してきた。それは至宝であろうと同じこと。アルフェンルートを皇子と偽ることで生じかねない争いを、私も考えなかったわけではない。だがこの手の王位争いを避けるために明確に序列が決められている。諸侯には、秩序ある行動を期待していた」


 声を荒げたわけでもないのに、厳しい声が広間に響く。


「私達は国を守るために存在している。まかり間違っても乱す側に立ってはならない」


 戒める言葉は、きっと誰の胸にも重く圧し掛かっている。何の為に自分がその立場にいるのかを、改めて問われたかのようだった。

 誰もが声を発することを憚られて、広間が静まり返った。

 ……ところで、私の立場に対する申し開きの場だったはずが、気づけば論点がすり替えられている。と思ったのは、私だけだろうか。

 陛下の中では、事前に彼らに説明した時点で私の件は終わったことになっていそう。今回のこれは、私を餌にして不穏分子を黙らせるために利用されただけな気がしてきた。


(もしかして、これで終わっていい……?)


 私、無表情で立っていただけで本当に何もしていないけれど。


「……それならば、なぜ陛下はエルフェリア妃殿下を娶られたのですか」


 しかし、誰もが疑問に思いつつも口に出せなかった話に切り込む者がいた。

 胸の内で少し緩みかけていた緊張の糸が一瞬で張りつめる。

 後がない人間は恐れる者が何もないから、触れ難い話題すらも引きずり出してくる。

 声を発した相手を見据え、陛下が不快を露わに眉根を寄せた。そこには不用意に触れた相手に対する怒りが滲む。


「腹立たしいことだが、ここにいる者の大半はエルフェリアが私に嫁いだあらかたの経緯を知っていよう。当時は私に対する抑圧もあったが、なによりエルフェリアは放っておける状態ではなかった。あのような立場に立たされた従妹を引き取る程度の情はある」

「確かに当時の妃殿下は少々不安定でいらしたのは我々も存じております。ですが、御子をご出産されてからの妃殿下は王妃として完璧でいらした。どう見ても陛下が仰ったような狂人だとは考えられない。それに今はもう妃殿下も落ち着かれているのではありませんか」


 薄い胸の下で心臓がバクバクとうるさく高鳴りだす。

 だめだ、と思うのに化粧で誤魔化しきれないほどに、自分の顔から血の気が引いていくのがわかってしまう。


「妃殿下からもご説明いただきたい!」


 それに対して陛下が何か反論しているのはわかるのに、声が耳に入ってこない。

 この人は、陛下が私を庇っていると疑っているの?

 彼は多分このあと排されることになるだろうから、王宮に残ることになっている私が許せないからどうにかして引きずりおろしたいのか。

 今、母はエインズワース公爵とオーウェン伯父様の件で病み、後宮で療養していることになっている。本当かどうかは、私にもわからない。実際には後宮内で軟禁されているのかもしれない。

 もしここで、母が引き摺り出されてしまったら。


(駄目、それは絶対に駄目……!)


 母は、狂っていないわけではない。

 けして私を見つめることのない、まるでガラス玉のような無機質な熱のない瞳。私が見えてすらいないのではないかと思えるほどに、何の感情も浮かばない眼差し。作り物のような笑顔。

 我が子にそれを向けることを、狂気と言わずなんというの。

 でも母は既に、私が女であることなんてきっとわかってる。そういう意味では、正気に返っている。だからこそきっと私の存在が許せなくて、視界に入れたくなくて遠ざけてきた。

 そしていつか私も道連れに、地獄に落ちる日だけを夢見てきたはず。

 そんな人をここに呼んだらすべてを暴露されて、すべてが台無しにされる。


(大丈夫。陛下がそんなこと許すわけがないっ)


 そんなことをすれば、陛下だってせっかく取り繕った舞台が台無しになる。そう自分に言い聞かせていて、必死に足を踏みしめて佇んでいるだけで精一杯。重ねた両手の指先までが心臓になったみたいで、ドクドクと流れる血流の音だけが耳の奥で響く。

 大丈夫、ここさえやり過ごしてしまえばなんとかなる。

 そうすれば。私は――。


 そのとき不意に、周囲の騒めきが不自然に止んだ。

 それと重なって扉が開く蝶番の音が広間に響く。その音がやけに痛いほど鼓膜を震わせた。


「このような集まりがあるとは伺っておりませんでした」


 開かれた扉の方から、女性の声が聞こえた。

 滅多に聞く声ではない。それでも、知ってる。忘れたことなんてない。女性にしては少し低めの、それでいて凛としたくすみを感じさせない声。

 耳に届いたその声は、私の心臓には鋭く棘が刺さったかのように感じた。

 ドクンドクン、と心臓が早鐘を打つ。

 油の切れたブリキの人形のように、ぎこちなく声の方へと振り返った。本当は見たくない。そこにいる人を、認めたくない。

 それでも確認せずにはいられない。


「…………妃殿下」


 そこにいる人を呼ぶ自分の声は、ひどく擦れた。

 癖のない明るい金髪を一房だけおろし、後は綺麗に結いこまれている。身を包むドレスは喪に服しているからか黒に近いグレー。体を包むドレスラインはシンプルで髪や首を飾る装飾品が黒真珠だけという地味さであっても、纏う空気からこの国の第二王妃であるとわかる。

 私の母であると、わかってしまう。

 どうして。

 なんで。

 答えの出ない問いが頭の中をぐるぐると回る。息が苦しい。なぜこの人が、ここに来るの。

 誰もが言葉を失くしていた。予想もしていなかった人物を前に、呆然と立ち尽くす私の姿を母の目が捉えた。


「!」


 そう、捉えた。あの人が、私を。

 これまで一度として私を見つめ返さなかった、私と同じ深い青い瞳が私をしかと見据えている。


「なぜそのような格好をしているの、アルフェンルート」


 名前を呼ばれて全身が震えた。

 私を見据える瞳が、人形のような無機質な物から徐々に感情という熱を帯びていく。鋭く射貫かれて息が詰まった。咄嗟に何かを言おうとした口は戦慄くだけで声が出ない。全身が総毛立ち、無意識に足が後ずさる。

 物心ついて初めて定型文ではない言葉をかけられて、けれど責める言葉に心が委縮して強張る。

 怖い。

 嫌われたくない。

 だけど。

 この人は、私の存在を今も許せない。私が祖父を切り捨てても、尚。


「貴方は、男の子でしょう?」


 一際低い声で呪詛のように投げかけられた言葉に全身が凍り付いた。体を流れる血が一瞬で氷水に代わったかのよう。

 違う、と言うべきなのに声が出ない。違う、と言ったらどうなるの。でも、違わない、とも言えない。言えない空気が、ここにはある。頭の仲が真っ白で、どうすべきか考える傍から消えていく。

 その間に、母の足が私へと向かっていた。

 私と周りの時間が止まっているかのようだった。母以外、誰も動けない。誰も声を発せない。陛下ですら、驚愕と母の行動を測りかねて動けないようだった。

 今この場を支配しているのは、母だった。

 誰もが安易に触れられないほどに、彼女の目が、声が、纏う空気が、全身を総毛立たせる。誰にも目を向けず、ただ私だけを見据える瞳には飲み込まれそうなほどの憎悪が見えた。それはきっと、私以外にも伝わっていた。

 人の心を忘れた狂人を前にした時、きっと本能的に脳がその存在への理解を拒否して動けなくなる。

 王妃である彼女を阻むことなど、陛下と兄ぐらいにしか出来ない。近衛であるラッセルですら触れることを躊躇った。私と母は、これでも親子だから。

 その一瞬の隙に、母の姿がすぐ目の前に迫る。


(お母さま……ッ)


 私に向かって手を伸ばすまでの時間は、実際にはほんの数秒だったのかもしれない。


「私が産んだのは娘じゃない! 皇子よ――!」


 空気を切り裂くような悲鳴にも似た怒声と共に、自分の首に冷たい指が強く絡んだ。




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